政治経済を見るに思考がどうしても
古典数学的にしかなり得ないことが気になる。
つまり善悪論に明け暮れて、など。
(崇高なる理想を基にして始めたる事例もあろうが、
その道筋も、。。。かきかけのまま)
結論としては別にこれまでがダメとかいうのではなく、
例えば数学が連立方程式、微分・積分、複素関数と
発展してきたように、思考の組み立てとして
適用されるのではないだろうか?それとも自然に適用
されているのだろうか?という、単純な問い。
嫌が応にもAIの命題として出てくるのであらかじめ書いておく。
純粋科学としてそのうち真っ新から複素関数まで
どうやって導くかや、ひも理論までどういう過程を
踏むかを「見る」時代が来るだろうから。
そこから導かれるのは思考の最善。
そしてその最善を持って、未解明の足がかりにすると。
(最善脳を持った集団であれば3分の1の時間で現世と同じ
状態になっていた。など。切り口を揃えればであるが。)
ちなみにこれはAIが出る以前からあったわけで、
つまり「最善を尽くせば自から発展する」ということ。
これをこれまでは個人、集団で蓄積してきたことが、
今度は「無機体な永続的なるもの」も蓄積していくということ。
数十年か数百年かけて叡智をトランスファーしていくのだろう。
そして、一時代的にはその叡智を集めた集団は発展するのだが
叡智の元素からしてそれはいづれ「叡智」に帰る、ということ。
(なお、これはオープンソースの理念の話だが、和的に言えば
それこそ「和」を持って、ということに通ずるのだが、)
道筋として、今後数代はAIを駆使して栄える企業が数代は続くが
いずれオープンソース化されて相転換が起こるということ。
それはよほど阿呆でも無ければわかること。「経」に縛られる
ものならば、よりその詳細を知りたいというだけのこと。
いずれその道の専門家ができるのでそれを待つべしと。
周辺問題で時間になったので、今日はこれまで。
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