2015年7月20日月曜日

残る・残すことをよしと思わぬこと

残ること・残すことをよしと思わぬこと。

我々(いまひろがりつつある「我」を含む)は
残すをよしとせず、それはつまり物質的に
残すは言外、道をたどって残すを恥ずかしいと思う
のである。

いろいろな階層をとびかってしまうがこれを
彼らにせんじせむればまだましになろうが、
内部でもざんねんながらせんずる必要がある
やからがおろう。
(それを「哀しい」とおもえる程度にならなければ
ならならないが、これを「読む」のは幾千年後で
あろう。馬鹿らしいが「読む」を「文字を読む」と
同義と捉えてほしい。いうまでもないことを書くこと
の忍びなさやさやあらむ)

ーーー
正論がヘッドの持論になること。
正義がヘッドの理念になること。
成果がヘッドの持ち分になること。
前進がヘッドの気分をあげつらうこと。
後退がヘッドの気分を損ねること。
正論がヘッドの意にそぐわぬこと。
正義がヘッドの理念にそぐわぬこと。
正論がヘッドの持論にそぶわぬこと。

すごい、コピペ(Copy&Paste or waste)で本質を
書けてしまった。
その哀しみを数年後、否、数百年後、否、数千年後
否、数千、数万年のあまたの表層に現れぬ
隠蔽した声にならない屈辱を今こそ受ければよかろうに。

(あまりこういうことは公開しないが、あまた数億人の
路頭に迷う方々がしのびないのでせめてもの救済と
おもい、言うまでもないことを、ありきたりのことを
良心のある誰しもが思うことをなぜかなぜか
文面としてブログとして書くのであって、
読める人が、否、読めぬ人も含めて残すことを持って
これまで行ってきた「下らぬ数千年」をようやっと
終えてまともな「対話のスタンダード」を確立するを
良しとするがままでである。
(何回言えばよいのだか、ようやくである。
げんじつはどれだけ遅れれば幸せなのか!?)
何度もは言わない。以上。

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