2015年11月14日土曜日

仕組みづくり

人であれば、「あぁ、あの人はあそこで踏みとどまっていれば
善良な道に進んだのに。」と分かることができよう。
そしてちょっとした不運か宿命かは個別かもしれないが、
悪いほうに悪いほうに陥っていく人を知覚することができよう。

先のことから今だに渡る事例も総括してしまえば嫉妬だけ
なのである。
「小さいのにあちらだけが発展して等しく幸を得ている。
しかしまんまと敗者になった。それ見たことか、
やはり正しいのはこちらだ。(と短絡する。)
発展は搾取であった。(と短絡する。)
よってあちらが得た幸は還元されるべきだ。
(短絡の上に築きあげる欲)
正直という名の馬鹿だからどんな些細な事でも
訴えれば真に受けるから取れるだけ取ろう。
(短絡があたかも真実のように土壌化した上に
築かれる、発祥人さえも思い至らぬ欲。こうなると
制御不可能。発祥した魂胆が嫉妬なのでこれらは
放置され、十数億の黒い道を作ってしまった。
かたや正に馬鹿正直に相対し途方も無い要求を
受け付けたにもかかわらず、彼らの放漫が生み出した
黒い濁流の処理さえも、その尻拭いさえも
させようとしているのである。ここに来て
ようやく「いいかげんにせいよ」と心ある
志士が出始めたのである。)

層理論からすると、これはまだまだ目の前に起きた事象への
対応なのである。(以下詳細は既述、「いざ当事者となって
初めて分かること。当事者になって悲嘆しないために常に
正に嘆き正に築くべきこと」参照)

上記は現在誠に頑張ってる方々には厳しい言葉になるかもしれないが
そもそもは、層理論の確立とまでは言わないが、感情、
理性、法などの理解がここまで出来てきた現状において、さもそれが
理解できない、理解できても分からないふりをする、理解できても
スーパー忘却機構を用いて廃人的脳の如く事実を忘却し
彼らの先賢も含め過去の達観者が築いた事実を踏みにじるものや
組織が存在することが驚嘆であり、それら現状放棄をするは
正に怠慢であり、だだこねの放漫である。
いまだに誰かが正してくれる、外からの理解外の事象で変化する
天変地異に雨あられ、どうせたったの今生だ、私利に徹せれば
良かろうと思う輩がいるのだろうか。

これを例えば彼らの主人に言っても「そんな悪いことはしてなかろう」
ときょとんとされるだろう。演技ではなく、心の底から
「(自己も含めた)他の人のために尽くしてきた」と思っていよう。
なぜなら理解が及んでいないから。土壌とはそういうものである。
(ちなみに他利とは自己を含む場合と含まない場合がある。
哀しいかなこれも分類分けしないと「賢い」ものにいいように
使われてしまう。今後細分化されよう。やれやれ。)

理解できずに悪を突き進む人を見るに哀しいがごとく、
高次の層を理解できずにだだをこねる組織を見るも哀しい。

そこで如何に放漫だだこねを作らない仕組みを作るかという
話になってくる。
これも既述だが、哀しいかな既存の知識を持ってはやはり
罰を持ってことにあたる案が浮上してくる。

罰というか如何によしよしと見守ってあげられるか。
(この辺から既存の感覚だと層がごっちゃになって
くるだろう。層をごちゃまぜにしては訳がわからなくなる。
感覚を理論に昇華する過程である。)

ここに書くまでもないが、だだこねは既にいくすえは把握され
ているのである。だからこそ、いつまで浪費に付き合っているのか。
嫉妬の研究にどれだけの限られた資源と時間を浪費すれば
よいのか。(私を離れれば容易く見えるはずだが、そして
見える人が多数いると知っているが。)

対話のスタンダードが確立されてからの世界のほうが
よほど激動であるのに。

(現状を見れば、現在の理論のままでも変化は訪れるだろう。
(単なる自滅だが。)しかし相転換(層転換といってもよい)は
いつの時代も起きているのである。如何に彼らが個人の意志を
統治しようとしても、現在風に言えば如何にインターネットを
規制しようと、個人の意識が変わった時が変換点なのである。
(「意志と規制」参照)それは統治者はどんなことをしようとも
個人の意志までは侵略できないということである、と既述文で
書き、また、統治者(明確に統治者である場合もあるが、そうで
ないパターンも増えてきたので「制御者」とよんでも良い)は
匠になっているので知らない間に誘導されるので気をつけよう、
とも書いた。余談だが更に個人及びその人の社会全体が知覚せずに
制御できたら、それはしてもよいのかダメなのかとも書いた。
(SFが一本書けそうだ。着想して書こうと思った人は御一報
ください :D こういう御時世なので:) ))

2015年11月13日金曜日

おにぎってる

おにぎらずが脚光を浴びる昨今、対抗して本来のものが、おにぎってるとして再流行する。
どうとでも。

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どうでもいいついでにイメージ分析を。

「おにぎってる」だと、
「お!にぎってる!」とか
「お!にぎわってる!」とかポジティブ志向に使いやすい。

「お にぎってる」という肯定+驚嘆により歓喜の情景が
醸しだされるのである。
かたや「おにぎらず」は、否定文ということもあって
反抗心は伝わってくるが必ずしもメジャーを走りぬく
イメージは持ちにくい。(会社名や姓名診断をみれば
お分かりのことであろう。)

ということで、おにぎってる(というか、本来のおにぎりだが)
がイメージ的に有利のようです。

2015年11月8日日曜日

層 切り口

層理論ではこういう切り口もできる。

支配層は聡明にも管理できてると思い込んで
胡座をかいて幾年を過ごすが、被支配層は
馬鹿ではない。

支配と被支配の入れ替わり、いわば騙し合いのような
ずるさの競い合いがぐるぐると繰り返されることは、
層を理解していれば、とうの昔に把握済みの事柄である。

それはそれでどんどん賢しくなっては行くのだろう。

それとは別に、つまりその層とは別に対話をスタンダードに
した社会がある。
空気や土壌と同じようにベースとして培われてきた統合を
元にするがゆえ信頼を形成でき、信頼があるから健全な
理念が貫徹できる。
(たしかに我らが志士も突然隣の大陸放り出されては
禍根のみの志士に成り果ててしまっていたかもしれない。
身震いが起きる。)

これまでいってきた「だだこね」とは、これら高次の
層にいつまでも移らず、分かっていてもたかが数世代の
既得権益のためだか、たかが自己か理屈をこねて
数世代分の怨讐をこれみよがしに主張し、健全を
全否定したり、生を自己のみのものと決めつけ、
全精力を足の引っ張りに賭けるものたち。
(それらもたいていは結局せいぜい数世代の利己のために
うごいているのだが。それを認識できていないことが
おめでたいが、もはやこれら外からの声に耳を閉ざして
しまっていることがただただ哀しい。これらいかに哀しいかに
ついては既述なので省略。)

以前、「何故、いつの時代も我らに総括の言挙げを
させるのか」と悲嘆したこともあった。
しかし層理論を持てばそれは必然であることが明確になった。

これまでは世界の無意識としてのjudgeや総括としての拠り所で
あったが、つまり漠然とした「いい人」であったが、
これからはこれを層理論として力学として精神形成の
インフラになっていくだろう。

ようやく、達観者からすればやれやれいまごろかと思われるが、
ようやく、本当に悲嘆したこと救済しようとしたことが、
三大と言われるものを含めて、純粋なる悲嘆・救済の、現実を
離れた、つまり純粋なる層での統合が、全て統合することが
できるのである。

水に土に足をつけ、これらの層まで辿りつけた足跡がまざまざと
認識できよう。(いまの「せいぜい数世代の利己のため」の主張が
いかにだだこねかも明確に認識できよう。層をスーパー忘却し
続けてきたものがいちばん近い隣であることは歴史の皮肉と
しかいいようがないが。)

哀しきかなこれはそれこそ数千年前に悲嘆し救済まで道を開けて
くれていることなのである。
ここに具体的に「力学」をだすまで先達の想いが成し遂げられ
なかったこともまた悲劇である。
常に「文字さえ読めれば分かる」と言ってきたことも
このためである。

社会が形成されて個々や集団間の軋轢が生じて、(重要であるが
軋轢ばかりに盲もくになる輩が多いが、本来は生の原理として
相生である。)その本能の権化に陥ることのはてしなき
浪費に悲嘆し、数多の無念を思い救済を願う想いが形成されてきた。
分かってしまえば当然の流れなのであるが、途上である我々は
層を理解できなかった我々は迷い疑い、利己もまかり通ると想い
リソースをたった一生のために使っても問題ないと想い、
むしろそこまで想いが及ばぬように巧みになのか、おめでたく
なのか、権化を産み落としただ手をこまねくという滑稽を
ancestor の積み重ねも知らずに破壊してきた。

幸い「文字の読める」現世はこの層理論が読めるので
恥を知り、悲嘆し、変わることができる。

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今後詳述するが、以前は、三大と言われるそれらも含めて
根っこから引っ剥がしては、核までつながった神経を
剥ぐようなことなのでそれらは死滅してしまうことになり
どうしようかと心配していた。
しかし層からすれば順当なる道なのであり、決して
引っぺがすような「否定」ではないことが分かった。
まさに歩み寄りにより正当は保たれ、脈々と継承されていくのか
少数になって賢者となっていくのかは知らない。

2015年11月7日土曜日

リサイクル

リサイクルが浸透した現在、売るときのことも見越して開発された商品がヒットする。

2015年11月3日火曜日

学が寄ること

学がおおむね左に寄ることについての考察。
学というか学を修め専従するものがについて。
これも層を用いれば容易い。つまりその分野の層に
ついては深淵まで掘り下げているが、ふと別の層、
一般社会、生きるところの層については浅きが故
途端にエネルギーが転がるように安定という名の
安き層に転がってしまう。
学は土に足をついていなければならぬという
先人の知恵を蔑ろにして胡座をかいているような
ものである。
これもまだせいぜい統計学的な社会学でしかないが
これを力学として解明する、少なくともその
端緒となろう。
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以前書いたとおり、またこのことに等に気付いて
発信されてこられた方々も居るように、これまでは
以下のパターンが成り立っている。資本主義と
社会主義の社会でそれがどう扱われるかを
比較しながら考えていただければ、言わんとする
ことは自明であろう。
・頭脳明晰で自らが収めたい学を修める。
→地位も名誉も確立できる。
→社会貢献を考える。収めた知識を持って。
→理詰めていけば、つまり短絡的に考えれば
 最大、極大を選択したほうが直近は最大の
 効果を得られるという、程度の低い理論、
 というか屁理屈に巻き込まれる。
 学を修めたものさえも簡単に陥る。
 それは層が違い、生き死にさえも考えずに
 済み、いざ地上に足を踏み入れたからであり、
 片や、因縁と増悪と執念から逃れられず
 envyを拠り所にして(諸説あり)、世代を
 越え民族を越え培ってきた、いわば「いかに
 利己を達成するか」の極の屁理屈にまんまと
 流されていることでしかない。
表層というか、目に見える層を見ると、現代は
それら私利を肥さんとする群れが蠢き合っている
形容すればゴキブリの蹴落とし合いの様相を
体していることを先ずは、視覚的含め五感で
認識しなければなるまい。(恥を知らなければ
改善しようがないことは隣国を例に出すまでも
あるまい。)
認識し悲嘆し憤りを感じなければならない。
芽が残っていることが認識できよう。
ここに記すまでもなく、数千年前の既知の
ことがらをなぜ何遍も書かなければならないのか。
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世の中にはこれらの層をとうに理解し実現してきた
先達が数多あることも知らなければならない。
直近の問題で言えば、彼らは大洋への覇権を得るべく
足がかりをつくり、せいぜい数十年〜数百年(否、
経済を見る限り着手前に豚死もありそう)の
「賢い」戦略を練っているようだが、彼らを
歴史上の本物の阿呆として、歴史上の人柱として
阿呆のラベルを額にはらせて立たせるわけには
行かないのである。
(周りから見ていてはそれはそれは楽しいであろうが。)
いまはその流れにある。無論全ては自業自得として
解釈できるように流れている。
それを気づけれないように周りがワッショイし
(さすがに巧みである)、当事者に気づかれないように
ことは進むのである。
(更に言うと、当事者でも本当の中枢はそれさえ知ってて
つまり高次の層では理解し合えるぐらいの賢者がいて(せめてもの
救いとしての希望としてだが)、「自然の成り行き」として
自業自得を成し遂げようとしているとも考えられなくもない。)
これらは次の世代、つまりおよそ百年後に世にでることになろう。
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いつも言うとおり、問題はそれからなのである。
上記は層から見ても、限られた時間と資源のリソースの
完膚無きまでの浪費なのである。
これもまた数千年前から言われていることの繰り返しでしか
ない。
全体としては一歩一歩進むということ。
悲嘆としてではなく希望としての一歩。

依存型の行き着く果て

(走り書きなので、ちゃんとまとめが必要) 依存型(留学生問題、生活費問題、在日問題などなど) 日本国民を売り物にしてるとか、あちらの言いなりとか言われる。 一方でそれを「しめしめ」と行ってる方はというと、短期的には楽ができて「あいつらアホだな」とか優越感に浸れるかもしれないが、長...