事実にまさる証拠なし。
よってこれを何者にも侵されないこととしてここに機構を表す。
つまり現存の冤罪は自動的に消滅する。
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難しい定義は以上として、求むるは以下。
数々の浪費戦が繰り広げられてるが、いくら口を大きくして
言っても事実は変わらない。現状は下手をしたら口の大きいほうが
事実を塗りつぶしてしまう事例が発生し得、してしまうという
取り返しの付かないことが起きてしまっている。
(標榜者が源だが、それを追認したものの、追認してしまった
ものの余生後世がただ哀しい。)
それを事実のもとに戻すのにいくばくばかりの疲労を要するか。
つまり唯の事実を、これ表さんとするがのみであるのに、
幾人、幾数十人、幾数千万人の労働を費やしていることか。
仕掛けた側の余程の暇人度にあっけにとられ、願わくば文字を読める
健常者であってほしいと願う(過去ブログ参照)とともに、
それを修復するために多忙な知識人が幾ばくばかりの労働を
費やさざるを得なかったか。
これ正にせっかくの安定という蓄積をただ阿呆のために
宇宙に水をまいて金をドブに捨てるが如しと認識せざるを得ない。
と、わずか数センチ俯瞰しただけの認識を持たぬということに
やはりお釈迦様も最初は匙を投げたいのであった。
しかし私はあきらめない。
事実であるが以上、言い逃れができない機構をここに表する。
阿呆がこれだけ肥えるが以上、必然ともいうべき、壁に耳あり
障子に目あり、「神様が見ているぞ」ということを自動化するのである。
(見方によっては嫌な世の中になったものだ。歴史を整理すれば
必然であることが分かるだけだが。)
無益な浪費が、またそれをいいことに利用する、または
無意識のうちに利用させられてしまっている、哀しき者の
救済である。
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