三上章先生の「象は鼻が長い」を元にして、英語に逆輸入した場合は「Elephant Nose Long」である。
つまり「象は」が題目、これから話す話題の宣言であり、「鼻が」が話題の焦点を当てていると言うことを踏まえてのこと。しかし「Elephant Nose Long」を言語学的に云々するには若干色々なことを飛び越しすぎかもしれない。
言い方を変えて、「象は鼻が長い」と言う日本語的特徴を保持したままでも英語でも表現可能ですよ、と言うことである。
それが「Elephant Nose Long」なのであるが、むしろ大切なポイントとなるのは聞く人との関係となってくる。
つまり最初に「Elephant」と発声する時は聞き手の目を見て、声も若干大きめに注意を促すようにして言う必要がある。1秒とか間を空けて聞き手がちゃんと注意を引いたか、これから何について話をしようとしているのか理解してくれようとしているかを話者はちゃんと認識をする必要がある。
その後に「Nose Long」と続ければ、「あぁなるほど【象は鼻が長い】と言うことか!」とコミュニケーションが成立するのである。
これは「言語学ではない、ただの現実世界での超一般化した、単にその時発せられた言葉の問題である」とか言われるかもしれないが、確かに所謂文法や構造的な分解をするだけではElephantとNoseとLongはそれぞれ独立して発せられたただの三語と言うことになってしまうかもしれない。
しかし最先端の言語学では、(そういった文法的な点はもちろんベースとなってではあるが)むしろ相手がいて、その対象との「コミュニケーション」と言う階層まで含んだものとなりつつある通りである。よって実際上はただの三語というわけではなくて、英語であってもちゃんと意味の通った「言語」表現となり得るのである。(核心はこの辺だろうか?)
現在はちゃんとした表現方法はないものの、ちょっとでも感じを出すのであれば、
「Elephant, Nose Long」とか
「Elephant! Nose Long!」とかであろうか^^;
日本語的な「題目+焦点」構造及び簡潔性を保ちつつ英語で表現できていることに驚嘆するであろう。
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これまた「言語学ではなくて一般コミュニケーション論だ」とか、「単に英語を使っただけの新しい言語を作り出しただけだ」と思われるかもしれないが、言いたい点としては、より高次の層でなされるコミュニケーションの方に立脚して言語学も見た方が良いという点である。
それはつまり相手との関係性なのである。
それこそ主題が共通認識できているのであれば「Elephant」という言葉を発生する必要さえないのである。目を合わせるだけで100%完璧に意思疎通が可能なのである。
例えればサッカーをしてるとして、彼らは「相手のゴールにボールを入れる」という共通認識があり「こっちにボールをもらえれば相手の裏をかいてゴールのチャンスがあるよ」「わかった」というアイコンタクトが成立するのである。
これも立派な言語である。
さらに言えばそもそも「言語」というのは発声と聴覚が便利だったというだけであって、別に人間も例えば匂いがコントロールできるのであれば、匂いを使った言語(コミュニケーション)でも良かったわけである。それとか例えば体の「ここ」を触ったら「何々ですよ」、そっちを触ったら「これこれですよ」、組み合わせれば「これがこうしましたよ」と言った触覚を使った言語も作成可能である。
「言語」という言葉自体が、人類の発声+聴覚を使ったものであるため言語=コミュニケーションツール的な使われ方がしているのであるが、高次的に見ればコミュニケーションをするためのものはすべて言語なのである。(それとも「言語」の方を変えましょうか?個人的には「言語」の方が人間的で伝統を保ったままで良いかとは思うが。)
※ちなみに言語的には自動補完的な機能があって、「Elephant Nose Long」であれば「Elephant ('s) Nose (is) Long」のように「補完を期待しているだけだ」とも言われるかもしれない。確かにそういう見方をしてしまうと、どんどんそっちだけに頭が持って行ってしまわれるかもしれないが、今回の話題はそう言った文法的正確性についてではない。
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この、一見「英語がほとんど喋れない日本人が発したカタコト英語」っぽい表現であり、日本人がアメリカ人に説明してるようなシーンが浮かんでくるのであるが、実は下手に文法を入れ込むよりも相手の言いたいことは直感的&正確に、かつ感情とかある種のリアリティさまで伴って相手には伝わるものなのである。(それこそ嗅覚とか、声の大きさ、つまり触覚的聴覚とでもいうのか知らないけど、そう言った五感の総合を伴ったもの。)
(むしろ小さい子供にさえ正確に伝わる。)
(また、英語社会でも「文法不成立会話」までちゃんと調べていけば、意外と「和的」な題目+焦点言語が(公式ではないにしても)肌感覚レベルでは使われているということが「発見」されるのであろう。)
それら全体を捉えるのが言語学の本来である。
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