2017年10月27日金曜日

あえて止揚

根と葉の止揚。
経済と精神の止揚。

洋の東西において土壌が確固と培われてきた面がある。
所謂西洋文化、一方、どこまで集約すれば良いかは
分からないが例えば和の文化。

お互い(無論これ以外にも培われてきた文化は
あるので、それぞれめいめいにだが)、前を
引き継ぎ土台として培ってきた。

片やそれに反するもの、側面がある。
個人であれば良いが徒労となり組織となり、
時として都合の良いものとして誘導もされ
きたのであろう。

人形となって未だに土壌も持ちえずに
踊らされているでくの姿を見るに
悲しいが、逆に誘導としては
これほど扱えるとはおそらく120%くらいの
いやそれ以上の期待を上回る結果となって
いるのであろう。

これは今となっては誰でも知り得ること。

次はそれら「知らされなかったもの」の開眼なのである。
まんまと左よろしく何億だか知らないが
めいめいの小脳に従わされていただけだが、
境界を越えれば相転換するということは
無論アホでもわかるが、それら聡明なる
機関は知りえてなんと未来まで予想して、
そうなることを予見して、大陸の何億だか
知らない良民の開眼を待ち受けている。

そこで生ずるのは、言うなれば「開眼バブル」とでも
いうのであろうか。数年か数十年後かに流行る
大賞でも取れそうである。

しかもそれも既に既得権の手は伸びていて、
これを知るものは既にそのおこぼれ程度ということ。

彼らはいかに主導権を取るかに長けているので、
こちらの極としてむしろ後塵でもなんでもないのだが
(たどり着けばむしろ先陣だが)、いつの間にか
レンズの焦点としての此方の方が彼方より
そうとして相として層として重厚であり
最終的な手のひらに乗るを自ずから知るという
状況が醸成され、「され」というと
おこがましいのでおのずとなる、くらいの
表現にしか現世の言語レベルでは表現しようが
悲しいかなない。
(余談だが、これを突き詰めるて発展させようと
するならば、記述のいかに知覚を直接伝播させるか
という過去ブログを参照。)



直接的に書いたつもりだが抽象的かもしれない。
まあそういうものだ。

あえて具体を言えば、この対象の根源をどこまで
辿れば良いかは知らないが、例えばもったいなさが
わかる我らからすれば、例えば積み上げた家が
崩れる現象を見て空虚を覚えるのである。
多文化に例えてなんというかは知らないが
汗水流して稼いだ金を親や親しい人その人が
目の前でドブに捨てるような感覚であろうか。
「あぁ残念」ではなく、尾てい骨から響いてくる
類の狂気である。
(数多世界を見渡せば優雅に「恨」の文化を
堂々と掲げる領もあるらしい。よほど
狂気も知らぬ恵まれた類の寄せ集めなのであろう。
というとそれらの寄せ集めの見せかけの
狂気を繰り出して、やれやれという
見せくれが繰り広げられるのであろうが。)

当初の通り隣人であり、よろしくお付き合いをする。
(最近見事に隣人であれども突き放す風潮が、
Nは置いといて、ではKやCはと一言で迫られると
一言では言えないが、というのがさすがなのであるが。)

分かってきたのは、彼らはかららの特色を見ればわかる通り
また大陸がやり込められたことを見ればわかる通り
である。(行間はどうぞ。)

つまりそれに対しては
である。
言うまでもない。

敵、味方ではない。
土壌である。

というのはおそらくはるかかなた前に
賢しく悟っておられよう。

いかにこちらのそれを廃せようとしてきたことか。
数多の話。

恐らくこちらの指数関数的を恐れている。
というか恐れている時点で答えの先延ばし。
原子に帰れば根絶やししかない。哀れ。
ということ。

よほどエリートの、ということ。
こういうことは簡単には書かせてもらえまい。
これがごく一般から出るということ。

これまではせいぜい長くて100年だったが、
だだこねが千年とか言い始めないでほしい。
とこう書くとやりだすからキリがない。

これまでもそうだが、本質を知らないで
変に権利を持ってる輩がやるので、
これもうまく、そうさせないための
システムをあらかじめ作ろう。
(記述の「人は如何にして「恥」を
知るか」を参照。)

諦めるのは簡単だが、そうではなかたったという
現実も無論だが、数多声なき声よという
一点において。




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左の総括

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