「増税と軽減税率」に書いたとおり、悪法は人心を荒廃させる。
政治家に欠けてる視点はこれであり、当面の見直しポイントであろう。
上の例の通り政治家も財務省の操り人形と化しているため、無論官僚にも欠けてる視点である。
当面は、または問題の切り口・とっかかりとして、この点で見直しがなされていくのであろう。(流石に「民」の堪忍袋の緒が切れつつある。)
※より根本的な問題は、常々書いている通り左的な利己問題。既述参照。
政治家の中には日本をよくして行こうとする方々が、かろうじていらっしゃるのだが、官僚に至っては日本を陥れようとしてるのではないか?とさえ思えてしまうようなことしかしていない。(それ故に解体論まで出る始末。)
無論、官僚は政治的な意思を持ち込んではいけないはずなのだが、前提として日本の中で日本人が官僚をやってる訳であり、つまり日本のためにお仕事をしている前提であるのだが、恐ろしいことに意思を持たない特性を生かして(操られて?)まんまと「日本をバカ国家にする」ことに加担(人によっては自ら進んで)しているのが実態であって、それらがいよいよ露見してきて隠し切れなくなってきた様相であろう。
官僚問題はご存知の通りであろうから省略。
今回は人心が荒廃すると言うことがいかに恐ろしいかと言うことについて。
まず現状についてから始めると、長期的かつ真に日本のために政治をしている人はごく僅かなのではないか?と言うこと。残りは、(無論表には出さないが)日本を陥れる・搾取することが目的の確信犯が明らかに存在する。あとは「顔なし」とでも言おうか、所謂「うぶな日本人」「平和ボケした日本人」であるが、何の主体も持たずに政治に入ってしまったような人で、支持者の言いなりになってるだけの人。(これまた厄介である。人によってはうっかり当選してしまって、直後に「支援してくれた人たちが【怖い】」と正直に吐露した人までいるそうな。。。どうぞ操ってくださいと自分から宣言してしまったようなものである。正しく【口】だけ買われてしまったのだろうな。そして恐ろしいことに引くに引けない、辞めるに辞めれないシチュエーションに持っていくのはあちら側の常套手段(得意分野。あちらの「能力」としてはこれくらいしかないが)である。))
かろうじて成り立っているものの、短期的・利己的な法で日本の利益が搾り取られているし、あからさまに外国の利益のための法を作ったりしてる有様である。
現状はその通りであるが、これは既述の戦後問題や「プラットフォーム問題」などの通りであって、あちら側のやってきたことの結果であるため、冷静に見れば「なるべくしてなった」とまずは現状認識しておくべきだろう。
現状認識しつつ、人心の荒廃について考えていく。
最初に書いた軽減税率が良い例であるが、「そんな小さな問題」と思われるかもしれないが、イートインなのかテイクアウトなのかはどう頑張ってもグレーにしかなり得ず、つまりグレーありきの「法」など作ってしまってはいけないと言う指摘であった。グレーありきと言う点で根本がおかしいことであり、法になる前に気づく(誰も気づかなかったのだろうか?)べきであるし、議論で「どう頑張ってもおかしい」となるべきであろう。(そうならずに法案が通ってしまったことが、逆説的に現状の恐ろしさ・危うさである。)
恐ろしいのは「そんな小さな問題」であっても確実に人心は荒廃するからである。誰も「荒廃した」とさえ認識していないだろうが、人々はどんどん「あれもテイクアウトでいいじゃん」「これも」となっていき、引いては「これもこう解釈すればいいじゃん」とか「この法律もこう解釈すれば問題ないじゃん」となっていくのである。なっていくというか、少なくともそういう邪心を生むきっかけや口実・原因を与えてしまうのである。
思えば人権問題などもそうであって、本来日本はマイノリティに寛容であって「社会で抱擁していく」という包容力を持った社会であったのにも関わらず、西洋的な個人主義的な観点で人権を持ち出して、また上記の「本来的・日本的包容力のある社会」を完全無視して、「日本も西洋に倣え!」と言わんばかりに西洋基準にしてしまった。
必然的な結果として直線的な、事務的・無機質な、やれ訴訟だ、ハラスメントだ、罪を認めたならば保護しろ、もっとマイノリティに権利を渡せ、となっていく訳である。
こうなってくると、いわば「弱者の方が有利」みたいなマインドが醸成されてきて、「如何に弱者になろうかな」的な邪心が否応にも湧き出してしまうであろう。
最終的には一握りの「真っ当な・馬鹿正直な」人々が、残る大半の働かない「権利を約束された【可哀想な】」人々を抱擁していく形になる。無論、社会としてそれでコミットしたのであるから、その社会に生きる人は喜んで、なんら不平・不満を漏らさずにそうするはずである。(頑張ってください。)
何事にも慣性の法則が成り立ってて、つまり一旦ことが起こると、それは最初のうちは誰も気づかなかったり、「なんかやってるな」程度で見過ごしてしまうのであるが、ある時「なんだこのムーブメントは」と気づいた時には時すでに遅しで、あれよあれよと速度は加速するのである。
現在、年々増える社会保障料をどうするか問題になってきて、やれ財源はどうするかとか議論しているようだが、構図としては目の前で発生した事件でようやく問題に気付いてあたふたしているだけで、肝心の「速度を与えているもの」に気付かず、議論してる間にも速度は増して、ただあたふたしている構図であって、ものすごく滑稽である。
しかも、その「速度を与えるもの」は自分で法として成立させているという。。。
無論、人権は大切である。基準はどうあれ、西洋基準にしたのであれば西洋基準でもなんでも、それこそ法的に正確性・練度をこれからも上げていなかければならない。(本当の意味でのマイノリティ。こういうことに人が群がるのは理解できるが、あまりにも群がり過ぎだろう。)
それはそれとして、もっと恐ろしいのは、今回の問題提起の通り人心の荒廃なのである。
人口の半分が「依存する人」になったら当然社会は成立しない。おそらく数割(10〜20%?)に達した時点で仕組みは崩壊するのではないだろうか?
人とは恐ろしいもので成り立たなくなった瞬間に、過去の「素晴らしい」法は無視して「あれほど崇高に朗々と述べていた人権はどこに行ったのですか?」と言ってる暇もなく、暴動や反乱が起きてしまうのである。
(これまた恐ろしいことに、あちら側はそこまで見据えて、そうなることが最終目的とさえ勘繰ってしまう。多くの人のご指摘の通りであるが。)
世界を見るにそうなのではあるが、日本人にそれをさせてはなるまい。
物事の加速度を考慮から忘れてはならず、つまり逆算すると、もはや瀬戸際と言えるかもしれない。これ以上人心が荒廃するとどうなるか、気付いた時点では手遅れとなる。
最初に書いた軽減税率のブログで「悪法は人心を荒廃させるということは、お役人の教科書の第一章第一項に書いてあると思うが」的なことを書いたが、普通に考えればそう推測されるのであるが、果たして本当にそう言った「倫理」をお役人には教えているのか?と、最近は疑問に思うようになってしまった。それこそ遥か昔はそんな「倫理」は誰が教えてなくても自ら「分かる」ものであったが、残念ながら現代では「倫理」は誰かが教えたり、自ら学ばなくては「分からない」ものになってしまった。
もしもお役人に倫理がなかったらと想像すると恐ろしい世の中になるのだが、現状を見るに本当にお役人の誰も誰一人として倫理は持ってないのではないかとさえ思えてしまう。(なんという悲しい状況だろうか)
当のお役人、ひいては政治家は周りからそう思われてしまっていることを、ちゃんと自覚して、何とも恥ずかしさを覚えないのだろうか?(日本をバカ国家にしようとしてる所謂左などの確信犯は「全く恥ずかしくありません!」と正面切って言うのだろうが。)
現状では法案を作るのは政治家である以上、当面の間は政治家や官僚に「恥の心」を持ってもらうよう促していくしかない。(全く親でもないのに、我々がそうしなければならないと言うことが、本当に情けない。)
我々一般人としても、無論、現状の表層的な現象には惑わされず、正しく「正見」を持って現実を認識して、もしも政治家が悪法を通そうとしているのでは阻止して、我々自身が自己を律していかなければなるまい。
戦後80年、ふらふらと顔なしとして彷徨ってきて、おかげさまで大変な時代になったものである。これも一つの試練として乗り越えていかなければなるまい。
(補足)
個人レベルで話を突き進めると、現状の通り人権第一主義になってしまうのだが、社会とは個人だけで成り立ってはいない。聡明な方であればこの一言だけで言わんとしていることは分かるであろうが、残念ながら分からない人がいらっしゃるのが現状である、とも言えよう。
つまり問題の本質は「個人」レベルという層と、(本来的に集団・社会を形成するときに、いわば「集合知」として醸成される)「社会」レベルの層の問題である。
所謂左は利己に執着して、何としても「個人」レベルで突き進もうとしている訳であり、むしろ外部から理路整然とこの階層問題について論破されたとしても、無理矢理にでも自己主張を変更しないように頑張っている訳である。(こういった方とどうやって「対話」すれば良いというのか。既述の通り「クラスの中の駄々こね困ったちゃん」の例の通り。この点は「対話のスタンダード」で解決可能。)
これまた既述の「左の総括」の通り、構図としてはたったこれだけの、「個人と集団の階層問題」であったのだが、いったい我々はその点に何十年、下手したら百何十年(一番広くとらえるならば約二百年)という時間を浪費してしまったのだろうか。換言すれば、どれだけこの事実に対して浪費を感じ取れるか?といった問題であろう。
逆に言えばこれだけ長引いたのは、言葉が足りなかった、追いついてなかった、正確に問題の本質を記述できていなかったからであろう。しかし、上記の通り、または既述「草莽崛起」の通り、我々人間の本能として「このままいくと加速度を勘案しても、流石にこのまま許されるものではない」と多くの人が気づき始めた通り、反作用的に対抗しうる「言葉」が加速度的に生まれ、事実を正確に記述し、問題を解決していくであろう。
しかしここまで辿り着くには本当に長かったし、あまりにも払う代償は大きすぎた。
常に書いている通り、こんな瑣末な問題に足止めを喰らっている場合ではなく、層理論で言えば一階層上でのより大きな問題・本質的な問題がある訳であって、我々はその点について議論しているべきであるのにも関わらず、非常に残念なことに二百年遅れで、いまだに左的な利己主義と戦わざるを得ないのが現状なのである。(祖先が悲しむだろうということを誰も真剣には考えないのだろうか?)
現在の世の中を牛耳っている所謂左的な利己主義が本義的に持ってない観点であるが、過去の先人たちの苦労と、将来の子孫たちのためにも、今ここを真剣に生きていかなければなるまい。(所謂左は「なんで過去の人や将来の人のことを考える必要があるのか!」と臆面もなく怒鳴るのであろうが。。。既述の「よくてせいぜい数世代先しか考えてない」の通り。そうでないと言うのであれば、どうぞ声高にその素晴らしい理論を発信していただきたいものである。)
「手遅れ」という点について補足すると、それは想像を絶する悲惨な状況である。上記の加速度の通り、いざ気付いて速度の発生源を取り除いたとしても(無論昨日から今日で突然0にできるようなものではないが)、慣性の法則に従って放置してきた期間の勢いの分だけ嫌でも悪化する期間が長く長く続くのである。
そうなった時に、所謂左は「肝っ玉」も何もないのであるから、既述「蜘蛛の子散らすように喜劇的にトップから逃げ去る」の通りではあるが、悪の発生源の当事者は臆面もなく逃げ去るのである。潔く悪を認めて全責任を背負って過去の代償を返還して逃げ去るのであればよいのであるが、悲惨なのは何の責任も負わずにむしろ被害者ぶってどこかへ隠れて逃げてしまうのである。(全く喜劇でも何でもない。)そうなった時に、よくも我々はあちら側を平気でのさばらせてきたものだと後悔するだろう。(後悔しても手遅れだが。)
所謂左も、そうなった時に「こんな悲惨なことになるのであれば、今からでも改心して利己をやめて、将来のためだけに奉仕します」とか言っても、いくらその人一人で後悔しても何にもならないのである。(世の中を分かってないという点では、所謂左や、それに加担してしまった人の九割はそうなるのであろう。もはや眼も当てられない惨状。既述「単に悪をなすより、迷える人を悪に加担させる方がよほど悪い」の通りであるが、悪の先導者はいざ改心したとしても返還しきれない、個人で背負い込める量の数億倍の悪を背負い込むことになるのである。そう成った時に「一人では返還しようがありません!」と泣きつかれた時に我々はどうすればよいというのか。(無論そこまで潔い悪であればとうの昔に改心してるであろうが、確信的先導者は全てを無責任に去るのである。信奉した人はご愁傷様でした、とかになるが、我々はそれこそ「人」としてそういった人をほったらかしにする訳にはいかず、そういった人の今後も当然面倒は見るのであるが。おんぶに抱っこは子供のうちにするものであると教えたいが、残念ながら現代では成人しきった完成体にもこういった基本中の基本を述べなければならない。))
厳しい言い方をすれば、成ってからようやく気づくのであればただの動物である。
しかも過去にそういった事例を歴史として何度も経験してきたのにである。
我々はこのまま、先祖の努力も投げ捨てて、全人類を引っ提げて動物に逆戻りするかどうかを試されているとも言える。その事をいよいよ自覚されたい。
ーーー
いきなり本論に入ってしまったが、そもそもなぜ人心の荒廃を述べたかについて言ってなかった。
抽象的に言えば層の問題。視座の問題とでも言えようか。
現実問題では、現状では如何に正論を言葉を述べようと右だ左だという、ごった煮の窯の中に否応もなく放り込まれてしまうのであるが、それであれば窯に入れられる前の「冷静に」議論できる最低限ラインが人心の荒廃であろう、というだけである。
所謂左が果たして人心の荒廃についてどう思っているのか、という問題とも言える。
これまで散々、あちらの用意した(仕込まれた)土俵の上で踊らされてきた訳であるから、それならばその土俵で正々堂々とこの点を持って挑みましょうというだけのことである。(ありがたいことに、成るべきものも成り立たない状況においても、こういった対処をすればよいという事を教えてくれたのであるから有難い事である。)
(因みに、演繹的にはこの二百年の浪費は解決されて、しばらくは安穏の時代が続くのであるが、そこから(私が常々言っていた)本当の葛藤とか困難が始まる。(私を含めて、これをリアルタイムで読んでる人は少なくとも「隠れた」後のことですのでご安心ください^^;)その時に、この時の対処法が役立つのであるから、所謂左も役に立った訳であるから、なおさら有難いことである。そこまで考えると「悪」というのも、ある意味で自分の利己のために「まっしぐらに」突き進むのであって可愛いものである。そうやって突き進んでくれるお陰で、それに対処する解法も生まれてくるのである。もしも現代の所謂左が数百年後にいきなり飛ばされたりしたら「一体どんだけ小さなことに執着していたのか!」と思われるだろうが、将来に出てくる問題は、正に次元が異なるとでもいうか、否、「層」が異なる問題なのである。ちょっと正確な比喩ではないものの、数学で例えれば現代では二次方程式とか三次方程式まで解の方程式が見つかってきたような状況で、これからようやく「五次以上だと解の方程式が存在しない」ということに気づく段階だとも言える。これまではどれだけ単純で平和だったか推し量ることができるであろう。)
(無論、所謂左は本義的にこのように「俯瞰」ができる存在ではないので論外なのではあるが、(但し、少なくとも「先導者」には逃げずに俯瞰して頂きたいものではあるが、既述の通り「スーパー忘却機能を使って【認識】さえ回避」しているのであるからしょうがない。自己意思で「絶対に認識しない!」と言っているのであるから可哀想である。)、それを自己意思で選択したことは結構なのであるが、それはあまりにも人類の智慧に対する冒涜であろう。私がいうことではなく、左の本人たちが自ら総括することではあるが、恐らくこの辺が総括になるのであろうとは推測される。)