怒る側にいるのは楽である。
自分の思うほうへすることができるからである。
また、怒ってる人をとりなすのは大変である。
たいていは当事者間では決着がつかず、第三者が
はいってようやく落ち着く。
つまり怒ってる人1人に対して、何倍もの人が
とりなすために動く必要があるということ。
個人であれば、自分の生活圏で、どうしても貫きたい意志が
ある場合や、壁になってる人が押せばなんとかなりそうな場合など
環境を見極めて、どうしようもないときに怒るわけである。
人とは一人では怒れるものではなくて、実は周りがあるからこそ
怒れるわけである。
実際に四六時中怒ってる人がいたりするが、いざ一人でポツンと
なった時も、勢いも変えずに起こり続けることができるのだろうか?
また、人とは悲しいもので「味をしめる」動物でもある。
一回怒ってうまくいくと、味を占めて繰り返す、という側面が
あることも否めまい。無論そればかりでもないが。
そして、個人であれば当の本人は全く気付いてないのだろうが、
集団論・組織論的には周りの多くの人が緩衝材なり治癒剤なり
になって、その組織の中でどういった立ち位置に収まるか、
時間をかけて収めていくわけである。
(正しく有機体のすばらしさ)
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以上は個人の例で説明だが、現代社会の問題もよくよく紐解いていくと
ここら辺の根本原因に行き着くのである。(情けないことであるが。)
全世界の全員がご存知のとおりであるが、元を辿ると所謂「あちら側」
に行き着いて、現代でも色を変えかたちを変え、姿をくらまして
巧言令色しているわけであるが、いくらメッキしようと根っこは変わらない。
そしてその根っこは何かというと利己である。
(続きを執筆中。。。)
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