2023年8月9日水曜日

転生とか脳移植について

私が子供の頃は「転生」というのは、ゲームの女神転生くらいでしか聞いたことのない単語であった。(その時分も「女神転生」という固有名詞という認識で、果たして「転生」とはどう言った意味を持つものかということまで深く考えたことはなかったし、同世代を生きてこられた、当時子供だった方々も同じようなものだったと思う。と言うか、一体どう言った意味を「女神転生」というタイトルに込めたのか?と聞けるなら聞いてみたい^^)

大人になってサブカルチャーから離れていたが、どうやら最近(というか結構前から?)は「転生もの」が流行してるらしいことが分かった。
(そして、どうも「生まれ変わり」の別称的に使われていることに、純粋に驚いたものである。みんな広く薄く仏教徒になったのだな!と感銘を受けたものである^^;まぁ昔から今まで日本は広く薄く仏教徒でもあり神道でもある、と言うだけのことでしょうが。)

ということで、せっかくなので転生について書いておこう。
※本記事は色々な分野を駆け巡るので、読まれる方はご注意ください。(多分、ある程度の覚悟を持って読んでいただいた方が良いかもしれません^^;)

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いきなり核心になるのだが、意識とそれを受け持つ体、つまり器はそれこそ「一蓮托生」の関係ということ。

転生シナリオで考えれば、生まれてから受容体(受容器)たる体と共に成長し、「馴染んで」行くので脳が勝手に調整してくれるので問題ないだろう。
よく見るシナリオとか、古代からの生まれ変わりの概念は、この受容器との関係性はとりあえず「うまく整合した」前提で成り立っていることが大半(というかほぼ100%)である。

ここで言うことは、転生・生まれ変わりがもしも「当然」である側からすれば、ものすごく些細な指摘になるかもしれないことを先に述べておくこととしよう。
また別にその点に茶々を入れようとしている訳では無い点も先に述べておこう。

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空想に遊んでいれば何ら問題はないのであるが、ちょっとでも具体に踏み込むと、どうしても問題として出てきてしまうのが、受容器との関係性である。

「無くて七癖」と言われる通り、意識側なのかそれとも受容器側なのか、それともそれらの関係性=縁の問題なのか、更に言うとそれら関係性にも「比重」要因も重なって、その「人」の「癖」になるのであろう。

これをいくらこのまま話を進めても、依然として雲の中を漂うような話になって終わってしまうので、反論的、逆説的な観点から照らしてみようと思うのである。(ショック療法的な考えだろうか?)

前提が長くなってしまったが、私が以前から思考上で遊んでいた、たわいもない戯れと言って仕舞えばそれだけなのであるが、まぁせっかくなので記しておこう。

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無論、現状では、現代科学的に言って仕舞えば「仮説」なのだろうが、「転生」「生まれ変わり」が仮にあったとしよう。(数奇なことに量子論の解釈次第であながち否定もできなくなってきたともいえようか。※但し、いつの時代もそうであるが、こういった新しい分野では科学と非科学が入り乱れるもので、(結果的に)神秘論者的な話も入り乱れるので注意は必要である。)

その手の届かない空想・仮説に何とか光を当てられる、現世上で具体的に考えることができる事柄として脳移植があるのではないだろうかと思った訳である。

倫理とか道徳とかの話に勿論なるのであるが、一旦論を進めよう。(そして最終的には転生とか生まれ変わりもその点に収束していく訳であるが、それはおいおい分かるだろう。)

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まずは、仮に脳移植が実現できたとして考察しよう。
脳といっても、どこまでを脳とするのか、それこそ神経とか血管は人それぞれで、脳のどこと受容器(体)のどこを結べば「移植」と言えるのか、と言うとことん具体的な話になっていくのであるが、である。
脳近辺だけで見ても、耳との関係は?鼻は?目は?舌は?体全体とは?となってくる訳である。

ここではそれらの問題点が解決されたとして話を進めるのである。
つまり受容器の受容器官からの情報は、意識器(脳または心。後述)に「正しく」伝えられる状態を仮説するのである。

めでたく、そこまでの状態になったとして、麻酔から覚めたこの「人」は一体どうなるであろうか?
結論だけ述べるが、考察するに、ほとんどのケースでは、この「人」の「意識器」はあまりの受容器の変化についていけず、言うなれば錯乱状態に「常に」陥り、結局として「中有」に帰って(行って?)しまうのではないかと思われるのである。

例えば歯並びは自分で長年親しんできて意識器も慣れ親しんできたからいいものの、最初に述べたようにそれらがいわば「七癖」ともいえる訳であるが、本ケースでは他人の癖が直球として自分の感覚に常に投げ掛けられるのである。
自分でも「気にならない」ことにしてるのかもしれないが、一旦意識すれば気になり出すものであって、そこに陥ると当分その点に囚われてしまうのである。(もしもこれを読んで、これまで気にしてなかった点・やっと気にしなくて済むようになったを、気にし始めてしまったらごめんなさい^^;(と言う意味で本考察はかなり覚悟を読んでください、と言う意味であった。ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読み進めてこられたと思うので問題はないと思うのだが。))

自分では気にならない、と言うか意識器たる「私」が勝手に「気にしないことにした」ともいえよう。
脳移植とは、それが昨日と今日で完全リセットされるとも言えるだろう。
歯並びだけ言ってしまったが、無論それも一つの執着ポイントにはなってくるのだが、例えば、以前の受容器では「痛み」でなかったポイントも新しい受容器では新しい「痛み」として感受されてくるであろう。(逆に言うと他人からすれば「痛み」であるはずなのに、当人には「痛み」ではなくなるのであるから意識器(脳)とはすごいものである。)
(おおよそテレビでしょっちゅう出てきるみなさんの悩みポイント(腰とか首とかあごとか膝とか目とか耳とか…あぁキリがない^^)がそのまま新しい宿主の「何じゃこれは?」と言う「痛み」とか「気になる感覚」になってくるのであろう。)

想像を逞しくしていただきたいのは、それらが「常に」「嫌でも」意識器たる「脳」に入ってくる、と言うことである!

(映画マトリックスで「ネオ」は「目覚めた」後に錯乱してしまったが、おそらくそれを遥かに超える錯乱状態であろう^^; 幸いそこまでにならなかったとしても、最初の例えで言えば歯並びだけは気になって、最初のうちは舌で歯をチェックしまくって舌が筋肉痛になるくらい動かしまくるだろう。そして一旦「しょうがない」と見切りをつけたつもりでも思い出した頃に再度同じチェックをし始める。。と言うことを繰り返して見事にその人の「癖」になる訳である(めでたしめでたし^^;) こう言うことは正に執着するかしないか的な話に昇華されるのであるが、つまり自分との戦いなのであるが、外部要因で呼び起こされてしまうことも、またあり得ると言うことである。(なので繰り返しになってしまって申し訳ないが、本考察はかなりの覚悟を持ってないと読まない方が良いと言った次第である。これも一応繰り返しになるが、ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読んでこられたと思うので問題はないと思うが。 更に付け加えておくと、その点はあくまで自己の問題であって、本論からすると些細な点ということである。主旨としては古典的なアートマンの実在性や、現代的な量子論的な「非局在性」であって、むしろそちらで天地がひっくり返る、という意味での警告である。))

(なお、「常に許容量を超える外部要因が、抗いようもなくなだれ込んでくる」という点については現代的脳科学の話でも扱えるだろうが、人は防衛本能としてあまりにも耐えられない状況になると逃避する機能が発現されるのである。生物として本体(受容器)が死滅するよりはマシですからね。。あるいは本体側が持ち堪えられなくて心停止するか。)
(そもそも誰も知らないかも知れないが、例えば細胞も生きるのに一生懸命なのであって、それをたまたま仮の住まいとして居候しているだけである。(※少し大袈裟に「誰も知らない」と書きましたが、これまで真理を知られた方はもちろんお気付きの点。)
所謂意識器が勝手に主人と思うこと自体がものすごくおこがましいのであって、例えば「生を受けて世の中で何でこんなに私だけ大変な目に遭わなければならないのか?」ということを、先ずは何も愚痴も言わず健気に頑張っている人に問うべきであろう。「表裏一体」とか「気づいてないだけ」とか詩人的にこれまで数多言葉が尽くされてきたはずなのであるが、それも結局「受ける側」が受けなければ何の意味もないということであろう。)
(敢えて裏を返すのだが、(それも何かの気付きになれば)、如何なる生であったとしても、生を受けた時点において、漏れなく気付かずに意識器と受容器の関係性だけにおいても、例え意識器側が「虐げられるばかりだ」と思っていたとしても、意識器側は厳然たる「支配者」側なのである、ということ。
※うーむ、「厳然たる支配者」と言ってる時点ですでに意識器側が主体に傾いてしまっている。難しい。。)

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途中で述べた通り、勿論最初に倫理問題、道徳問題を超えた上での話なのであるが、実際にやってみて中有に帰る/行ってしまっては意味のないことであって、それではこれは、受検者の「許容度」の高さや適応能力の問題になってくるのか?的な話になってくる訳である。
(恐ろしい話であるが、それだけのためだけに、つまり統計を取るためだけに「実験」はしてほしくないものである。利己主義(いわゆる左)の独裁国家とかだともしかすると既にやってそう?恐ろしや。。)

哲学とかでも出てくるが、いくら目玉だとか手とか足とか頭をより合わせてくっつけても「人」になるのか?と言う話。逆に言うと人の実在(アートマン)はどこにあるのか?目玉なのか?手なのか?足なのか?脳なのか?心なのか?と言う話である。

紙とペンだけで生み出された最終最大の理論は相対性理論とか言われたりするが、「人」の実在・実態の非局在性について、はるか2,500年前にそれこそ「瞑想」だけで導いた訳であるからよほどすごいことである。
現代ではどうしても仏教という宗教としての側面でしか見られないのであるが、ブッダがそこに至った考え方の原点は、神はいるのか?とかアートマンはあるかないか?とか、いわゆる形而上学上の不明点について論争しても意味のないことであって、分からないものは分からないものとして認め、その上で如何に人として生きるのか?という点であろう。人に対する姿勢であり、哲学(宗教)に対する姿勢であり、また科学に対する一番真摯な姿勢と思うのである。
(私的には四諦よりもより深い根本原理だと思う。四諦もまたこの根本原理から生じたとも言えよう。もしもこれを提唱したのが私が最初のなのであればラッキー^^✌️)

仏典でもアートマンの話については車で例えられてるので、ここでも車に例えるとしよう。
車を作ると言って、いくら車輪やシャフトや車体やシートを持ってきて接着剤でくっつけたとしても車とは言えず、それらを意味ある状態で組み合わせて初めて車として成り立つのである。
人であれば目とか耳とか体とかの感覚器官(および生命維持するための体)が意味ある状態、つまり有機的に組み合わさって、初めて生命を持った人として成立するのである。(縁ですね。)
そして今回の問題提起の通り、それを受容器と呼ぶならば、そこに意識器も有機的に結びついて本当の人と言えるだろう、ということである。

車は全体を捉えて車と捉えることと同様に、人は全体を捉えて人と捉えられるのである。
車の実体はどこだと言って細部を探っても車のアートマンが存在しないのと同様に、人のアートマンを探そうと細部を探し出すと、途端に人の実体は捉えられなくなるのである。
ちょうど「心はどこにあるのか?脳なのか?心臓なのか?」という現代科学に似ている。
(宗教サイドで言うと魂とかになってきますね。)

今回の問題提起では、「思考するための最重要器官」たる脳を移植することでどうなるか考察してみた。脳は勿論情報処理する上で欠かせない器官なのであるが、また同時に一つの受容器とも言えるのである。
例えば本ブログを書いてて、上記の「今回の問題提起では」の箇所を記載しようとした時、頭を働かせながら文章を生み出していることは分かるのだが、それはこれまで生きてきた私の脳が情報機関として勝手に「自分」だと認識して「自分はこの文章を書こう」と思っているのか?と言う問いである。自発性とか主体性というのも単なる脳の情報処理の結果なのだろうか?
もしそうならスーパーAIが完成したら自発的、主体的に活動していくだろう、という点は多くのSFや頭のいい人の話の通りである。(現状では流石に政治までは行ってないですが、このままの勢いだとものすごくすぐに話が出てきそうですね。)

切り口を変えよう。脳移植ができると仮定して考察したが、それでは、右脳だけとか左脳だけ移植したらどうなるのだろうか?(仮定したとおりこれも技術が進歩してできるものとして考える。)
本体側がAさん、脳を移したい人がBさんだとしたら、半A半Bさんが完成するのか?

そしたら先ほどの例で言うと、「文章を書こう」とする主体は一体どちらの主体性なのか?
その人の「意識」も多重人格的になるのか?それともAさんとBさんを足して2で割ったような人格になるのか?(最初の考察の通り、まずは脳移植の環境適用できた前提)
(脱線するが、多重人格者のケースを考えると一人の受容器たる人の中に複数の「意識」が入ることもあるのだな、と思った。重ね合わさったような状態だろうか?
また、今まさに「自分」だと思っている「自分」も意外と色々と足して割って出来てるかもしれないと思った。
そもそも「自分は自分だ」「自分が【今ここに意識を持って存在している】のは自分しかいない」と言うことも、もしかするとおこがましいものなのかも知れず、自分で勝手にそのように思い込んでるだけかも知れない。
ただし注意点としては、初心者は「では自分は自分では無いかも知れない」と本気で思い込んでしまうと、今度は下手すると自分を保てずに精神崩壊してしまうので、初心者はあまりこの点には首を突っ込まない方が良いかも知れない^^;
脱線終了)

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最初に述べた通り、これはあくまで思考実験である。
むしろ主眼は量子論上の「非局在性」とも言える。
本論は、その点を考察する上での「後ろ側から光を当てる」と言うだけの考察である。

十分注意の上、考察いただければ幸いである。
また、これを受けて量子論的な非局在性についての再考察上の手助けになれば幸いである。

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