2022年9月14日水曜日

しっぽを持つ感覚

猫や犬のしっぽを見て思ったのだが、もしかすると人でもしっぽを持つ(持っていた)感覚を備えてる人がいるのかな?と思った。

尾てい骨が尻尾の名残と言われているようなので、先天的にしっぽの感覚を持っていた人がこれまでの有史以前まで含めて、誰かしらはいたのかもしれない。(無論記録には残ってないだろうが。)

また、後天的にも練習によって耳や鼻を動かすことはできるようになる人もいるので、もしかなり頑張れば、(仮想的な)自分のしっぽを動かす感覚も身につけることができるかもしれない。

「仮想的な」というのは、何かで見たのだが、腕とか足とかを失った方でも、感覚だけは残ると言うので、その逆の発想である。つまり無かった物もあると「仮想」できるのでは?と言うこと。(幻肢)
※なお、この腕や足を失われた方の話だと、失った手や足が仮想的に水とかに触れると、水に触れたり、濡れたりする感覚だけ生ずるようで、不思議である。
これは人が主体となって、外界を「迎え入れる感覚」とでも呼べるだろうか?(もしも「迎え入れる感覚」が研究領域として未開拓であれば、このアイデアが初端となってくれれば幸いである。
(もちろん幻肢・幻肢痛などの研究はあるのだろうが、それはあくまで「名残り」に主観を置いた研究。ここで言ってるのは、それを拡張して幻肢に限らず、人が外界を主体的に感覚として迎え入れるという点がブレークスルーとなっている。これは触覚に限らない点も含まれる。)

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そう考えると、「仮想感覚」「仮想感覚器官」というのは、もしかするともっと自由度の大きいものなのかもしれない。
(例えば触手でも何でも良いのだが、ちょっと自分からは離れたテリトリーでも知覚できるとか。なお注意点としてはこんなことばかりしていると、自分本来の感覚構造も崩壊してしまうかもしれないので、十分注意は必要であろうが。。また、仮に仮想触手を備えたとして、知覚するのは便利かもしれないが、気を付けないとドアに挟まったり、車に轢かれたりして日常的に痛みに見舞われる危険性が高まるかも知れない^^ 見えないものが見えてしまう人のように、その能力があるがために知りたくもないことまで知ってしまうのと同様で、その感覚を備えてしまったことの代償であろう。しかもこの仮想触手を備えた例の場合は自分からすすんで獲得している訳だから文句の言いようがない^^)

そしてそこまで行くと、別に触手とか具体的な器官も想定する必要もなくなってきて、正に「感覚を研ぎ澄ます」ことによる、「人並外れた感覚を備えた人」の話につながっていきそうである。
話が行ったり来たりになってしまって申し訳ないが、逆にいうと「人並外れた感覚を備える」ための練習として幻肢・仮想感覚器官を想定する、ということで習得方法が整備・確立可能かもしれない。

2022年9月4日日曜日

まずは敷かれたレールを知ることから

まずは敷かれたレールを知ることが肝要であろう。

つまり今や一億総中流となって全員が何となく「幸せに」暮らしているかも知れないが、行先にはライオンが口を開いて待っているとすればどうしようか?ということ。
ライオンの存在に気づいた時点では手遅れである。

一億総中流とはよく考えたもので、それくらい大きな電車であれば、もはやそれが敷かれたレールの上を走っていることさえ忘れてしまうのである。
危機感の持ちようがなく、まさに現代社会の現状であろう。

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今や大学に行くのが当たり前と言われつつも形骸化しており、ニュースでも大学の先生が生徒の学力の低さを嘆いているとか聞く訳だが、(その為に例えば理系であれば大学入学後に大学側で生徒のために高校数学から教え直してあげる、という始末。。)
大学に行く側としては「みんな行ってるから行ってるだけ」くらいの意識で行ってるのだろうから、もう立派な「レールの上を無感情で呆けて運搬させられる人」であろう。(どこかで誰かが「一丁あがり!」と言って拍手してそうである。)
(無論そんなふざけた動機で行ってるわけではない方もいるだろう。むしろそういった方はこんな指摘に怒りは覚えず、現状認識として「確かにそうだ」と冷静に分析していただければ良いこと)

そんな人たちが世の中に出ていく訳で、一億総中流とはつまり一億総インテリということであろう。
インテリなだけあって、自分が正しいと信じて疑わず、他者の批判を聞き入れず、どこの入れ知恵か知らないが、批判されると人権だ差別だと騒ぎ立てる始末である。
かような集団が、斯様に自己本位な集団が、自分達が住んでいる空間がまんまとレールの上を走っているとどうして知覚・認識することができようか、ということである。
(その癖いざライオンの口が見えると、先頭切ってギャーギャーと騒ぎ出す。騒ぐだけ騒いで「何でみんな無能なんだ!」とか言ってのけるのだろう。)

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一応過去を遡ってみると、分かりやすいのは明治維新であろうか?
つまり身分制度を廃止した訳だが、誰かが何かの時に「パンドラの箱を開けることになる」と言われた通り、一方で優秀な人材も輩出されるだろうが、他方で「訳のわからぬ」ものも出てくる訳で、そこまで含めてそう言ったものの責任や面倒を見るしかない状態にいずれなる、という意味合いだったのだろう。※かといって、時代の流れとしてこれは必然であり決して批判の意味はない。

時間的(慣性の法則的)なこととか、様々な要因があって、その辺は諸先哲の研究を参考していただくとして、かなり端折ると、戦後になっていよいよ「何の垣根もなくなった」と言えるだろう。(あるはずなんだけど実行力を失った、というか。)

そこにまんまと個人主義(という名の利己主義)とか都合の良い権利とかプライバシーとかが入り込んで(または直接的な工作が「しめしめ」と入り込んで)、また左右対立に明け暮れて(明け暮らされて、というべきか)、その下のレールは本当に誰にも気づかれずに敷かれた、と言ったところだろうか。

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最後に発破だけかけておくと、たとえにわかインテリだとしてもインテリには変わりないので、どうかその頭脳をフル活用して、この現状を少なくとも認識してもらいたい、と言ったところだろうか。
SNSのこの時代、「表の顔」しか持ち合わせない人もいるようだが、こう言ったことこそ裏で、つまり自分の土台で考えるものである。(裏アカとかもあるようだが、アカウントを作ってる時点で「表」である。)(こんなことは日本に限らず世界中の、老若男女を問わず持っている感覚であろうが。まんまと何の疑いもなくレールに乗っている人がいるかも知れないので、敢えて言っているだけである。「はっ」としていただければ幸いであるが、斯様なことは本来は自分で気づくべきことである。)
知識をひけらかす訳でなく、主流に迎合する訳でなく、地に足をつけて考えるものである。

2022年9月1日木曜日

嘘もつき続ければ真実に?

「嘘もつき続ければ真実」というジョークがあるが、ひょっとしてこれを本気でやっている輩がいるのでは?と思った。

実際現時点でも性懲りも無くしょうもない嘘をつき続けている輩がいる訳である。
そして、ひょっとして例えば100年くらい言い続ければ、少なくとも足掛かりとかになる、とか思っているのだろうか?

そこで、彼らには「いくら嘘をつき続けても、嘘を出処としているのであれば真実にもならないし、いくら長く言っても足掛かりにもならない」ということを理解させれば良い。

現在進行形で頑張って嘘をついているたちがいる訳だが、それを100年待って「無駄だった」と分からせても良いのだろうが、要は「そこに費やした資源は全て無駄だった」と気付けば、もうやらないだろう、という単純な理論。

※もはや「普通」という感覚さえ持ち合わせていない方達なので、もしも無駄だと気付いたとしても、その事を知覚できなくて平然と続けるということも考えられるのだが^^


左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...