2022年8月25日木曜日

はいという素直な心

今回はざっくばらんな話。

何についてかというと、人についてということ。

何かの言葉に「はい、という素直な心」というものがある。
子を持たれた方であれば、なお一層つくづくその通りだなと思われるのではないだろうか。

「子を思う気持ちは、どんな親でも一緒」などと言われる通り、我が子には立派になって欲しいとか、少なくとも「曲らないで」育ってほしいと思うものであろう。
※下手をすると現代においては「曲がってもいい」「曲がるべきだ」と確信犯的な親までいたりする始末であるが、その辺はむしろ既述のあちらの構造理解をすればいいだけの話。哀しくもそちら側に毒されてしまった親御さんは、「自分は毒されてたのだ」と気付けばいいだけの話。今日はそちらの話ではない。

よく例えられるように子供ひいては人とは植物のようなもので、または人類の叡智による「三つ子の魂百まで」という諺の通り、根っこや初期に伸びた茎はとても重要なのである。
だからこそ親は心血を注ぎ、自ら休むこともせずに我が子の成長を見守るのである。
裏を返すと「本能」と言ってしまうと単純すぎるのであるが、我が子を持って(以て)親たらしめられる、ということであろう。(親の自覚)
(確かにここで外部からアクセスされてしまうと大切な根幹(まさに根と茎ですね)がぐにゃぐにゃになってしまう。下手をすると、えげつない極みであるが、あちらも馬鹿ではないのでそこを集中工作している感さえある。(今回はこの話でないと言っておきながら、どうもそちらの話になって申し訳ない。美しい話でまとめても良いのであるが、それだと実態が伴わないので、どうしても現代の病巣を考察せざるを得ないのである。))

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ちょっとだけ具体に踏み込むと、現代において果たして真っ直ぐな話をできる人は身の回りにどれだけいるのだろうか?という点。
見聞して驚いたのだが、実際に10歳にも満たない子供でも平気に友達を騙くらかして、彼からしたら「世間知らずの」友達からおもちゃを「合法的に」取ったり(これも彼らの論理というか倫理観からは「合法」と思っているのだろう)、それについて何ら悪気もない人までいたりするのである。(ここまで行くと子供ではなくて既に立派な人であろう)※1

これは一体どうなっているのであろうか?

想像はいくらでもできるのであるが、これが現実と受け取らなければなるまい。
そして、むしろあちらの人(あちらの影響下に育った子供)は、そういう境遇でとても可哀想なのであるが、幼くして早くも反面教師として受け取らざるをえまい、ということ。
(これくらい具体的に筋道つけて、論理立てて説明すれば分かってくれる人が大半であるが、これまた恐ろしいことであるが、あちらに焚き付けられて自分の非を認めない、認めないことだけが目的だ、という方もおられるのである。
また、もしも子供の人権を高らかに言ってる暇があるのであれば、この通り「毒されている」子供を真っ先に深く考えなければなるまい。「三つ子の魂百まで」という通り、また後述の通り、小さい時に心根が曲がっていると大人になっても、やはり毒を撒き散らす人になってしまうのである。更に言うと、その人に子孫ができたとしても、やはり同じ毒を吹き込むことになるのであろう。(しかし人はいつ・どこからでも変われると言われる通り、「改心」すれば寧ろ完全理解者として真っ当になれる訳で、時々美談としても出てくるのであるが、今回はそこまでは議論に含めない。))

いわば、現代の子供たちは一度外界に飛び出すと、激流が待ち受けているようなものである。そこで切磋琢磨しなければならないのであるから現代の子供たちは大変である。
以前書いた通り、現代においては環境要因で宿命を負う人は少なくなったはずで、むしろ宿命は人が自ら作り出しているのである、と書いたが、まさにその通りということであろう。(そう言うことだと、最初に書いた「環境要因」と言うのは「自然要因」と言ったほうが良いかも知れない。)
であれば、なおさら揺るがない素直な心の醸成が必要であろう。またもし見つかるのであれば真っ直ぐに話をできる人ができてくれれば幸いである。

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もう少し大局的に見るとどうか。
結局組織は個々構成要素(構成要員)の集合であって、例えば根本がぐらついているもの同士が寄り集まって果たして真っ当な、真っ直ぐなものが出来上がるのか?ということ。
これを危機と捉えるのであれば何かしなければなるまい。(現状を見るにつけ、下手すると大半が「そんなの自分には関係ない」とか言い出しそうであるが。)

皆さんご存知の通り、役所のお仕事は素晴らしいもので本当に親身になって相談に乗ってくれるのである。役所に限らないのだが、一言で言うと「日本を良くしよう」という、(ものすごく当然のことなのであるが。付け加えると、政治をものともせず、と言うか^^政治家よりもよほど足が地に着いている)人々がいらっしゃり、実際に現場で実践してくださっているのであるが、それを少なくとも下支えしなければなるまい、と言うこと。
※財務官僚についてはまた別観点での考察が必要だろうが^^

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またしてもあちらの話になってしまって申し訳ないが、あちらはいいどこ取りする(だけな)ので、数さえ勝ればいいと思っている節があるが、ではこちらも揺るがない根幹を持った人がいれば良い訳である。
少なくとも現場は、現代の正攻法たる数の論理でやってくるので、「日本を良くしよう」と言うベクトルが基底にあるのだとすれば、数の論理の手助けが必要であろう、と言うこと。
(表には出てこないが、もしも「日本を悪くしよう、馬鹿国家にしよう」と言う輩だらけであれば残念であるが。ただしそれも「表層」であろう、と言うこと。またもしもあちらに毒されていて「それが総意だ」と幻覚を見ているのであれば「早く目を覚ましてね」と言うだけのこと。まぁ罠は巧みなので、そうそう「自分を見つめ直す」時間は与えてくれないだろうが。あなおそろし。)

つまり結論すると、日本を良くしようと思っている現場を救いましょうと言うこと。
家庭であれば、我が子を目に入れても痛くないくらい愛情を注ぎましょうと言うこと。
(現代においては付け加えると「加担即悪」を心がけましょう、と言ったところかと。。「加担即悪」も既述の通り)

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※1 そういえば私も小学一年生か二年生の頃こんなことがあった。同級生と放課後か休日に遊んだのだが、その人の家に行きその人は親から遊ぶために千円をもらっていた。最初はその人の家で遊んでいたが、その後近所の駄菓子屋へ行った。その人が私に好きなの選んでいいよというので、私は申し訳なく思いつつも2、3個選んだものだろう。ありがとうとか言って駄菓子を食べたりして遊んでいた。
しかしその日の夜か次の日の夜とかに、その人の親から電話があったか直接家に来たかで、何とその人は私がその人をそそのかして「その千円使おうぜ」みたいな筋書きのことを言い出したのである。
私は突然の不意打ちに対して、小学1、2年生だったため泣くしかなく「そんなこと言ってない」と反論するだけしかできなかった。結局私の親はその人と親に謝罪して千円を返金しその件は終了した。
当時であっても10歳にも満たなくても「どうしようないもの」はいた訳であり、これはどこまで過去に遡ってもそういう輩は存在していたのであろう。
この件の考察ポイントは以下であろう。
①私がそそのかした筋書きにしたのは、その人の意志によるものか、または外部か。
②百歩譲って私がそそのかした事として、その人の親はその人からそう言った報告を受けてどのように対処したのか。

過去のことであり、済んだことなので事細かに追求はしないが(しかし私は当時子供なりにも、かなり自分の中で理論的には完全勝利できるくらい突き詰めて考えたりはしたが)、世間を知っている人であれば「あぁそういうことね」とご理解いただけるであろう。(それとも「世渡り上手」な人たちばかりである現代においては、むしろ取り敢えずあちらの肩を持っておく人の方が多い?)

この一件に限らないのだが、こう言ったことを通して一つ気づいたことがある。(これもお陰様といえばお陰様。誠に有り難い事である。)
こういう性質を持った人の特徴として、学校行事とか保護者活動において、その人の「親の顔」が全然見えない、ということである。
インテリぶって「お前たち下級市民と交流などできるか」とでも思っているのか、または数々の工作活動への後ろめたさなのか知らないが(まぁやってることの厚顔ぶりからして後者は可能性は低いが、どこか深層心理領域で何かしら影響しているかもしれないという意味において)、学校生活を通してその人の親だけ、どういった性格とか分類の親か全く分からずじまいだった。

ちなみに、この人は中学校卒業まで一緒だったのだが、中学校ではその人のグループがあり(もちろん「ワル目」の)、その人がトップ的存在だった。しばらくはみんな仲良くやっているのだが、ある日突然その人のグループの一人をシカトしてグループから外すということを中学校生活を通して2〜3人やっていた。
おそらくその人の「気に入らないやつ」は、その人としてはどうしても「排除」するしかなく、一旦その気になると完遂するまでは誰が何を言っても止められない人なのだろう。
私の件も彼の意のままであったし、小さい頃から「自分の意志通りに世の中従ってきた」とでも思っているのだろう。実に平和である。

私の一件に戻ると、元あった千円で駄菓子を買って私と半分づつ使ったとすれば、その人は正味500円得したことになるが、何ともみみっちい話ではないか。どうぞ皆から500円ずつかすめ取って生きて行けばよろしい。
恐らくそういうことではなくて、その人はどうも罠を作って罠にはめて、それを以て自分の快楽を満たしていたのではないだろうか。いずれにしても器の小さい話である。
ちょっとだけ踏み込むと、自己承認欲求から来るものだろう。親から物質的なものは与えられいたのだろうが、肝心の愛情はどうだったのか?と言うこと。見方によっては当時の「純粋な」私から、私を利用して、それを得ようとしていた訳で、何とも可哀想な人ではないか。(これは無意識かも知れないが、その人も「純粋なもの」と一緒にいると何かしらの「安心」を感じていたのだろう。しかし彼の「素地」として、どうしても悪巧みをしてしまう事に抗えなかったのであろう。)

また親サイドから見るとどうか。こんなわがままボーヤは成長するにつけてどんどん手が付けられなくなっていくだろう。(子供サイドとしても「これまで僕/私のことを見向きもせず何も言わなかったのに、後になって色々指図してくるとは何事か」と言うことだろう。)
親は我が子に「今まで物質的に満たしてあげてたではないか」とでも臆面もなく言うのであろうか?(下手すると言うことを聞かせるために子供に「貢ぐ」構図。)成人するまでは何とかそれで成り立つかも知れないが、成人後は2択になりそうである。一方は親から離れていって、寧ろ親を疎む方向。他方は親が子供を力などによって精神的に完全コントロールする方向。何れにしても子供側の見えない反発は透けて見えている。
最終的に子供が思い通りに従わず「何故子供は言うことを聞かないんだ」と思っても後の祭りということ。
・「三つ子の魂百まで」という言葉を知らなかったのか?聞いたことはあるけど字面を眺めただけだったのか。
・本当に子供がまっすぐ育つように思ってきたのか。心血を注いできたのか、とまではいかないまでにしても、少なくとも行動が伴っていたのか。
※確信犯は、「しめしめ立派な悪が育ったな」とでも言って一人寂しく去っていくのだろうか?(それはそれで悪としては潔いけど。とは言っても元々が曲がった話であって、世間を履き違えているので、暴走老人として第二の人生を歩みそうではあるが。)

後の祭りと言ってはそこまでなのだが、もしも反省する気持ちが残っているのであれば、論理立てて振り返って頂きたい。
人それぞれ人生を通して、子供を持つまで色々経験しているはずなのであるが、どこか「子育ては別物」と考えてしまっていた人もいるかも知れないが、例えばアニメやドラマでも何でも良いのだが、事を成し遂げるベースにあるのは「信頼」であって、信頼が確立した同士であれば、アイコンタクトなり「分かるな?」の一言で以心伝心できるものなのである。
その最たる相手が我が子であろう、ということ。最も心が通じ合っていなければならないし、また最も心が通じ合える関係を結べる・結びやすいものが我が子であろう、という事。
我が子をただの「物質」としか捉えられないのでは勿体あるまい。

「自分も親からそうされてきたから我が子にもそうした」という事は哀しい事であるが、それもいつかどこかで断ち切らねばなるまい。(子供であっても理不尽な仕打ちや矛盾した仕打ちについて理由を考え、「大人という力を持った存在に成長すれば、今度は自分が力を振るって良い。加えて周りの大人含めてその点を理解できる人はいない。よって誰にも分かってもらえなくて良いから、大人になるまで辛抱しよう」とか考えてしまう人もおられるだろう。※絶対に「親が悪い」とは考えないのであるからなんとけなげであり、逆にいうと仕打ちを与える側の親はその点について一瞬でも思いを馳せたことはあるのだろうか?)

負の連鎖であり、親の親はどうだったのか?その親は?と考えるととても長い連鎖になっていよう。しかし一旦それが「良くないこと」と「知る」ことができたのであれば万々歳であるし、その負の連鎖が断ち切れるのであれば一生ものの仕事をしたと言えるのではないだろうか。(一生ものというか「数世代」ものの仕事)
断ち切るとは、自分の子供には上記のような負の側面を引き継がない、と言うことである。親から負の側面を引き継がれている方は、ある意味本能レベルで骨身に染み付いてしまっているであろうから、なかなか大変かと思う。いわば自分の中には我が子と信頼関係を築くための判断基準がない訳であるから、最初は寧ろ違和感ばかりであろう。しかし、負を引き継げば結果はもう見通せる・見通す力は備わっている訳で、それを原点にして、どうしたら良いか分からなくなった場合はその原点に立ち返って一歩一歩前進していければ良いのではないだろうか。

ここまでくると自ずから分かると思うが、我が子と信頼関係の上に立って意思疎通もできないのに、どうして言う事を聞かせることができようか、と唯それだけのことである。
(自分で水を差してしまうが、どうもこの辺にもあちら側に通じるものがある。つまり自分の主義・主張に対して従わない奴は高圧的に、相手の意見を聞かず、ひたすら自分の意見だけを大声で叫んで、最後は暴力をちらつかせたり、実際に行使したり、と言うことである。。恐ろしい。。)

念のために付け足すが、(付け足さずとももうここまで分かれば自然に理解できると思うが、)どうも人を騙くらかしたり悪事をした人というのは何かに怯えている、ということ。何かということは自分であり、それこそ本性としての良心であろう。簡単にいうと、まぁそういう人たちは自分のやった事を振り返らない。
自分が正しいのだ、自分は間違っていないと自分自身に言い聞かせるために常に怒っているのである。(裏を返すと、その人の「精神的平衡」を保つためにやっている訳で、これまた哀しい人である。)
(なお、この辺も既述の「常に怒っている方が楽である」に結びついてくる。)
更にいうと、そういう人は「あなたの心の強さと度胸が必要です」とか言われて、まんまとあちら側にリクルートされたりするのであろう。

本人とその親は気づいてないだろうが、彼らからひどい仕打ちを受けた人は当然として、周りのたくさんの人たちが巻き込まれているのである。ひどい仕打ちを受けた人は怒りかも知れないし、恨みとしてかも知れない。(思えば彼らは仕打ちをした人々から一生恨まれることを承諾しているようなものなので大変だ。)
直接的な仕打ちは受けていない周りの人も、最初は温かくなじめないか努力するだろうが、手が付けられないとなると匙を投げるかも知れないが、少なくともそう言った気遣いを「させて」いる訳だし、世間話的にも「なんであの人はああなんだろう」と多くの人の目に見えない集団生活する生物の本能的な「何とか理解しよう」というエネルギーを「使わさせて」いるのである。

ちょっとだけ俯瞰的に見ると、それらは本来は親がするべき事であるはずなのに、なぜか周りの人がやってあげているという構図である。しかも仕打ちを与えた人さえも、その人からしたら、その人を救い出す側の人なのである。
これくらい明確なのだが、本人に言葉だけ、つまり「物質的」に言っても聞く耳は持たない。改心しない限りは。
よく、改心した方々の話を見聞すると、もちろん自力で改心された方もいらっしゃるが、多くは「親身になって」話を聞いてくれる人、それこそ「真っ直ぐに」話を聞いてくれる人がいて間違いを諭され、改善していったという話が多い。
「親身になって」とは正しく親みたいに、親代わりとなって、その人のために、その人を案じて話をきてあげるという事だろう。

曲がってしまった人たちは、哀しいかな「物質的」親はいたのかも知れないが、精神的な親がいなかった結果とも言える。
そして社会の有機的な作用、これもまた人類の叡智とか自然の包容力なのだと思うが、社会の作用・仕組みとして、そういった「はぐれた人」は包み込む包容力が元来からあるのである。(社会的自浄作用/集団的自浄作用。既述「寧ろ日本は昔からマイノリティに優しかった」参照)
(これまた、あちらの話になるが、これを履き違えて、というかわざと誤認して「少数意見を無視するな」とか言っているのである。ましてや、あろうことか本当のマイノリティを焚きつけて徒党を組ませて、日本を攻撃させている始末である。(ちなみに用済みになると簡単に捨てられる。なんとマイノリティに優しいことだろう。))

ーーー
話を戻すと、私としては小学校1、2年という初期に悪縁を断ち切れてむしろラッキーであった。私としてはあの件で気狂いみたいに泣き喚いて一石を投じる事ができたので、それで良かったと思う。(中学校卒業までは、というかその後大人になって風の噂で聞いても相変わらずのようなので今でも、改心はしてなさそうであるが、「自分の意志を通すために他人の意志を踏みにじると、その人は発狂したように抵抗する」という点について、「なぜだろう」と死ぬ直前でも良いので考えてくれれば幸いであり、それこそがその人にとっての救済なのであろう。)

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私は気づいているが、世の中のいじめ問題とか学級崩壊問題とかあるが、根本は家庭教育であろう。
しかしマスコミは、これだけ毎回懲りずにニュースにしているのにも関わらず、なぜその一点に気づかないのであろうか?
お偉い学者さんとかお招きしてコメントしてもらっているのではないか?しかし個人主義なのか都合の良いプライバシーなのか何なのか知らないが、「その人」にしか着眼しない。(ここまで行くと「敢えて目を逸らしている」としか思えないのではないだろうか?)

今回のざっくばらんな話の通り、子供の心棒を立てる手助けをするのは親である。
(身寄りがなくて、自分一人で心棒を立てた方の話を聞くと、それだけで泣けてくるが。)
現代においては、あろうことかその心棒を「曲がるように」、まるで悪魔の囁きのように吹き込む輩がいる訳で、そんなことで我が子が真っ直ぐな人に成長するとでも思っているのであろうか?
それとも本気で確信犯として、曲がった人を生み出そうとしている人たちがいるのだろうか?(悪魔に魂を売った人たち)
統計的、社会学的、組織論的に、そう言った哀しい確信犯が出現してしまうのは仕方ないのであるが、それは社会で見守って優しく内包していくしかない、というのが当初の話であったが、こともあろうにそう言ったことが「助長」されているのでは?という問題提起であった。

公共の役割を強く持っているマスコミはいつまでもメクラの振りをしていないで、それこそ政府を動かして「根本は家庭教育から!」とか言って一大キャンペーンでもすれば良かろう。
※もはや公然の事実となって、皆さんご存知であるから詳しくは述べないが、「マスコミがそんなことやる訳がない」ということは誰の目にも明白であろう。であればちゃんと「我が社の目的は日本をバカ国家にすることです!」とでも紙に書いて額にでも貼っておいたほうがよほど効果的な宣伝になるのに。

もはやマスコミは当てにならない、というのが奇しくも周知の事実となった。(こうなってしまったことに対して彼らは誰かをしめあげて「粛清」でもするのであろう。工作するということはイコール騙し合いの世界であり、当然スパイや二重スパイはゴロゴロいるのであろう。色々勘繰ると「日本を覚醒させるために悪役を演じ」て、マスコミの信頼を失墜させる方策にまんまと乗ったのだろう。思えば自分達の信頼を落とすためにせっせと働いているわけで、行き着く先はおまんまが食べられなくなることであり、つまり自分で自分の首を絞めている訳だが、精神構造的にMなのだろうか。)

マスコミが当てにならないのであれば、個人と現場と政治でどうにかしていくしかあるまい。(というと、またマスコミは偽善の仮面を被って忍び寄ってくるので気をつけましょう^^)

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なお、マスコミ内にも真っ当な方がいて正しい情報を発信されている方々がいることも当然知ってはいるのだが、結局やはりマスコミも組織でありそのトップの方針(表に直接的には表さないだろうが)が偏っていれば、人々はその組織のこととして捉えるのである。
よって、既述「メディアの盲点」の通り、メディア側で働かれている真っ当な方からすれば知らず知らず色付きの仕事をさせられている訳である。それら使命を持って正直に働いてこられた方からすれば勝手に色を付けられたと言う裏切りというか欺瞞というかになってくるわけで、それに対する憤慨が思いやられるし、それこそ「働く側の権利」とか人権に近い所まで話が整理・昇華されて内部崩壊するのでは?と書いた通りである。(気概があればだが。)

気概という点では、あちらも巧妙なので火がつかないように細心の注意を払っているのだろう。「直接的に関係ない」「騒いだら目をつけられる」というように内部で働いている人は気概を持つきっかけされ封じられているのだろう。
しかしお隣を見るまでもないが、「嘘も言い続ければホントになる」と本気で信じている方達たちなので、放っておくと本気で乗っ取られて、気づいた頃にはもう手遅れとなるのである。
問題はそこまで考慮した「気概」であるかどうかであろう。

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