2015年11月3日火曜日

学が寄ること

学がおおむね左に寄ることについての考察。
学というか学を修め専従するものがについて。
これも層を用いれば容易い。つまりその分野の層に
ついては深淵まで掘り下げているが、ふと別の層、
一般社会、生きるところの層については浅きが故
途端にエネルギーが転がるように安定という名の
安き層に転がってしまう。
学は土に足をついていなければならぬという
先人の知恵を蔑ろにして胡座をかいているような
ものである。
これもまだせいぜい統計学的な社会学でしかないが
これを力学として解明する、少なくともその
端緒となろう。
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以前書いたとおり、またこのことに等に気付いて
発信されてこられた方々も居るように、これまでは
以下のパターンが成り立っている。資本主義と
社会主義の社会でそれがどう扱われるかを
比較しながら考えていただければ、言わんとする
ことは自明であろう。
・頭脳明晰で自らが収めたい学を修める。
→地位も名誉も確立できる。
→社会貢献を考える。収めた知識を持って。
→理詰めていけば、つまり短絡的に考えれば
 最大、極大を選択したほうが直近は最大の
 効果を得られるという、程度の低い理論、
 というか屁理屈に巻き込まれる。
 学を修めたものさえも簡単に陥る。
 それは層が違い、生き死にさえも考えずに
 済み、いざ地上に足を踏み入れたからであり、
 片や、因縁と増悪と執念から逃れられず
 envyを拠り所にして(諸説あり)、世代を
 越え民族を越え培ってきた、いわば「いかに
 利己を達成するか」の極の屁理屈にまんまと
 流されていることでしかない。
表層というか、目に見える層を見ると、現代は
それら私利を肥さんとする群れが蠢き合っている
形容すればゴキブリの蹴落とし合いの様相を
体していることを先ずは、視覚的含め五感で
認識しなければなるまい。(恥を知らなければ
改善しようがないことは隣国を例に出すまでも
あるまい。)
認識し悲嘆し憤りを感じなければならない。
芽が残っていることが認識できよう。
ここに記すまでもなく、数千年前の既知の
ことがらをなぜ何遍も書かなければならないのか。
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世の中にはこれらの層をとうに理解し実現してきた
先達が数多あることも知らなければならない。
直近の問題で言えば、彼らは大洋への覇権を得るべく
足がかりをつくり、せいぜい数十年〜数百年(否、
経済を見る限り着手前に豚死もありそう)の
「賢い」戦略を練っているようだが、彼らを
歴史上の本物の阿呆として、歴史上の人柱として
阿呆のラベルを額にはらせて立たせるわけには
行かないのである。
(周りから見ていてはそれはそれは楽しいであろうが。)
いまはその流れにある。無論全ては自業自得として
解釈できるように流れている。
それを気づけれないように周りがワッショイし
(さすがに巧みである)、当事者に気づかれないように
ことは進むのである。
(更に言うと、当事者でも本当の中枢はそれさえ知ってて
つまり高次の層では理解し合えるぐらいの賢者がいて(せめてもの
救いとしての希望としてだが)、「自然の成り行き」として
自業自得を成し遂げようとしているとも考えられなくもない。)
これらは次の世代、つまりおよそ百年後に世にでることになろう。
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いつも言うとおり、問題はそれからなのである。
上記は層から見ても、限られた時間と資源のリソースの
完膚無きまでの浪費なのである。
これもまた数千年前から言われていることの繰り返しでしか
ない。
全体としては一歩一歩進むということ。
悲嘆としてではなく希望としての一歩。

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左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...