悲に面し一つ。
つまり辿れば追いやった主権を振るったものの心情。
現法では無論「動機」的な罪を負うのだが、
例えば過去・現在・未来や法律を取っ払って
どういう「つもり」で何をしたかったのか、
を洞察することに意味がある。
一体どうしたかったのか。それが現世ではこういう形で
現出したということ。
現世では増えてきたが、情報があふれナマの育児の
愛情も知らずに教育や躾が追い越して先走っている
事例を目にする。
大人の世界や政治・経済・理念・云々の世界も同じだが、
感覚を麻痺させて(時として故意にする輩が出てきたが)
理屈というか屁理屈を押し通す向きがある。
(これを系統立てるだけで、あちら陣営は瞬殺するのだが。
それは別立てで。)
今回のケースもその類。おそらく悪いことはしてないと
思い込んでいるだろう。
ナマの5歳児に触れ合って感じる感覚も閉じ込めたのであろう。
躾という名の社会的美、個人的美、社会的に認められている
躾を基準にして、それを動機としているのであるから
そこから派生した教育行動はちゃんと言い訳ができると。
たとえ何かあっても正当な理由があると。くらいか。
まずはここまでは良い。
そして何をしたかったのか、させたかったのか。
おそらくそこで止まったのだろうと思う。
本末転倒よろしく、躾のための躾で目的が
達成されてしまったのだろうと思う。
何をしたかったのか。真性馬鹿であったのであれば
むしろそちらの方が良かったのであろう。
教育にしゃしゃり出て母子関係に破綻を及ぼす
ケースも見ているが、一様に中途半端であることが
共通点であろうか。
それらは大抵ナマものを扱わずに屁の理屈を
振りかざす。つまり地に足が付いていない。
(故事に学べば実践ありきということが自ずと
身につくのだが。故事に学ぶというのも
別段特別なことではなく父母・兄弟・社会一般
に接して体得するものだが。)
5歳ながらにして、ひらがなをようやっと覚えたにして
書いたあの手紙。5歳ながらにして間接表現も駆使して
ちゃんと伝えている。
それを僭越にも汲み取るならば、知るべきはやはり
今世のつながりを密にした、あの子のパパ・ママなのである。
とりあえずわかることは、言い逃れしようとする人に
対しては行政はあまり強制権は発揮できないということ。
(行政、つまりボトムアップなのであまり
口を出すつもりはない。むしろ容疑者をちゃんと
この子の言葉を一生聞かせるように、無様に
瞬時に極の刑にしない厚生理念が通ってて
良いと思う。)
素人が言うまでもないが、足取りを見れば逃れようと
していた感は十分に発揮されている。
それはむしろプロが検証するから良い。
知るべきは、現世でこの人はどういった精神過程を
踏んでことに至ったかを知ること。
そういった、(こういった事件を軽々しく
あちら陣営も恥ずかしげもなく出しているが。)
人が排出されてしまう土壌はどうやって築き
あげられてきたか。
どうやって精神的土壌を直すべきか。
ボトムアップの児童相談所や行政の話は
数多あるのだが、あの手紙の真の要求するところは
それらメディアがどうしても触れられない
トップダウンの分野なのである。
わずか5歳にして、最後まで希望を捨てずに健気に
みんなの修繕を願って生き続けたが、生の
ベクトルとして衰弱して泣きながら亡くなられた
ことは無念であったろう。合掌。
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