よく、「一生許さない」とか「一生恨む」とか言うが、それを言う事はせいぜい小学生位までのレベルであることは、もはや遅れでも知っているだろう。
一生というスパンで恨むということは四六時中、恨むことに至った精神状態を保ち続けることであり、「もうやめた」という発言を自ら禁止することである。
小学生位までの間にそいいった事を本気で考え経験し、結局それは利己的であることに思い至る経験をしたものであれば、「一生を対外の抑制、管理、介入に捧げる」事は愚かな考えだと会得する。
一国一城の主がのうのうと、誰も止めること無く言えることは、まだいい時代があったものだと後継者が悼まんでくれればよい。
当主はよほど恵まれており、最大の幸福者である。
側近も恵まれものに類しているから気付かないのだろうが、それをさせない規制や制度を懸命に確立するがよろしい。
周りは「やらやれ、早くちゃんと話ができるくらいの脳は持ってね」と温かい目で見守ってあげるしかない。
このような低次元の事は歴史的ノイズとして発生し得るものだから構わないが、根幹にあるものは如何にその量を知り、一時の利己に溺れぬかということであろう。
「その土台が形成された原因は外部にあり」と言うのであれば少しは議論の余地はある。
しかしそこからは対話のスタンダードが適用されるため、「よがり」は入る余地はない。
(これいいことに他人の土俵でにわか相撲をとりたがるから困ったものだ。)
低次の議論を振り返れば分かることだが、彼らの手法は相手を感情論に引き込むことである。我々は冷静さを失わず引きずり込まれることはないが、一部まんまとスイッチが入ってしまった者も居よう。
仕掛ける側としては、人々を攻撃者に仕向けようと意図していることになるが本当に後悔しないのか?
大義(があるか知らないが。またあったとしても利己的な半端なものだろう。大義という言葉が勿体ないので小義と言おう。)のために人をもの扱いした者の将来は暗いものだ。今は小義のためと猛進しているのかもしれないが、引退し落ち着いて振り返り良心にでも目覚めたらどうなるだろう。
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