2022年11月8日火曜日

政治の履き違い

エネルギー問題で石炭回帰が起きてるそうな。
人は生きてる訳で、死活問題に直面したら規制だ何だとは言ってられないということだろう。

環境団体とか脱炭素団体が猛反発でもするのかと思いきや、「解決の糸口を探っていかないといけない」とか、誰でも知ってるような、ただの問題の表面をなぞったようなことしか言わないから逆に呆れてしまう。
当初の勢いはなんだったのか?他人にまで有無を言わせず押し通したあの勢いは、一体一瞬でどこへ行ったのか?
もしも理想がそこまで純粋なのであれば、これから石炭を使おうとしている現場に行って、使おうとしている人を説き伏せるなり(無論暴力は許されないが)お得意の力によってなり、何とか止めようとはしないのだろうか?(まぁ環境団体の半暴力行動は皆の知っての通りだが。)

この辺にあちらの思惑とか、壮大で崇高な理想とはやはり「そういうこと」だということが透けて見える気がする。

あちらの地域一体を1つの組織とみなした場合、自分たちで脱炭素をすると言っておきながら、なんでいきなり自分の言ったことを反故にするのか?と言ったところ。
脱炭素推進しクリーンエネルギーを使うようになれば、当然出力や安定性は低下するということを分かった上での話ではなかったのか?
つまりエネルギー生活はより細々となるし、安定性も低下して停電が日常茶飯事になることも厭わないのではなかったのか?(当然の二次作用としてクリーンエネルギーの研究開発も当然遅くなる)
その壮大で崇高で献身的な理想は一瞬でどこへ行ったのか?(三日坊主もいい所だろう)

既述「技術革新に対する反発」も参照。

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今回は、そう言った細かい話ではなくて、もう少し抽象的な話。
まぁ当の昔から言われている通りであるが、所謂民主主義と衆愚政治の履き違いなのだろうな、ということ。

一番の大きな弊害は所謂左であろう。
冒頭で書いたのはある意味瑣末な事象である。

そして解決には対話のスタンダードであろうということは既述のとおりである。
(「対話のスタンダード」についてはGoogleで検索してもヒットしないので、本ブログの右側にある「このブログを検索」で検索していただければと思う。→検索した時のリンク


冒頭で書いたのは瑣末な事象であるが、問題としてはむしろ分かりやすい。
原子力発電とか、何万年、何十何百万年単位での地球の温度変化問題とか、専門性の高い事柄も、全て民衆に議論させれば正解が得られるはずだ、という安直さが祟ったと、一言で言えばそれだけのことだろう。
(人権とか動物ひっくるめて生命の権利とかいうのであれば、権利理論・理想に則ってどうぞ核のボタンでも動物に与えてればよろしい。)

現在の政治を例にとるまでもないが、所謂野党はまともに「対話」さえできるような人が「本当にいるのか?」という状況で、そんなところに繊細な原子力発電の話でも放り込もうものなら、まともな話になるはずがない、ということは火を見るよりも明らかだろう。
(政治家まで感情で動く始末。。「リーダーが感情的になってはいけない」という最低限のたしなみさえ知らないのだろうか?)
とそう思うのだが、そう思うのは私だけなのだろうか?それともやはりもう少し将来になって、過去を振り返らないと分からないものなのだろうか?

「議論の場(土俵)のセッティング方法が下手」とかいう方法論もあるだろうが、それは本質ではなかろう。(いくらこちらが丁寧に対応しても、本能反射的な相手がすぐに嗅ぎつけて噛み付いてくる。)
あえて風刺すれば、せっかく清く舞台をお膳立てしてあげたのにも関わらず、恥も理性も持たないものがやってきて、価値も分からないのに持っていって味噌も糞も一緒くたに餓鬼や畜生まで(この並びで言うと修羅も入れておこう)呼び寄せて、利己の享楽のためだけに浪費する図であろうか。
(果たして彼らは「なぜ清いものは清いのか」ということを一瞬たりとも考えたことはあるのだろうか?(続く言葉としては「否、ない」である。そんな気配すらないので言うまでもないが。)
(こういう風刺も嗅ぎつけて「この人たちになんて事言うんですか」とか自分の事を差し置いて騒ぎ出すのだが、「いやその人たちではなくて、あなたのことなんですけどね」と言う滑稽極まりない状況が展開されるという。。)
(明治時代だと思うが、いつかどなたかが「パンドラの箱を開けることになる」と言われたが、まさにその通りということだろう。)

つまり解決法は対話のスタンダードであり、政治3.0 なのである。

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以上はこれまでのただの総括であるが、それでは世界情勢にどう当てはまっていくかを少しだけ考察しておく。以下の3シナリオが考えられる。
①西欧で広がる
②アメリカで広がる
③日本で広がる

まず①については、西欧は現代政治・思想・哲学の一日の長がある訳で、私の対話のスタンダードを取り入れて、それこそ「規制化」して広まっていくシナリオ。

②については、少し前までの「一極・世界の警察」であり、今では多極化と言われてはいるものの実質世界のNo.1である実績と誇りがあるであろうから、この「左による浪費時代」を終わらせることについても、世界のトップとして私の対話のスタンダードを真っ先に取り入れて先駆者となるシナリオ。

③については、日本は言わずと知れた「和」の国で、私の対話のスタンダードも当然そこで培われたものであるため、自然さから言えば当然日本で広まっていくもの。(正式に取り入れてくれるかは分からないが)私の対話のスタンダードを取り入れるシナリオ。(ちなみに「放っておけば日本であれば所謂左さえも「中和」してしまうかもしれない」と思うかもしれないが、おそらくそれは楽観的観測かもしれない。)

ただし③については、日本が先陣を切ってしまうため、とりあえずアメリカはそれを傍観はしないし、許してはくれないだろう。
なので可能性としては①か②と思われる。

今回はここまでとしよう。



左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...