2023年8月23日水曜日

時空上の円周率。果たして時空上に「円」は書けるのであろうか?

円周率には限らないのであるが、数学的な円周率と物理的な円周率の考察。

先ずは数学的円周率であるが、ここであえて詳述するまでもないので省略する。

物理的円周率であるが、幸い我々は3次元空間はいくらこねくり回しても軸的な影響はないものとして捉えているので、誰がいつどこで「円」を書いても、半径くらいの情報があれば、机で描こうが、寝ながら描こうが、おそらく同じ「円」が書けるのである。
そして、その皆が「等しく」書いた円の円周率を求めている訳である。

円周率の超越数的な魅力もさることながら、今回はあえて視点を変える訳である。

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いきなり具体的になるが、x軸を時間軸、y軸を高さとしよう。
何でも良いが物体を上に投げて落ちてくるとしよう。
これをxy平面にプロットすれば放物線ができる訳である。

しかし、今考えたいのは円である。
時間x軸、高さy軸に円(半円)が描けるのだろうか?
放物線を考えると、どこをどう取ってもxとy軸上に傾きがある(所謂初速度)
円になるためには初速度無限大である「瞬間」が必要である。
そして、その「瞬間」にその物体は初速度無限大で上に飛ぶのであるから、0時間のうちに高さ無限大に飛ばなければならないのである。

一旦これは「アキレスの亀」の矛盾として、つまりこれはあくまでも「観測者が後追いでどれだけ細分化するだけの問題」として捉えることとして論を進めよう。(無限に観測したければ、当然無限に細分化できる、と言う話ですね。)

今度は軸を変えて、「何だか知らないけど【こと】は起こって、物体は上へ跳ね上がって綺麗に半円を描いて下へ戻ってきて、これまた綺麗に寸分の違いなく原点へ帰ってきました」と言うことを考える訳である。

我々は幸いなことに、傾きは微分すれば求められることを知っているので、dxを時間として微分してみると、【こと】の発生した瞬間はどうしても傾きが無限大であり、また、綺麗に原点に帰ってきた瞬間も傾きが無限大であることを知るのである。

つまり、この【こと】が起こった後では、どうしても「ひと刹那」の間に高さという空間を無限の傾きで「移動」したことを認めなければならなくなってくるのである。

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前提に戻ろう。
時間x軸、高さy軸として、円(半円)が描けるのか?ということであった。
(そうすれば、深淵なる円周率πに別の光が射せるのでは?と言う淡い期待が発端であった。)

円周率のアプローチは色々ある訳であるけれども、例えば平面上で多角形で考えたり、モンテカルロ法みたいにシミュレーション的に考えてみたり、あくまで数学的な数式的に考えてみたり…(以下偉大な考察が続く)、いくらでもアイデアは出せるのだけれども、そのうちの一つとして、もう一度原点に戻って、次元のなんたるかまで遡って考察してみてはどうか?と言う問いであった。
(多分、嫌でも戻らざるを得ないのだろうと思う^^;)

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一応であるが、今回の時間x軸、高さy軸とした場合の考察の続きであるが、我らがアインシュタイン先生のおかげで、時間と空間は切っても切り離せない癒着した関係であることがわかっている訳であり、今回の話に適用すれば、物体が移動した瞬間に(刹那に)空間も含めた緻密な計算がすでに始まっている、と言えよう。(その物体の(かなり簡略化して)「速度は?」「質量は?」「量子的状態は?」…という数えきれない「前提」の設定から始まるのである^^; →その結果として「あー、その前提だと今回のパターンは初速度無限大とは言えませんね👍」の一言で終わるのである😊)

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今回の主旨としては(今回に限らないのであるが)、数学とは幸いなことに、それら物理的な領域から影響を受けることなく純粋に論を推し進めることができることである。
物理からしてもあえてあり得ないことを考察で帰依することがあるかも知れないということである。

今回の考察で帰依しうる点を挙げておこう。
1.時空間上で「円」を考えて、円周率を求めるアプローチ。少なくとも物理的、数学的手法とか円周率探求のツールの手掛かりになり得る可能性。
2.物理上の物質ではもちろんあり得ないかも知れないが、時空上で円(円に限らないのであるが)の軌跡を取り得る仮想物体の考察について。
3.翻って考えると、所謂3次元空間というものは、時空から比べると、なぜこんなに軸間の相互関係は「疎」なのか?という考察。
 我々は左右を見ても上下を見ても前後を見てもそこに何らの相関性は「ない」と信じて疑っていない。という点ももしかしたら思い込みかも知れない。(勿論我々は地球ごと太陽の周りを回っていたり、太陽系も宇宙空間をものすごいスピードで動いているかも知れないが、光から比べたら蠅くらいの速度なので「気付いてないだけ」の問題とも言えるかも知れない。が、そこまで含めて3次元空間は(幸にして)「疎」であるが故に、我らが生活とか、極論すれば「外界を認識する脳」を持ち得たとも言えるのであるが。という考察^^)

4.既述の考察の繰り返しかも知れないが、3の考察の話を踏まえてだが、数学とは幸いなことに「ひと刹那」を切り出した学問と言えるが、やはり話が細かくなってくると、どうしても「軸」間の相互関係をもうちょっと緻密に考えなければいけないのではないか?という考察の手がかり。(というかもうすでに自分で答えを言ってますが^^;)
これまでは幸い軸間に相互関係は「勝手に」無い前提で論を進めてきた訳であるが、つまりこれまで誰も疑問として一言さえ発せられずにきた訳であるが、果たして本当にその前提で良いのだろうか?という問いである。
(数学で平面とか空間を考察する時に、その2次元とか3次元は任意で良いはずなのに、誰一人としてその軸の一つに「時間」軸を持ち出して説明をした人を見たことがない。これこそ「都合が悪い」十分な証拠であろう。都合が悪くなければ堂々と「x軸とt軸で円を書きましょう」とか「x軸とy軸とt軸で球の体積を求めましょう」とか言えば良いのである。まぁ時間についてはこんな説明によらずとも議論は進んでいる通りであるが、現代では普通に「四次元」の一次元に数えられている訳であるが、つまり人類のこれまでの「普通の」感覚での時間軸という捉え方(ボトムアップ的観点としておこう)と、数学的な「次元は疎であるべきだ(そうしてもらわないと困ります)」と言った捉え方(トップダウン的観点としておこう)という2つの観点のせめぎ合いがついに日の当たる所に晒され出したとも言えようか。)

軸(次元)に限らず、所謂近似とか無限大にも当てはまる考察である。

一言で言うと、何というか紙一重ではあるのだけれど純粋な数学の領域と、物理世界とかも含めて「別次元」の話を、盲目的に同一視して、つまり何も知らずに領域を飛び越えて「あーでもない、こうでもない」と議論しているように見受けられるのである。(もしも失礼に聞こえたら、申し訳ありません^^;)

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最後に言えることは、単なる読み物として読んでいただければ幸いである。
(自分で答えと述べているので、一応は答えなのであるが、読んでいただいた人のアイデアにもなれば、また幸いである。)

2023年8月21日月曜日

量子知覚論 - 量子論的に知覚を考察。それはつまり主体と客体の発想の逆転。

知覚とは何か。例えば指先の触覚であれば指先の色々な触覚受容器と外界の相互作用によって、指先の触覚受容器がシグナルを検出したことであろう。

※URL検査で「タイトルが短すぎます」と怒られてしまったため、タイトルは何とか振り絞って仰々しいものになってしまっております^^;

どうも観測者と被観測者の関係は、「自己」の概念のせいか分からないが、つまり自分=観測者、外界=被観測者として「勝手に」前提を作り出してしまうため、本当の関係性は見つめ辛いようである。

もしも幸にしてこれを達観できたとすれば、世界とは、まさしく天地がひっくり返って、「自己」の中心、仮に心臓のど真ん中とでもしようか、を中心にして内臓を全て外界にめくり出すような状態とも言えよう。
極論すれば主体ではなくて、完全なる客体ということ。
※とりあえず説明を簡単にするため、自己の中心を心臓のど真ん中としたが、そもそも自己の中心を探ろうとすればするほど見つからない=つまりアートマンは「これです」というものはなくて、代わりに言うとすれば人とはその全体像を持って人と成っていると言えるので、そこを掘り下げたい人は別資料を読んでください^^;
→一応ですが、ここにも書いてあります。「転生とか脳移植について

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ある意味、この「主体であり、同時に客体である」と言うことを知ることが先ずは第一段階とも言えよう。

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話を転じて、今現在(2023年とかです)では、そろそろ「当たり前」くらいの話になってきているが、かといって初学者とか、もちろん根本的な検証とかでもまだまだ必要な部分であるのだが、例えば二重スリット実験とかで量子論を分かり始める人もおられよう。
極論すればこれは「非局在性」になると思うのだが、やはり観点は観測者と被験者の関係の域を出られていない、とも言えよう。(人が観測者で、電子とか光子とかの量子が被験者という前提。)

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ホログラフィック宇宙論とかもあるが、無論エントロピー的には計算通りになるだろうが量子的な非局在性がどのように絡んでくるかということであろう。

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トピックだけ書いてしまったが、本論で述べるのは、量子的な知覚論である。
つまり、今ここで私が知覚したことは、量子的非局在性によって、別の場所の別の時間で知覚できるという事である。(勿論、別である必要もないので、同じ場所で同じ時間で知覚する事も当然含む論である。)

古典的に幼稚的に考えれば、量子もつれを「集合」させて知覚器官を作って、「正反対」にも作れば「理屈上はできるでしょ?」的な話である。

多世界解釈を持ち出してしまえばむしろ簡単で、今現在の指先にある知覚器官を構成する分子なり原子は元を辿ると、量子もつれの対を成した量子の片割れで構成されていて、無限の可能性の中で、それら全ては「奇跡的に」今現在私の指先を構成しているので、今まさに何かに触れたとすれば、それは瞬時に「裏の世界」の私に知覚されるのである。(めでたし、めでたし^^;また、無論「私」でなくとも別の人でも良いのだが。)

しかしこれではあまりにメルヘンすぎるであろう。(ギリギリ現代では通じるかもしれないが、数十年か数百年か数千年後には、今の我々が過去の人を(失礼ながら)微笑んでしまうように、将来人に微笑まれてしまおう^^;)

「無限の可能性」は結構なのであるが、ややもすると雲散霧消しまいかねないシビアで繊細な問題であるがゆえに、数学的・物理学的な「確かな結びつけ」が必要なのである。

この分野は、ひょっとすると「意識」の何たるや?という古代哲学の問い・遡って人類の問い、さらに壮大に言えば有機物、否、非生物さえも含めての、つまり宇宙としての「この宇宙は何をやりたかったのか?」という点にはるかに遡っていくのである。

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もう少しだけ書いておくと、最近は幸いにも統計学とかもあるので、「如何に人として全うするか」ということは、やはりというか当然というか「宇宙がどうしたいのか」という点と一致すると思われる。
(現代ではこの文脈で宇宙というと途端に何故か胡散臭くなる^^;
無論宇宙とか大それた壮大なものではなくて良いのだけれども、そうすると現代では「我々上も下も右も左も老いも若いも男も女も、動植物も土地も歴史も全て含めた構成員の【最大幸福】」くらいになるだろうか。しかし【最大幸福】というのも現代的というか、もう少し政治家は歴史とか踏まえて頭を捻った方が良いのでは?^^;(将来人に「微笑まれ」ますよ^^;))

「如何に人として全うするか」という点は、寧ろ哲学なり宗教なり道徳なりで代々脈々と命が繋がれてきたわけである。
この文を今現在、生を持って今正に目なり耳なり知覚器官を持って知覚している通りである。

また現代の病巣に脱線してしまうが、本来的に人を人たらしめるために、親が子のためを思って残してきた言葉のはずであるのに、それを「頑張って履き違えて利己のために使うだけ使って、絞り切れるだけ絞り切る」というのが現代の病巣たる、所謂左側であろう^^;(やれやれ)

しかし、この文脈を深く知ってもらうと分かるように、彼ら(所謂左)さえ、現代では「必要悪」であった、と言えるのである。(この文脈で足りなければ、既述文書をどうぞ)

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現代科学者は大変なもので、純粋に数学とか物理の世界に溺れていたいと思っていたにも関わらず、しれば知るほど、いやでも形而上学に相対しなければなら無くなってきた時代とも言えよう。
しかし学問とは(学問に限らないのだが)ある程度醸成されると「原点回帰」ともいうべき現象は定期的に起こるものであって(人の一生のスパンで見るとそれに出会う人の方が少ないので「まさか現代科学時代において、まさか自分が」と思うかもしれないが、歴史的に見れば必然なのである。念の為。)、今回は我々が勝手にひいた「形而下」「形而上」という【線】を跨るかもしれない話に「なるかもしれない」というだけである。

最後になるが、所謂左について言えば、これまでまんまと教育関係とか学術会とか手中に収め(たと錯覚し)て「しめしめ」と思っていたかもしれないが、つまり、そこには「科学者が(現代でいう)非科学的なことを【言うはずが無い】」と言う都合の良い前提で猪突猛進に邁進してきたのかもしれないが、その科学者連にまんまと象や猪の勢いで轢き殺される構図であろう。(科学者は科学に生きると言う点を甘く見ていたのであろう。)

まぁ百数十年だか数百年だかは知らないが、「こんな浪費をしてはならない」と後世に伝えるにはちょうど良い歴史になるであろう。(とほほ)

2023年8月9日水曜日

転生とか脳移植について

私が子供の頃は「転生」というのは、ゲームの女神転生くらいでしか聞いたことのない単語であった。(その時分も「女神転生」という固有名詞という認識で、果たして「転生」とはどう言った意味を持つものかということまで深く考えたことはなかったし、同世代を生きてこられた、当時子供だった方々も同じようなものだったと思う。と言うか、一体どう言った意味を「女神転生」というタイトルに込めたのか?と聞けるなら聞いてみたい^^)

大人になってサブカルチャーから離れていたが、どうやら最近(というか結構前から?)は「転生もの」が流行してるらしいことが分かった。
(そして、どうも「生まれ変わり」の別称的に使われていることに、純粋に驚いたものである。みんな広く薄く仏教徒になったのだな!と感銘を受けたものである^^;まぁ昔から今まで日本は広く薄く仏教徒でもあり神道でもある、と言うだけのことでしょうが。)

ということで、せっかくなので転生について書いておこう。
※本記事は色々な分野を駆け巡るので、読まれる方はご注意ください。(多分、ある程度の覚悟を持って読んでいただいた方が良いかもしれません^^;)

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いきなり核心になるのだが、意識とそれを受け持つ体、つまり器はそれこそ「一蓮托生」の関係ということ。

転生シナリオで考えれば、生まれてから受容体(受容器)たる体と共に成長し、「馴染んで」行くので脳が勝手に調整してくれるので問題ないだろう。
よく見るシナリオとか、古代からの生まれ変わりの概念は、この受容器との関係性はとりあえず「うまく整合した」前提で成り立っていることが大半(というかほぼ100%)である。

ここで言うことは、転生・生まれ変わりがもしも「当然」である側からすれば、ものすごく些細な指摘になるかもしれないことを先に述べておくこととしよう。
また別にその点に茶々を入れようとしている訳では無い点も先に述べておこう。

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空想に遊んでいれば何ら問題はないのであるが、ちょっとでも具体に踏み込むと、どうしても問題として出てきてしまうのが、受容器との関係性である。

「無くて七癖」と言われる通り、意識側なのかそれとも受容器側なのか、それともそれらの関係性=縁の問題なのか、更に言うとそれら関係性にも「比重」要因も重なって、その「人」の「癖」になるのであろう。

これをいくらこのまま話を進めても、依然として雲の中を漂うような話になって終わってしまうので、反論的、逆説的な観点から照らしてみようと思うのである。(ショック療法的な考えだろうか?)

前提が長くなってしまったが、私が以前から思考上で遊んでいた、たわいもない戯れと言って仕舞えばそれだけなのであるが、まぁせっかくなので記しておこう。

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無論、現状では、現代科学的に言って仕舞えば「仮説」なのだろうが、「転生」「生まれ変わり」が仮にあったとしよう。(数奇なことに量子論の解釈次第であながち否定もできなくなってきたともいえようか。※但し、いつの時代もそうであるが、こういった新しい分野では科学と非科学が入り乱れるもので、(結果的に)神秘論者的な話も入り乱れるので注意は必要である。)

その手の届かない空想・仮説に何とか光を当てられる、現世上で具体的に考えることができる事柄として脳移植があるのではないだろうかと思った訳である。

倫理とか道徳とかの話に勿論なるのであるが、一旦論を進めよう。(そして最終的には転生とか生まれ変わりもその点に収束していく訳であるが、それはおいおい分かるだろう。)

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まずは、仮に脳移植が実現できたとして考察しよう。
脳といっても、どこまでを脳とするのか、それこそ神経とか血管は人それぞれで、脳のどこと受容器(体)のどこを結べば「移植」と言えるのか、と言うとことん具体的な話になっていくのであるが、である。
脳近辺だけで見ても、耳との関係は?鼻は?目は?舌は?体全体とは?となってくる訳である。

ここではそれらの問題点が解決されたとして話を進めるのである。
つまり受容器の受容器官からの情報は、意識器(脳または心。後述)に「正しく」伝えられる状態を仮説するのである。

めでたく、そこまでの状態になったとして、麻酔から覚めたこの「人」は一体どうなるであろうか?
結論だけ述べるが、考察するに、ほとんどのケースでは、この「人」の「意識器」はあまりの受容器の変化についていけず、言うなれば錯乱状態に「常に」陥り、結局として「中有」に帰って(行って?)しまうのではないかと思われるのである。

例えば歯並びは自分で長年親しんできて意識器も慣れ親しんできたからいいものの、最初に述べたようにそれらがいわば「七癖」ともいえる訳であるが、本ケースでは他人の癖が直球として自分の感覚に常に投げ掛けられるのである。
自分でも「気にならない」ことにしてるのかもしれないが、一旦意識すれば気になり出すものであって、そこに陥ると当分その点に囚われてしまうのである。(もしもこれを読んで、これまで気にしてなかった点・やっと気にしなくて済むようになったを、気にし始めてしまったらごめんなさい^^;(と言う意味で本考察はかなり覚悟を読んでください、と言う意味であった。ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読み進めてこられたと思うので問題はないと思うのだが。))

自分では気にならない、と言うか意識器たる「私」が勝手に「気にしないことにした」ともいえよう。
脳移植とは、それが昨日と今日で完全リセットされるとも言えるだろう。
歯並びだけ言ってしまったが、無論それも一つの執着ポイントにはなってくるのだが、例えば、以前の受容器では「痛み」でなかったポイントも新しい受容器では新しい「痛み」として感受されてくるであろう。(逆に言うと他人からすれば「痛み」であるはずなのに、当人には「痛み」ではなくなるのであるから意識器(脳)とはすごいものである。全体的な点で言えば、「体全体のバランス」が実際にはものすごい違和感になってくるだろう。左右のどちらかにバランスが偏ってた人が、左右反対の偏りを持つ体に移った場合など。正に「気が狂う」レベルでストレートに間断なく頭に電気信号が入ってくるのである。「拒否」はできないわけで、人によってはすんなり受け入れることができる人もいる(おそらくは意外とこれが大半?)だろうし、受容できずに気を失ってしまう人もいるだろう。再度目覚めて再度気を失ってを繰り返してちょっとずつ慣れていくのも実際に想定されるシナリオである。最後のケースは、環境適応能力の低い方はどうしても自分を合わせられずに、受容器最終防衛機構とも言える「発狂」(中有へ帰る・行く)を発動するかである。)
(おおよそテレビでしょっちゅう出てきるみなさんの悩みポイント(腰とか首とかあごとか膝とか目とか耳とか…あぁキリがない^^)がそのまま新しい宿主の「何じゃこれは?」と言う「痛み」とか「気になる感覚」になってくるのであろう。)

想像を逞しくしていただきたいのは、それらが「常に」「嫌でも」意識器たる「脳」に入ってくる、と言うことである!

(映画マトリックスで「ネオ」は「目覚めた」後に錯乱してしまったが、おそらくそれを遥かに超える錯乱状態であろう^^; 幸いそこまでにならなかったとしても、最初の例えで言えば歯並びだけは気になって、最初のうちは舌で歯をチェックしまくって舌が筋肉痛になるくらい動かしまくるだろう。そして一旦「しょうがない」と見切りをつけたつもりでも思い出した頃に再度同じチェックをし始める。。と言うことを繰り返して見事にその人の「癖」になる訳である(めでたしめでたし^^;) こう言うことは正に執着するかしないか的な話に昇華されるのであるが、つまり自分との戦いなのであるが、外部要因で呼び起こされてしまうことも、またあり得ると言うことである。(なので繰り返しになってしまって申し訳ないが、本考察はかなりの覚悟を持ってないと読まない方が良いと言った次第である。これも一応繰り返しになるが、ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読んでこられたと思うので問題はないと思うが。 更に付け加えておくと、その点はあくまで自己の問題であって、本論からすると些細な点ということである。主旨としては古典的なアートマンの実在性や、現代的な量子論的な「非局在性」であって、むしろそちらで天地がひっくり返る、という意味での警告である。))

(なお、「常に許容量を超える外部要因が、抗いようもなくなだれ込んでくる」という点については現代的脳科学の話でも扱えるだろうが、人は防衛本能としてあまりにも耐えられない状況になると逃避する機能が発現されるのである。生物として本体(受容器)が死滅するよりはマシですからね。。あるいは本体側が持ち堪えられなくて心停止するか。)
(そもそも誰も知らないかも知れないが、例えば細胞も生きるのに一生懸命なのであって、それをたまたま仮の住まいとして居候しているだけである。(※少し大袈裟に「誰も知らない」と書きましたが、これまで真理を知られた方はもちろんお気付きの点。)
所謂意識器が勝手に主人と思うこと自体がものすごくおこがましいのであって、例えば「生を受けて世の中で何でこんなに私だけ大変な目に遭わなければならないのか?」ということを、先ずは何も愚痴も言わず健気に頑張っている人に問うべきであろう。「表裏一体」とか「気づいてないだけ」とか詩人的にこれまで数多言葉が尽くされてきたはずなのであるが、それも結局「受ける側」が受けなければ何の意味もないということであろう。)
(敢えて裏を返すのだが、(それも何かの気付きになれば)、如何なる生であったとしても、生を受けた時点において、漏れなく気付かずに意識器と受容器の関係性だけにおいても、例え意識器側が「虐げられるばかりだ」と思っていたとしても、意識器側は厳然たる「支配者」側なのである、ということ。
※うーむ、「厳然たる支配者」と言ってる時点ですでに意識器側が主体に傾いてしまっている。難しい。。)

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途中で述べた通り、勿論最初に倫理問題、道徳問題を超えた上での話なのであるが、実際にやってみて中有に帰る/行ってしまっては意味のないことであって、それではこれは、受検者の「許容度」の高さや適応能力の問題になってくるのか?的な話になってくる訳である。
(恐ろしい話であるが、それだけのためだけに、つまり統計を取るためだけに「実験」はしてほしくないものである。利己主義(いわゆる左)の独裁国家とかだともしかすると既にやってそう?恐ろしや。。)

哲学とかでも出てくるが、いくら目玉だとか手とか足とか頭をより合わせてくっつけても「人」になるのか?と言う話。逆に言うと人の実在(アートマン)はどこにあるのか?目玉なのか?手なのか?足なのか?脳なのか?心なのか?と言う話である。

紙とペンだけで生み出された最終最大の理論は相対性理論とか言われたりするが、「人」の実在・実態の非局在性について、はるか2,500年前にそれこそ「瞑想」だけで導いた訳であるからよほどすごいことである。
現代ではどうしても仏教という宗教としての側面でしか見られないのであるが、ブッダがそこに至った考え方の原点は、神はいるのか?とかアートマンはあるかないか?とか、いわゆる形而上学上の不明点について論争しても意味のないことであって、分からないものは分からないものとして認め、その上で如何に人として生きるのか?という点であろう。人に対する姿勢であり、哲学(宗教)に対する姿勢であり、また科学に対する一番真摯な姿勢と思うのである。
(私的には四諦よりもより深い根本原理だと思う。四諦もまたこの根本原理から生じたとも言えよう。もしもこれを提唱したのが私が最初のなのであればラッキー^^✌️)

仏典でもアートマンの話については車で例えられてるので、ここでも車に例えるとしよう。
車を作ると言って、いくら車輪やシャフトや車体やシートを持ってきて接着剤でくっつけたとしても車とは言えず、それらを意味ある状態で組み合わせて初めて車として成り立つのである。
人であれば目とか耳とか体とかの感覚器官(および生命維持するための体)が意味ある状態、つまり有機的に組み合わさって、初めて生命を持った人として成立するのである。(縁ですね。)
そして今回の問題提起の通り、それを受容器と呼ぶならば、そこに意識器も有機的に結びついて本当の人と言えるだろう、ということである。

車は全体を捉えて車と捉えることと同様に、人は全体を捉えて人と捉えられるのである。
車の実体はどこだと言って細部を探っても車のアートマンが存在しないのと同様に、人のアートマンを探そうと細部を探し出すと、途端に人の実体は捉えられなくなるのである。
ちょうど「心はどこにあるのか?脳なのか?心臓なのか?」という現代科学に似ている。
(宗教サイドで言うと魂とかになってきますね。)

今回の問題提起では、「思考するための最重要器官」たる脳を移植することでどうなるか考察してみた。脳は勿論情報処理する上で欠かせない器官なのであるが、また同時に一つの受容器とも言えるのである。
例えば本ブログを書いてて、上記の「今回の問題提起では」の箇所を記載しようとした時、頭を働かせながら文章を生み出していることは分かるのだが、それはこれまで生きてきた私の脳が情報機関として勝手に「自分」だと認識して「自分はこの文章を書こう」と思っているのか?と言う問いである。自発性とか主体性というのも単なる脳の情報処理の結果なのだろうか?
もしそうならスーパーAIが完成したら自発的、主体的に活動していくだろう、という点は多くのSFや頭のいい人の話の通りである。(現状では流石に政治までは行ってないですが、このままの勢いだとものすごくすぐに話が出てきそうですね。)

切り口を変えよう。脳移植ができると仮定して考察したが、それでは、右脳だけとか左脳だけ移植したらどうなるのだろうか?(仮定したとおりこれも技術が進歩してできるものとして考える。)
本体側がAさん、脳を移したい人がBさんだとしたら、半A半Bさんが完成するのか?

そしたら先ほどの例で言うと、「文章を書こう」とする主体は一体どちらの主体性なのか?
その人の「意識」も多重人格的になるのか?それともAさんとBさんを足して2で割ったような人格になるのか?(最初の考察の通り、まずは脳移植の環境適用できた前提)

(脱線するが、多重人格者のケースを考えると一人の受容器たる人の中に複数の「意識」が入ることもあるのだな、と思った。重ね合わさったような状態だろうか?
また、今まさに「自分」だと思っている「自分」も意外と色々と足して割って出来てるかもしれないと思った。
そもそも「自分は自分だ」「自分が【今ここに意識を持って存在している】のは自分しかいない」と言うことも、もしかするとおこがましいものなのかも知れず、自分で勝手にそのように思い込んでるだけかも知れない。
ただし注意点としては、初心者は「では自分は自分では無いかも知れない」と本気で思い込んでしまうと、今度は下手すると自分を保てずに精神崩壊してしまうので、初心者はあまりこの点には首を突っ込まない方が良いかも知れない^^;

肉体的特徴と合わせて考えるのであれば、我々はおこがましくも「自分は自分だ」「自分の個性は自分しか有せず、自分からしか生み出せない」とか思ってしまっているが、実は身体的特徴の直接的・間接的な影響で「個性」に「なった」だけなのかもしれない。(我々は一体どれだけ烏滸がましいのだろうか?)
今回の脳移植の例えからも分かる通り、肉体的特徴で「個性」さえも決定、または形作られるとか、少なくとも「何かしらの直接的・間接的な影響」を受けていると言える。
(このため、鬱対策にもある通り、心を治す場合に「体」から変えることが有効であることからも、この考えはあながち間違っていないことが分かるであろう。医療分野の一つに伝統療法があるが、先人は「なぜか分からないけど有効」ということはそれこそ「智の蓄積」として積み上げて来て頂いたのであるが、我々現代人はそれをなんとか「科学的に」分かった・理解したものとして、「科学的にも有効であることが証明されました」と言っているだけである。ただし思うのは現代科学で証明できたのは、100%のものも中にはあるだろうが、実は有効性の数%分しか証明できてないと思うのである。つまり「現代科学では有効性は認められない」と偉そうに(失礼!)判定されて忘れされたものであっても将来的には「やはり有効であった」というものは数多存在するのだろうなと思いを馳せるのである。なお失礼ながら「先人はなぜか分からないけど有効」と表現させて頂いたが、よりよく考えると実際には本質を分かっていたとも思えるのである。(それを残す・表現する手段がなかっただけ。))

敢えて上下関係として捉えるのであれば肉体(つまり五蘊。今回は受容器と呼んでる)が上というか土台にあって、意識(心とか魂とかに錯覚されるもの。今回は意識器と呼んでる)が下であるのだが、「実体と連続性を認識してると錯覚」しているが故か、どうしても自分が上だと思ってしまうのである。
いざ肉体を変えた時に自分も変わったということを自覚した時に、我々は「はっ!」と気づくのか、それともやはり「自分は自分だ」「自分が変わっただけだ」と思い続けるのか、といった問題であろう。
脱線終了)

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ちなみに実在するかどうか不明であるにも関わらず、実体があると錯覚して、かつその存在が一瞬前と現在と未来へと連続して続いていると信じているからこそ人が人として成り立ってもいる。(次に何をするかとか計画も立てれるし、物理法則を割り出したりすることもできるし、未来予測もできる。などなど)
連続性を信じるからこそ過去のことも記憶できるとも言える。(「記憶してるという錯覚」と言うべきか。)
「心ここに在らず」の状態だと学校の授業を聞いても何も頭に残らないように、現実から心が離れているとその間の現実で起きてることは頭というか記憶には残らないのである。
(簡単に「ちなみ」の話を追記しておこうと思ったが、これはこれで1本ちゃんと書かないといけなそうな気になって来た^^)

つまり失礼ながら所謂ボケてしまったり、別の世界(中有)に行ってしまった人は、私たちが共通認識している「現実」はその人にはどうでも良いのであって、正しく「心ここに在らず」状態なので「記憶」という意味さえ成り立たない状況と言える。その人にはもはや「現実の記憶」など取るに足らないのである。
記憶できなくなる症状はもちろんこれだけが原因ではないのであるが、ただしこれはそのうちの一つであろう。

通常であれば実在の連続性を疑うという発想が浮かぶわけもなく生きてる訳で、もはやその点にがんじがらめに縛り付けられているようなものであり、またそう言った大半の人を「正常な人」として社会を作っているわけである。
しかしここまで見て来た通り、中有に住む人(「正常」側からすると失礼ながら「異常」と呼ばれている人)、つまり実在と連続性の錯覚から離脱された人は、実は世界を本当の意味でありのままに見ているのかもしれない。
生きてる人の場合だと上記の通りなのであるが、我々も死ぬ時は同じ世界に行くわけであり、現実世界では死亡して体が動かなくなるので周りからは見た目上分からないだけであるが、もしも動くことができるのであれば同じ状態になるのであろう。



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最初に述べた通り、これはあくまで思考実験である。
むしろ主眼は量子論で言うところの「非局在性」とも言える。
本論は、その点を考察する上での「後ろ側から光を当てる」と言うだけの考察である。

十分注意の上、考察いただければ幸いである。
また、これを受けて量子論的な非局在性についての再考察上の手助けになれば幸いである。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...