2013年6月14日金曜日

イデオロギーに挟まれ矯正されること

世に目を移しイデオロギーに挟まれ、その視野しか見れなく矯正されてしまった人々を見るとかなしい。

自分の核は自分で確立するものだが、外部からの強制や自ずからの依存により、自分を明け渡して委ねてしまうのはかなしい。

我々は外部からのいかなる強制に対してさえ、自分内部の「意思」の自由は放棄しなかった歴史を見て知っている。
(自由獲得の歴史。統制側からはいかに「意思」まで支配できるかの歴史。古典的には力による手段だっかが、現代では統制手段が巧みになってきたのが見てとれる。おそらく大半は気付いていないのではないだろうか?この相の考察も深大である。)

もし素晴らしいイデオロギーがあるならば本質は何か、あの立場からはどうか、この立場からはどうか、と参考に値するか、それこそ異質のものを強要された歴史を噛み締めながら考えなければならない。

そして「偏向の発生」に書いたように偏らず、本質を真っ直ぐ見られなければならない。
色眼鏡をかけず、曲がった見方をせず、見抜かなければならない。
それはあらゆる立場をわきまえ、千の顔を持ち二千の目を持つことである。

過去の強制の時代にありながら自分を曲げなかった人、屈してしまった人。それらの幾多の無念。

現代、これだけ強制の無い時代にありながら安きに流れる人。

自分を明け渡してしまうことの勿体なさ。

流れやすい人、屈してしまう人、どういう教育をし、どういう環境で育つとそうなるか、逆もしかり、は教育分野や国家的分野で研究されてきた。(もしもまだなら、ここに分野を確立する。過去に書いた環境に関する論の一部には含まれるか。)

それを悪用するとは言語道断である。

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