2018年1月21日日曜日

時代を感じることなく参照される時代

今回はちょっと視点を変えて。

文化と芸術と並べたときの芸術についてだが、
音楽しかり映像しかり、特にデジタル化によって
ありのままを半永久的に保存できるようになり、
例えば数百年後、数千年後に現代のYouTubeが
将来人に見られることになる。
無論現代は芸術のさらなる発展も続く過渡期なので
実感はないかもしれないが、いずれそれら数百年、
数千年を経て将来人が鑑賞しても古臭さもなく
見られる状態になるのではないだろうか。という命題。

現代はまだまだ星のごとくやらなければならないことが
散在しているある意味幸せな時代だが、いずれ
上記の通り100年だか千年だかを気にしなくても
参照される時代になったら、それら芸術は飽和すると
予測される。ということ。

このブログも現代では数多ブログの中の貧弱な記事として
かろうじて残るのかもしれないが、例えば「この視点で
論じられたのはこれこれのブログが発祥である」と
AIなどで自動判定されることになる。
(今のせちがない世の中なのでこのアイデアはここが
起点と自分で記しておく。上記の通りそのうち、ネットが
勝手に保証してくれる時代が来ようが、まだ現代ではそこが
危ういので。これに関連する特許を取ろうとする方も、
この通りグログで既出アイデアなので特許は取らないように。
(現状の詳細は知らないが、おそらく特許庁が舵をとって
世の中のブログやSNSをAIなどに自動操作させて既出アイデアか
未出かを判定する仕組みができていくのであろう)。少なくとも
これを足がかりにしたのであれば、出処を明確にしてくれれば
それで良い。)

今後、時代を経るに従い芸術の技術は無論向上していく。
しかしこれを執筆している時点から過去のものを見たときに
感じる、(突き詰めるとそれは単なる技術的な側面と
分かるのだが、)古臭さというのは、いずれなくなるの
だろうと思う。


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