2015年7月25日土曜日

関わらないという選択

関わらないという選択も英断成り得る。

将来の有望も、安き族に阻まれてしまえば勿体ない。

族に囲まれしことは残念であろう。
しかし展望を滅するよりは関わらない選択を
取ったほうが英断である。

それを若年で悟るは難しい。
あまた悔やまれぬ英霊よ。

族に囲まれるという逃れ得ぬ運命的環境であれば、
決して逃げるのではなく、関わらぬという英断を
決行するのである。
それらの族は、そなたの社会的レベルには遠く及ばず
族・俗であることを良しとする者達である。
関わりを持つことの弊害のほうが、上から見ても
下から見ても大きいことは明明白白であるがゆえ、
しかし残念ながらそなたに加勢するものもおらぬが
ことゆえに、今は御身を隠すが英断なり。

見よそれら禍災をのがれ藪道(やぶみち)を通り越しき
ものたちを。
それらの根は気丈にしてもはや過去の禍根はみごとに
断ち切ってるさまを。

いかに勿体ないかである。
展望の芽を断ち切る組織的低族・低俗性。
しかしそれは、それら低族・低俗性は、それに立ち向かってきた
将来性・展望をより強くしてきたという過去を鑑み、俯瞰的に
有り難みを感じさえすればもはや恐れるもの・恐れることは
ないのであった。

いくばくかだけでも諸氏の約束された将来を救うことが
できるのであれば。

-- 後記
自らを断ってしまっては低俗の思うがままである。
社会的レベル・自分の口に出ぬ想いがそれらに勝っている
のであればその時点で勝利である。
歴史はいかなる強制に対しても自己の意志は明け渡さない
という歴史の積み重ねであった。(ここにおいて
数多の無念をいつでも偲ぶのである。みながここまでの
水準で人を見れれば世界は変わるのであろうが。
【対話のスタンダード】参照。)

以上はなるべく普遍的立場で書いた。
現状に照らし合わせれば、組織で言えば学校や会社が
当てはまろう。

学校であれば、遙かなるいく数年を真正面から、
体当たりで正々堂々と【関わらない選択】をするのであれば
それさえ突破すればみんな社会人なのである。

社会に出ればお互いみんなが初対面になるのであり
いまこそ虐げられた社会性をこれみよがしに発揮すれば
よいのである。これまで如何に低俗なソサエティに属していたか
肌身を持って感ずることができよう。
そこまでいけば自ずから許せるのである。自ずから乗り出して
それらを調査する必要はないししたくもないだろうが
風のうわさで過去のそれらが現在どうなっているか聞き及ぶ
こともあろう。よほどひどいことになってるものもおるが
たいていは彼らそれぞれの幸せを見つけて平和に暮らして
いるのである。
【幼少】とはそういうもので信条があろうとなかろうと自分を
最大限突っ走ってしまうのである。
(組織全体が過渡期であり、あるものは暴走性、歯止めのかからなさ
を哀しいながら現場を使って他者を酷使して学育していくのである。)
それが分かった時点でそれさえも愛おしくなるが、常に同じ組織にいて
幼い時分には反発しか感じられまい。
先ずはそれらも、ことが表面化しないように隠蔽・口実を駆使している
ことを知ることが足がかりになる。彼らなりに必死なのであることが
分かればちょろいものである。あな愛おしきこと。

本質の現れと思ってほしい。
低俗に翻弄されるよりは、数多(あまた)無念や禍根を想って
ほしい。そしてそれはそれらイバラをくぐってきた諸氏においてこそ
人の根としてまざまざと存在しうるものと実感したことを
想ってほしい。
実は我々はある程度問題の本質が分かって、切り口はある程度
限定される中で問題を議論できるのであるが、それをかいくぐって
きた実績を持って世界の問題に視点を転じていきたい。
本当の混沌であれば理論を使うものは愚になろう。幸い混沌ではない。
ここだけではなくあまたなる箇所において混沌に打ち勝つ
イバラをくぐり抜けてきたものがいるのであって、
今のイバラは正に相対する本質なのである。

足を動かしあとからついて来ることであるが、荷を【おう】ことは
日本人とかをおいておいて本質的にすごいことだと思う。
これらを明確にして議論する必要が有ることを何度も申し述べてきた。
明確にするために如何に体系化するかも示してきた。
相対するべきは数多(あまた)なる禍根でありその発生である現世であり
あるべき来世なのである。如何に低俗が低俗で、如何に相対するべき今が
何かで、如何に下俗に翻弄されるのもったいなきことが分かろう。
下俗に対しては【よしよし】として良きオトナになることを願うしか
なし。もしもこれを国家レベルで【読んで】くれれば幸いである。
人類として如何なる低俗も決して諦めず、決して見捨てないことの
表明がなされてきたこと、それを改めて明文化することの意義を
尊重したい。温かいものだな。)

2015年7月20日月曜日

残る・残すことをよしと思わぬこと

残ること・残すことをよしと思わぬこと。

我々(いまひろがりつつある「我」を含む)は
残すをよしとせず、それはつまり物質的に
残すは言外、道をたどって残すを恥ずかしいと思う
のである。

いろいろな階層をとびかってしまうがこれを
彼らにせんじせむればまだましになろうが、
内部でもざんねんながらせんずる必要がある
やからがおろう。
(それを「哀しい」とおもえる程度にならなければ
ならならないが、これを「読む」のは幾千年後で
あろう。馬鹿らしいが「読む」を「文字を読む」と
同義と捉えてほしい。いうまでもないことを書くこと
の忍びなさやさやあらむ)

ーーー
正論がヘッドの持論になること。
正義がヘッドの理念になること。
成果がヘッドの持ち分になること。
前進がヘッドの気分をあげつらうこと。
後退がヘッドの気分を損ねること。
正論がヘッドの意にそぐわぬこと。
正義がヘッドの理念にそぐわぬこと。
正論がヘッドの持論にそぶわぬこと。

すごい、コピペ(Copy&Paste or waste)で本質を
書けてしまった。
その哀しみを数年後、否、数百年後、否、数千年後
否、数千、数万年のあまたの表層に現れぬ
隠蔽した声にならない屈辱を今こそ受ければよかろうに。

(あまりこういうことは公開しないが、あまた数億人の
路頭に迷う方々がしのびないのでせめてもの救済と
おもい、言うまでもないことを、ありきたりのことを
良心のある誰しもが思うことをなぜかなぜか
文面としてブログとして書くのであって、
読める人が、否、読めぬ人も含めて残すことを持って
これまで行ってきた「下らぬ数千年」をようやっと
終えてまともな「対話のスタンダード」を確立するを
良しとするがままでである。
(何回言えばよいのだか、ようやくである。
げんじつはどれだけ遅れれば幸せなのか!?)
何度もは言わない。以上。

2015年7月12日日曜日

建設か破壊か

築きあげる土壌を形成するか、破壊者、組織的破壊者と
なるか。
その淘汰と見るがよろしい。
これを持って、どちらが正であるか分かるのであれば
イデオロギーに苛まれるものはそれを離脱するのも
英断であろう。

往々にして根本は隠蔽される。
信念と思いてフォローするも正反対に加担するが
如しは死ぬまで気付かぬが幸いであろう。

隠ぺいする、せざるを得ない組織体が根源であるが
(過去執筆の「組織論」を参照。)、本位がそぐわないのに
属す、結果として加担してしまっているものを
見るにつけて哀しいものだ。

私が言うまでもないが、幼いまま何千年も居座っている
亡国はおいておいて、それよりも現状としてはるかに
大きな問題としての、宗教的解決を図るための方法が、
解法があるのだが、知ってるものはそれぞれそれを
発表、表明するタイミングが掴めず苦慮しているのである。

これこそが建設であろう。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...