2018年3月28日水曜日

負のフラストレーションの処し方と解明

具体的な処し方としては、要は
個人・集団のフラストレーションの蓄積の
解明なのだが。

これが解明されれば、ある意味人工的に
フラストレーション集団を作れ、同時に
その処し方もわかる。

つまり解明すれば現在のフラストレーションは
白昼の元に晒され克服できるのだが、
同時に次なる種を次なるものに与えてしまうという
止揚の次のステップの話でもある。

(そういえば止揚の次のステップについて
言及したものがないので、これを発端としておく。
明快に解決するも、次なる矛盾の芽を生むということで
「妙結」とでも言おうか。)

ーーー
脱線したが、無論これはとてつもなく恐ろしい
研究でもある。
研究する方が滅入ってしまうのではないか。
そこで、自主的に負を蓄えこむことにたけたものを
うまく、気づかれないように扱うのである。
無論、負の蓄えを日常的に行っているあちらの
専門業者に論文でも書いてもらえれば
手っ取り早いのだが、あちらは世に出ぬという
最強武器を誇りにしているので出てこないのである。

しかしあちらの幹を除いては、結局幹に便乗している
だけである。
幹の元の根が、いかばかりのフラストレーションを
蓄えたかを科学してあげることが供養であると。
そして便乗したメッキを剥がしてあげましょうと。
(形式的にでなく本当にあちらの根を体現している
のだろうか?それにしては、チトたるんでるのでは
ないか、というのが前回の論。それでは根に怒られて
しまうと。)

常々そうであって申し訳ないが、抽象を持って、
理論づけとしてはそんなところで抽象的に
わかってもらえるだろうか?

ーーー
また、いつか書いたが、これの相輪として、
「時間」ということが言える。
一般的にいると時間が解決してくれる、ということ。
つまりフラストレーションもエネルギーで例えるなら
熱力学的に低エントロピーは高エントロピーに時間的に
流れてしまうということ。
そうはさせまいとあれよこれよと低エントロピーを
保たせようとするのは両陣営同じこと。
いろんな要因はあるものの、あちらとしては個人レベルの
根をなんとか集団かさせて黒い炎を絶やさまいと
されてこられたのだろうと思う。
慰めるべきものを便乗するとは何事か、と私が言うまでもなく
総じて歴代を見るをことごとく悲惨な末路をたどっているから
別に何も言わない。

情報過多のこの時代、聡明なる志士が容易きそれら
巻き込み勢力に巻き取られることを嘆いて。


2018年3月27日火曜日

ジャーナリズムの側面

ジャーナリズムは人々が知らない情報を正しく
伝えるという崇高な理想がある一方で、
人々の低俗な欲望を満たして対価を得るという
側面がある。

ものによって組織によって人によって
当初の理想と混同している。

また、表面上は聖人君子であっても、裏では
対価なりを払って欲望を満たしたりしている。
知ってか知らずか助けている。

公私の問題は議論されてるが、
意図してのことは無論だが、意図せずして
入手した別人の「私」を許可なく世に出して
良いのかということ。
「私」、特に感情・五感を発露している時。
(発露してない時も当然範疇に含むが。)
つまり意図せず発露した喜怒哀楽または
五感を駆使している瞬間がなぜか世に
出ること。なぜかは出ないのであり
でる誰かや何かの意図がある。
一昔前までは地域の笑いぐさになって
泣き寝入りするくらいしかなかった。
(具合によってはちゃんと吟味されたが
世に残せなかったり、うち捨てられたり
された例があるだろう。)
そこのところをちゃんと現状で培ってきた
倫理、法律、論理などを駆使して煮詰めていかなければ
ならないのに、世の中はよほど平和か暇である。
(という皮肉を聞いて激さねばならない。)

ーーー
さてジャーナリズムの話に戻るが、低俗の
欲を満たすだけで良いが、なんというべきか
「枯れた欲」が凝り固まるとタチが悪い。
暴走老人が巷で話題になっているが、そこに
通ずるかは分からないが、人生経験を積んできた
ご老体であっても、おいくつかわからないような
論理しか展開できないお方である。
これはまだ個人であり、哀しんであげれば済むのだが、
これが集団や組織など徒労を組んだら、ということ。

それがテロなどであればわかりやすくて良いのだが、
いくら対処・処置をしても、表に出ない「枯れた欲」は
潜伏し続ける。
どれほどの厭世をし、表に出ては取り締まれるから世には出ず
裏で組織していったか。
あるかないかわからないので、虚数的に仮定すると
それらがどうやって裏を構築していくかがわかる。

ーーー
そして、それらとの相対の仕方であるが、表面的には
これまでも法的にや、不買など諸士の奮闘もあるが、
本当の正攻法は上記の通り、根を攻めることである。
(これだけ言っておきながら、極当たり前の結論なの
だが。)

表面上の攻めは、これまで言ってきた通り、あちらは
世に出ぬプロであるので、表面に立っているのは
「なんでもない」お方たちである。どんなに攻めたところで
あちらは何も痛くも痒くもないのである。
(よくぞそんな方法論を確立したものだ。また、さぞ
頭良さそうに操られている(本方は頭の良い)人たちが
可哀想だ。)

法といえども現在では届くところが限られる。
不買と言っても、上記の通り広く薄く広がった
低俗な欲の需要という土壌はなくなるまい。

よって正攻法は、「そんな頭でいたら存在自体が
恥ずかしいと自覚させること」という、心だか
思考の「根」の脳幹をぶちたぎることであろう。
「恥」というか、あちらは最大の武器として
「恥」という感覚を持ち合わせぬので、ちと違った。
ようは「もうくだらないからやめた」と「自然と」
やめさせることである。

このことはこれまで書いてきた通りであり、
特に目新しいことはないので、再掲ということで。

ーーー
なお、もしあちらの幹をぶちたぎり、
あちらとしてはよくなったとしても、今度は
それが種となり次の枯れが生じることは
明白なので、いかにそこまで汲み取って
救済とするか、ということ。

明々白々なので、あちらとしても白昼に晒されても
なんら問題ないのである。


2018年3月25日日曜日

天日にさらすこと

解明すればやすきことなれど、
それらは詭道を地でいく方々なので
何でもかんでも天日に晒せばいいくらいにしか
結論しないのである。

幸いこれまで頭隠して尻隠さずのごとく
詭道の仕方を教えてくれたので、お望みの通りに
同じ土俵に立ってあげれば良いのである。

裏の本心は出さず、外部からは辿れないようにして
「証拠」は残さず詭道を行うのであるが、
ただそれに専念できる暇人は幸いである。

林檎にたかる青虫さ加減いかばかりであるが、
くだらなさを通り過ぎるので追求はしない。
(以前書いた通りあちらにも「頭のいい」方々は
見た限りいるはずだが「乗せ」られてしまった
方々が哀しい。)

よく見えたこととして、まぁこれも以前書いた通りだが
いかにバカを前面の防波堤として出すか、ということを
よく実践している。
(前面に出る本人にその意図を気づかれずに。)
これは一番時間が稼げるからである。
これは誰が言うでもなく、ちと簡単すぎた。
ゲーム感覚でモンスター召喚ぐらいに思っているのだろうか。
↑直接的嘘から見れば比喩にもならない「無」の戯言。

結論すると、なんだかちょっと前に大きくなりすぎて
収拾がつかなくなった嘘を謝罪したが、あの、あちら陣営としての
不調和音を見ると、現世の良心が漏れてしまったという、
あちらとしての大事件だったのだろうか。

あちらの回顧録があるのかないのか、世に出た試しがあるのか
ないのか知らないが、「握らされて」いれば回顧録は残るまい。
(おそらくそれが鉄則一丁目一番地なのだろう。)
残さないという鉄則を守りきって例えば地下1,000メートルに埋める
ことで残した方がいただろうか。(自己解決として、地下1,000メートル
イコール「地獄まで持っていく」と自己解釈して。)
残るが残るまいが、それらが天日に晒してくれた、垣間見させてくれた
身をもってすでにレントゲンは取れたので、どうぞ隠し通したと
安心して滅してくれれば良いと思う。少なくとも幸いに
これを読まずに済んだ方々は。もし読んだら陣営として危機感を
持ってくれれば良いと思う。

アドバイスとして身の捨て方が徹底してないのではないだろうか。
それらの理念から創出された理想としての「日本を陥れる」という
大命題を社員全員に徹底できているのか。
最近ちらほらと内部から告発本が出てきているのは徹底が甘すぎる
のではないだろうか。

裏を裏でいくやり方を切磋琢磨して築きあげてきたのに自らが
日に当たるとは何事か。
(西洋では日に当たると焼ける悪魔がいる。日とは抽象であるが
本質は「公」である。西洋に限らず全世界でこの考察が無かったのなら
これを原初とす。(「せちがない世」参照。))

中期的展望としてそれらは寝ぐらを変えざるをえまい。
裏は裏で必要である。今回はあちらの馬鹿さ加減ゆえに
まんまと最新の切磋琢磨された詭道方法を明らかに入手して
しまったが、このアドバイス(?)を含め蓄積し出すだろう。
我々が考えなければならいのは、いつまでこの
単純な2元論から脱却できるのであろうかということ。
(哀しいかな、世の「教」の諸元となんら発展していない。)

当初書いた通り別に私は諦めないのだが、世の聡明なる
志士はより地面に足をつけ、世の肥え太った英者は
より三世を直視していただきたいのである。

卵が先か鶏が先かであるが、世の累積して何兆か何京か
何垓か、…(なんか前に書いた記憶がある)…何無量大数か
知らないが数多声なき声を前にして、というだけなのだが。

肥えたければ肥えれば良い。
世を嘆きたければ嘆けば良い。
恨みたければ恨めば良い。
忠誠を尽くしたければ忠誠を尽くせば良い。
反旗を翻したければ反旗を翻せば良い。
盲目でありたければ盲目であれば良い。
楽をしたければ楽をすれば良い。
正直者の困る姿を見て発散したければ、正直者を困らせれば良い。
ぬるま湯に浸かっていたければぬるま湯に浸かっていれば良い。
下座行するものの頭を踏みたければ踏めば良い。
人を陥れたくれば陥れれば良い。
無表情でいたければ無表情でいれば良い。
無感知でいたければ無感知でいれば良い。
五感を捨てたくれば五感を捨てれば良い。
無ければ無ければ良い。
有れば有れば良い。
受ければ受ければ良い。
感ずれば感ずれば良い。
有機体なれば有機体なれば良い。
感謝したければ感謝すれば良い。
宿命あれば宿命あれば良い。
宿命無ければ宿命無ければ良い。
形成あれば形成あれば良い。
形成なければ形成無ければ良い。
ありもなしも受けるも発するも有個体。
受ける発するを起点にするからゆえの有個体。
ありなしからすれば飛んだ大きなお世話であり
有個体は単なる発生者。
例えるならばキノコのようなもの。
前の人は「超」発生したり、「葦」に例えてみたり。
現世的に言うなればマクロ的にそして瞬時にミクロ的に
自己を捉えているか、ということ。
マクロ的には宇宙の片隅の一瞬の炎として。
ミクロ的には誰も侵すことのできない「今この感覚を
自覚できるのは自分だけだ」という脳なのかハートなのか
視界なのか聴覚なのか、…いわゆる五感なのか、では
五感が全ておろそかになったら存在とはどうなるのか、
…ということ。

ドライに言えば、否ドライな方が良いのだが、
極端にはドライにしか言えないのだが、
「加護」の期間は決まってるのであろう。
よって極論すればいつまでも「公」に臆面もなく
駄々をこねる「恥」を日の本に「公」言し得る
あさましさを暖かく見守るのである。

(おそらく手に負えなくなった元締めもやれやれだろう。
そうして野に放ち、誰も手に負えなくなったものを
あるものは「やれやれと」あるものは「必然と」よいしょ
よいしょと汗を流すのみ。)
(考えるのは簡単。考えてまんまが食えれば最高。
 そうではない。単純明快な答えなのだが。。。
 涅が寝込むのも納得せざるをえない。(当のが諦めかけたように))
 否諦めていないということ。ありがたいことである。
 無宗教なんだか自由人だか知らないが、その当世で
 なそうとすることが超えられるならば良い。それは偉業。
 本当の無から生じて経歴をたどらず極まで達すれば、それは偉業。
 それはどうぞあなたの本当の名誉になる、だけ。
 )

とりあえず天日にさらされた反故として
ごく簡単に、彼ら億兆万の正義か不正義かは知らねども
直接的嘘に対する反故としての
ごく「無」の言葉なのであるが。
あらゆる方が羨ましく思った通り、それらの
手法として世にことを恥もなく発するということ。
極論するとそれもありがたいこととして
閉める。




空恐ろしい

空恐ろしい推測として。

いわゆる左の極の新聞が何故、
朝と日を使っているかということだが、
(無論戦前からあって戦前はむしろ
追従していたことはわかった上だが。)、
つまらない憶測として。
(これに比べてあちらは根拠もない推測というか
憶測というか、「あえて勘違い」というか、
「あえて勘違い」すれば時差戦術が使えるから
「お得」くらいに考えているのだろうから、
それに比べればよっぽど大人しい文論で
しかないのだが。)

つまり彼らの根本目的が「貶める」ことなのであるからして、
つまり彼らは貶める対象の根本を掴み取りたいわけである。
そうすると彼らインテリが考える根本となると
超有能な脳を持って根本と定めたお上であったりするのだが
つかみきれず単なる空論、自ら作り出した空論に
自ら迷いこんでる有様であるのだが、
例えばそれらスーパー有能がつかんだと思ったものとして
古事記、日本書紀があったのだろう。
そして漢文で読めないものを世に広めた
本居宣長があったのだろう。
その歌にある、例の敷島の歌にかこつけて
「ちょうにち」を冠したのだろう。

戦前からの冠をいいことに、かこつけて
堂々とちょうにちで通している面の厚さ加減といったところ。
(もはや知るすべもないが、正しいとしたら
だからこそ「選ばれた」のかも。。。)

以上、前提は書いた通り彼らの直接的嘘と比べれば
「無」にも等しい戯言として。
ここに無名があえて書くでもなく先人の先生方の
ご健闘がありますので何にもなりませんが。

2018年3月21日水曜日

思考の組み立て

政治経済を見るに思考がどうしても
古典数学的にしかなり得ないことが気になる。

つまり善悪論に明け暮れて、など。
(崇高なる理想を基にして始めたる事例もあろうが、
その道筋も、。。。かきかけのまま)


結論としては別にこれまでがダメとかいうのではなく、
例えば数学が連立方程式、微分・積分、複素関数と
発展してきたように、思考の組み立てとして
適用されるのではないだろうか?それとも自然に適用
されているのだろうか?という、単純な問い。

嫌が応にもAIの命題として出てくるのであらかじめ書いておく。
純粋科学としてそのうち真っ新から複素関数まで
どうやって導くかや、ひも理論までどういう過程を
踏むかを「見る」時代が来るだろうから。
そこから導かれるのは思考の最善。
そしてその最善を持って、未解明の足がかりにすると。
(最善脳を持った集団であれば3分の1の時間で現世と同じ
 状態になっていた。など。切り口を揃えればであるが。)

ちなみにこれはAIが出る以前からあったわけで、
つまり「最善を尽くせば自から発展する」ということ。
これをこれまでは個人、集団で蓄積してきたことが、
今度は「無機体な永続的なるもの」も蓄積していくということ。
数十年か数百年かけて叡智をトランスファーしていくのだろう。

そして、一時代的にはその叡智を集めた集団は発展するのだが
叡智の元素からしてそれはいづれ「叡智」に帰る、ということ。
(なお、これはオープンソースの理念の話だが、和的に言えば
それこそ「和」を持って、ということに通ずるのだが、)

道筋として、今後数代はAIを駆使して栄える企業が数代は続くが
いずれオープンソース化されて相転換が起こるということ。
それはよほど阿呆でも無ければわかること。「経」に縛られる
ものならば、よりその詳細を知りたいというだけのこと。
いずれその道の専門家ができるのでそれを待つべしと。

周辺問題で時間になったので、今日はこれまで。




依存型の行き着く果て

(走り書きなので、ちゃんとまとめが必要) 依存型(留学生問題、生活費問題、在日問題などなど) 日本国民を売り物にしてるとか、あちらの言いなりとか言われる。 一方でそれを「しめしめ」と行ってる方はというと、短期的には楽ができて「あいつらアホだな」とか優越感に浸れるかもしれないが、長...