解明すればやすきことなれど、
それらは詭道を地でいく方々なので
何でもかんでも天日に晒せばいいくらいにしか
結論しないのである。
幸いこれまで頭隠して尻隠さずのごとく
詭道の仕方を教えてくれたので、お望みの通りに
同じ土俵に立ってあげれば良いのである。
裏の本心は出さず、外部からは辿れないようにして
「証拠」は残さず詭道を行うのであるが、
ただそれに専念できる暇人は幸いである。
林檎にたかる青虫さ加減いかばかりであるが、
くだらなさを通り過ぎるので追求はしない。
(以前書いた通りあちらにも「頭のいい」方々は
見た限りいるはずだが「乗せ」られてしまった
方々が哀しい。)
よく見えたこととして、まぁこれも以前書いた通りだが
いかにバカを前面の防波堤として出すか、ということを
よく実践している。
(前面に出る本人にその意図を気づかれずに。)
これは一番時間が稼げるからである。
これは誰が言うでもなく、ちと簡単すぎた。
ゲーム感覚でモンスター召喚ぐらいに思っているのだろうか。
↑直接的嘘から見れば比喩にもならない「無」の戯言。
結論すると、なんだかちょっと前に大きくなりすぎて
収拾がつかなくなった嘘を謝罪したが、あの、あちら陣営としての
不調和音を見ると、現世の良心が漏れてしまったという、
あちらとしての大事件だったのだろうか。
あちらの回顧録があるのかないのか、世に出た試しがあるのか
ないのか知らないが、「握らされて」いれば回顧録は残るまい。
(おそらくそれが鉄則一丁目一番地なのだろう。)
残さないという鉄則を守りきって例えば地下1,000メートルに埋める
ことで残した方がいただろうか。(自己解決として、地下1,000メートル
イコール「地獄まで持っていく」と自己解釈して。)
残るが残るまいが、それらが天日に晒してくれた、垣間見させてくれた
身をもってすでにレントゲンは取れたので、どうぞ隠し通したと
安心して滅してくれれば良いと思う。少なくとも幸いに
これを読まずに済んだ方々は。もし読んだら陣営として危機感を
持ってくれれば良いと思う。
アドバイスとして身の捨て方が徹底してないのではないだろうか。
それらの理念から創出された理想としての「日本を陥れる」という
大命題を社員全員に徹底できているのか。
最近ちらほらと内部から告発本が出てきているのは徹底が甘すぎる
のではないだろうか。
裏を裏でいくやり方を切磋琢磨して築きあげてきたのに自らが
日に当たるとは何事か。
(西洋では日に当たると焼ける悪魔がいる。日とは抽象であるが
本質は「公」である。西洋に限らず全世界でこの考察が無かったのなら
これを原初とす。(「せちがない世」参照。))
中期的展望としてそれらは寝ぐらを変えざるをえまい。
裏は裏で必要である。今回はあちらの馬鹿さ加減ゆえに
まんまと最新の切磋琢磨された詭道方法を明らかに入手して
しまったが、このアドバイス(?)を含め蓄積し出すだろう。
我々が考えなければならいのは、いつまでこの
単純な2元論から脱却できるのであろうかということ。
(哀しいかな、世の「教」の諸元となんら発展していない。)
当初書いた通り別に私は諦めないのだが、世の聡明なる
志士はより地面に足をつけ、世の肥え太った英者は
より三世を直視していただきたいのである。
卵が先か鶏が先かであるが、世の累積して何兆か何京か
何垓か、…(なんか前に書いた記憶がある)…何無量大数か
知らないが数多声なき声を前にして、というだけなのだが。
肥えたければ肥えれば良い。
世を嘆きたければ嘆けば良い。
恨みたければ恨めば良い。
忠誠を尽くしたければ忠誠を尽くせば良い。
反旗を翻したければ反旗を翻せば良い。
盲目でありたければ盲目であれば良い。
楽をしたければ楽をすれば良い。
正直者の困る姿を見て発散したければ、正直者を困らせれば良い。
ぬるま湯に浸かっていたければぬるま湯に浸かっていれば良い。
下座行するものの頭を踏みたければ踏めば良い。
人を陥れたくれば陥れれば良い。
無表情でいたければ無表情でいれば良い。
無感知でいたければ無感知でいれば良い。
五感を捨てたくれば五感を捨てれば良い。
無ければ無ければ良い。
有れば有れば良い。
受ければ受ければ良い。
感ずれば感ずれば良い。
有機体なれば有機体なれば良い。
感謝したければ感謝すれば良い。
宿命あれば宿命あれば良い。
宿命無ければ宿命無ければ良い。
形成あれば形成あれば良い。
形成なければ形成無ければ良い。
ありもなしも受けるも発するも有個体。
受ける発するを起点にするからゆえの有個体。
ありなしからすれば飛んだ大きなお世話であり
有個体は単なる発生者。
例えるならばキノコのようなもの。
前の人は「超」発生したり、「葦」に例えてみたり。
現世的に言うなればマクロ的にそして瞬時にミクロ的に
自己を捉えているか、ということ。
マクロ的には宇宙の片隅の一瞬の炎として。
ミクロ的には誰も侵すことのできない「今この感覚を
自覚できるのは自分だけだ」という脳なのかハートなのか
視界なのか聴覚なのか、…いわゆる五感なのか、では
五感が全ておろそかになったら存在とはどうなるのか、
…ということ。
ドライに言えば、否ドライな方が良いのだが、
極端にはドライにしか言えないのだが、
「加護」の期間は決まってるのであろう。
よって極論すればいつまでも「公」に臆面もなく
駄々をこねる「恥」を日の本に「公」言し得る
あさましさを暖かく見守るのである。
(おそらく手に負えなくなった元締めもやれやれだろう。
そうして野に放ち、誰も手に負えなくなったものを
あるものは「やれやれと」あるものは「必然と」よいしょ
よいしょと汗を流すのみ。)
(考えるのは簡単。考えてまんまが食えれば最高。
そうではない。単純明快な答えなのだが。。。
涅が寝込むのも納得せざるをえない。(当のが諦めかけたように))
否諦めていないということ。ありがたいことである。
無宗教なんだか自由人だか知らないが、その当世で
なそうとすることが超えられるならば良い。それは偉業。
本当の無から生じて経歴をたどらず極まで達すれば、それは偉業。
それはどうぞあなたの本当の名誉になる、だけ。
)
とりあえず天日にさらされた反故として
ごく簡単に、彼ら億兆万の正義か不正義かは知らねども
直接的嘘に対する反故としての
ごく「無」の言葉なのであるが。
あらゆる方が羨ましく思った通り、それらの
手法として世にことを恥もなく発するということ。
極論するとそれもありがたいこととして
閉める。
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