ジャーナリズムは人々が知らない情報を正しく
伝えるという崇高な理想がある一方で、
人々の低俗な欲望を満たして対価を得るという
側面がある。
ものによって組織によって人によって
当初の理想と混同している。
また、表面上は聖人君子であっても、裏では
対価なりを払って欲望を満たしたりしている。
知ってか知らずか助けている。
公私の問題は議論されてるが、
意図してのことは無論だが、意図せずして
入手した別人の「私」を許可なく世に出して
良いのかということ。
「私」、特に感情・五感を発露している時。
(発露してない時も当然範疇に含むが。)
つまり意図せず発露した喜怒哀楽または
五感を駆使している瞬間がなぜか世に
出ること。なぜかは出ないのであり
でる誰かや何かの意図がある。
一昔前までは地域の笑いぐさになって
泣き寝入りするくらいしかなかった。
(具合によってはちゃんと吟味されたが
世に残せなかったり、うち捨てられたり
された例があるだろう。)
そこのところをちゃんと現状で培ってきた
倫理、法律、論理などを駆使して煮詰めていかなければ
ならないのに、世の中はよほど平和か暇である。
(という皮肉を聞いて激さねばならない。)
ーーー
さてジャーナリズムの話に戻るが、低俗の
欲を満たすだけで良いが、なんというべきか
「枯れた欲」が凝り固まるとタチが悪い。
暴走老人が巷で話題になっているが、そこに
通ずるかは分からないが、人生経験を積んできた
ご老体であっても、おいくつかわからないような
論理しか展開できないお方である。
これはまだ個人であり、哀しんであげれば済むのだが、
これが集団や組織など徒労を組んだら、ということ。
それがテロなどであればわかりやすくて良いのだが、
いくら対処・処置をしても、表に出ない「枯れた欲」は
潜伏し続ける。
どれほどの厭世をし、表に出ては取り締まれるから世には出ず
裏で組織していったか。
あるかないかわからないので、虚数的に仮定すると
それらがどうやって裏を構築していくかがわかる。
ーーー
そして、それらとの相対の仕方であるが、表面的には
これまでも法的にや、不買など諸士の奮闘もあるが、
本当の正攻法は上記の通り、根を攻めることである。
(これだけ言っておきながら、極当たり前の結論なの
だが。)
表面上の攻めは、これまで言ってきた通り、あちらは
世に出ぬプロであるので、表面に立っているのは
「なんでもない」お方たちである。どんなに攻めたところで
あちらは何も痛くも痒くもないのである。
(よくぞそんな方法論を確立したものだ。また、さぞ
頭良さそうに操られている(本方は頭の良い)人たちが
可哀想だ。)
法といえども現在では届くところが限られる。
不買と言っても、上記の通り広く薄く広がった
低俗な欲の需要という土壌はなくなるまい。
よって正攻法は、「そんな頭でいたら存在自体が
恥ずかしいと自覚させること」という、心だか
思考の「根」の脳幹をぶちたぎることであろう。
「恥」というか、あちらは最大の武器として
「恥」という感覚を持ち合わせぬので、ちと違った。
ようは「もうくだらないからやめた」と「自然と」
やめさせることである。
このことはこれまで書いてきた通りであり、
特に目新しいことはないので、再掲ということで。
ーーー
なお、もしあちらの幹をぶちたぎり、
あちらとしてはよくなったとしても、今度は
それが種となり次の枯れが生じることは
明白なので、いかにそこまで汲み取って
救済とするか、ということ。
明々白々なので、あちらとしても白昼に晒されても
なんら問題ないのである。
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