2023年9月23日土曜日

形而上学上の不明点について論争しても意味はない

こちら「転生とか脳移植について」の記事で、
「形而上学上の不明点について論争しても意味はなく、分からないものは分からないと素直に認識して、それを出発点にして考えを進める、その姿勢こそが最も大切」
と書いたが、その辺についてもう少し掘り下げよう。

形而「下」つまり、数学とか物理学とかいわゆる現代における「科学」と称される学問においては、そう言う視点は当たり前に思われるかもしれないが、実は意外とそうでもなくて、どうしても人の寿命は限られているので、ここで論ずる純粋な「不明点は不明点として素直に認める」認識に立脚して世に出た論というのは意外と少ないのである。
(この点は歴史を見れば十分にわかるであろう。)

最初に言っておくが、ここで言いたいのは、それがいい悪いの話ではない。
むしろそれが至極普通で当然であって、何らの疑問を投げかける余地は全くない、と言うことである。

本論は、それら先人に感謝した上で、それでも論を進めなければならないため、あえて俯瞰した立場で立場で論を進めましょう、と言うだけである。
(一応、補足としては記述「何か成すのは職として」を以て足掛かりとしていただければと思う。)

そして、これまた述べるまでもないが、形而「上」において、特に信仰分野においては、その真の純粋性に立脚しているのは、冒頭に書いたブログの通り古代インドかネパールのルンビニにお生まれになったお釈迦さまくらいであろう。
(不思議な逆転現象で、「現代科学でまともに論ぜられるのは仏教くらい」的な話もあるそうな。)

どこまでも「言うまでもないが」が続くのであるが、本論はある特定の信仰とかをワッショイするものではない。(と言う点は、よく理解してくれれば自明であろう。)
他の論に譲るが、「例えばお釈迦様が現れなくても別の場所と時で自然に同じような思想が生まれたはずだ」とか「実は別の場所と時に発生してたが消滅しただけだ」とかいくらでも言えようが、ただの一事実として、今からおよそ2,500年ほど前に古代インドかネパールあたりで、本論の主旨とする「純粋な」立場で人や世や世界を考えた方がいらっしゃった、と言うだけであることをまずは理解しなければならないだろう。

ーーー
「ひらめき」の経験がある人であれば分かると思うが、と言うか「ない」と思ってる人でさえも赤子の頃はひらめきの連続であったのであるから誰しもが「ひらめき」の経験はあるのであるが、「ひらめき」とはエキサイティングなものなのである。
(感傷的または芸術的素養のある方であれば「人は不完全な状態で生まれ落ちてくると言うこの世のシステムは偉大である」とかになってくるであろう。)

「ひらめいた」時に人は寝食も忘れその点に集中できるものなのである。(幸い科学も進んでこの辺のことは「起点」が自分であるから「本能」さえ凌駕する、と言うような心理学的な解釈でも説明できるようになったので楽になったものである。)

いわば「魂を削って」生み出すとも言えようか。
他方から、第三者的・客観的視点からすれば、ものすごくエネルギーを要するもの、とも言えよう。

それまでに誰も考え付かなかったこと。
それまでに誰も見つけられなかったこと。
それまでに誰も証明できなかったこと。
純度が増すと他者との比較は消え失せる。
純粋に分かった喜び。
純粋に知った喜び。
純粋に見つけた喜び。
いくらでも歴史書を読んでいただければ良いのであるが、そういった瞬間に当事者として巡り合うことができた人とは、それこを一切合切を捨ててその点に集中できるのである。

私が常々思いを馳せるのは、例えば数学とか物理学で新発見をされた方は、無論その方面の論文なりを書いて、あたかもその「面」についてだけで終わっているように思われてしまっているかもしれないが、実はそれは表面的な痕跡だけであって、「ひらめきのエキサイトメント」としてはその遥か真奥まで思いが及んでいるのではないだろうか?と言う点である。
「現代ではこの数式でしか表せなかった」「論文としてはここまでしか書ききれなかった」と言うことである。(「しか」とか言ってしまうと失礼ですかね^^; 無論「何か成すのは職として」の対義語としてどうしても業績の話になってしまうので、当人も失礼ながらそこまで考えておらず「これでできた!」と思ってるかもしれませんが。)

実際に数学とか物理学でも新しい理論が出てくると「理解できる人は世界で数人」とニュースでチヤホヤされる通り、共通言語であるはずの数式だけでは意思疎通が成立しえず、いわば「思想」的な補助を入れて仲介しないとプロ間であっても「共通認識」はできないレベルになっているのは、現代科学を見ての通りである。

形而上学においては、現代においては(現代においてさえ)「文字」とか「言葉」くらいでしか記述しようがなく、つまり「ひらめきの本当の本質」を本当に100%「表して」、またそれを100%「伝授した・できた」人は一体存在し得たのだろうか?くらいまでの話になってくるわけである。
(頑張って「話した」とか「書き切った」としても、話しもれてること、書ききれなかったことがあるかもしれない。それこそ数学的に「話切るとは」「書き切るとは」と言う点を100%完璧に証明できる有機言語をまずは作成しなければならないだろう。
※ちなみに、この辺が面白いので既述「意識シリアライゼーション」や「意識移植」のように飽くなき考察をしている訳である^^)

ーーー
「ひらめき」の当事者について語ったが、続いて「後追い」について述べる。
直接話を聞いたり、後継者であったり、後世の人であったりである。広く言って仕舞えば第三者である。
後追いは当事者と比べれば楽である。
自分でひらめかずとも、その到達点を理解することができるからである。
ひらめいた人がひらめく時に要した膨大なエネルギーも何ら必要としないからである。

※後追いが、その「ひらめき」を理解するために消費するエネルギーは別問題。数学の理論を理解する点と比べて考えれば分かりやすい。
また、後を追う人が自分の考えがベースとかにあって、その上で誰かの「ひらめき」を取り入れて、その組み合わせで次なる「ひらめき」を得ることもまた次の話である。後述参照。

ーーー
冒頭の本論の主旨の通り「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢が大切」から始まり、「ひらめき」と言う点に着目して話を進めてきた訳であるが、続いて「果たしてひらめいた内容は100%伝授可能なのか?」と言う点について考察しよう。

数学とか物理学であれば、そこに数式があるため、ある意味それさえ理解すれば良いという明確なゴールがあるため「そこまで理解すれば良い」と終わりを自分で設定できる。
しかしこれまでの説明で分かった通り、「ひらめきのエキサイトメント」を追体験するかどうかと言う点は別問題であることがご理解いただけるであろう。

いわば自分の「ゴール」が分かる問題であればそこまで到達したら下車すれば良いのであるが、ゴールのない問題は途中下車のしようがないのである。
逆に言うと何の目的もなくいくらその「ひらめき」を頭で理解したとしても、そこには何の意味も生じようがない、とも言えよう。(何してんだこの人は?状態)

布石に時間がかかってしまったが、つまり「ひらめき」の本当の本質に迫るためには、どうしても追体験を持って、ひらめいた本人と同じくらいのエネルギーでエキサイトしないと、その本質は分かりないだろう、と言うことである。

ーーー
冷静になって考えると、追体験によって到達できるのは当事者と同じレベルまでであろう。
(100%まで理解できたとしても、の話)

しかし大切なのは、その人は果たしてそれを体得して、そこから何をするのか・したいのかであろう。
(これも数学の理論の理解と比べると分かりやすかろう。例えばフェルマーの最終定理を理解して何をしたいのか?プロの数学者であればいわば一つのステップとしてかもしれない。良い悪いは抜きにして自己満足と言う方もおられよう。知の蓄積とか高尚な名目をお持ちの方もおられるかもしれない。これまた既述だがそれではその知を備えてその人の足はどの地を歩むのか?と言う話である。)
(また、到達できるのは当事者と同じレベルまでと書いたが、追体験者が追体験を通して先駆者のベースと作用させて新しい発想を得る点はまた別の話である。)

ーーー
「ひらめき」のエネルギーが大きければ大きいほど、その真髄に触れるには後追い者も大きなエネルギーを要する訳である。
(※しかし幸いなことに、当事者がまたはそれに続く人々が、そこまで到達できる方法を書いたり、「何らかの方法で」残してくれているので限られた生であっても、望めば最短で同様の真髄まで到達できる仕組みになっているのである。)

また他方で、その深遠さがゆえに色々な切り口でも解説も出てくるであろう。
伸びていった枝であるが、外部要因やまた自己修復作用的にも原点回帰が起きたりするであろう。
深遠であればあるほど、この「枝の展開・発展」と「原点回帰」は何度も繰り返されることになるのであろう。
現代では「何か」が進んで知ったか顔になりつつあるのかもしれないが、実は真髄からはまだまだ程遠く、遙かなる「揺さぶり」の真っ只中にあるのであろう。

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最後に烏滸がましいが、冒頭に書いたブログに書いた通り、真髄は「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢」ではないかと述べた通りである。
この点に立脚して僭越ながら取り敢えず数学上に「不明」と言う考え方を導入してみたので紹介して本論を終えたい。

ーーー
念の為に補足しておくが、題名の「形而上学上の不明点について論争しても意味はない」については以上の通りであるが、勿論推測や考察することは自由であり、また意味のあることである。
どこまでも自分の問題とも言えるのだが、どうしても「与えてくれないと考えられない人」にとっては「一体どっちなんだ?」という溝にどうも陥りやすいようである。どうぞ精進されたし。



2023年9月16日土曜日

宿題について

(ポイントだけ箇条書き)

宿題はやるものである。
言うなれば先生と生徒の約束。
昔は怒られるのが怖くてやってた一面もあるが、それが自然。
現代では平等だか人権だかなんだか知らないが、あやふやになってるのでは?
社会に出て約束の連続であるが、社会に出てから矯正すれば良いという
教育方針なのだろうか?

先生サイドから見ても、ちゃんと約束守る生徒は努力を認めたくなるし、
約束も守らない、人の話も聞いてるんだか聞いてないんだか分からないような
人は、表面的に接するだけになるだろう。
現実の世の中の方がよほどシビアなわけで、学校は平等だか人権だか
に監視されていて、先生も本来の意味での自然的な人間関係を教えられなく
なっており、本当の世の中ではありえないような、つまりいくら約束破っても
構ってもらえるし、いくら話を聞かなくても手取り足取り教えてくれるような
不思議な社会を演出するしかないのである。

逆にいうとそのような適当人間だけになって、まともな社会が構築できるのだろうか?
(学校教育側も「我々の範疇は学校なので、つまり対象は子供なので、その子が
どんな大人になり、それらの大人たちがどんな社会をつくろうが知ったこっちゃありません」
という立場なのだろうか?立派である。
まぁ教育は所謂左の「核心的」ターゲットなので、相当な「アホ化」工作の
影響があって、立つものも立たなくなってしまった歴史もあることは知っているが、
そこを話しだすとまとまらないので、あえて現状を直視しただけの指摘だけしておこう。)

適当人間が作る社会だと、仕事をもらった人は納期は守らないだろうし、
下手すると仕事を出した方も同様に適当なので、いくら遅れようが
「そんなもんだよな」くらいで見過ごしたりするだろう。(全て他人事)
(分かりやすい例だと「いくら電車が止まろうが知ったこっちゃありません」
「いくらビルが崩れようが知ったこっちゃありません」的な世界…)
そういう形で、これまで大切に築き上げてきた社会はほんの数年とかで
いとも簡単にめちゃくちゃに破壊されよう。

これが所謂左の言うところの「ユートピア」らしい。(おめでとう)
なんかどこかの国でも平等だか人権だかの狂信的圧力に屈して伝統を
ぶっ壊して社会を変えたところがあって、しかし得たものは表面的な
平等と人権だけであって、代わりに伝統と「血の通った」人間関係は
失ってしまったと聞く。

失ってからは手遅れで、いざ「約束の成り立たない社会」が出来上がって
生活してみて、いくら不便に思ってみたり、「やはり前の方が良かった」
と後悔したとしても後の祭りである。
しかしそれを「選択」してしまったのであるから仕方あるまい。

ポイント一つ目は、果たしてそんなに愚かで良いのか?と言う単純な問いである。

二つ目は、上記を踏まえて現状を見てみると、構図としては
「まともな人が大切に作ってきた社会の上で、訳の分かってない人が
好き勝手言いたい放題言っている」と言う構図である。

つまり先人たちが大切に築き上げてきた安全で平和で約束が成り立つ
社会という土台の上で生活していて、そのことに気付かず、
享楽にふけり、欲求に従って本能的に生活し、利己のためだけに
突き進み、挙げ句の果てに「世の中が悪い」と言いだす始末である、
ということ。(そんな人たちがのさばれて、挙げ句の果てに
徒党まで組めるのであるから、よほど平和である)
(「気付かず」と書いたが、ちょっとノウタリンで「気付けず」と
書いた方が良かったかもしれない。しかしあちらもノウタリンばかり
ではなく、それこそ「ブレーン」は超絶頭が良くて、ものすごく考えに
考え抜いて、どうすれば「自分が」得をするかを考えている訳であって、
本当のノウタリンはただの駒なのであるが。この辺は長くなるので
既述を参照されたし。(しかしあちらの恐ろしさは、駒を本当に
駒としか使わなくて用済みになると本気で冷徹に捨て去るのであるから
恐ろしい)
そんな集団が顔色一つ変えずに、ましてや善人面を装って、とうとうと
「社会」を語っているのであるから、空恐ろしいものである。
裏を返すと、図示するとこんなにも簡単な構図であるのにも関わらず
世の中の人はやはりあちらに加担する人が一定数出てきてしまうということで、
世の中というのは流されやすいものである。)

しかし所謂あちら側の人たちも、現在は例えるならば仏様の手のひらで
安穏と生活を送れている訳だが、いざ彼らのいう「ユートピア」が実現したら
おそらく左の人であっても99%の人は後悔するのだろうな。
それで一番得をするのはあちらのブレーン(下手すると一人)だけなのである。
(「下手すると一人」というのは、あちらの構造を見てご存知の通り、構造上
どうしても権力闘争して騙しあってトップは一人になるしかないのである。)

そこでようやくあちらの言ってた「世のため」とか「人のため」というのは
ただの言葉だけということが分かって、実際にはあちらの「利己」が目的だった
ということに気付くのである。そして気づいた時にはもう、時すでに遅しで、
首尾よく(こういう時は手際が良い)戻るに戻れない体制を敷くのである。

つまりあちらにしては、社会がぶっ壊れようが、伝統がぶっ壊れようが
どうでもよくて、これも既述ブログで書いた通りだが、あちらの人は
自分の一生だけとかせいぜい数世代くらいしか考えていないので、
魂胆としては「ユートピア化により社会がいくら不便になろうが、
自分が生きてる間は【余熱】で安穏と生きていけるだろうから良いだろう」
くらいであろう。実に立派である。


ということで、宿題をきっかけに考察してみた訳であるが、現代の教育現場の
「適当な」約束関係は「本当」ではないとちゃんと正見して、一方でこれまでの
左的アホ化の影響で現状では「仕方ない」ということも正見して、宿題に
あたっていただければと思う。

ーーーーー
最後に一点だけ、もしかするとあちらの言葉にまんまと乗っかってしまって
「子供のために」と自分が正しいと信じ込んで子供の人権とかに突き進んで
しまっている方がおられるかもしれないが、もしも純粋に子供のためを思うなら
現状の「左的アホ化された教育現場」に子供を放り出している点を問題視して
いただきたいものである。
これこそ本来的人権的には大問題と思うのであるが。
(これまたノウタリンではないので、「そういう考え方には、○○○」みたいな
マニュアルが出来上がっているのだろう…)

また、実際に宿題を「やっている」方(つまり現在の学生さんたち)も、
この点をよく分かって、ある意味現状を俯瞰して対処していただければと思う。
「若いものも捨てたものではない」とか、「最近の若者は冷めてる(クール)」とか
言われるが、おそらく次の世代の聡明な方々は、ここで言ったことも
肌感覚で「あぁ所謂左にまんまとやられて壮大な浪費をしているな」とか
(言葉では言わないけれど)冷静に見つめてるはずであろう。

現在偉そうに幅を利かせている所謂左の人々もいずれ骨董になるであろうから、
次の世代の聡明な方々は何も言わずともそんな歴史上の一時のアホ期間は
ガン無視して「まともな」将来を築いてくれるかもしれない。
(かといって楽観はできないので、多くの先人たちや先生方が日々奮闘している
通り、どんなにくだらなくても真面目に所謂左とは相対しなければならないのであるが。)
(思えば数十年後か数百年後には「20世紀末から21世紀初頭にかけて(約200年くらい?)
左思想が蔓延って、【対話のスタンダード】や【層理論】が確立できてなかった
保守層引いては全世界の「世界をまともに考える層」は、所謂左を一刀両断することも
できずにずるずると200年くらいやりたい放題野放しにしておりました。これを
【左による壮大な浪費の200年】と言います。」とか教科書に書かれることは
明白であり、それを思うとなおさら情けなくなるのである。。。)
※【対話のスタンダード】と【層理論】については既述ブログ参照
※また、陰謀論がお好きな方は、「敢えて左をのさばらせていた」ということも
 考えられ、それについても既述ブログ参照

この構図は、まさに「アホな親の子供は聡明」という図式になってきて、
現代の大人である我々は本当に情けない限りなのではあるが、私は本当に次の世代は
現代の壮大なる左による浪費を見て学んで、現在居を構えて居座っている世代が
いなくなったら、「普通に」まともな社会を再構築するのだろうなと確信するのである。
(居座る人を身近に知ってる方はご存知だと思うが、居座る人はなりふり構わず
居座るので、自分が絶えそうになるとしっかり次の人に継承することも念入りに
仕込むので、簡単に「あの人が絶えたから」という話にはならないのであるが。
ちょっと説明が長くなってしまうので、ここでは話を簡単にして書いたという点は
ご理解いただければと思う。)

なお、「超絶頭の良い」あちらのブレーンは、いざ左思想が頓挫した場合の
自分のみの処し方まで、つまり逃げ方まで考え済である。
(既述の「蜘蛛の子を散らすようにトップから逃げる喜劇」参照。ブログの正しいタイトルは
ちょっと忘れました。。)
選択肢としては、素直に改心するか、または潜伏するかであるが、素直に改心した
場合は許してあげましょう^^
(昔であれば物理的晒し首だったろうが、現代ではこうしてる時点でも
一挙手一投足がデジタルで記録に残る訳であって、あちらに与した方々は
もれなくデジタル情報が未来永劫残るという、現代的晒し首に合う訳であるから
それで十分であろう。。
そういう意味で言うと、現代はデジタル化黎明期であって未来がわかってない訳であるが、
おそらくこれが具体的事例となって将来千年後とかに未来人が「あぁこの人が
壮大な浪費の200年に与した人か」とか言って動画とかSNSで何言ったとか
ものすごく具体的に晒される訳で、その時に如何に【仮想的晒し首】が酷なものであるのかが
具体的に理解されるのであろう。。。(合掌)
(これが所謂抑止力であろう。。))

「超絶頭の良い」ので、表面上だけ改心を装って内面で潜伏する輩も当然
出てくるであろうが、これはつまり「イタチごっこは終わらない」と言う
命題に帰するのであって、その辺はSFとか小説に譲るとしよう。
少なくとも「現代(執筆時点で言えば西暦2023年)で言うところの左思想」では
戦えなくなる訳で、次の戦いが起こるとなれば、それを超えた「層」「レベル」
での戦いとなる訳である。
(先程の仮想的晒し首の話と絡めるならば、将来の社会に馴染めない人が
過去の「壮大な浪費の200年に与した人」とかのアーカイブ全てを見て
手口を変えて真似しようとする、正に模倣犯も出現するのかもしれないが、
これまたSF/小説に譲るとしよう。。
ちなみに模倣犯(宮部みゆきさん)ももはや一般的に使われる言葉に
なったがこうやって言葉が作られていくのだな、と思って感動したものである。)

これまた既述の通りではあるが、見据えるべきは、また考えるべきは、
その所謂左思想が解決された世界である、と言うことは何度も述べてきた
通りである。
思想的にも如何に勿体無い停滞期を過ごさなければならないのか?と言うのが
そこでいう趣旨であった通りである。

「最後に一点」と言っておきながら、一旦端緒を開くと終わらなくなるので
ここら辺にしておくが、話の中に色々出てきてしまったので、過去のブログを
参照しながら考察を進めていただければ幸いである。



左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...