2016年6月18日土曜日

なぜ皆無か

現在進行していること。
先の変化は世界規模の既得ルールに楔を打ち込んだ
ということ。

「自ずからの無謀で陥った」という程度の伏線しか
しけずにそれに全精力を傾ける輩はとうの昔から
蚊帳の外であるであるが、やはりそれをいいように
使おうとする輩もいる。
わっしょいさせられて踊るさまは見ものだが、
層を見据えて言えば存在が皆無である。

という意味の「皆無」。

2016年6月5日日曜日

醸成

では現状に当てはめてみよう。

事実を無視して大陸は常に年中無休で四六時中
サーフェイスはバッシングをやめようとしていない。

力には反作用があるらしく(賢しいヒトが考え
抜いたらしい)バッシングされた側も自然と
反発・反抗心を持つようだ。

これを醸成という。
憎しみの醸成。これが醸成されればお互い理性に勝って
麻痺した主体性を鼓舞できる。あわれ。かたやおもん
ぱからずもがな、の境地であろう。
(私から言うとそう思えるものこそをが慮らずもなのだが。)

哀しいかな、あちらは踊らされ上手で本来の内部醸成は
何千年経とうが醸成されなかった。それは忙しかったから
仕方ない。
(面目上、そうはっきりと史実に残らないように処理され
ているが。こちらも最低限大陸の面目を守るようにしなければ。
とこう書くと、現在は左だか左が短絡して踊り出すから困る。
レールの加担者であることを例えば80歳位になってから
知ることになるだろうから現在は関係ないとでも思っている
のであろうか)

簡単に言うと戯れ合いがしやすい状態が醸成されている
ということ。レールとして。下車は不可能。
今回の増税のニュースで分かったかたもいらっしゃると
思うが財務省の「既定路線」があるわけで、それを
変えることは容易では無いのである。
上記の通り踊り上手なあちらは日に日にやる気を
増している。(そのお隣もたぶんにもれず)

ではレールを見てみよう。
敷いた側は見えないところで大はしゃぎしている
ことをその物陰から私は見ていることにしよう。
こうなると時間の問題。なぜ彼らはドラマが
好きなのであろうか。


前回記述したとおりこちらはその冷徹なレールの
上を行く、それらにとっては更に冷徹なレールを
敷かざるをえないのである。(悲しい歴史として
名が残るのであるから良かろう。)

本人には気付かないように敷くので
問題ない。

2016年6月4日土曜日

仕組み

では、仕組みについて。

仕組みを組み上げる側は機械であると思ったほうが
分かりやすい。
その仕組・レールを敷けば全ては自動機械のように
動作さぜるを得ない。

あそこで鬱憤が溜まって(溜まるであろうから)、
あそこに波及し(波及するであろうから)、
あそこで血が流れ(血が流れるであろうから)、
こちらは安泰である。(食いっぱぐれはない)
(その後の処理はもはやおまけぐらい)

さんざん既述した通りなのでこれはもはや前提。
(むしろこういった冷徹な判断はAIにさせる
ことになる。というかあちらはAIに従わざるを
得なくなっていくだろう。「冷徹」な「正解」を
やすやすと与えるのであるから。(実はここに
正解の糸口がある。))

改めて言うことととすれば、あちらの冷酷さ
加減に応じてこちらも冷徹に対処しなければ
ならないということ。

どこ向きのことであるかを先ずは考える。
感情が入ることがむしろあちらの思惑であることを
肝に銘ずる。
踊らされている首長の元の民は何の罪もない。

もしも何かが居るとすればそれはもはや血の流れる所は
見向きもしていないであろう。ただ想定通りか
どうかを見るのみ。

しかしもう一つ付け加えるならばそれさえも
時代の申し子なのである。
感謝すべきである。

どうやら現在は経済で牛耳れるようである。
確かにいくらでも冷酷になれよう。

結局、経済を社会実験してる?
(大きなパラメータとして流動性)
にしてはお粗末だ。
かと言ってプラレールの動くのを一生懸命ながめて
嬉しがるぐらいの知性しか無いはずもないので
求めているものがものすごく中途半端なレベルに
しかいられなかったのだろうなと想い労る。
申し子なのでそれで良かったのだろう。


アボカド


アボカドの葉。
このように静止画にして至近距離でずっと見てると葉の裏から見たように見えてくる。一旦そう見えるとなかなか元の認知に戻れない。aerialのようなものである。(画像処理のお題目として使用していたビル街の鳥瞰画像で白黒・上下などを反転させた画像のこと。当時は画像分野の一般的な教材と思っていたが、いざGoogleしてみたらぜんぜん見つからなかった。)

明るい部分の膨らみと、葉脈の浮き彫りとの葛藤。

どうやってAIに認知させようか?
リアルタイムで見ていれば3D認知(4D認知)が機能するので誤認しないが、
静止画が故に起きる現象。
人間でも錯乱するからAIも認知不可とするか、諸条件から
「これは葉の表である」と認知して人間の認知を超えるか。

「箱の内側・外側」認知のように内側に見えても外側に見えても
どちらも正解の50%:50%の状態がある。
そこに諸条件を加えて内側が正解なのか外側が正解なのかの
境界値を導き出すことは可能。これは認知ではなく計算しつくされた
「メカニズム」側の答え。
現実世界の諸条件を加味しようとすると計算量は発散するので
やはり認知側が必要ということ。

いずれ「メカニズム」的に追いつかれるかもしれない。
そうなれば何が厳密な「正解」かを逆に問われだして
「正解待ち行列」ができそうである。

そうなると極値解を与えてどうなるかを見てみて、
の繰り返しになろうからいかに最良の極値解を与えるか
の競い合いになるのだろうか?

なんだか多段カオス理論の様相である。(でしかない)
分かりやすく言えば、培ってきた・積み上げてきた土台も
仮定から始まってるかもしれないということ。

なぜものをものと認知したほうが都合が良かったのか。
なぜ青色を青色と認知したほうが都合が良かったのか。
なぜヒトは紫外線は認知しなくてもよく、虫は紫外線を
認知したほうが都合が良かったのか。
認知とはつまり原点回帰なのである。
(そしてそれが淘汰に繋がる。)

認知を変えて淘汰されても生き延びる・生き延びた・
生き延びたであろうパターンがあってその土台の上には
どういった個体・集団が形成されるかを調べることができる。
(認知レベルはいくらも変えられる。一瞬前から根源まで。)
いずれ研究されようが、未発なのでここに確立しておこう。

認知を変えた世界で醸成される理論もあろう。
そこまでこの理論の範疇にしておく。
つまりシミュレーションなどで形成された個体や集団や
社会などで生成されたそれらの生成物および抽象
(考え方、アイデア、過程、感覚、決め事、法律、経済、
科学、哲学、美術、芸術など全て)は
ここに帰結する。
(せちがなくて悲しくなるが致し方ないことは既述の通り)

以上がアボカドの葉を見て思いつくまま書いたこと。
(これをとっかかりにされても困るので、
アボカドの葉は論理展開の発端に成っただけであって、
オリジナルのアイデアは、そのとっかかりの有り無しに
関わらずここに存在していたので動機ではない、
ということを一応書いておく。ふぅ、なんだこれは。)


左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...