2024年5月10日金曜日

依存型の行き着く果て

(走り書きなので、ちゃんとまとめが必要)
依存型(留学生問題、生活費問題、在日問題などなど)
日本国民を売り物にしてるとか、あちらの言いなりとか言われる。

一方でそれを「しめしめ」と行ってる方はというと、短期的には楽ができて「あいつらアホだな」とか優越感に浸れるかもしれないが、長期的にみると依存から脱却できず精神的成長がない。
おそらく世界からそっぽを向かれたら虚構はガラガラと崩れるのだろう。

そこまで含めて我が国とか欧米などは「あえて野放し」にしているのかもしれない。
(こうなったことを自然の成り行きと見るか、そこに仮想的人格を想定するかの違い。または本当に世界のシナリオを書いて誰にも気づかれずに実行してる超天才がいるかもしれないが。。)

いうまでもないが我が国でもこれだけ声なき声として忍耐することしかできなかった間に蓄積されたものは書き表しようがなく、いよいよ臨界点も近いような雰囲気やそれを思わせるような出来事も出始めてる。
(既述の通り、いざそっぽを向かれた時に想定されるのは「支えがなくなってこんなボロボロになってしまった私を見て可哀想だと思わないの?」とか言ってそれこそ恥も何もなくすがってくるという図である。)

最後に、あちらはあちらで「国民」は一様に悪いとは言い切れず、簡単に言えば「ろくでもないトップ(頭脳)を持って、それに従うしかない国民は悲惨だな」と言ったようなことである。(しかしそれを、その制度を、その仕組みを良しとして採用してしまったことに遡ることまで含めれば、やはり身から出た錆と言えるのだが。この辺も既述の通り。)





2024年2月18日日曜日

過剰反応をわっしょいする社会

総合すると現代の病巣は過剰反応をわっしょいする社会という事だろう。
全てが全てを助長しているので当然である。
世の聡明はこれを見た瞬間に「はっ」と分かるのであるが、
そうならない構造が巧みであり問題ということ。

本気というのはそこからの問題である。


2024年1月19日金曜日

左的な個人主義

左的な個人主義と言われるが、究極的には、自分が何をするのか、自分がこの時代のこの環境で何をするのか、ということになり、自然と「周りがどうの」とか「環境のせい」とかいう話にはならないのであるが、簡単にいうと考慮不足なのであろう。

2023年9月23日土曜日

形而上学上の不明点について論争しても意味はない

こちら「転生とか脳移植について」の記事で、
「形而上学上の不明点について論争しても意味はなく、分からないものは分からないと素直に認識して、それを出発点にして考えを進める、その姿勢こそが最も大切」
と書いたが、その辺についてもう少し掘り下げよう。

形而「下」つまり、数学とか物理学とかいわゆる現代における「科学」と称される学問においては、そう言う視点は当たり前に思われるかもしれないが、実は意外とそうでもなくて、どうしても人の寿命は限られているので、ここで論ずる純粋な「不明点は不明点として素直に認める」認識に立脚して世に出た論というのは意外と少ないのである。
(この点は歴史を見れば十分にわかるであろう。)

最初に言っておくが、ここで言いたいのは、それがいい悪いの話ではない。
むしろそれが至極普通で当然であって、何らの疑問を投げかける余地は全くない、と言うことである。

本論は、それら先人に感謝した上で、それでも論を進めなければならないため、あえて俯瞰した立場で立場で論を進めましょう、と言うだけである。
(一応、補足としては記述「何か成すのは職として」を以て足掛かりとしていただければと思う。)

そして、これまた述べるまでもないが、形而「上」において、特に信仰分野においては、その真の純粋性に立脚しているのは、冒頭に書いたブログの通り古代インドかネパールのルンビニにお生まれになったお釈迦さまくらいであろう。
(不思議な逆転現象で、「現代科学でまともに論ぜられるのは仏教くらい」的な話もあるそうな。)

どこまでも「言うまでもないが」が続くのであるが、本論はある特定の信仰とかをワッショイするものではない。(と言う点は、よく理解してくれれば自明であろう。)
他の論に譲るが、「例えばお釈迦様が現れなくても別の場所と時で自然に同じような思想が生まれたはずだ」とか「実は別の場所と時に発生してたが消滅しただけだ」とかいくらでも言えようが、ただの一事実として、今からおよそ2,500年ほど前に古代インドかネパールあたりで、本論の主旨とする「純粋な」立場で人や世や世界を考えた方がいらっしゃった、と言うだけであることをまずは理解しなければならないだろう。

ーーー
「ひらめき」の経験がある人であれば分かると思うが、と言うか「ない」と思ってる人でさえも赤子の頃はひらめきの連続であったのであるから誰しもが「ひらめき」の経験はあるのであるが、「ひらめき」とはエキサイティングなものなのである。
(感傷的または芸術的素養のある方であれば「人は不完全な状態で生まれ落ちてくると言うこの世のシステムは偉大である」とかになってくるであろう。)

「ひらめいた」時に人は寝食も忘れその点に集中できるものなのである。(幸い科学も進んでこの辺のことは「起点」が自分であるから「本能」さえ凌駕する、と言うような心理学的な解釈でも説明できるようになったので楽になったものである。)

いわば「魂を削って」生み出すとも言えようか。
他方から、第三者的・客観的視点からすれば、ものすごくエネルギーを要するもの、とも言えよう。

それまでに誰も考え付かなかったこと。
それまでに誰も見つけられなかったこと。
それまでに誰も証明できなかったこと。
純度が増すと他者との比較は消え失せる。
純粋に分かった喜び。
純粋に知った喜び。
純粋に見つけた喜び。
いくらでも歴史書を読んでいただければ良いのであるが、そういった瞬間に当事者として巡り合うことができた人とは、それこを一切合切を捨ててその点に集中できるのである。

私が常々思いを馳せるのは、例えば数学とか物理学で新発見をされた方は、無論その方面の論文なりを書いて、あたかもその「面」についてだけで終わっているように思われてしまっているかもしれないが、実はそれは表面的な痕跡だけであって、「ひらめきのエキサイトメント」としてはその遥か真奥まで思いが及んでいるのではないだろうか?と言う点である。
「現代ではこの数式でしか表せなかった」「論文としてはここまでしか書ききれなかった」と言うことである。(「しか」とか言ってしまうと失礼ですかね^^; 無論「何か成すのは職として」の対義語としてどうしても業績の話になってしまうので、当人も失礼ながらそこまで考えておらず「これでできた!」と思ってるかもしれませんが。)

実際に数学とか物理学でも新しい理論が出てくると「理解できる人は世界で数人」とニュースでチヤホヤされる通り、共通言語であるはずの数式だけでは意思疎通が成立しえず、いわば「思想」的な補助を入れて仲介しないとプロ間であっても「共通認識」はできないレベルになっているのは、現代科学を見ての通りである。

形而上学においては、現代においては(現代においてさえ)「文字」とか「言葉」くらいでしか記述しようがなく、つまり「ひらめきの本当の本質」を本当に100%「表して」、またそれを100%「伝授した・できた」人は一体存在し得たのだろうか?くらいまでの話になってくるわけである。
(頑張って「話した」とか「書き切った」としても、話しもれてること、書ききれなかったことがあるかもしれない。それこそ数学的に「話切るとは」「書き切るとは」と言う点を100%完璧に証明できる有機言語をまずは作成しなければならないだろう。
※ちなみに、この辺が面白いので既述「意識シリアライゼーション」や「意識移植」のように飽くなき考察をしている訳である^^)

ーーー
「ひらめき」の当事者について語ったが、続いて「後追い」について述べる。
直接話を聞いたり、後継者であったり、後世の人であったりである。広く言って仕舞えば第三者である。
後追いは当事者と比べれば楽である。
自分でひらめかずとも、その到達点を理解することができるからである。
ひらめいた人がひらめく時に要した膨大なエネルギーも何ら必要としないからである。

※後追いが、その「ひらめき」を理解するために消費するエネルギーは別問題。数学の理論を理解する点と比べて考えれば分かりやすい。
また、後を追う人が自分の考えがベースとかにあって、その上で誰かの「ひらめき」を取り入れて、その組み合わせで次なる「ひらめき」を得ることもまた次の話である。後述参照。

ーーー
冒頭の本論の主旨の通り「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢が大切」から始まり、「ひらめき」と言う点に着目して話を進めてきた訳であるが、続いて「果たしてひらめいた内容は100%伝授可能なのか?」と言う点について考察しよう。

数学とか物理学であれば、そこに数式があるため、ある意味それさえ理解すれば良いという明確なゴールがあるため「そこまで理解すれば良い」と終わりを自分で設定できる。
しかしこれまでの説明で分かった通り、「ひらめきのエキサイトメント」を追体験するかどうかと言う点は別問題であることがご理解いただけるであろう。

いわば自分の「ゴール」が分かる問題であればそこまで到達したら下車すれば良いのであるが、ゴールのない問題は途中下車のしようがないのである。
逆に言うと何の目的もなくいくらその「ひらめき」を頭で理解したとしても、そこには何の意味も生じようがない、とも言えよう。(何してんだこの人は?状態)

布石に時間がかかってしまったが、つまり「ひらめき」の本当の本質に迫るためには、どうしても追体験を持って、ひらめいた本人と同じくらいのエネルギーでエキサイトしないと、その本質は分かりないだろう、と言うことである。

ーーー
冷静になって考えると、追体験によって到達できるのは当事者と同じレベルまでであろう。
(100%まで理解できたとしても、の話)

しかし大切なのは、その人は果たしてそれを体得して、そこから何をするのか・したいのかであろう。
(これも数学の理論の理解と比べると分かりやすかろう。例えばフェルマーの最終定理を理解して何をしたいのか?プロの数学者であればいわば一つのステップとしてかもしれない。良い悪いは抜きにして自己満足と言う方もおられよう。知の蓄積とか高尚な名目をお持ちの方もおられるかもしれない。これまた既述だがそれではその知を備えてその人の足はどの地を歩むのか?と言う話である。)
(また、到達できるのは当事者と同じレベルまでと書いたが、追体験者が追体験を通して先駆者のベースと作用させて新しい発想を得る点はまた別の話である。)

ーーー
「ひらめき」のエネルギーが大きければ大きいほど、その真髄に触れるには後追い者も大きなエネルギーを要する訳である。
また他方で、その深遠さがゆえに色々な切り口でも解説も出てくるであろう。
伸びていった枝であるが、外部要因やまた自己修復作用的にも原点回帰が起きたりするであろう。
深遠であればあるほど、この「枝の展開・発展」と「原点回帰」は何度も繰り返されることになるのであろう。
現代では「何か」が進んで知ったか顔になりつつあるのかもしれないが、実は真髄からはまだまだ程遠く、遙かなる「揺さぶり」の真っ只中にあるのであろう。

ーーー
最後に烏滸がましいが、冒頭に書いたブログに書いた通り、真髄は「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢」ではないかと述べた通りである。
この点に立脚して僭越ながら取り敢えず数学上に「不明」と言う考え方を導入してみたので紹介して本論を終えたい。

2023年9月16日土曜日

宿題について

(ポイントだけ箇条書き)

宿題はやるものである。
言うなれば先生と生徒の約束。
昔は怒られるのが怖くてやってた一面もあるが、それが自然。
現代では平等だか人権だかなんだか知らないが、あやふやになってるのでは?
社会に出て約束の連続であるが、社会に出てから矯正すれば良いという
教育方針なのだろうか?

先生サイドから見ても、ちゃんと約束守る生徒は努力を認めたくなるし、
約束も守らない、人の話も聞いてるんだか聞いてないんだか分からないような
人は、表面的に接するだけになるだろう。
現実の世の中の方がよほどシビアなわけで、学校は平等だか人権だか
に監視されていて、先生も本来の意味での自然的な人間関係を教えられなく
なっており、本当の世の中ではありえないような、つまりいくら約束破っても
構ってもらえるし、いくら話を聞かなくても手取り足取り教えてくれるような
不思議な社会を演出するしかないのである。

逆にいうとそのような適当人間だけになって、まともな社会が構築できるのだろうか?
(学校教育側も「我々の範疇は学校なので、つまり対象は子供なので、その子が
どんな大人になり、それらの大人たちがどんな社会をつくろうが知ったこっちゃありません」
という立場なのだろうか?立派である。
まぁ教育は所謂左の「核心的」ターゲットなので、相当な「アホ化」工作の
影響があって、立つものも立たなくなってしまった歴史もあることは知っているが、
そこを話しだすとまとまらないので、あえて現状を直視しただけの指摘だけしておこう。)

適当人間が作る社会だと、仕事をもらった人は納期は守らないだろうし、
下手すると仕事を出した方も同様に適当なので、いくら遅れようが
「そんなもんだよな」くらいで見過ごしたりするだろう。(全て他人事)
(分かりやすい例だと「いくら電車が止まろうが知ったこっちゃありません」
「いくらビルが崩れようが知ったこっちゃありません」的な世界…)
そういう形で、これまで大切に築き上げてきた社会はほんの数年とかで
いとも簡単にめちゃくちゃに破壊されよう。

これが所謂左の言うところの「ユートピア」らしい。(おめでとう)
なんかどこかの国でも平等だか人権だかの狂信的圧力に屈して伝統を
ぶっ壊して社会を変えたところがあって、しかし得たものは表面的な
平等と人権だけであって、代わりに伝統と「血の通った」人間関係は
失ってしまったと聞く。

失ってからは手遅れで、いざ「約束の成り立たない社会」が出来上がって
生活してみて、いくら不便に思ってみたり、「やはり前の方が良かった」
と後悔したとしても後の祭りである。
しかしそれを「選択」してしまったのであるから仕方あるまい。

ポイント一つ目は、果たしてそんなに愚かで良いのか?と言う単純な問いである。

二つ目は、上記を踏まえて現状を見てみると、構図としては
「まともな人が大切に作ってきた社会の上で、訳の分かってない人が
好き勝手言いたい放題言っている」と言う構図である。

つまり先人たちが大切に築き上げてきた安全で平和で約束が成り立つ
社会という土台の上で生活していて、そのことに気付かず、
享楽にふけり、欲求に従って本能的に生活し、利己のためだけに
突き進み、挙げ句の果てに「世の中が悪い」と言いだす始末である、
ということ。(そんな人たちがのさばれて、挙げ句の果てに
徒党まで組めるのであるから、よほど平和である)
(「気付かず」と書いたが、ちょっとノウタリンで「気付けず」と
書いた方が良かったかもしれない。しかしあちらもノウタリンばかり
ではなく、それこそ「ブレーン」は超絶頭が良くて、ものすごく考えに
考え抜いて、どうすれば「自分が」得をするかを考えている訳であって、
本当のノウタリンはただの駒なのであるが。この辺は長くなるので
既述を参照されたし。(しかしあちらの恐ろしさは、駒を本当に
駒としか使わなくて用済みになると本気で冷徹に捨て去るのであるから
恐ろしい)
そんな集団が顔色一つ変えずに、ましてや善人面を装って、とうとうと
「社会」を語っているのであるから、空恐ろしいものである。
裏を返すと、図示するとこんなにも簡単な構図であるのにも関わらず
世の中の人はやはりあちらに加担する人が一定数出てきてしまうということで、
世の中というのは流されやすいものである。)

しかし所謂あちら側の人たちも、現在は例えるならば仏様の手のひらで
安穏と生活を送れている訳だが、いざ彼らのいう「ユートピア」が実現したら
おそらく左の人であっても99%の人は後悔するのだろうな。
それで一番得をするのはあちらのブレーン(下手すると一人)だけなのである。
(「下手すると一人」というのは、あちらの構造を見てご存知の通り、構造上
どうしても権力闘争して騙しあってトップは一人になるしかないのである。)

そこでようやくあちらの言ってた「世のため」とか「人のため」というのは
ただの言葉だけということが分かって、実際にはあちらの「利己」が目的だった
ということに気付くのである。そして気づいた時にはもう、時すでに遅しで、
首尾よく(こういう時は手際が良い)戻るに戻れない体制を敷くのである。

つまりあちらにしては、社会がぶっ壊れようが、伝統がぶっ壊れようが
どうでもよくて、これも既述ブログで書いた通りだが、あちらの人は
自分の一生だけとかせいぜい数世代くらいしか考えていないので、
魂胆としては「ユートピア化により社会がいくら不便になろうが、
自分が生きてる間は【余熱】で安穏と生きていけるだろうから良いだろう」
くらいであろう。実に立派である。


ということで、宿題をきっかけに考察してみた訳であるが、現代の教育現場の
「適当な」約束関係は「本当」ではないとちゃんと正見して、一方でこれまでの
左的アホ化の影響で現状では「仕方ない」ということも正見して、宿題に
あたっていただければと思う。

ーーーーー
最後に一点だけ、もしかするとあちらの言葉にまんまと乗っかってしまって
「子供のために」と自分が正しいと信じ込んで子供の人権とかに突き進んで
しまっている方がおられるかもしれないが、もしも純粋に子供のためを思うなら
現状の「左的アホ化された教育現場」に子供を放り出している点を問題視して
いただきたいものである。
これこそ本来的人権的には大問題と思うのであるが。
(これまたノウタリンではないので、「そういう考え方には、○○○」みたいな
マニュアルが出来上がっているのだろう…)

また、実際に宿題を「やっている」方(つまり現在の学生さんたち)も、
この点をよく分かって、ある意味現状を俯瞰して対処していただければと思う。
「若いものも捨てたものではない」とか、「最近の若者は冷めてる(クール)」とか
言われるが、おそらく次の世代の聡明な方々は、ここで言ったことも
肌感覚で「あぁ所謂左にまんまとやられて壮大な浪費をしているな」とか
(言葉では言わないけれど)冷静に見つめてるはずであろう。

現在偉そうに幅を利かせている所謂左の人々もいずれ骨董になるであろうから、
次の世代の聡明な方々は何も言わずともそんな歴史上の一時のアホ期間は
ガン無視して「まともな」将来を築いてくれるかもしれない。
(かといって楽観はできないので、多くの先人たちや先生方が日々奮闘している
通り、どんなにくだらなくても真面目に所謂左とは相対しなければならないのであるが。)
(思えば数十年後か数百年後には「20世紀末から21世紀初頭にかけて(約200年くらい?)
左思想が蔓延って、【対話のスタンダード】や【層理論】が確立できてなかった
保守層引いては全世界の「世界をまともに考える層」は、所謂左を一刀両断することも
できずにずるずると200年くらいやりたい放題野放しにしておりました。これを
【左による壮大な浪費の200年】と言います。」とか教科書に書かれることは
明白であり、それを思うとなおさら情けなくなるのである。。。)
※【対話のスタンダード】と【層理論】については既述ブログ参照
※また、陰謀論がお好きな方は、「敢えて左をのさばらせていた」ということも
 考えられ、それについても既述ブログ参照

この構図は、まさに「アホな親の子供は聡明」という図式になってきて、
現代の大人である我々は本当に情けない限りなのではあるが、私は本当に次の世代は
現代の壮大なる左による浪費を見て学んで、現在居を構えて居座っている世代が
いなくなったら、「普通に」まともな社会を再構築するのだろうなと確信するのである。
(居座る人を身近に知ってる方はご存知だと思うが、居座る人はなりふり構わず
居座るので、自分が絶えそうになるとしっかり次の人に継承することも念入りに
仕込むので、簡単に「あの人が絶えたから」という話にはならないのであるが。
ちょっと説明が長くなってしまうので、ここでは話を簡単にして書いたという点は
ご理解いただければと思う。)

なお、「超絶頭の良い」あちらのブレーンは、いざ左思想が頓挫した場合の
自分のみの処し方まで、つまり逃げ方まで考え済である。
(既述の「蜘蛛の子を散らすようにトップから逃げる喜劇」参照。ブログの正しいタイトルは
ちょっと忘れました。。)
選択肢としては、素直に改心するか、または潜伏するかであるが、素直に改心した
場合は許してあげましょう^^
(昔であれば物理的晒し首だったろうが、現代ではこうしてる時点でも
一挙手一投足がデジタルで記録に残る訳であって、あちらに与した方々は
もれなくデジタル情報が未来永劫残るという、現代的晒し首に合う訳であるから
それで十分であろう。。
そういう意味で言うと、現代はデジタル化黎明期であって未来がわかってない訳であるが、
おそらくこれが具体的事例となって将来千年後とかに未来人が「あぁこの人が
壮大な浪費の200年に与した人か」とか言って動画とかSNSで何言ったとか
ものすごく具体的に晒される訳で、その時に如何に【仮想的晒し首】が酷なものであるのかが
具体的に理解されるのであろう。。。(合掌)
(これが所謂抑止力であろう。。))

「超絶頭の良い」ので、表面上だけ改心を装って内面で潜伏する輩も当然
出てくるであろうが、これはつまり「イタチごっこは終わらない」と言う
命題に帰するのであって、その辺はSFとか小説に譲るとしよう。
少なくとも「現代(執筆時点で言えば西暦2023年)で言うところの左思想」では
戦えなくなる訳で、次の戦いが起こるとなれば、それを超えた「層」「レベル」
での戦いとなる訳である。
(先程の仮想的晒し首の話と絡めるならば、将来の社会に馴染めない人が
過去の「壮大な浪費の200年に与した人」とかのアーカイブ全てを見て
手口を変えて真似しようとする、正に模倣犯も出現するのかもしれないが、
これまたSF/小説に譲るとしよう。。
ちなみに模倣犯(宮部みゆきさん)ももはや一般的に使われる言葉に
なったがこうやって言葉が作られていくのだな、と思って感動したものである。)

これまた既述の通りではあるが、見据えるべきは、また考えるべきは、
その所謂左思想が解決された世界である、と言うことは何度も述べてきた
通りである。
思想的にも如何に勿体無い停滞期を過ごさなければならないのか?と言うのが
そこでいう趣旨であった通りである。

「最後に一点」と言っておきながら、一旦端緒を開くと終わらなくなるので
ここら辺にしておくが、話の中に色々出てきてしまったので、過去のブログを
参照しながら考察を進めていただければ幸いである。



2023年8月23日水曜日

時空上の円周率。果たして時空上に「円」は書けるのであろうか?

円周率には限らないのであるが、数学的な円周率と物理的な円周率の考察。

先ずは数学的円周率であるが、ここであえて詳述するまでもないので省略する。

物理的円周率であるが、幸い我々は3次元空間はいくらこねくり回しても軸的な影響はないものとして捉えているので、誰がいつどこで「円」を書いても、半径くらいの情報があれば、机で描こうが、寝ながら描こうが、おそらく同じ「円」が書けるのである。
そして、その皆が「等しく」書いた円の円周率を求めている訳である。

円周率の超越数的な魅力もさることながら、今回はあえて視点を変える訳である。

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いきなり具体的になるが、x軸を時間軸、y軸を高さとしよう。
何でも良いが物体を上に投げて落ちてくるとしよう。
これをxy平面にプロットすれば放物線ができる訳である。

しかし、今考えたいのは円である。
時間x軸、高さy軸に円(半円)が描けるのだろうか?
放物線を考えると、どこをどう取ってもxとy軸上に傾きがある(所謂初速度)
円になるためには初速度無限大である「瞬間」が必要である。
そして、その「瞬間」にその物体は初速度無限大で上に飛ぶのであるから、0時間のうちに高さ無限大に飛ばなければならないのである。

一旦これは「アキレスの亀」の矛盾として、つまりこれはあくまでも「観測者が後追いでどれだけ細分化するだけの問題」として捉えることとして論を進めよう。(無限に観測したければ、当然無限に細分化できる、と言う話ですね。)

今度は軸を変えて、「何だか知らないけど【こと】は起こって、物体は上へ跳ね上がって綺麗に半円を描いて下へ戻ってきて、これまた綺麗に寸分の違いなく原点へ帰ってきました」と言うことを考える訳である。

我々は幸いなことに、傾きは微分すれば求められることを知っているので、dxを時間として微分してみると、【こと】の発生した瞬間はどうしても傾きが無限大であり、また、綺麗に原点に帰ってきた瞬間も傾きが無限大であることを知るのである。

つまり、この【こと】が起こった後では、どうしても「ひと刹那」の間に高さという空間を無限の傾きで「移動」したことを認めなければならなくなってくるのである。

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前提に戻ろう。
時間x軸、高さy軸として、円(半円)が描けるのか?ということであった。
(そうすれば、深淵なる円周率πに別の光が射せるのでは?と言う淡い期待が発端であった。)

円周率のアプローチは色々ある訳であるけれども、例えば平面上で多角形で考えたり、モンテカルロ法みたいにシミュレーション的に考えてみたり、あくまで数学的な数式的に考えてみたり…(以下偉大な考察が続く)、いくらでもアイデアは出せるのだけれども、そのうちの一つとして、もう一度原点に戻って、次元のなんたるかまで遡って考察してみてはどうか?と言う問いであった。
(多分、嫌でも戻らざるを得ないのだろうと思う^^;)

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一応であるが、今回の時間x軸、高さy軸とした場合の考察の続きであるが、我らがアインシュタイン先生のおかげで、時間と空間は切っても切り離せない癒着した関係であることがわかっている訳であり、今回の話に適用すれば、物体が移動した瞬間に(刹那に)空間も含めた緻密な計算がすでに始まっている、と言えよう。(その物体の(かなり簡略化して)「速度は?」「質量は?」「量子的状態は?」…という数えきれない「前提」の設定から始まるのである^^; →その結果として「あー、その前提だと今回のパターンは初速度無限大とは言えませんね👍」の一言で終わるのである😊)

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今回の主旨としては(今回に限らないのであるが)、数学とは幸いなことに、それら物理的な領域から影響を受けることなく純粋に論を推し進めることができることである。
物理からしてもあえてあり得ないことを考察で帰依することがあるかも知れないということである。

今回の考察で帰依しうる点を挙げておこう。
1.時空間上で「円」を考えて、円周率を求めるアプローチ。少なくとも物理的、数学的手法とか円周率探求のツールの手掛かりになり得る可能性。
2.物理上の物質ではもちろんあり得ないかも知れないが、時空上で円(円に限らないのであるが)の軌跡を取り得る仮想物体の考察について。
3.翻って考えると、所謂3次元空間というものは、時空から比べると、なぜこんなに軸間の相互関係は「疎」なのか?という考察。
 我々は左右を見ても上下を見ても前後を見てもそこに何らの相関性は「ない」と信じて疑っていない。という点ももしかしたら思い込みかも知れない。(勿論我々は地球ごと太陽の周りを回っていたり、太陽系も宇宙空間をものすごいスピードで動いているかも知れないが、光から比べたら蠅くらいの速度なので「気付いてないだけ」の問題とも言えるかも知れない。が、そこまで含めて3次元空間は(幸にして)「疎」であるが故に、我らが生活とか、極論すれば「外界を認識する脳」を持ち得たとも言えるのであるが。という考察^^)

4.既述の考察の繰り返しかも知れないが、3の考察の話を踏まえてだが、数学とは幸いなことに「ひと刹那」を切り出した学問と言えるが、やはり話が細かくなってくると、どうしても「軸」間の相互関係をもうちょっと緻密に考えなければいけないのではないか?という考察の手がかり。(というかもうすでに自分で答えを言ってますが^^;)
これまでは幸い軸間に相互関係は「勝手に」無い前提で論を進めてきた訳であるが、つまりこれまで誰も疑問として一言さえ発せられずにきた訳であるが、果たして本当にその前提で良いのだろうか?という問いである。
(数学で平面とか空間を考察する時に、その2次元とか3次元は任意で良いはずなのに、誰一人としてその軸の一つに「時間」軸を持ち出して説明をした人を見たことがない。これこそ「都合が悪い」十分な証拠であろう。都合が悪くなければ堂々と「x軸とt軸で円を書きましょう」とか「x軸とy軸とt軸で球の体積を求めましょう」とか言えば良いのである。まぁ時間についてはこんな説明によらずとも議論は進んでいる通りであるが、現代では普通に「四次元」の一次元に数えられている訳であるが、つまり人類のこれまでの「普通の」感覚での時間軸という捉え方(ボトムアップ的観点としておこう)と、数学的な「次元は疎であるべきだ(そうしてもらわないと困ります)」と言った捉え方(トップダウン的観点としておこう)という2つの観点のせめぎ合いがついに日の当たる所に晒され出したとも言えようか。)

軸(次元)に限らず、所謂近似とか無限大にも当てはまる考察である。

一言で言うと、何というか紙一重ではあるのだけれど純粋な数学の領域と、物理世界とかも含めて「別次元」の話を、盲目的に同一視して、つまり何も知らずに領域を飛び越えて「あーでもない、こうでもない」と議論しているように見受けられるのである。(もしも失礼に聞こえたら、申し訳ありません^^;)

ーーーーーーーーーーーーーーー
最後に言えることは、単なる読み物として読んでいただければ幸いである。
(自分で答えと述べているので、一応は答えなのであるが、読んでいただいた人のアイデアにもなれば、また幸いである。)

2023年8月21日月曜日

量子知覚論 - 量子論的に知覚を考察。それはつまり主体と客体の発想の逆転。

知覚とは何か。例えば指先の触覚であれば指先の色々な触覚受容器と外界の相互作用によって、指先の触覚受容器がシグナルを検出したことであろう。

※URL検査で「タイトルが短すぎます」と怒られてしまったため、タイトルは何とか振り絞って仰々しいものになってしまっております^^;

どうも観測者と被観測者の関係は、「自己」の概念のせいか分からないが、つまり自分=観測者、外界=被観測者として「勝手に」前提を作り出してしまうため、本当の関係性は見つめ辛いようである。

もしも幸にしてこれを達観できたとすれば、世界とは、まさしく天地がひっくり返って、「自己」の中心、仮に心臓のど真ん中とでもしようか、を中心にして内臓を全て外界にめくり出すような状態とも言えよう。
極論すれば主体ではなくて、完全なる客体ということ。
※とりあえず説明を簡単にするため、自己の中心を心臓のど真ん中としたが、そもそも自己の中心を探ろうとすればするほど見つからない=つまりアートマンは「これです」というものはなくて、代わりに言うとすれば人とはその全体像を持って人と成っていると言えるので、そこを掘り下げたい人は別資料を読んでください^^;
→一応ですが、ここにも書いてあります。「転生とか脳移植について

ーーーーーーー
ある意味、この「主体であり、同時に客体である」と言うことを知ることが先ずは第一段階とも言えよう。

ーーーーーーー
話を転じて、今現在(2023年とかです)では、そろそろ「当たり前」くらいの話になってきているが、かといって初学者とか、もちろん根本的な検証とかでもまだまだ必要な部分であるのだが、例えば二重スリット実験とかで量子論を分かり始める人もおられよう。
極論すればこれは「非局在性」になると思うのだが、やはり観点は観測者と被験者の関係の域を出られていない、とも言えよう。(人が観測者で、電子とか光子とかの量子が被験者という前提。)

ーーーーーーー
ホログラフィック宇宙論とかもあるが、無論エントロピー的には計算通りになるだろうが量子的な非局在性がどのように絡んでくるかということであろう。

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トピックだけ書いてしまったが、本論で述べるのは、量子的な知覚論である。
つまり、今ここで私が知覚したことは、量子的非局在性によって、別の場所の別の時間で知覚できるという事である。(勿論、別である必要もないので、同じ場所で同じ時間で知覚する事も当然含む論である。)

古典的に幼稚的に考えれば、量子もつれを「集合」させて知覚器官を作って、「正反対」にも作れば「理屈上はできるでしょ?」的な話である。

多世界解釈を持ち出してしまえばむしろ簡単で、今現在の指先にある知覚器官を構成する分子なり原子は元を辿ると、量子もつれの対を成した量子の片割れで構成されていて、無限の可能性の中で、それら全ては「奇跡的に」今現在私の指先を構成しているので、今まさに何かに触れたとすれば、それは瞬時に「裏の世界」の私に知覚されるのである。(めでたし、めでたし^^;また、無論「私」でなくとも別の人でも良いのだが。)

しかしこれではあまりにメルヘンすぎるであろう。(ギリギリ現代では通じるかもしれないが、数十年か数百年か数千年後には、今の我々が過去の人を(失礼ながら)微笑んでしまうように、将来人に微笑まれてしまおう^^;)

「無限の可能性」は結構なのであるが、ややもすると雲散霧消しまいかねないシビアで繊細な問題であるがゆえに、数学的・物理学的な「確かな結びつけ」が必要なのである。

この分野は、ひょっとすると「意識」の何たるや?という古代哲学の問い・遡って人類の問い、さらに壮大に言えば有機物、否、非生物さえも含めての、つまり宇宙としての「この宇宙は何をやりたかったのか?」という点にはるかに遡っていくのである。

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もう少しだけ書いておくと、最近は幸いにも統計学とかもあるので、「如何に人として全うするか」ということは、やはりというか当然というか「宇宙がどうしたいのか」という点と一致すると思われる。
(現代ではこの文脈で宇宙というと途端に何故か胡散臭くなる^^;
無論宇宙とか大それた壮大なものではなくて良いのだけれども、そうすると現代では「我々上も下も右も左も老いも若いも男も女も、動植物も土地も歴史も全て含めた構成員の【最大幸福】」くらいになるだろうか。しかし【最大幸福】というのも現代的というか、もう少し政治家は歴史とか踏まえて頭を捻った方が良いのでは?^^;(将来人に「微笑まれ」ますよ^^;))

「如何に人として全うするか」という点は、寧ろ哲学なり宗教なり道徳なりで代々脈々と命が繋がれてきたわけである。
この文を今現在、生を持って今正に目なり耳なり知覚器官を持って知覚している通りである。

また現代の病巣に脱線してしまうが、本来的に人を人たらしめるために、親が子のためを思って残してきた言葉のはずであるのに、それを「頑張って履き違えて利己のために使うだけ使って、絞り切れるだけ絞り切る」というのが現代の病巣たる、所謂左側であろう^^;(やれやれ)

しかし、この文脈を深く知ってもらうと分かるように、彼ら(所謂左)さえ、現代では「必要悪」であった、と言えるのである。(この文脈で足りなければ、既述文書をどうぞ)

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現代科学者は大変なもので、純粋に数学とか物理の世界に溺れていたいと思っていたにも関わらず、しれば知るほど、いやでも形而上学に相対しなければなら無くなってきた時代とも言えよう。
しかし学問とは(学問に限らないのだが)ある程度醸成されると「原点回帰」ともいうべき現象は定期的に起こるものであって(人の一生のスパンで見るとそれに出会う人の方が少ないので「まさか現代科学時代において、まさか自分が」と思うかもしれないが、歴史的に見れば必然なのである。念の為。)、今回は我々が勝手にひいた「形而下」「形而上」という【線】を跨るかもしれない話に「なるかもしれない」というだけである。

最後になるが、所謂左について言えば、これまでまんまと教育関係とか学術会とか手中に収め(たと錯覚し)て「しめしめ」と思っていたかもしれないが、つまり、そこには「科学者が(現代でいう)非科学的なことを【言うはずが無い】」と言う都合の良い前提で猪突猛進に邁進してきたのかもしれないが、その科学者連にまんまと象や猪の勢いで轢き殺される構図であろう。(科学者は科学に生きると言う点を甘く見ていたのであろう。)

まぁ百数十年だか数百年だかは知らないが、「こんな浪費をしてはならない」と後世に伝えるにはちょうど良い歴史になるであろう。(とほほ)

依存型の行き着く果て

(走り書きなので、ちゃんとまとめが必要) 依存型(留学生問題、生活費問題、在日問題などなど) 日本国民を売り物にしてるとか、あちらの言いなりとか言われる。 一方でそれを「しめしめ」と行ってる方はというと、短期的には楽ができて「あいつらアホだな」とか優越感に浸れるかもしれないが、長...