2023年5月13日土曜日

閻魔大王の浄玻璃の鏡

 思えば現代の病巣である所謂左寄りも、その根本は利己であると見抜いた通りであるが、そういう人はむしろ自分達が弱者でい続ける方が取り分が多くなるとでも思っているように見受けられる。
彼らへの最善・最高のギフトは鏡なのだな、と思った。

対話のスタンダードの通りであるが、かたや「ちゃんと」話し合おうとしているにも関わらず、他方(所謂左)はその前提を「あえて」破っているのだから、まともな話し合いになるはずがない。
「困ったちゃん」が例えば100人中1人2人発生してしまうのは、集団論的、社会学的、統計論的にしかたないのだが、あちらはこともあろうにそれらをそそのかして徒党を組む始末である。(おっとまた止まらないなる^^)

対話のスタンダードの趣旨としては、対話とは当然「ちゃんと」話し合いをするもののはずであるので、当然「ちゃんと」話し合いをしようとしているのか?できる人なのか?という点、つまり前提条件をちゃんとしましょう、というものである。

現代の所謂左連は、果たしてまともに自分の姿を鏡で見ることができるのだろうか?(続く言葉は、「否、そんなわけが絶対にあるはずがなかろう」である^^)

既述の通りだが、もしも鏡を見る必要があるときは、お得意また都合の良いスーパー忘却能力で過去の自分を忘れて頭真っ白状態で見ているかくらいである。

閻魔大王の浄玻璃の鏡というものがあり、またここでのお話としての鏡はもちろん抽象として言ってるわけであるが、あちらの人を見ていると、抽象であるはずの鏡が本当の具体的な影響力のあるものとして見えてくるので不思議である。

※あちらの人はご存知の通り怖いもの知らずであり、精神的な思考実験に何らの意味も見出せない人たちなので、閻魔大王の浄玻璃の鏡を例に説明しても痛くも痒くもないのだろう。しかし実際に彼らは果たして自分達がいざ滅するときに何ら反省もせずに厚顔無恥のまま去っていけるのだろうか?
(そのときに泣き喚いてももう手遅れなのであるが。しかしその人にとっては滅する直前に泣き喚くということが最終的な反省を意味するのであり、その人もまた
救われたといえよう。(どれだけ救われたがっているのだか。。))

ーーー
P.S.
おかげさまで、(既述の通りですが)、表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである。
よく言われるのは「ここに書いてある通りに世の中が進展しており、果たして預言者(Oracle)ですか?」みたいな恐縮この上ないことを言っていただけるのだが、これまた既述の通り、ここで書いていることは、あくまでも公開情報を頼りに「理論的に」論を展開しているだけあるので、なんら特殊な能力を使っているわけではない。(ただし「正見」は必要でしょうが…^^)

所謂左の「ブレーン」とかも当然歴史はご存知のはずで、歴史を振り返ってみれば「当然そうなるでしょ」と、後追いという立場のおかげ・事実という揺るがしようのない「壁」に照らし合わせて、そう思うわけである。
「文明が発展した」と思われる現代であっても、散々言ってきた通り所謂左の根本は、どれだけ衰退・後退した「利己」に寄りすがっただけの理論(理論という言葉がもったいので「屁理屈」くらいが妥当ですが^^)ということである。
もしもあちらのブレーンが、頭はいいのであろうから、「はっ」とその愚かさ・浪費・迷える人たち数億人を悪の道に誘うという罪、などに気付いて気絶でもしてくれれば良いのだが、これまた既述の通り、その「最後の判断」の瞬間は、どういうことか「スーパー忘却能力」を最大限に発揮して、頭真っ白状態でスルーできる能力があるようである。(私からすれば、そちらの方がよほど超能力である。人智を超えて人類とか叡智を潰そうとしようとしている、というか。)

楽観的に考えれば、それらは「自然淘汰」によって自然消滅するだろうくらいに思えるのであるが、実際には姿を変え形を変え、まさに「イタチごっこ」の状態である。
(もちろん嘘のメッキはいずれは剥がれるので、歴史の通り、その都度一回は消え去るのだが、どうやら「頭がよい」とでも思ってるらしく(または本当に頭だけ良い輩が加担とかして)、違う姿・形でジメジメとした箇所から再発生するのである。)

これまでの総括になってしまうが、そこまでは並の頭(場合によっては失礼な表現かもしれず、失礼致します^^)を持った人であれば、当然見通せる話であって、このまま加算・積算・乗算的に展開するのであれば、この「イタチごっこ」は未来永劫続くと見通せるわけである。
(逆にいうと、例えば、残念ながら数千年後も対峙する側が、律儀に加算・積算・乗算的にへとへと顔で対応されていれば悲しいものだが^^)

これまで散々言ってきたことは「果たしてそうなのか?」「果たしてそんなに愚かなのか?」というだけである。

私がここに改めて述べるまでもなく、多くの、地に足を付けてこの点を憂慮されてこられた先人・先生たちがおられ、既にその本質は(まだ朧げなのかもしれないが)醸成されてきた通りであるが、それを端的に「層理論」にまとめただけである。

この層理論が分かれば、これまでの所謂左と対峙してきて消耗した労力は、歴史を振り返った時に、「一体どれだけ暇で、かけがいのない時間とリソースを浪費したのか、人類は!?」と日に照らしたように分かるのである。

ということで、層理論に記載した通りであるが、所謂左には未来永劫安定的に「住む場所」があるので、優しく誘導してあげましょう^^


2023年5月2日火曜日

集合体恐怖症とトライポフォビア(画像はないのでご安心ください🙇‍♂️)

密集したものを見るとなんとなく恐怖を感じる人は多いだろう。

その症状をなんというのか調べたら「集合体恐怖症」とあり、これかと思った。
しかしその英語はトライポフォビア(trypophobia)というらしく、逆にトライポフォビアで調べると、こちらはハスの穴や蜂の巣など、小さな穴や斑点などの集合体に対する恐怖らしい。

言うなればトライポフォビアだと狭義の「集合体に対する恐怖症」という感じがした。

私が感じてた「集合体に対する恐怖症」は、たとえば
・ケバエの幼虫や、ヤスデが土の中に密集したものを見た時の恐怖
・草にかぶれて、皮膚に赤いブツブツが大量発生したものを見た時の恐怖
とかであった。

しかしトライポフォビアの説明を読む限りは、それらはトライポフォビアとは呼べないような気がする。
言うなれば「広義の集合体恐怖症」というものも存在しないだろうか?

まず、トライポフォビアと日本語の「集合体恐怖症」の関係だが、これはトライポフォビアの翻訳なのだろうか?(つまりトライポフォビアが完全イコール「集合体恐怖症」の関係)
もしくは「なんとなく」イメージが同じなのでトライポフォビアの(ゆるい)翻訳として「集合体恐怖症」という訳語を使っているだけなのか?

この点は定義の問題なので、もしも定義されてればそれで良いし、まだなのであれば、ここでちゃんと定義しておくこととすればよい。

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そしてその次の問題は、日本語の「集合体恐怖症」というと、その言葉からして、私があげたサンプルも自然と「集合体恐怖症」の中に含まれてしまう(と多くの人が思ってしまう)という点であろう。

もしも既にトライポフォビア完全イコール「集合体恐怖症」と定義されてしまっているのであれば、「集合体恐怖症」の言葉はちょっと広義っぽく聞こえてしまうため、別の訳語にした方がいいと思われるという提言であるし、もしも定義がまだなのであれば、本記事の点を考慮の上、訳語を制定してもらいたいという提言である。

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その上で三点目。
私のサンプルの1つ目は、もしかすると単純に「気持ちの悪いもの」がさらに大量になって「さらに気持ち悪い」という感覚症状だけなのかもしれない。(単純比例的なもの?)

よって「トライポフォビア」としての感覚は「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」と言えるかもしれない。

ちょっとだけ考察してみると、
・レベル1(私のサンプルの1つ目)
 1つでも嫌なのに、それが大量にあるので掛け算的に嫌になってる例。
 人によっては1つだけだと、自覚レベルでは「嫌」とさえ感じてないかもしれないが、大量になると「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」が自覚レベルを超えて恐怖を感じるとか。
 これはたとえば猫が大量のネズミに恐怖する感覚と似ている?
 「制圧される恐怖・逃げられない恐怖」と似ているのかもしれない。サンプルで挙げた大量の虫の例だと、逃げられない訳はないとは分かっていても「もしもいきなりこちらに押し寄せてきたら…」的な恐怖なのかもしれない。
 ※気持ち悪い虫とかを見て人はなぜ「気持ち悪い」と感じるのか?という基礎研究は既に行われていて、その人の原初レベルでの「感覚」は何なのか?という点まで解明されているのかもしれないが、「見た目の恐怖」というのは、やはり元を辿ると「もしもこちらに危害を与えてきたら嫌だな」という感覚なのかもしれない。(これに対して「いや、視覚的な問題だけでも説明できるはずだ」という意見もあるかもしれない。その辺が現状ではどこまで研究が進んでいるのかは私は知らない。)

 ここでは一旦「危害を加えられたら嫌だな」説で説明することとして、よってこのレベル1の恐怖は「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」で説明できそうである。
 この感覚は大きく言えば「生きるか、死ぬか」「勝つか、負けるか」「危害を受けるか、受けないか」といった単純な感覚によるものと言えるだろう。

・レベル2(私のサンプルの2つ目とかトライポフォビアの例)
 ここから「純粋な」トライポフォビアの領域になってくると思うが、「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」問題となってくる。
 私が感じた同類のサンプルとしてもう1つ挙げておくと、亀についた大量の貝(フジフボ?)も似てるかと思った。(これはむしろレベル1の方か?)

 先に結論を書いてしまうが以下のようなものではないかと感じている。
 ・自己投影によって生じる恐怖感

 ハスの穴や蜂の巣の穴を見ると「もしもこれが自分の毛穴とか皮膚に発生したら…」というイマジネーションによる恐怖もあり得るのではないだろうか?と思った次第である。もしもトライポフォビアの原因について一生懸命考えれおられる方の参考になれば幸いである。
※一回こう考えると、そうだと思ってしまったりしてしまう(自己肯定化?)ので、あくまでも参考として、また先ずは自分の中でしっかりとした考えを持った上で参考にしていただければ幸いである。(もちろん「証拠」に基づいて立証できればそれが一番なのであるが、その「証拠」さえも先入観があると曲解や歪曲やそれこそ捏造とかになってくるので念のため^^科学会でも時たま問題になってる通りですね。)

 一応であるが、生存本能的な話から見てみれば、「もしも自分の身に起こったら」というイマジネーションも生存のためのものなので、いってみれば「先取りしたレベル1の症状・取り越し苦労のレベル1の症状」と言えるかもしれない。
 
 足とかを強く打ち付けた人の映像や、怪我をした人の映像を見て痛く思うのも自己投影とか感情移入によるものである。
 病気になった人や臓器を見ても同じような恐怖を覚えるのもまた然り。
 自己投影という面から見ればトライポフォビアは「もしも自分の皮膚に発生したら」的な恐怖と言えるだろう。
 感情移入という面からすれば「それも表面があんなブツブツになっちゃって、痒そうでかわいそうだな」とでも言えようか。「それ」というのはハスであればハスだし、蜂の巣であれば蜂の巣なのであるがそれを人でも動物でも、それこそ植物のままでも良いので、つまり大きく言えば「生命」に対して同情的な感情移入することで引き起こされる作用と言えなくないかもしれない。(一応言っておくと生命でなくても「もの」でさえも感情移入可能であろう)

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ということで、もともとは別の箇所で「集合してるものに対して嫌な感じを感じる症状に名前はあるのかな?それを英語で書いておきないな。」と軽い感じで調べただけなのであるが、和名と英語名の感覚的な違和感から始まって、そもそもなぜ「嫌と感じるのか」の考察にまでなってしまった^^
せっかくだからこうして残しておきます✌️




左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...