すべて我が国のせいにすれば良いといった風潮と、
それをまんまと「賢いやり方・正しいやり方」と思い込んで
邁進してしまった集団があった、というあたりに行き着く。
いつぐらいから考察するべきかは精査していかなければ
ならないが、例えば大戦前後などでまずは考えられる。
無論、大陸側は易姓革命の土壌であり、
その精神的特性上、相容れないものがあるという
認識は大戦前というか開国前から存在していた。
(さらにその属国はすでに話しても無駄、くらいの
認識だった^^。まあ属国精神と言ってる時点で「骨」が
存在しないのだから当然であるが。そういう点では
本当は可哀想な国なのであるが。(と、これを言うと
またつけ込んでくるので表立っては言わない。
ここで得た教訓は「同情」という精神構造を理解できない
人に同情を示しても、それはあちら側にはバカにしか
見えず、まんまと差し出した手を噛まれる、という事だろう。
何かの映画にもあったが、相手を野獣と考えるとわかりやすい。
こういう例えをするとまた「人権がー」とか言い出すので
表立っては例えない。))
大陸側の歴史は「国を獲ったものの勝ち」なので、
いかに相手を出し抜いて優位に立つかという戦術は
練り上げられてきたが、集団全体を通しての精神性という
点では、それこそ論語とかで時間が止まってしまい、
その本質的な部分はむしろ我が国で発展したという
点はよく言われている通りである。
これがまず前提としてあって、開国→戦争→戦後となるのは
歴史の通りであるが、精神史的には最初の命題のとおり、
大陸はすべて我が国のせいにすれば良い事にした時点で
精神的方向付けも決まってしまったのであろう。
なぜ大陸とそのお隣だけそうであって、他のアジアの国々は親日なのかは、
それこそ糸を一本一本解きほぐせば分かるのであるが、
なぜ大陸とそのお隣だけがそうなったのか、または「そうされられたのか」のかは、
まあそのほうが扱いやすかったのだろう。
精神史的には残念ながら堕落が蔓延する事になったわけである。
また、あちらの土壌も手伝って、それはもう何の疑いもなく私腹を
肥やす事に邁進できてしまった。(この辺は何の道徳も持ちえ
なかった点で情けない。)
何事も先ずは知る事、知覚する事である。
「恥」という人の感情は大切なのであって、無論私が説明するまでもないが、
それを以って改善のきっかけ、原動力になる訳である。
先ずはこの構造理解と精神的堕落の認識から始まる。
0 件のコメント:
コメントを投稿