猫や犬のしっぽを見て思ったのだが、もしかすると人でもしっぽを持つ(持っていた)感覚を備えてる人がいるのかな?と思った。
尾てい骨が尻尾の名残と言われているようなので、先天的にしっぽの感覚を持っていた人がこれまでの有史以前まで含めて、誰かしらはいたのかもしれない。(無論記録には残ってないだろうが。)
また、後天的にも練習によって耳や鼻を動かすことはできるようになる人もいるので、もしかなり頑張れば、(仮想的な)自分のしっぽを動かす感覚も身につけることができるかもしれない。
「仮想的な」というのは、何かで見たのだが、腕とか足とかを失った方でも、感覚だけは残ると言うので、その逆の発想である。つまり無かった物もあると「仮想」できるのでは?と言うこと。(幻肢)
※なお、この腕や足を失われた方の話だと、失った手や足が仮想的に水とかに触れると、水に触れたり、濡れたりする感覚だけ生ずるようで、不思議である。
これは人が主体となって、外界を「迎え入れる感覚」とでも呼べるだろうか?(もしも「迎え入れる感覚」が研究領域として未開拓であれば、このアイデアが初端となってくれれば幸いである。
(もちろん幻肢・幻肢痛などの研究はあるのだろうが、それはあくまで「名残り」に主観を置いた研究。ここで言ってるのは、それを拡張して幻肢に限らず、人が外界を主体的に感覚として迎え入れるという点がブレークスルーとなっている。これは触覚に限らない点も含まれる。)
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そう考えると、「仮想感覚」「仮想感覚器官」というのは、もしかするともっと自由度の大きいものなのかもしれない。
(例えば触手でも何でも良いのだが、ちょっと自分からは離れたテリトリーでも知覚できるとか。なお注意点としてはこんなことばかりしていると、自分本来の感覚構造も崩壊してしまうかもしれないので、十分注意は必要であろうが。。また、仮に仮想触手を備えたとして、知覚するのは便利かもしれないが、気を付けないとドアに挟まったり、車に轢かれたりして日常的に痛みに見舞われる危険性が高まるかも知れない^^ 見えないものが見えてしまう人のように、その能力があるがために知りたくもないことまで知ってしまうのと同様で、その感覚を備えてしまったことの代償であろう。しかもこの仮想触手を備えた例の場合は自分からすすんで獲得している訳だから文句の言いようがない^^)
そしてそこまで行くと、別に触手とか具体的な器官も想定する必要もなくなってきて、正に「感覚を研ぎ澄ます」ことによる、「人並外れた感覚を備えた人」の話につながっていきそうである。
話が行ったり来たりになってしまって申し訳ないが、逆にいうと「人並外れた感覚を備える」ための練習として幻肢・仮想感覚器官を想定する、ということで習得方法が整備・確立可能かもしれない。
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