自己が正しいと「没入」すること。
いくらでも理屈はこねくり出せる。
森を見ず木を見ること。
没入すると迷いの葛藤さえ消え去り
あたかも根幹であると自覚しうる。
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それが今まで言ってきたいかに最大の
客観者になるか、生涯、歴史を通して
色眼鏡をかけずに居られるかということ
である。
1代の強者、猛者はいるが、発揮するところ
およびその者の理念、根幹を見て残念な
ことがあまたあろう。
せっかくの気骨を持ったものを先導する
こともまた手口であり、もはやそれを
生命線してる節がある。
そこまで分かるくらいの分別があれば、最大の
客観も分かろうが、それは受け入れない、
理解しても最大限の忘却(過去ブログ参照。
忘却について)を駆使して代々の「ダダ」を
こねるに生涯を浪費するのである。
自己のリソースの浪費であれば「よしよし」と
悟らせればよいが、自己ではなくあらゆる他を
道連れに無に帰そうとする、そうなってしまった
ものが哀しい。
ここで述べるのはその救済の遙かなる時空の
一葉なのである。
すべてを無に帰そうとする、そのあざにしか
陥れなかったものに対して感謝し、
歴史を通して救済がそれらを温かく殺さずに
残存させる叡智を我々は知っている。
現在の陥れでさえ、それら過去の陥れの幼稚さは
知っているが如しに、現在の陥れは未来の陥れに
さえも幼稚となる。
せっかくの現世の猛者の盲者ぶりをみるがつけて
哀しいがゆえに、ありきたりのことを
延々と語ってしまった。
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