前回の「許される前提」(こちらはこちらでちゃんとまとめないといけないが)と、
「恨み文化」を合わせた話。
既述「恨み文化」の通り、人の怒り・恨みというのは一体最大どれだけ
継続できるのか、という点。(先ずは既述を読んで頂きたい。)
あろうことかそれを自分ごとを離れ、または意図的に離し、子々孫々末代まで
引き継ごうとするということ。(何をしても当初の怒り・恨みは薄まらずに
当初の熱量のまま何百年、何千年と恨み続ける、というのがあちらの言い分)。
「対話のスタンダード」も含まれるが、対話とはうわべだけのコミュニケーション術ではなく、「相互理解」である。
(分かる人は分かるが、まぁ、この歴史を通してこの事だけでも世界的に共有できただけでも成果なのだろうな。浪費甚だしいが。)
「悪いことをした」「確かに悪かった。謝る」「知らん」ではただのへそ曲がり坊やであり、大人というか公式に行うことではあるまい。
世界的・歴史的成果を見ても、広く大きく培ってきたのは「許し」の文化なのであって、リスクアセスメントよろしく、その酷さがもしも「酷さ加減×発生頻度」だとするならば、むしろこちらが被った方がよほど酷い訳であって、それさえも大人らしく目を瞑って詫びたにも関わらずに、その下げた頭を踏み潰すという、この構図。(まだ許しが足りないらしい。)
無論感情論に誘導する意図でもなんでもなく、俯瞰的なことであるが、例えばキリスト教でもその根幹は「許し」であるし、仏教でも「いかにこの世の執着を捨てるか」である。
それをあろうことか組織を以って「恨みの熱量は未来永劫100で減衰しないので、みんなで共有・拡散して、みんなで恨みましょう。=未来永劫執着しましょう。」と誑かすとは。(この時点で「悪い方向に扇動した」という人になるのだが。いいのか悪いのかは知らない。)
(脱線だが、この時点で、あちらには果たして仏教徒は居なかったのだろうか?大陸を経て半島を経てこちらに着てるはずだが。)
今回は「恨文化」について語ったが、所謂左巻きも主語を変えるだけで結局同じような話であることが分かるであろう。(目覚めるの・気付くのが遅すぎ。何度も書いているが、目覚めた人・気付いた人は数多いた・いるはずであるが、言葉ひとつ違うだけで人々は目が眩んでしまうのであろう。それこそ何千年も昔に言われていることであるが、いまだにそれさえも脱却できていないのであるから、哀しいと同時に人とは愛らしいものである。(それで潰れては目も当てられないのだが。。。(あちらもバカ揃いではないので、おそらくこの辺が最終目標なのだろう)))