2015年10月29日木曜日

混沌と開眼

混沌も困るが、皆が皆が開眼したらどうなるか、それらを総合的に見渡す。
管理しやすいのは認知エリアを拡大させないように閉じこめることだと言うのが、層をわきまえない短絡的な考え方。先ず正すべきはこの認識。

2015年10月16日金曜日

対話と混沌

対話と混沌。

対話とは、相互理解。
嘘は含まれず、自己主張ではなく相手の立場を
わきまえ、これまで培ってきた最良の道をお互いに
選び合ってきたうえでの会話。

混沌とは、支離滅裂な非難の応酬。
自己主張に基づきせいぜい数世代先の「自分の」
後継や血筋なりイデオロギーだかのために、
必要であれば嘘もつき、相対する側の意見は
聞かず、聞いても聞こえないふりをし、
知ってもスーパー忘却機構を使用して
廃人的脳の放棄を持って相手を屈辱させる
ことの一点に捧げる。

これほど明瞭だが、混沌のちょっかいに
やすやすと振り返り貴重な資源を浪費するのは、
「層」が見えてないからであろう。

層をごちゃまぜにしてしまうと支離滅裂になり、
現状のお茶の間は哀しいかな見事に踊らされている。

これまでいかに対話のスタンダードの普及が大切かを
書いてきたが、その前提として層の理解があることに
気付いた。
そうなると層理論の早急な確立が望まれる。

これが明確になれば、なぜ私が彼らを如何に
「よしよし、いい子だ」と扱ってあげなければ
ならないか明瞭になる。
その層から見れば如何に彼らは時代遅れだが、
成長遅れだか、はたまた彼らの崇高なるイデオロギーの
ためだか知らないが(これから定義していく)、
視線の近さに驚くことが可能になろう。
新発見に驚き好奇心を持つことがその分野の発展の
最高のエネルギーになる。

なにしろこの層からすれば、今起きていることが
如何に茶番か、それを演出するもののために如何程の
資源を浪費しなければならないのか、さめざめと
泣けてくることが可能になる。

変わるのは内部からである。組織の内部、組織を構成する
のは人。つまり人の内部。浸透さえすれば雪は自ずから
溶けよう。

2015年10月15日木曜日

やはり視線

いろいろ言われているが、やはり視線は
どこを向いているか。

短期的なものは自ずから袋小路に陥る。
中期的なものはせいぜい数世代。
長期的で初めて論壇に入れる。

これまでせめてもの援護として
短視者は世界レベルについてこれなかった
ものとして、それさえ存在を許してきた
世界として世界の怠慢と引き換えに
許してきたが、反語を言えば
どれだけ譲歩し待ちど暮らせど
自省せずむしろのさぼるが如きは
それ自ずから滅するを選択するが
如しといよいよ現実・現物、それは
未来も含み嫌み退けよう。
それを甘受でき、その意味を知らず
なお現世の享楽を受け来世は知ったこっちゃ
ない姿勢を貫ける「知識」人。
吸い上げるだけ吸い上げて享受し、
乾いてスカスカになった箇所は
どうぞ来世が頑張って。
それを「知識」人がのうのうと
のさばるさま。げんせ。

吸い上げ気調であったから吸い上げるだ
吸い上げて貸しを作りまくった、
作ろうとしたのだろう。しかし
化けの皮は彼らの想定よりも早く
剥がれ始めた。哀しいかなただ
それだけを全世界が血眼して
フォローしている。

例えば自己が、自己主義が何百年でも良い
何世でも良い、何千、何万でも良いが
それを主導するものは、それかなたまで
その阿呆が蔓延することが喜びなので
あろうか。そもそも生きながらえようと
思っているのか。(数世代主義だから
そんなに深遠までは意識が到達して
いまい。いるのであったらどうぞ
自己崩壊してくれればよかろう。)

これを持って、かような主義をのうのうと
掲げられる現世人は最大の幸福もの
であったというのである。
(どうぞ恥の歴史教科書にどうどうと
その名を残していただければと。)

真剣に立ち会うときに、いざその時に
如何に思いを馳せるか。
いざ立ち会った時、正対するもの、おののくもの。
真剣に立ち会うことは今生ではなかろう、数世代先も
なかろうと味をしめて今生の安泰と引き換えに
やすやすとひざまつくもの。
これを表面しか読めずのうのうと
投げ捨てたもの。
培ったものの御座の上でのうのうと享楽を
さも畏まって演劇するさま。

市意はあろう。中間をすっとばすが、
市意を圧倒的に匠に統制することに全エネルギーを
使った結果が現状であろう。
残念ながらすべての芽は摘まれる。
幸いは一部地域であること。外部は上記の通り
その幼子極まりなき様をまざまざと見せつけられ
忍耐に忍耐を極めても一向に成長を放棄したことを
認識したことを持って、再教育を決心した次第である。

幼き馬鹿小人で居座り続けた、ぬるま湯に浸り続けた、
忠告を無視続けた結果をまざまざと受けるのだが、
いずれ泣き言を言ってこよう。
それをやれやれと聞かなくてはならない、その
後処理時のやるせなさは計り知れない。
(かれらは全世代を通して後処理、つまり尻拭いを
したことがないから分からないのであろう。)
ふう。現世は可愛いものだ。
せめて数世代ではなく、過去を全て知って来世を案ずる
賢人が数十億のなかから数人でも出てきてほしいものだ。
(あえて対比の誇張で言った。市意の賢人が
いくらでも居ることは知っている。ブレーンがこうだと
それさえも出られないことを言っただけ。
崩壊は、それら市意の賢人の排出であるから、崩壊後に
主義が浸透して数十年したら一気に抜かれよう。
浸透すればの話だが。)

2015年10月13日火曜日

当たり前だが互いの衰退を期待し会えば衰退する

表題の通り。無論、層をわきまえての前提。層をわきまえねば、無論ちぐはぐな話。
古今を問わず、「ふぅ」といった次元の話。
しゃしゃり出るものも読み、つまりメディアの権化くらいにおもい天狗になってるものも読み、先導にたやすくは流れるさも知識のただなかや、そのありがたみを享受してるや、さもや率先して先導の中流を流れんやないし流れるを自認し、他薦であろうとまんまとしたてあげられるものが読めばよろしい。
その層のためだけの話。

2015年10月9日金曜日

浅さ、深さ

統べる側からすれば伸びぬものがおらぬほど
統べ易きことはなかろう。

飼われるということは悲惨である。

(既述の「如何に杭を打つためだけに労力を掛けてきたことか」
を参照)

外患が際立ってなくなった彼らの「うさ」は当然内憂に
伸びて高性能もぐらたたき機になりうせたのだろう。
(あと、しっかり高性能ふところ暖め機)

おそらく、その本来の理想、目的を正確に把握しきれて
いないのであろう。
こんなことは、貨幣社会では成り立たないことぐらい
子供が数時間勉強しただけで分かることである。

それをさも崇高なる知識のごとく見せびらかして
一晩考えれば分かることもさも早急なる刷新だと
ヒステリーを起こさせ、聖賢とは反対の正バカを
斡旋させ意志を放棄し本能の先鋭を崇拝して
しまった事実。
さあどうぞ、その禍根の返り血を充分に逃げずに
受け止めてくださいといったところだが、哀しいかな
救済されるのである。大多数は滅亡を望むであろう。
しかしそれは激情、憤慨、一時の理性を超えた感覚である。

理想だか、理性だかも分からずに突っ走る事実。
それをきょとんとて、遠くから助言するしか術が
ない事実。
既述のとおりだが、切り口として、如何に彼らの目的の
時空的浅はかさがあげられる。
(せいぜい自己を中心として数世代だけ、のくだり。)

何億だか何十億だかの脳として機能していれば、自ずの
見通しの浅さには気付いて驚愕できるぐらいの脳は有して
いよう。
それを、これも既述だが、スーパー忘却機構を駆使して
網膜をすりぬけさせることは自ずを廃したものの
仕業であることを具体的に明示した。

分かっていてやめられない。それを国家レベルで野放し
できてしまう世界レベルなのであった。
彼ら的には分かってもやめさせない、やめる雰囲気が
微塵でも嗅ぎつけられたら徹底的に追い込まれるから
辞めるに辞めれない。
結局、自己が1番、2番が後世(直系のみ)という
何回言えばいいかわからないがせいぜい数世代の
物語に付き合わさせられているのである。
(日本的現実に比喩すれば、如何にやくざ的やり
かたであろうか、といったところか。これでも
かなり生易しい表現であることは読める人は
分かるであろう。)

演劇であれば面白いですむが、もはや内部からは
声さも挙げられない(本当は聡明なる志士が咆哮
していよう)現状なのである。

辞める前、諦める前に、せめて土壌を耕してほしい。
幸いにも辞めるときに良心に気付いたのであれば、
良心の呵責として、崩壊後の人民のために芽をまいて
おいて欲しい。
ここに明らかにしたようにいかに利他、そこまで
いかなくても如何に相手のことを想像するかくらいまで。

これまで述べたように、これら上記は議論することさえ
浪費なのであって、考えるべきは対話のスタンダードを
そなえた後に、つまり対等に(哀しいかな、現代風で言うと
「まともに」)話ができるようになってからの支那と、
西部は独立や崩壊をするであろうから、つまり東アジアの
あり方、そしてそこに下手に付け込まれないように対外的な
外交の憂慮なのである。

こういった議論に参加できるくらいの対話のスタンダードを
兼ね備えた成人に成り代わってみせます、という気概があれば
それでよいだろう。(現時点では微塵もない。)
救うべきは飼われて埋もれた聖賢、飼われても信念を曲げなかった
声なき声であることは言うまでもない。数多声なき声よ。
(そしてそれを目の当たりにして無視し続けてきた既存よ。)

PS
特に書かなかったが、スーパー属国をなのる彼の国は
上記を読めば別にどうぞふらふらしてください、と
合点がゆくであろう。いざ目覚めて決する、しかし
時すでに遅し、これを延々と繰り返す。

ーーー
「字」さえ読めれば。。
既得権益が血眼になるが、それらの願望は、既述のとおり
数世代だけなのであった。

賞という切り口

今回せっかくなので、賞という切り口で見てみよう。

母数がいくら多くても一向に賞が取れぬことに嘆いている
集団がある。

これに主体という言葉を加えるだけでその意味は
容易に紐解けてしまう。それほど危ういということ。

彼らの理想が確立して、はや幾年の歳月を謳歌しているか。
飼う機構ができて、その配下の人民は代価として
安心と安定と先進的文明を享受している。
(なんとすばらいいことであろう。)

そんなユートピアを確立しておきながら、つまり
飼う側はせっせと集合のために己を顧みず日々
内憂外患に対峙し、汗水鼻水を垂らし、
享受される側、飼われる側は外界を気にせず
その享楽にいそしみ、否、その崇高なる先進的
文明に勤しむことができるのである。
如何に学問の捗ることか。

もしそうなっていないのであれば怠慢である。
飼うものの繁栄に帰していないのであれば、彼らの
理屈から言うと、脳、ブレーン、つまり飼う側の
失態である。
飼われる側の現状を見よう。「何故、こんな
集団のために誉れを受け得ようか。」
如何に聡明なる人材を擁しようとも、聡明に
なればなるほどその落胆の悲痛は察して余りある。

ちと、あまりにも簡単に真実を述べてしまったが、
本来はこれを「読んで」、憤りを感じなければ
ならない。
もはや彼らは「恥」から遠く地平の彼方へ旅立って
しまった。
何事もそうだが、変わるのは自分でしかない。
変わるのは内部に着火しないと始まらない。
彼のすばらしき、確立された主義によって
外部をすべて遮断しきっていると思っているのであろう
から、それでよい。
先ずは「恥」の「回復」からであろう。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...