言葉の語源には、はっきりしたものとそうでないものがある。
例えば語源がはっきりしているものとして、「お母さん」の「かあ」というのは、太陽を表す「カッ」「カッカッ」という音から来ている、というものである。
他方の語源がはっきりしていないものについては、将来的に研究によって語源が「発見」されるものもあるだろうし、発見されないものもあるだろう。
語源を辿ろうとすると、どうしても意味付けをしたくなるものであるが、おそらく中には深い意味はなく、なぜかみんなが使うようになって定着したもの(デファクトスタンダード)もあるだろう。
例えば運よく、ある言葉を最初に使った人が見つかって「なぜこの言葉にしたのですか?」と聞けたとして、その人がもし「特に意味はありません」とでも回答したとしたならば、その言葉の語源は「意味はない」ということになってしまうのだろうか?(近代以降は映像・音声としても残る時代なので大いにあり得る話。)
明治時代に近代西洋化の推進によって新しい言葉が続々と作り出されたが、それらは無論語源がはっきりしている。(証拠まで辿れる。)
他方で、証拠まで辿れない言葉があり、むしろそちらの方が大半なのではないだろうか?
そもそも言葉とは、誰か一人が勝手に考えてその人だけ使っても誰にも理解されないし広まらないものである。
言葉とはいわば集団から「醸し出されて」生じるものであるといえよう。
よって前述の「最初にその言葉を使った人」に聞いても、その人が「よく分かりません」と答えるのも逆に当然であろう。
語源を辿るというのは、特定の犯人を探し出すようなものではなく、どうやってその集団からその言葉が醸し出されたか?と研究するものであろう。
(多分当然言語学的な教科書には載ってるのだろうけど)
現代でも新しい言葉が生じて、現代では映像や音声として記録も残るため語源もはっきりして残るとは思うのだが、これが数百年後、数千年後になって将来人の間でももしも使われているとしたならば、違う意味で使われているかもしれない。
そして興味のある人たちは、映像や音声を見て「当時はこういう意味で使われていた(笑)」とか言われるのだろう。
つまり、現代の我々の言葉も含めて言葉とは、知らず知らずのうちに大きな釜のようなものの中に入れられて勝手に醸成させられていくのである。(言葉に限らないのだが、敢えて言えば「知恵の釜」とでもしておこう。)
ということで、我々は知恵の釜のお陰で生きていけるのである。
(もしも知恵の釜がなくて、「オギャー」と生まれてから、両親や祖父や兄妹と意思疎通するのに、一からコミュニケーションツールとしての言葉を作らなければならなかったら大変である。おそらく家族間のコミュニケーションツールとしての言葉がようやく不便なく使えるようになった!と言ったくらいで一生が終わってしまうだろう。。)
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最後にいつもの通りあちらの話で申し訳ないが、所謂あちら側の人はこう言ったことも根本義において理解できていないのだろう。
知恵の釜のお陰で「人として」生きていられるのにも関わらず、「全てオレのもんだ!」「全てオレのおかげだ!」「全てオレが正しい!」と臆面もなく言っているのだから、現代の本物の「裸の王様」である。しかもうじゃうじゃと大勢いて増殖する始末。(まずはおとぎ話の「裸の王様」でも読めばよかろうに。)
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