2023年3月18日土曜日

自由度獲得の歴史(数学編)

既述「自由度獲得の歴史」では、政治的、社会集団論的、人間論的な視点で扱った訳であるが、実は数学も「妙」な事に政治的、社会集団論的、人間論的な話にリンクして発展してきたと言えよう。

近傍を変える」や「数学上に「不明」を導入」で展開した通り、もはや不可避的に自由度を上げる方向に発展せざるを得ない状況であるし、他方から見れば、それこそがこれまでの数学の「ベクトル」であったとも言えよう。

私のような一般庶民の言うことでもないが、それではそれを突き詰めると、究極は「自由度無限大」の方向に向かうという話になってくる。

その境地はまさしく混沌であって、「認識」さえ成立しない領域である。
しかしこれまた「妙」な事に、それを自覚した上でボトムアップ的に「認識」を積み上げて、いわば「無自覚」に必死に盲目的に本能的に向かっているとも言える。

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このトップダウンとボトムアップ的な点が「いづれは」「決着」することも、逆算すれば想定できる訳である。
そうであれば、その時点がようやくスタート地点と言えるかも知れない。

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全ては壮大、宇宙も壮大であるし、素粒子領域も壮大であるし、人体も壮大であるし、いわゆる「認識(心)」も壮大なのであろう。

いわば何も要らなくて、それだけで・それさえあれば発火点になる、と言えようか。

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ちょっと先走りしすぎて訳が分からなくなってしまった^^と思うので、補足。
時系列で言うと身の回りの「認識」から始まって、天体とかものが下に落ちるとかとかの認識(重力・万有引力)とかになって、それとは別に磁力とか電気とか(電磁力)とかになって、光とか電磁波(相対性理論・電磁力学・量子論)とかになって…ボトムアップの「この世とは何なのか?」のあくなき追求といえよう。

他方で、「我とは何か?」、「1+1は2なのか?」「そうであれば方程式が作れる」「方程式で虚数が出てくる」「整数論は」…と言う「純」な論が出てくる。
数字だけで作れる世界。それが数学であろう。

これまた私が言うまでもないが、認識論(物理学)と自覚論(数学)はお互いに補い合いながら発展してきた訳であるが、その衝突(止揚?)が今現在・現時点では激しく火花を散らしながら形成されている、といったところであろうか?

例えば、これもまたとても僭越ながらなのであるが、高次方程式で言えばガウス理論(解析学の解析学(の解析学の…))で大きく発展した訳であるが、これも突き詰めていくと、そもそも「論立て」の意味は最終的に「解消される」と言える問題、と言えよう。

論立ての立脚が解消される、つまり認識論(物理学)と自覚論(数学)と言う論立ても、いずれは解消される訳である。(どうかどなたか「ピン!」と来て欲しい😄)

(これは言うなれば、各「論」自体が関数化するというか、相互補完する状態とも言えようか。例えば認識論(物理学)側が1ずれるだけで自覚論(数学)も全て影響=再計算(再度理論の構築のし直し)が発生し、しかも認識論(物理学)側は単純に1ずれるわけではなくて、連続的に関数的に変化するし、自覚論(数学)も同様に連続的に変化するわけである。それこそ無限×無限=つまり混沌の世界になるわけである。)

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我々「認識」側の存在としては、残念ながらボトムアップ的に理論構築していくしかないわけであるが、片や想定しうる「自由度無限大」の世界から見れば、我々も簡単に「想定しうる」訳である。
と言うことで、簡単な方程式であるが、「自由度無限大側からすれば、我々は想定しうる」と言う方程式をここに記録として残しておく事にする^^

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また、もう少し論を進めてみて
も考察してみました。



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