分かりやすく言えば、馬鹿に屈しない、馬鹿に負けてはならない、と言うこと。
馬鹿に負けて益することは何も無い。
古今東西、上下左右を見渡してそうであろう。
馬鹿とは別の言葉で言えば無明とも言えようか。
無明の人に負けては、浪費の手助けであるし、またその人にとっての間違った方向への学習強化の手助けとなる。
また、自分自身内部のことに目を向けても、自分の無明をいいことに自分勝手に自分の欲求のままに、つまり欲に負けて、自己に負けてやりたい放題しているのでは、立派な人とは言えない。
人類の叡智として、親とか社会から「嘘をついてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはならない」といった倫理が人から人へ受け継がれて社会は成り立ってきたわけであるし、個人個人も「こう言う人になってはならない」とか「立派な人物になろう」とか自己向上、少なくとも自己抑制が働くと言うのが、暗黙の「最低限の人として」の道だったとも言えよう。
もしも残念ながら頭が追いつかなくて、想像力や思考実験ができなくて、悪事ばかりしてる人は、いわゆる困ったちゃんなのだが、そういった人はもちろん少数で(もしも、そういった人の発生確率のほうが高ければ、まともな社会が成り立たない^^)、そういった人は社会で「やれやれ」とかいって温かく見守って居場所を与えて、いわばみんながちょっとずつ何かしら出し合って「包容」して支えあってきたわけである。
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と言うことで、これまでは社会論的、集団論的に母数が大きくなるとどうしても発生してしまう「困ったちゃん」と言う、せいぜい発生しても「ある時に一人」とか「個人」の問題であって、残念ながらそういった人に直接的に間接的に接することになった人は、その集団、その社会で何とか温かく包容・内包してきたわけである。
しかし現代では、というか現代の病巣としては、こともあろうに「バカのままでいいですよ!そしてみんなで徒党を組んでがっぽり援助を受けましょう!」と言う始末なのである。
そういった甘い誘惑にズルズルと付き従ってしまう、頭の追いついてない人はそれでそれで残念なのであるが(ちょっとは世の中の仕組みを理解しようとして反省して向上するベクトルに切り替える努力をしてほしいものだが)、それは頭が追いつかないのであるから、ある意味仕方がない。(元々の/従来の意味でのマイノリティ)
むしろ問題なのは、そういった迷える子羊たちを正しい方向に導くのならともかく、こともあろうに阿呆であることをいいことに、偽善の笑顔で近づいて悪の道にまんまと誘う連中である。
既述の通り何回言ってるんだ、と言うことで詳しくは述べない(詳しくは既述を参照)が、
無明という霧の中で迷っていた本来は真っ当に更生できる可能性があった人たちを、その可能性を潰して悪の道に誘うことであり、それこそ累計では「兆」レベルの数の人たちを霧の中でメクラのまま人の一生を浪費させたということで、「誘った人」の罪は書き表せないほど重いのである。
(と書いて、ちょっとでも「ハッ」としてくれれば良いのだが、これまたスーパーメッキ厚顔で、こう言った言葉を喰らってもあちらの人々は何の変哲もないのである。)
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ということで、アプローチとしては、正攻法として「倫理に訴える」やり方を述べてきたし、多くの先人たちもそれに心血を、情熱を注げられてきたことである。
無論これはこれで緩まず弛まず続けていかなければならないが、構造理解の通り、あちら(いわゆる左寄り)はむしろ倫理をなくし、自ら喜んで阿呆になって、動物的、本能的な「利己」を根本することによって癌のように悪を撒き散らす醜い塊になってきたわけである。
彼らにとっては倫理とは屁みたいなものであって、「ブレーン」としてはただただ単純に利己をいかに増殖させるかという「システム」を作ることにしか目がないのであろう。
あちらがシステムで来るのであれば、こちらは悲しい事ではあるが人類の別の叡智として「規律」を作って防ぐしかない、という事であり、それが政治3.0であるという事であった。
「バカは死んでも直らない」のであれば「その人が一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」という事が従来であったが、現代では「(悪魔に魂を売った先導者のせいで)バカが徒党を組んで組織だって押し寄せるようになった」ので「こちらとしても組織規模でその人たちが一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」ということになってくる、ということである。
(それこそ「暴力でぶっ潰したりはしない」と言うのも人類の叡智の一つであろう。)
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これまた繰り返しになるのだが、いわゆるあちらの根本は利己であるということは構造理解の通り明白であるし、私が指摘するまでもなく、ずっと前から多くの人が解明してきたことである。
いわゆるあちらが出始めた頃は頭のいい人までも騙されて混乱した時期があったのかもしれないが、それもすぐに、あちらの言うことは「理論」などでは全くなくて「ただの屁理屈」と言うことも解明されてきたのは歴史を見る通りである。
繰り返し言ってきたのは、ではなぜそんな下らない屁理屈に百何十年もの間、なぜ全人類は性懲りも無くあちらの言い分通りに毎度毎度慌てふためいてオドオドばかりしてきているのか?と言うことである。
と言うことで、「あえてバカを泳がせておいたのでは?」と言う点も指摘しておいた通りである。
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もしも上記が国家レベルの裏の合意事項とかであったのかもしれないが、事ついにここまできて、こう言った一般庶民レベルで「もはやあり得ない」レベルまで認知されたと言うのが現状である。
なぜここまで言うのか、また、先人たちが頑張ってきたかといえば、それは冒頭に述べた通り「完全に浪費」であるからである。
もしもここから何か新しいアイデアとや理論が生まれれば良いのだが、冒頭に述べた通り馬鹿に資して残るのは何もないのである。
(既述の通り「なぜこの莫大な浪費をスルーするのか?」の通り)
我々はもっとやることがあって忙しいわけであり、政治3.0以降の健全化後の建設的な問題が山積しているのであるが、この時代に生まれてつまらない利己集団に振り回されて一生を浪費だけに費やしても構わない人がどうも多いようである。
これこそまさに無明であろう。
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前回の余談で、本ブログが、「表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである」と書いたが、これまた嬉しい(面白い)ことに、本ブログはどうやら「格言生成機」ともなっているようである^^;
無論そのようなことは全く意識せず、「いかにして無明を明(妙?)とするか」と言う意思で書いてるだけであって、格言とはいわば言葉の組み合わせ的な問題なのであるからそれこそ目的を「格言を作る」に置くのであれば誰でもできる話なのであるが、これもまた妙なことにやはり時代とかその場・その状況にマッチしたピンポイントのことがピンポイントで生じる、と言うことであろうか。
(これこそ人類の叡智として醸し出されるものであって、別に私が言わずとも別のところで誰かが言っていることであって、これまた既述の通り「何か成すのは職として」と言う事であろう。)