数学上に「不明」を導入するアイデア。
例えば、lim
1
n = ∞ と定義されているかもしれないが、本当にそうなのか?本当にそれで良いのか?という話。
この式は、例えば x=1というグラフに原点(0,0)から y = nx という直線を引いた時の2つの直線の交点の y座標の値と考えることができる。(もちろん他の例でも良い)
無論直感的にも(現代数学的にも)n→0 になった時は、それはつまり2つの直線は平行になったことになるので、どこまで行っても「交わらない」ということになるだろう。
n=1から逐次見ていくと、y値はどんどん多くなり(所謂三角関数)、直感的にはn→0になった時には「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈であろうか?
つまり本当に交わっているかどうかは、無限近傍に行って観測しないと交わっているかどうかは分からないのである。
「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈に多分に曖昧さが含まれているため、それを「∞」(無限大。Infinity)という言い方で誤魔化す(失礼!)のではなくて、素直に「不明です」と言いましょう、というアイデアである。
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「∞を不明という言葉に置き換えるだけ?」と思われるかもしれないが、それにとどまる話ではない。
これは単に一つのサンプルであるが、2直線の交点の問題にトーラスの話を持ち出せば、トーラス次第で2直線はどこかで交点を持ったりするだろう。この時に「不明」から「具体的な値」として明確になる、と言える。
これまでの∞だと、そこで話は終わってしまうのであるが、分からないものは分からないものとして「不明」としておけば、後々具体的状況が判明次第考察すれば良くなる訳である。
(現代数学でも2直線とトーラス問題は、いわば数学者が頭の中で上記の話を「脳内変換」している訳であるが、そこを数学者の脳に依存するのではなく、ちゃんと「不明」として定義しませんか?という話である。
厳しい言い方をすると、∞というのはトーラス上では「嘘」だったということになる!(ここでこれまでは∞の解釈を変えて頑張ってきてたはず。))
分からないものは無理に答えを求めて進めるのではなく、分からないものは分からないものとちゃんと自覚した上で話を進めませんか?ということである。(捨置記道に通ずるものがある^^)
既述 近傍を変える にも書いたが、「ある分野」だけで考えた場合はそれで良いのだが、他分野と「交流」する時に削ぎ落としてしまった「情報」に実は意味があるかもしれないという点を、「不明」の導入によって明確にできますよね?ということである。
これまでは他分野交流時は、これまた数学者や物理学者の頭の中で∞とか0とかの脳内変換が行われてきた訳であるが、「不明」を導入すれば人の感覚に頼らず数学的正確さを持って把握できる、ということである。
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「近傍を変える」にも書いたが、実は1とか2とかでさえも、つまり身の回りは「不明」だらけなのである。(正に「色即是空」!)
つまり厳密には全ての数字とか数式1つ1つには「不明」関数を通過しているとも言える。そして、全ての数字とか数式1つ1つは「不明」関数を通し直して再構築しなければならない、という壮大な話でもある。
0近傍では、例えば 不明(1) = 1, 不明(2) = 2 とかでいい訳である。
無限近傍だと 不明(1) = 0, 不明(2) = 0 とかになってくる。
なおここまで考えると、無限近傍でわざわざ不明(1) = 0, 不明(2) = 0にしなくても不明(1), 不明(2)のまま話を進めれば良いだろうと思うことだろう。
また、0近傍で不明(1) = 1というのも、たまたま統計上は99.99999.....%正しいだけかもしれない。
なので、完璧を求めるなら不明(1)のまま話を進めたほうが良いだろう。
「近傍を変える」の通りではあるが、言うなれば、我々は知らず知らずのうちに「0近傍上での」という環境条件を勝手に適用して日々奮闘していた訳である。
また、全ての数字は不明関数を通っているにも関わらず、尺度(環境)もお構いなしに「ああでもない、こうでもない」と頑張っていたとも言える。
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面白いもので、数学とは絶対的な観点で揺るぎないものとして成り立ってきたと思いがちであるが、現代数学を見るとやはり「通信」とか「観測」とかあえて「相対的にして」自由度を獲得しようとしているのである。
そうなってくると「一体観測者は誰なのか?」「どちらの観点からの話なのか?」という話になってくる訳であり、不明(1) = 1は、たまたま統計上は99.99999.....%正しいという話も成立してくるのである。
逆に言うと、通信とか観測とかといった「自由度」を獲得する代わりに、自然発生的に、双子の副産物的に「不明」と言う概念も生ずる、とも言える。
なおそこまで分かると、当初想定していた「絶対」も、「絶対とそれを取り扱うもの(我)」との相対関係であって、その因果関係は断ち切りようがないことが分かるだろう。
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分からないものは分からないものとして認識(定義)し、その上に世界を構築する。
これが「不明」のアイデアである。
ちなみに「不明」の数学記号はやはり「?」とかになってくるだろうか?
と言うことで、思いがけず0の発見以来の数学上の大発見をしてしまった^^
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実は「分からないものは分からないものと認識する」という態度は、物事に対する一番真摯な向き合い方であって、これまでは形而上学上で発展しきた訳であるが、数千年(それとも数万年?どこから測るか次第)を経て、ついに数学もその領域に踏み込む時期が来たともいえよう。(そう考えると数学もまだまだ黎明期である。)
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「大きい数字。桁の大きい数字。数の単位。K M B T Qa Qi ...」で考察した通り、1から順に1,2,3,...と名前をつけていく、つまりものすごく単純な1:1プロット問題であっても突き詰めると「不明」の概念がどうしても出てきてしまうことがわかった。
むしろ「命名」と言うことで、ものすごく主観的な話であるからむしろわかりやすい例とも言える。
「数」とはそれ自体が自身で「ある」ものなのであって、それを「私」がどう捉えるかは完全に別問題なのである。
繰り返しになってしまうが、数学とは究極的に客観的なものであるように思われ、またそうなるように発展してきたわけであるが、今回の考察の通り、ある程度の領域にまで達すると嫌でも「数を扱うもの」との関係性を考えなければ取り扱いようがなくなってしまうと言うことに気づくのである!
(ヒントとして「数を扱うもの」は通常は、またこれまでは、所謂「私」であったと思うが、実はこれもいくらでも視線はどこにでも持っていくことができるのである。厳しい言い方をすると、これまでは通常は「私」なのであるが都合が悪くなると「彼」であったり、最終的にはそれこそ(恐れ多いながら)「神」とか恐れ多くも臆面もなく持ち出して来た、とも言えようか。そのようなことを領分もわからずに勝手にやっては数に対して失礼であろう。)
再度無限の例で言うと、「無限」があるのかないのかを議論してもどうしようもないと言うこと。
重要なのは無限は「あるのでもないし、ないのでもない」とちゃんと知ることであり、また無限との関係性はあくまで「縁起として捉える」とでも言えるだろうか。
いきなりなんで「縁起」が出てくるんだ!?と思われるかもしれないが、これこそが頭を切り替えるポイントとも言えようか。
つまりこれまでの数学は主体と数の関係は相互主従関係ともいうか、人も数を完璧に掌握してると思って、僅かにでもズレることはないと疑わずに数式を練り上げてきたし、数は数で人がやることに従順に従ってきたと言える。
しかし実はこの人と数とのガチガチの揺るぎない関係も実は「勝手に想定」してた関係と「知る」ことである。
別の言い方・もう少しシンプルに言い表すためにこれを、「これまでの固定的関係を縁起的関係にする」と言い表すのである。
いかに壮大な構想か感じていただけただろうか?
この発想の転換はまるで、酸素を呼吸してなんら疑問も抱かずに生きていた「ここ」から、いきなり宇宙空間に放り出されるようなものすごい恐怖を感じるかもしれないが、実はこの階層に上がることで主体と全体が実は同じでもあるし、一部が全体でも、また全体が一部であることがわかってくるのである。
※そこまでいくと分かると思うが、そもそも「主体」を想定してること自体が意味をなしてないことに気づくと思う。そのようなものは最初からないのである。(一時的に/反証を立てるための仮想として/理解する上での足がかりとして、仮定するのは構わないが。それが形而上学で言うところの「我」であろう。数学的に言うと「我」を立てている以上は究極的完成はないとも言えようか。)
この概念はこの通りオープンなのでいくらでも検討・検証していただいて構わないのであるが、「多分こうなるだろうな」くらいの気持ちなのではあるが、一応第一人者として言葉だけでも述べてくださいとか言われるので言っておくのであるが、
・これまでの確固たる定義下(と信じて疑わなかった)の数学は「確数」
・確数の鎖から解き放たれた数学は「縁数」
と言っておこうと思うのである。
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突き詰めるとこう言うことかと思い、一応記録を残しておきました^^
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