2023年8月21日月曜日

量子知覚論 - 量子論的に知覚を考察。それはつまり主体と客体の発想の逆転。

知覚とは何か。例えば指先の触覚であれば指先の色々な触覚受容器と外界の相互作用によって、指先の触覚受容器がシグナルを検出したことであろう。

※URL検査で「タイトルが短すぎます」と怒られてしまったため、タイトルは何とか振り絞って仰々しいものになってしまっております^^;

どうも観測者と被観測者の関係は、「自己」の概念のせいか分からないが、つまり自分=観測者、外界=被観測者として「勝手に」前提を作り出してしまうため、本当の関係性は見つめ辛いようである。

もしも幸にしてこれを達観できたとすれば、世界とは、まさしく天地がひっくり返って、「自己」の中心、仮に心臓のど真ん中とでもしようか、を中心にして内臓を全て外界にめくり出すような状態とも言えよう。
極論すれば主体ではなくて、完全なる客体ということ。
※とりあえず説明を簡単にするため、自己の中心を心臓のど真ん中としたが、そもそも自己の中心を探ろうとすればするほど見つからない=つまりアートマンは「これです」というものはなくて、代わりに言うとすれば人とはその全体像を持って人と成っていると言えるので、そこを掘り下げたい人は別資料を読んでください^^;
→一応ですが、ここにも書いてあります。「転生とか脳移植について

ーーーーーーー
ある意味、この「主体であり、同時に客体である」と言うことを知ることが先ずは第一段階とも言えよう。

ーーーーーーー
話を転じて、今現在(2023年とかです)では、そろそろ「当たり前」くらいの話になってきているが、かといって初学者とか、もちろん根本的な検証とかでもまだまだ必要な部分であるのだが、例えば二重スリット実験とかで量子論を分かり始める人もおられよう。
極論すればこれは「非局在性」になると思うのだが、やはり観点は観測者と被験者の関係の域を出られていない、とも言えよう。(人が観測者で、電子とか光子とかの量子が被験者という前提。)

ーーーーーーー
ホログラフィック宇宙論とかもあるが、無論エントロピー的には計算通りになるだろうが量子的な非局在性がどのように絡んでくるかということであろう。

ーーーーーーー
トピックだけ書いてしまったが、本論で述べるのは、量子的な知覚論である。
つまり、今ここで私が知覚したことは、量子的非局在性によって、別の場所の別の時間で知覚できるという事である。(勿論、別である必要もないので、同じ場所で同じ時間で知覚する事も当然含む論である。)

古典的に幼稚的に考えれば、量子もつれを「集合」させて知覚器官を作って、「正反対」にも作れば「理屈上はできるでしょ?」的な話である。

多世界解釈を持ち出してしまえばむしろ簡単で、今現在の指先にある知覚器官を構成する分子なり原子は元を辿ると、量子もつれの対を成した量子の片割れで構成されていて、無限の可能性の中で、それら全ては「奇跡的に」今現在私の指先を構成しているので、今まさに何かに触れたとすれば、それは瞬時に「裏の世界」の私に知覚されるのである。(めでたし、めでたし^^;また、無論「私」でなくとも別の人でも良いのだが。)

しかしこれではあまりにメルヘンすぎるであろう。(ギリギリ現代では通じるかもしれないが、数十年か数百年か数千年後には、今の我々が過去の人を(失礼ながら)微笑んでしまうように、将来人に微笑まれてしまおう^^;)

「無限の可能性」は結構なのであるが、ややもすると雲散霧消しまいかねないシビアで繊細な問題であるがゆえに、数学的・物理学的な「確かな結びつけ」が必要なのである。

この分野は、ひょっとすると「意識」の何たるや?という古代哲学の問い・遡って人類の問い、さらに壮大に言えば有機物、否、非生物さえも含めての、つまり宇宙としての「この宇宙は何をやりたかったのか?」という点にはるかに遡っていくのである。

ーーーーーーー
もう少しだけ書いておくと、最近は幸いにも統計学とかもあるので、「如何に人として全うするか」ということは、やはりというか当然というか「宇宙がどうしたいのか」という点と一致すると思われる。
(現代ではこの文脈で宇宙というと途端に何故か胡散臭くなる^^;
無論宇宙とか大それた壮大なものではなくて良いのだけれども、そうすると現代では「我々上も下も右も左も老いも若いも男も女も、動植物も土地も歴史も全て含めた構成員の【最大幸福】」くらいになるだろうか。しかし【最大幸福】というのも現代的というか、もう少し政治家は歴史とか踏まえて頭を捻った方が良いのでは?^^;(将来人に「微笑まれ」ますよ^^;))

「如何に人として全うするか」という点は、寧ろ哲学なり宗教なり道徳なりで代々脈々と命が繋がれてきたわけである。
この文を今現在、生を持って今正に目なり耳なり知覚器官を持って知覚している通りである。

また現代の病巣に脱線してしまうが、本来的に人を人たらしめるために、親が子のためを思って残してきた言葉のはずであるのに、それを「頑張って履き違えて利己のために使うだけ使って、絞り切れるだけ絞り切る」というのが現代の病巣たる、所謂左側であろう^^;(やれやれ)

しかし、この文脈を深く知ってもらうと分かるように、彼ら(所謂左)さえ、現代では「必要悪」であった、と言えるのである。(この文脈で足りなければ、既述文書をどうぞ)

ーーーーーーー
現代科学者は大変なもので、純粋に数学とか物理の世界に溺れていたいと思っていたにも関わらず、しれば知るほど、いやでも形而上学に相対しなければなら無くなってきた時代とも言えよう。
しかし学問とは(学問に限らないのだが)ある程度醸成されると「原点回帰」ともいうべき現象は定期的に起こるものであって(人の一生のスパンで見るとそれに出会う人の方が少ないので「まさか現代科学時代において、まさか自分が」と思うかもしれないが、歴史的に見れば必然なのである。念の為。)、今回は我々が勝手にひいた「形而下」「形而上」という【線】を跨るかもしれない話に「なるかもしれない」というだけである。

最後になるが、所謂左について言えば、これまでまんまと教育関係とか学術会とか手中に収め(たと錯覚し)て「しめしめ」と思っていたかもしれないが、つまり、そこには「科学者が(現代でいう)非科学的なことを【言うはずが無い】」と言う都合の良い前提で猪突猛進に邁進してきたのかもしれないが、その科学者連にまんまと象や猪の勢いで轢き殺される構図であろう。(科学者は科学に生きると言う点を甘く見ていたのであろう。)

まぁ百数十年だか数百年だかは知らないが、「こんな浪費をしてはならない」と後世に伝えるにはちょうど良い歴史になるであろう。(とほほ)

0 件のコメント:

コメントを投稿

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...