2015年10月9日金曜日

賞という切り口

今回せっかくなので、賞という切り口で見てみよう。

母数がいくら多くても一向に賞が取れぬことに嘆いている
集団がある。

これに主体という言葉を加えるだけでその意味は
容易に紐解けてしまう。それほど危ういということ。

彼らの理想が確立して、はや幾年の歳月を謳歌しているか。
飼う機構ができて、その配下の人民は代価として
安心と安定と先進的文明を享受している。
(なんとすばらいいことであろう。)

そんなユートピアを確立しておきながら、つまり
飼う側はせっせと集合のために己を顧みず日々
内憂外患に対峙し、汗水鼻水を垂らし、
享受される側、飼われる側は外界を気にせず
その享楽にいそしみ、否、その崇高なる先進的
文明に勤しむことができるのである。
如何に学問の捗ることか。

もしそうなっていないのであれば怠慢である。
飼うものの繁栄に帰していないのであれば、彼らの
理屈から言うと、脳、ブレーン、つまり飼う側の
失態である。
飼われる側の現状を見よう。「何故、こんな
集団のために誉れを受け得ようか。」
如何に聡明なる人材を擁しようとも、聡明に
なればなるほどその落胆の悲痛は察して余りある。

ちと、あまりにも簡単に真実を述べてしまったが、
本来はこれを「読んで」、憤りを感じなければ
ならない。
もはや彼らは「恥」から遠く地平の彼方へ旅立って
しまった。
何事もそうだが、変わるのは自分でしかない。
変わるのは内部に着火しないと始まらない。
彼のすばらしき、確立された主義によって
外部をすべて遮断しきっていると思っているのであろう
から、それでよい。
先ずは「恥」の「回復」からであろう。

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