2025年5月31日土曜日

人心の荒廃

増税と軽減税率」に書いたとおり、悪法は人心を荒廃させる。
政治家に欠けてる視点はこれであり、当面の見直しポイントであろう。
上の例の通り政治家も財務省の操り人形と化しているため、無論官僚にも欠けてる視点である。
当面は、または問題の切り口・とっかかりとして、この点で見直しがなされていくのであろう。(流石に「民」の堪忍袋の緒が切れつつある。)
※より根本的な問題は、常々書いている通り左的な利己問題。既述参照。

政治家の中には日本をよくして行こうとする方々が、かろうじていらっしゃるのだが、官僚に至っては日本を陥れようとしてるのではないか?とさえ思えてしまうようなことしかしていない。(それ故に解体論まで出る始末。)
無論、官僚は政治的な意思を持ち込んではいけないはずなのだが、前提として日本の中で日本人が官僚をやってる訳であり、つまり日本のためにお仕事をしている前提であるのだが、恐ろしいことに意思を持たない特性を生かして(操られて?)まんまと「日本をバカ国家にする」ことに加担(人によっては自ら進んで)しているのが実態であって、それらがいよいよ露見してきて隠し切れなくなってきた様相であろう。
官僚問題はご存知の通りであろうから省略。

今回は人心が荒廃すると言うことがいかに恐ろしいかと言うことについて。

まず現状についてから始めると、長期的かつ真に日本のために政治をしている人はごく僅かなのではないか?と言うこと。残りは、(無論表には出さないが)日本を陥れる・搾取することが目的の確信犯が明らかに存在する。あとは「顔なし」とでも言おうか、所謂「うぶな日本人」「平和ボケした日本人」であるが、何の主体も持たずに政治に入ってしまったような人で、支持者の言いなりになってるだけの人。(これまた厄介である。人によってはうっかり当選してしまって、直後に「支援してくれた人たちが【怖い】」と正直に吐露した人までいるそうな。。。どうぞ操ってくださいと自分から宣言してしまったようなものである。正しく【口】だけ買われてしまったのだろうな。そして恐ろしいことに引くに引けない、辞めるに辞めれないシチュエーションに持っていくのはあちら側の常套手段(得意分野。あちらの「能力」としてはこれくらいしかないが)である。))
かろうじて成り立っているものの、短期的・利己的な法で日本の利益が搾り取られているし、あからさまに外国の利益のための法を作ったりしてる有様である。

現状はその通りであるが、これは既述の戦後問題や「プラットフォーム問題」などの通りであって、あちら側のやってきたことの結果であるため、冷静に見れば「なるべくしてなった」とまずは現状認識しておくべきだろう。

現状認識しつつ、人心の荒廃について考えていく。
最初に書いた軽減税率が良い例であるが、「そんな小さな問題」と思われるかもしれないが、イートインなのかテイクアウトなのかはどう頑張ってもグレーにしかなり得ず、つまりグレーありきの「法」など作ってしまってはいけないと言う指摘であった。グレーありきと言う点で根本がおかしいことであり、法になる前に気づく(誰も気づかなかったのだろうか?)べきであるし、議論で「どう頑張ってもおかしい」となるべきであろう。(そうならずに法案が通ってしまったことが、逆説的に現状の恐ろしさ・危うさである。)

恐ろしいのは「そんな小さな問題」であっても確実に人心は荒廃するからである。誰も「荒廃した」とさえ認識していないだろうが、人々はどんどん「あれもテイクアウトでいいじゃん」「これも」となっていき、引いては「これもこう解釈すればいいじゃん」とか「この法律もこう解釈すれば問題ないじゃん」となっていくのである。なっていくというか、少なくともそういう邪心を生むきっかけや口実・原因を与えてしまうのである。

思えば人権問題などもそうであって、本来日本はマイノリティに寛容であって「社会で抱擁していく」という包容力を持った社会であったのにも関わらず、西洋的な個人主義的な観点で人権を持ち出して、また上記の「本来的・日本的包容力のある社会」を完全無視して、「日本も西洋に倣え!」と言わんばかりに西洋基準にしてしまった。
必然的な結果として直線的な、事務的・無機質な、やれ訴訟だ、ハラスメントだ、罪を認めたならば保護しろ、もっとマイノリティに権利を渡せ、となっていく訳である。
こうなってくると、いわば「弱者の方が有利」みたいなマインドが醸成されてきて、「如何に弱者になろうかな」的な邪心が否応にも湧き出してしまうであろう。
最終的には一握りの「真っ当な・馬鹿正直な」人々が、残る大半の働かない「権利を約束された【可哀想な】」人々を抱擁していく形になる。無論、社会としてそれでコミットしたのであるから、その社会に生きる人は喜んで、なんら不平・不満を漏らさずにそうするはずである。(頑張ってください。)

何事にも慣性の法則が成り立ってて、つまり一旦ことが起こると、それは最初のうちは誰も気づかなかったり、「なんかやってるな」程度で見過ごしてしまうのであるが、ある時「なんだこのムーブメントは」と気づいた時には時すでに遅しで、あれよあれよと速度は加速するのである。
現在、年々増える社会保障料をどうするか問題になってきて、やれ財源はどうするかとか議論しているようだが、構図としては目の前で発生した事件でようやく問題に気付いてあたふたしているだけで、肝心の「速度を与えているもの」に気付かず、議論してる間にも速度は増して、ただあたふたしている構図であって、ものすごく滑稽である。
しかも、その「速度を与えるもの」は自分で法として成立させているという。。。

無論、人権は大切である。基準はどうあれ、西洋基準にしたのであれば西洋基準でもなんでも、それこそ法的に正確性・練度をこれからも上げていなかければならない。(本当の意味でのマイノリティ。こういうことに人が群がるのは理解できるが、あまりにも群がり過ぎだろう。)

それはそれとして、もっと恐ろしいのは、今回の問題提起の通り人心の荒廃なのである。
人口の半分が「依存する人」になったら当然社会は成立しない。おそらく数割(10〜20%?)に達した時点で仕組みは崩壊するのではないだろうか?
人とは恐ろしいもので成り立たなくなった瞬間に、過去の「素晴らしい」法は無視して「あれほど崇高に朗々と述べていた人権はどこに行ったのですか?」と言ってる暇もなく、暴動や反乱が起きてしまうのである。
(これまた恐ろしいことに、あちら側はそこまで見据えて、そうなることが最終目的とさえ勘繰ってしまう。多くの人のご指摘の通りであるが。)

世界を見るにそうなのではあるが、日本人にそれをさせてはなるまい。

物事の加速度を考慮から忘れてはならず、つまり逆算すると、もはや瀬戸際と言えるかもしれない。これ以上人心が荒廃するとどうなるか、気付いた時点では手遅れとなる。


最初に書いた軽減税率のブログで「悪法は人心を荒廃させるということは、お役人の教科書の第一章第一項に書いてあると思うが」的なことを書いたが、普通に考えればそう推測されるのであるが、果たして本当にそう言った「倫理」をお役人には教えているのか?と、最近は疑問に思うようになってしまった。それこそ遥か昔はそんな「倫理」は誰が教えてなくても自ら「分かる」ものであったが、残念ながら現代では「倫理」は誰かが教えたり、自ら学ばなくては「分からない」ものになってしまった。
もしもお役人に倫理がなかったらと想像すると恐ろしい世の中になるのだが、現状を見るに本当にお役人の誰も誰一人として倫理は持ってないのではないかとさえ思えてしまう。(なんという悲しい状況だろうか)
当のお役人、ひいては政治家は周りからそう思われてしまっていることを、ちゃんと自覚して、何とも恥ずかしさを覚えないのだろうか?(日本をバカ国家にしようとしてる所謂左などの確信犯は「全く恥ずかしくありません!」と正面切って言うのだろうが。)

現状では法案を作るのは政治家である以上、当面の間は政治家や官僚に「恥の心」を持ってもらうよう促していくしかない。(全く親でもないのに、我々がそうしなければならないと言うことが、本当に情けない。)
我々一般人としても、無論、現状の表層的な現象には惑わされず、正しく「正見」を持って現実を認識して、もしも政治家が悪法を通そうとしているのでは阻止して、我々自身が自己を律していかなければなるまい。

戦後80年、ふらふらと顔なしとして彷徨ってきて、おかげさまで大変な時代になったものである。これも一つの試練として乗り越えていかなければなるまい。


(補足)
個人レベルで話を突き進めると、現状の通り人権第一主義になってしまうのだが、社会とは個人だけで成り立ってはいない。聡明な方であればこの一言だけで言わんとしていることは分かるであろうが、残念ながら分からない人がいらっしゃるのが現状である、とも言えよう。
つまり問題の本質は「個人」レベルという層と、(本来的に集団・社会を形成するときに、いわば「集合知」として醸成される)「社会」レベルの層の問題である。
所謂左は利己に執着して、何としても「個人」レベルで突き進もうとしている訳であり、むしろ外部から理路整然とこの階層問題について論破されたとしても、無理矢理にでも自己主張を変更しないように頑張っている訳である。(こういった方とどうやって「対話」すれば良いというのか。既述の通り「クラスの中の駄々こね困ったちゃん」の例の通り。この点は「対話のスタンダード」で解決可能。)
これまた既述の「左の総括」の通り、構図としてはたったこれだけの、「個人と集団の階層問題」であったのだが、いったい我々はその点に何十年、下手したら百何十年(一番広くとらえるならば約二百年)という時間を浪費してしまったのだろうか。換言すれば、どれだけこの事実に対して浪費を感じ取れるか?といった問題であろう。

逆に言えばこれだけ長引いたのは、言葉が足りなかった、追いついてなかった、正確に問題の本質を記述できていなかったからであろう。しかし、上記の通り、または既述「草莽崛起」の通り、我々人間の本能として「このままいくと加速度を勘案しても、流石にこのまま許されるものではない」と多くの人が気づき始めた通り、反作用的に対抗しうる「言葉」が加速度的に生まれ、事実を正確に記述し、問題を解決していくであろう。
しかしここまで辿り着くには本当に長かったし、あまりにも払う代償は大きすぎた。

常に書いている通り、こんな瑣末な問題に足止めを喰らっている場合ではなく、層理論で言えば一階層上でのより大きな問題・本質的な問題がある訳であって、我々はその点について議論しているべきであるのにも関わらず、非常に残念なことに二百年遅れで、いまだに左的な利己主義と戦わざるを得ないのが現状なのである。(祖先が悲しむだろうということを誰も真剣には考えないのだろうか?)

現在の世の中を牛耳っている所謂左的な利己主義が本義的に持ってない観点であるが、過去の先人たちの苦労と、将来の子孫たちのためにも、今ここを真剣に生きていかなければなるまい。(所謂左は「なんで過去の人や将来の人のことを考える必要があるのか!」と臆面もなく怒鳴るのであろうが。。。既述の「よくてせいぜい数世代先しか考えてない」の通り。そうでないと言うのであれば、どうぞ声高にその素晴らしい理論を発信していただきたいものである。)

「手遅れ」という点について補足すると、それは想像を絶する悲惨な状況である。上記の加速度の通り、いざ気付いて速度の発生源を取り除いたとしても(無論昨日から今日で突然0にできるようなものではないが)、慣性の法則に従って放置してきた期間の勢いの分だけ嫌でも悪化する期間が長く長く続くのである。
そうなった時に、所謂左は「肝っ玉」も何もないのであるから、既述「蜘蛛の子散らすように喜劇的にトップから逃げ去る」の通りではあるが、悪の発生源の当事者は臆面もなく逃げ去るのである。潔く悪を認めて全責任を背負って過去の代償を返還して逃げ去るのであればよいのであるが、悲惨なのは何の責任も負わずにむしろ被害者ぶってどこかへ隠れて逃げてしまうのである。(全く喜劇でも何でもない。)そうなった時に、よくも我々はあちら側を平気でのさばらせてきたものだと後悔するだろう。(後悔しても手遅れだが。)
所謂左も、そうなった時に「こんな悲惨なことになるのであれば、今からでも改心して利己をやめて、将来のためだけに奉仕します」とか言っても、いくらその人一人で後悔しても何にもならないのである。(世の中を分かってないという点では、所謂左や、それに加担してしまった人の九割はそうなるのであろう。もはや眼も当てられない惨状。既述「単に悪をなすより、迷える人を悪に加担させる方がよほど悪い」の通りであるが、悪の先導者はいざ改心したとしても返還しきれない、個人で背負い込める量の数億倍の悪を背負い込むことになるのである。そう成った時に「一人では返還しようがありません!」と泣きつかれた時に我々はどうすればよいというのか。(無論そこまで潔い悪であればとうの昔に改心してるであろうが、確信的先導者は全てを無責任に去るのである。信奉した人はご愁傷様でした、とかになるが、我々はそれこそ「人」としてそういった人をほったらかしにする訳にはいかず、そういった人の今後も当然面倒は見るのであるが。おんぶに抱っこは子供のうちにするものであると教えたいが、残念ながら現代では成人しきった完成体にもこういった基本中の基本を述べなければならない。))

厳しい言い方をすれば、成ってからようやく気づくのであればただの動物である。
しかも過去にそういった事例を歴史として何度も経験してきたのにである。
我々はこのまま、先祖の努力も投げ捨てて、全人類を引っ提げて動物に逆戻りするかどうかを試されているとも言える。その事をいよいよ自覚されたい。


ーーー
いきなり本論に入ってしまったが、そもそもなぜ人心の荒廃を述べたかについて言ってなかった。
抽象的に言えば層の問題。視座の問題とでも言えようか。
現実問題では、現状では如何に正論を言葉を述べようと右だ左だという、ごった煮の窯の中に否応もなく放り込まれてしまうのであるが、それであれば窯に入れられる前の「冷静に」議論できる最低限ラインが人心の荒廃であろう、というだけである。
所謂左が果たして人心の荒廃についてどう思っているのか、という問題とも言える。
これまで散々、あちらの用意した(仕込まれた)土俵の上で踊らされてきた訳であるから、それならばその土俵で正々堂々とこの点を持って挑みましょうというだけのことである。(ありがたいことに、成るべきものも成り立たない状況においても、こういった対処をすればよいという事を教えてくれたのであるから有難い事である。)
(因みに、演繹的にはこの二百年の浪費は解決されて、しばらくは安穏の時代が続くのであるが、そこから(私が常々言っていた)本当の葛藤とか困難が始まる。(私を含めて、これをリアルタイムで読んでる人は少なくとも「隠れた」後のことですのでご安心ください^^;)その時に、この時の対処法が役立つのであるから、所謂左も役に立った訳であるから、なおさら有難いことである。そこまで考えると「悪」というのも、ある意味で自分の利己のために「まっしぐらに」突き進むのであって可愛いものである。そうやって突き進んでくれるお陰で、それに対処する解法も生まれてくるのである。もしも現代の所謂左が数百年後にいきなり飛ばされたりしたら「一体どんだけ小さなことに執着していたのか!」と思われるだろうが、将来に出てくる問題は、正に次元が異なるとでもいうか、否、「層」が異なる問題なのである。ちょっと正確な比喩ではないものの、数学で例えれば現代では二次方程式とか三次方程式まで解の方程式が見つかってきたような状況で、これからようやく「五次以上だと解の方程式が存在しない」ということに気づく段階だとも言える。これまではどれだけ単純で平和だったか推し量ることができるであろう。)

(無論、所謂左は本義的にこのように「俯瞰」ができる存在ではないので論外なのではあるが、(但し、少なくとも「先導者」には逃げずに俯瞰して頂きたいものではあるが、既述の通り「スーパー忘却機能を使って【認識】さえ回避」しているのであるからしょうがない。自己意思で「絶対に認識しない!」と言っているのであるから可哀想である。)、それを自己意思で選択したことは結構なのであるが、それはあまりにも人類の智慧に対する冒涜であろう。私がいうことではなく、左の本人たちが自ら総括することではあるが、恐らくこの辺が総括になるのであろうとは推測される。)


2025年5月27日火曜日

自己適正値

問題は総合的に乗り越えるものである。

例は何でも良いが、例えば食料問題。
片や自給率の問題がある一方で、片やフードロス問題であったり「何でもかんでも健康食品」問題があったりする。

前者の自給率問題は戦後問題とか左問題とか、所謂プラットフォーマー問題である。(土台がそうなら善悪・左右など関係なく、それに付き従うしかない仕組み。記述の通り。ただしこれはまだ世間には認知されていない。記述の通りではあるが、それどころか政府でさえ盲人のように突き動かされてしまっている現状。主張のはっきりした国であれば制度とかで対応しているのだが、我が国は何も分からずレールに乗っかってる惨状。ただし我が国が他の国と異なる点は、最終的にはそれら「毒」を体内に取り入れて消化吸収、つまり解決策を見つけ出してしまうことであろう。利用してくれてありがとうございました、の境地である。ただし、これだけ辛酸を舐め続けるのはかなりしんどいことではあるが。)

減反政策を推し進めてきてこられた方に現在の米不足問題を見てどう思うのか聞いてみたいものではあるが(もしかして大喜びでもしているのだろうか?)、現実としてそう言った問題が表面化してきたり、「流石にこれじゃいかん」ということで自給率問題解決の案が出始めているが、プラットフォーム問題であるということは、そう言った「反論」も考慮済みな訳であり、また下手に長年に渡る「実績」がある訳で、一朝一夕で解決することは難しい。(どっかの財務役人の理屈と似ている^^「例は何でも良い」と書いた通り、源流は一緒である。)


世代的な話を挟むが、これまでの所謂左の狂人めいた輩に対峙して、こちらも同じ熱量で反論とか戦ってきて、それはそれで今後も当然必要ではあるのだけれども、そう言ったことが繰り広げられている環境から生まれて、それを見てきた(いやでも見ざるを得なかった)子供達は、ネガティブに言えばクールとかしらけとか言われてるかも知れないが、正しく言えば左の狂人たちを見て「あぁそうなんだ。そういう人もいるんだね。おかしな時代があったものだ」くらいで、ある種「正しく受け止めて」いるのである。

これは大いなるヒント、というかもはやそのまま解決方法であって、そのように問題を正しく受け止めて、現状を受け入れて解決していかなければならない。

食料問題で言えば、自給率問題とフードロス問題という格好の矛盾問題がある訳であるから、これは格好のアウフヘーベン対象であって、ありがたく解決させて頂く対象であると言うことである。

ちなみに健康食品問題も昔から「これがいい」「あれがいい」とバンバン宣伝されているが、もしも素直な人が「これもいいのか」「あれもいいのか」と言って全ての宣伝品を取り入れていたら、それを食べるだけで主食にありつけないのではないかと思った^^
その上肥満とかになって、果たして本当に「健康」になれるのだろうかといらない心配までしてしまう。
別観点ではそう言った健康食品だらけになった現在で、人々は本当に健康になったのだろうか?という点。むしろ医療費が増え続けてる現状を見るに疑問符をつけざるを得ない。
まぁこの辺は健康食品とか医療漬け問題とかすでに多くの方々が暴き出しつつあるので省略。言えることは、これも一種のプラットフォーマー問題である。


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本題としては、自分の適正な値を把握して、それにあわせてインプット(食事など)を調整すると言うことである。

自分の適正な値というのは、例えば体重であれば現在ではパラメーターとしては身長くらいしか使っておらず、BMI的に痩せてるとか太ってるとか言っているだけである。
それはただの「瞬時値」であって成人と老人を一概に言えるものでもないだろう。
さらに言えば、体重だけに敢えて焦点を絞れば、生物的な観点から人間の目的とかの方向に考えた場合は以下のような順序づけのようなものができるだろう。
・生命を維持できる体重の範囲。最低限生きてける限界体重。
・ほぼ外出しないが健康を維持して生活していける体重の適性範囲。
・通学、通勤時に歩く程度の生活を維持できる体重の適性範囲。
・中程度の肉体を使う人の体重の適性範囲。
・毎日肉体労働をする人の体重の適性範囲。
・アスリートの体重の適正範囲。

現代ではそう言った個別要因までは踏み込めずに表面的な体重という指標だけで一喜一憂しているようなものである。(極端な例では成人にとっては適正体重であるが、老人にとってはその体重では肥満で、実際問題上、体に負担をかけていたとしても、それを公式に「適正」として「押し付けて」しまっている可能性があるということ。)

また生物的に見れば、体重はあくまでも一つの「指標」でしかないということ。同じ体重であっても人によって骨格や骨の現在の太さや密度や、基礎代謝などで大きく異なる。
よってそう言った個人差や、「その時点の状況」なども、技術によってより正確に捉えることができるだろうという点。

次に、勿論上記の理論がベースとなってしまっているため、そちら側に大きく左右される値であるが、必要カロリーというものもより正確に個々人に沿ったものにアップグレードできるだろうという点。
現状だと「成人男性(女性)1日何カロリー」とか言って、一律でしか指標がないのであるが、もしも全く運動しない日もずっと言われた通りのカロリー分だけ食べていたら、当然人によっては余剰カロリーのため太っていくことになるだろう。
必要カロリーも、まさか指標を提示して餓死とか栄養失調にさせるわけにはいかないだろうから、どうしても「余剰」を上乗せしてしまうため、情報を受け取る側もそういった「バッファ」は当然考慮するべきなのである。そこに加えて、昨今の殺伐とした所謂左的な利己的な人が増えて、そう言った人の「言ったではないか」攻撃があるので、情報を出す方もどうしても「安全圏」を意識して値を上乗せしてしまうのである。
(小さな「屈し」であるが、思えばそう言った小さな左への「屈し」の積み重ねでここまで悲惨になったとも言える。これこそがあちらの思惑通りなのであろうが、残念ながらそうはならないのであるが。)
左の話は差し置いておくとしても、必要カロリーは一律的でバッファが乗ったものと考えておいた方が良いと思われる。
昔から「腹八分目」と言われているが、現代的な必要カロリー計算との差分はどれくらいなのか?また現代で腹八分目で生活できている人はどれくらいなのか?外食が当たり前の人(仕事上そういうスタイルにならざるを得ない人)が食べる量は、いったい腹何分目くらいなのか?そして腹何分目かと肥満や健康さの相関はどうなっているのか?その辺ももう少し丁寧にわかってくるだろう。

そして今度はその必要カロリーという指標をベースにして実際の食事や食堂のメニューのカロリーも決まってくるのである。
料理屋さんも商売であるためお客さんに満足してもらえるくらいの量を提供するわけで、そこでもどうしても「平均」を想定して、その平均の人が満足する量ということで、つまり平均+αになってくる訳である。
食べる側も本来は自分の体の声を聞いて「ちょっと多いな」と本能的に感じるべきではあるが、いつも食べてるうちにその量に慣れて、いつの間にかその量が「普通」になってしまうのである。

これで果たして健康と言えるのだろうか?
これで果たして食品ロスを減らすことができるのだろうか?
視点は若干極端だったかもしれないが、それでも全体を見渡して、そこには悪人は見えないのである。みんながみんな良かれと思って、それこそ善意でそれぞれのポジションを全うしているだけである。
善だの悪だの明確に言うつもりはさらさらないのであるが、もしも現状の不健康で食品ロスだらけの状況を仮に「悪」と呼ぶのであれば、悲しいことに全員が善意の心で悪を邁進させている訳であって、これほどの無明もあるまい。
(常々左についてのブログで書いてる通り、あちらに巻き込まれて「善意」だと信じ切って悪を邁進してしまっている悲しい方たちがいらっしゃる。どうもその構造ととてもよく似ている。)


みんなが何も悪くないと思ってる状況で、その状況を変えようとする訳であるから一筋縄ではいかない。
ただしそれは正面突破しようとした時の話である。
みんながみんな、何も悪くないと思っているのであれば、そう言った状況は「スマートに」解決すれば良いだけである。

上記の全体像で分かった通り問題は「一律さ」である。
税金とかは個人ごとにきっちり・きっかり一円単位で計算しているにも関わらず、我々は最大・最後の資本とも言える自分の体をあまりにも粗末に扱いすぎなのではないか?という、ただそれだけのこと。

(脱線)この話を聞いて、決して利己的にになれと言っているわけではない。それではただの左側である。むしろ食事に向き合って自己を律しろ、ということである。飽食に慣れてしまった人には、「本当の自分にあった量」の食事になった時に根を上げずに我慢できるかどうかである。(「食べるのを我慢」とか子供に言うようなことで言うこと自体が恥ずかしいのであるが、これまた悲しい厳然たる事実として、それが我慢できない大人たちが恐ろしいほどわんさかと溢れ出るほどの現状になってしまったのである。)(脱線終わり)

具体的には技術を使って解決しましょうと言うこと。
最近の体重計でも体脂肪率とか骨量とかまで計測できるものが出てきて、そのデータもアプリにあげたりできるものもある。その辺まで情報があるため「自分の本当の適正値」、この場合は食事量や栄養量はある程度簡単に把握できるようになるのではないか?

そこまで来れば、あとは飲食店との「リアルタイム連携」である。つまり「その日・その時」の最適量で食事も提供すれば良いのである。
「機械で作ってるならいざ知らず、料理人が作ってる場合はどうするのか?」と言うかもしれないが、料理人を侮ってはいけず、最適な量とかは目利きである程度分かってて、むしろそれが故に・そこまで含めて料理人なのだろうが、よっぽど料理人の方が分かってたりするのである。(ただし、これまでは上記の通り商売としてのバッファを上乗せするのが基本になっていただろうから、本システムで1グラム単位でお客さんが求める量を求めてくれるのであれば、それに合わせるような適応は必要になるだろうが。)
当然最初は手探りで始まっていくのだろうが、お客さんの必要グラムが1グラム単位で表示されて、料理を提供する側も感覚や計量したりして対応するだろうが、いずれすぐにノウハウは蓄積されるだろう。


いざそこまで実現した時に、「いったいこれまでの食品ロスはなんだったのか!?」(どんだけロスしてたんだ!?)と言うことがわかって驚愕するであろう。


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この丁寧な仕事は正に日本人らしく、日本人にしか思いつかないし、日本人にしかできないし、日本人が実現すべきことである。
我々はこれまで、アイデアまで含めて外から与えられたものに従うことしかなく、またそれに慣れ切ってしまっているが、日本発祥の日本で開発されたシステムとして実現していけば良い。
これは我が国のためであることはもちろん、このシステムが世界に普及すれば世界のためでもある。


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最初に「例は何でも良い」と書いたが、先見の明がある方であればすでにお気づきかと思うが、このアイデアはいくらでも他の面にも応用可能である。
更にはこれこそが所謂左が席巻した世の中を「スマートに」改める道でもあるのである。


2025年3月14日金曜日

草莽崛起

どこかにも書いた通り、本ブログは公開情報という事実を元に、不明な点については変に解釈することなく書いているため逆説的に良くも悪くも必然的に書いた通りになっているためか、知る人ぞ知る指標のような感じになっているのである。

お陰様で見てくれる人がいるのかも知れないが、不思議なことに海外からのアクセスだらけである。
さすが情報国家はインテリジェンスがしっかりしてるなと思う一方で、我が国はこんな深く考えるサイトは誰も見ないということに、なんとも情けないと思う。

しかし、それまで含めてわが国というのはそういうものなのだろうな、とも思う。

海外勢のいわゆるインテリジェンスについては、さすがしっかりしていると思う一方、無論国家の重要ごとに携わるという自負と誇りで素晴らしいお仕事をされているのは思うのだが、やはりどうしても組織人としての活動という側面を良くも悪くもお持ちであろう。悪く言えば「仕事としてやっている」ということである。

他方我が国は、スパイは活動し放題であるし、国の組織としては本当にまともにインテリジェンスはおろか情報収集さえしてるのか?といった感じである。大昔はそんなことはなかったのであるが、近現代はご存知の通りまともなことは何一つできない有様になってしまった。(脱線すると、また逆に言うと所謂左がやりたい放題やっているのだが、それはあちらとしても政治とか国の基幹こそがやはり主戦場と思っている事の証左であろう。そこで暴れることが日本をバカ国家にするには効果的と思っているのであろう。よってある意味ではそれら暴れん坊の暴れる場として政治の場を与えているのであるから、実はかなり巧妙な上手いやり方だとも思うのである。この調子であちら側には「我々は頑張って意味のあることをしてるんだ!」と思わせ続けられる場を提供し続けておいていただければと思う。)

そこで今日のキーワードである草莽崛起になるのである。
良くも悪くも我が国は草莽崛起なのであろうなとも思うのである。
また、「本当の強さ」とでも言うのか(これはいくらでも抽象的にでも、あるいは具体的にも述べることは可能ではあるが)、国がいざ立ち上がらんと言う時にはやはり日頃の市井の民がいかに目覚めて行動するかになるのだと思う。
海外でも志をたてて立派に国をリードされる方が大勢いることは無論知っているが、あえて比較的に述べれば、我が国にはそ行った人が(表には出ないけど)わんさかといる訳である。そこには組織の一部として動いているという意識もなければ、私心のために動いているという意識さえなくて、純粋に将来のため周りの人のため国のため世界のために考え、動いているのである。「全てを自分ごととして受け止める」に通ずるものがあるが、やはり純粋さと言うのはかなり強力な原動力で、全てが自分ごとであり、自分のためイコール世のため人のための境地なのである。
その点が組織人として仕事としてやってることと大きな違いであろう。

我が国は何かあるとどこからともなく人材が出てきて難局を潜り抜けてきた訳であるが、それは正しくまるで葦のようにニョキニョキと元気よくあっちとかこっちとかから伸び出てくるようなものであって、それが故に草莽崛起なのである。
(一点だけ注意しておくと、だからと言って安心して良いと言う話ではなく、国の機関としては最低限「組織」としてのインテリジェンスは先進国並みにしておかなければならないと思うが。。)

よってこれまた逆説的になるが、我が国ではわざわざ私の書いたこと読まずとも「そんなの当たり前」のこととして修養されており、伝統・文化として継承されてきて、継承されていくのである。(よって本ブログはほとんど日本人に読まれてない、と言う自虐ネタ^^)

逆にせっかくだから述べておくと、海外の方になるが、みなさん知っての通り「なんとなく」日本が注目されているのはご存知だろうが、まだそれはものすごくうっすらとした感覚であって、まさしく「なんとなく」の状況が現状なのであるが、一つの側面・切り口としては上記で述べたような国民性のようなものが挙げられるようである。
これは散々、また日本に限らず言われ続けられてきた事だとは思うのであるが、憧れてるだけでは憧れだけで終わってしまい、大切なのは小さくても種を蒔くことなのであろう。それこそそこには私心は不要(というか修養に長けた人であればわかると思うが、私心が入り込む余地など生じようもない事であるが)であり、純粋に自分の国の将来(国とか大袈裟に言わずとも自分の周りの人、コミュニティ)を本気で案ずるのであれば、自分の一生では無理でも自分の蒔いた種で子孫が安らかになるのであればそれで良いと言う境地であろう。(名声なんぞと言うのは後で勝手に他人がつけるものである。少なくとも目的ではない。)
「うちは現状を見るにつけ絶対無理」と嘆くだけでは今世でも来世でもいつまで経っても変わりようがない。逆に言うと変化とはいつか蒔いた種から始まるのであり、種を蒔いていなければ芽は出ようがないのである。


2024年11月6日水曜日

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。
(いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。)

とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。

まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果になったことは、確かに歴史的にもマイルストーンになるだろう。
(恐ろしいことに暴動などを煽動してちゃぶ台返しを画策してると言ったような怪文書も出回っているらしいが。しかし怪文書が世間に出回ってはあちらとしては世も末であろう。まぁこれもまた末期症状ということが「振り返って」検証されるのであろう。あちらの特性として歴史を学習しないので、それが正しく断末魔であるということに当事者は全く気付かないようである。)

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敢えて物語的に話すが、岡目八目とでもいうのか、無論初心を持った方は大変有意義であってそう言った方々に支えられてきた訳ではあるが、下手をすると生兵法で挑むと、あちらもアホではないのでまんまと付け入れられて本末転倒的にあちらに与する勢力になってしまう人が多数出現した次第である、ということ。

別に政治やSNSを言う訳ではないが、実際に接近しすぎて(当初は高い志があったのに)、そう言った方々の心情を代弁する訳ではないが、知らず知らずに当初の反対側の急先鋒になって(奉られて)いたりする訳である。(それほど哀しい事はない。)
(一応、冷静な分析としてはSNSという「誰でも世界に参加できる」ツールの特性をよく理解して、先回りして、不適な笑みを表には表さないようにして虎視眈々と待ち受けていた図、といった所。さすが左的な蛇のような爬虫類的な性質である。)

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子は親の背中を見て育つという通り、例えば国のトップや、大きくみて「世界の流れ」が現状のような無法地帯になっていると子が捉えるのであれば、子がそれを真似するのは当然であろう。
あちらが一体どれほど軽い考えで始めたのかは知らないが(利己なので)、いよいよ世界中で利己的事件が顕著になってきた。(日々発生する世界中の利己的事件を観て、左の当事者は一体何を思うのか?無論「しめしめ」と発狂的に思っているのだろう。(よくそんなことで快楽を得られるものだ。自らの意思で現世において動物にならなくても良いのに。))

上記の親子の例で言うと、親は確信犯なので残念ながら手遅れかもしれない。(し、そうでなく、ちゃんと更生可能かもしれない。人はどこからでも変えられる。記述の通り。)
記述の通り、いざダメとなったと自覚すると蜘蛛の子を散らすようにトップから逃げ出すという喜劇が見られると述べた通りであるが、それら完全に染め上げられた方達は自分は決して悪くないと信じ続けて行くのであろう。

問題は、それらに「染め上げられてしまった人々」である。
上記に示した通り、図式としてはものすごく単純であって、果たして今回の厳正たる結果を自分の目で見て、現世の命でそれを受け止めて、果たしてなんと思うか、と言う問題。
(下手をするとその序列に今回の選挙であちらの代表に選ばれた人も並ぶのでは?とさえ思えてしまう。)

これまた記述の通りであるが、悪は悪で悪いと言うのは誰でも分かるのであるが、それを他人を巻き込んで煽動してしまうと言うことは、迷える子羊を「善意を以って」奈落の底にまんまと突き落とす、またはそれに加担させる、と言うことで、ものすごく罪は大きいと思うのである。

私が述べるまでもなく、ここのところの問題は「近視眼的に利己に向かわせた罪」と言ったところであろう。
そうであろうし、それがぐだぐだとまんまとあちらの思惑通りに誰も鶴の一声も発せずに、発しても口を塞がれて過ごしてきた、過ごさせられてきた歴史の一ページであったと言うことであろう。

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冒頭に「選挙結果を暴動でちゃぶ台返しする画策をしてる」と書いたが、ここまで述べてきたを正に理解すれば、その角ももげるであろう。
(しかし、鬼とか鬼の角というのは無論抽象であると思うと同時に、本当に具体であったのだろうと思う。そのような具体的な鬼に人生上遭遇しないことに越した事はないのであるが、これだけ科学が発展した文明においても、それらおぞましい鬼は嫌でも目の当たりにしてしまうのだなと恐ろしくも思い、また哀しく思うものである。)
(何回の繰り返しになるか分からないが、現世の問題はそれらが巧妙化、潜伏化して「まんまと」「善意の人を」悪に走らせる巧妙化が進んでいるということ。分かる人にとっては、ある意味それだけ、と述べた通り。)
(言うまでもなく、それらを「無明」と言うのであるが、無明の恐ろしさは、本人が自分が無明の中にいると自覚するまでは、自分は「明」サイドで立派に自立してると思っている事である。更に恐ろしいのはそう言った人を悪に走らせる、左側の「完成された」「マニュアル化された」手口であろう。記述の通りであるが、一旦その道に入るともはや自分の頭だけではその道からは抜け出せないような仕組みになっている。恐ろしや。。)

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おそらく、所謂左が世に出現した時点でもその大いなる矛盾(矛盾という言葉さえ勿体無くて、理屈という言葉も勿体無くて、屁理屈くらいなのであるが)にはちゃんと地に足がついた方々は分かって、当時からも反論が多数出たであろうが(残念ながら「インテリ」はまんまと流されてしまったようであるが。。地に足がついていたかどうかの問題であろう。無論過ぎ去ったことはとやかく言うつもりはない。)、なぜこれほど百年近くも浪費してしまったのであろうか?と言う総論に、そろそろ入らなければなるまい、と言う事であろう。

確かにこれ以上は先人に怒られる。


2024年9月5日木曜日

視覚と聴覚の相関

錯覚というか感覚間の相関について。
(一応、新しい錯覚の分野)
(相関というか、「相互関係」とでもいうのか、所謂総合意識の分野。(もし未開拓なのであればここに新たに開拓した。))

例えば真っ暗なところで聴く音と、明るい所で聴く音の関係。
(一方は大きく聞こえ、一方は小さく聞こえる、など)
(大きさ(強弱)の他にも高低差や周波数的な要素などなど)

タイトルは取り敢えず視覚と聴覚としたが、所謂五感の全組み合わせを含む。
一応、「意識」まで含めて六感の全組み合わせまで含んでおく。
(仮想まで含むと六感に留まらず、任意の数まで仮定可能であるので、そこまでこのアイデアの範疇に入れておく。)

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なお、上記のようなボトムアップを今後百年か千年かは分からないのだけれど、積み上げていくと、「ボトムアップ的意識」の成り立ちも分かってくるだろう。
(そして「意識」はどこまで行っても仮定であるということに、巡り巡って気づくのだろうか。)





2024年8月25日日曜日

優位性

あちらの構造理解の通り、行き着くところは利己であり、それが故に目の前の「敵」をやっつけるしか考えることができなくて、いざトップになったとしても「ではどうしたいのか」「何をやりたいのか」が空っぽなのであることは既述の通り。

レッテル貼りとかは正しくあちらが生み出した滑稽な産物であるが、これこそ「嘘も百回繰り返せば真実になる」的な自己満足の所業であろう。

あちらの本質は利己である、と見抜いた(というかちょっと10分くらいでもちゃんと考えれば誰でも分かることであろうが)通りであるが、それを発展させると単純に「優位に立ちたい」ことの表れでもあるということも同時に分かるのである。

例えば今、世界地図を広げてみんなで世界の事を話し合っているのに、誰か一人が突然大声で「私はここにいるんだよ!」と怒鳴って自己主張を始めるようなものである。(自分でも嫌になるがどうしてこういったわかりやすい構図(滑稽漫画といった方が良いか。。)を瞬時に発想できてしまうのであろうか。。)

一応このどうしようもない構図上で話を続けると、誰か穏当な人が「今は世界について話してるんですよ」といくら優しく言おうが、この怒鳴った人はますますエスカレートして「差別だ!」とか発狂レベルで叫び出すのであろう。(はぁ。。)
更に付け加えると、そうやってザワザワやってると、「いや、怒鳴ってる方が正しい」とか言って群衆の一部がそちら側に加担してしまう始末である。

ある意味、世界地図を見てる時点でちゃんと解決しなかったせいでもあるともいえるし、実際こうなってしまうと収拾はつかなくなってしまう、とも言える。

これの問題は何かというと、ディベート的に言えば、まともなコミュニケーションが取れない人がいたという事であり、いざ収拾がつかなくなった際に、それより上層で見える人がいなかったという事であろう。(簡単である。)

※ちなみに「層理論」は上記二点の問題も解決できるものである。

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とても哀しい事であるが、所謂あちらに傾倒してしまった方は、もう元に戻す事は難しい。利己と自己優位性に突っ走っている荒れ牛のようなものである。本当は大きな土台の上でギャアギャア騒いでるだけの胡麻粒のようなものなのにも関わらず、あたかも世界は自分の思うがままと勘違いして政策(とか、ここぞとばかりに格好をつけて自分の正当性と担保するような言葉を使うのだが)を編み出してブルーシートを作って自己満足しているのである。

常に述べている通り、それではそういった「出来上がってしまった」方とどう対峙するか?という話である。
とても残念ながら成体として出来上がって、もう元に戻ることができない人は、その人がなんの疑いもなく安心して暮らせる場所を与えるしかないだろう。(既述「ディベートの困ったちゃん」参照)
その人が自分の利己と自己優位性を保ったまま暮らせるのであるから、その人としては満足だろう。
裏を返すとみんなが真剣な話し合いをしてるのに、自分の利己と自己優位性を頑なに主張してきたのであるから仕方ない。(あちらの人は、大の大人であるのに、それでも「疎外だ!」「人権だ!」とか叫びさしそうな勢いではあるが。。)

なお、最後に付け加えるならば、無論人はいつどの時点でもやり直すことができる、稀な生物であるので、その人が本当に改心したのであれば、そこからはぜひまともに生きていって頂きたい。
※またしても既述の通りであるが、こういう事を言うと「しめしめ」と「賢く」潜伏・脱走してしまう輩がいるので片時も気は抜けないのであるが。(本当に「やれやれ」である。)





伝説商法

世の中には「炎上商法」なる手口が存在するらしいが、その進化版として「伝説商法」(または「伝説化商法」)を発表する。

主にガジェット分野であるが、古の製品の中には「何故この仕様にした?」的なものがあって、運が良ければメーカーや設計者本人にその意図も聞くことは可能なのであるが、意図が分かる・分からないに関わらず、情報伝達理論の通り「伝説化」するものがあるのである。

そう言った伝説が出来上がると、当然該当品は需要 >>> 供給 となるので保有者であり、かつそれを手放しても良い人であれば、その人はその分の対価を受け取ることができるのである。

伝説化商法とは、それを意図的に発動させる商法である。(無論余程の愚か者でない限りはその意図を表には絶対に漏れないようにするだろうが。)

伝説化の基本は、後から考えて「なんでそんな設計・仕様にしたのか?」をある程度時間経過した将来の人が思う・楽しむものであるので、それを敢えてするという事は、現代では株主がいたりとかシビアなビジネス現場で日々真剣に物作りを行なっている(行わざるを得ない)現場で、「敢えて」バグとしか言えないようなことをするようなものである。
よってそれを通過させる体制なのか?それを通過させる経営陣はどうなってるのか?という話でもあるし、いざそれを世に出してもそのような「おかしな」製品は自然淘汰で単純に売れないだろう。

むしろそれを意図的に行なっているのであれば、同業他社なり、というか一般消費者から(それこをネットから)「ふざけるな!」という非難が凄すぎて、その時点でその企業の存亡の危機であろう。(これを「周知の上の第一波」とでも言うのだろうか?)

あわよく炎上しなかったり、したとしても何とか乗り切ったとしても、そんなことに頼っている企業であっては普通ではあるまい。

※ビジネスの歴史の通りであるが、実際上全て真っ直ぐに完璧に貫いていた側と、ちょっとだけ・たまに「何やってんだ?」といったことをやってきた側とでは後者の方が人気があったりするわけである。人気とはつまり売り上げとかの数字でも出てくる話。

しかし、それはあくまで短期的な話であろう。そうであろうし、そう見通さなければならないと思う。(そう見通せない人が「炎上商法」に走っているともいえる^^)

言うなればこれはある種劇薬であって、そんなものでまんまと当たりを経験してしまえば「やはりこれでいいんだ!」とかいって、引き返せない側の道を進んでしまうのであろう。

本論は炎上商法をごく単純に発展させただけのくだらない話であるが、こういったものが出てくるのもまた世の中だと思うので、つまり簡単にこういったことは見通せるので最初に書いておくのも悪くないと思って書いておいただけである。


人心の荒廃

「 増税と軽減税率 」に書いたとおり、悪法は人心を荒廃させる。 政治家に欠けてる視点はこれであり、当面の見直しポイントであろう。 上の例の通り政治家も財務省の操り人形と化しているため、無論官僚にも欠けてる視点である。 当面は、または問題の切り口・とっかかりとして、この点で見直しが...