2014年3月9日日曜日

真実はより単純であろう

読めずに盲信するものと、読み地を歩むものの対立。
たったそれだけに何千年費やすのか?
(詳細は、「如何に浪費を感ぜずに生涯を送るか」参照)
(読めぬものには、読めない、読んでも理解できない、
敢えて読なない、読んでもSuper忘却機構で忘却する、など
様々な意味が含まれる。森を見よというわけだ。)

読めるもの=対話のスタンダードを踏襲したものとして
之まで記してきた。

あと何年、否、何十、何百年(更に何千年?)を
浪費するか知らないが、対話のスタンダードを
踏襲したもの同士が対話してようやく
空の晴れた陽の下で対話できるのである。

現世は残念ながら雲の中なのである。

私が心配しているのは、対話のスタンダードを会得した
ものどうしが対話した結果(以前、「次の次元」と書いた)
がどうなるなるのかなのである。

だだこね坊やに時間を消費されることが如何に
勿体無いかを肌として感ずれば自ずから
現世の浪費を感ずることができよう。

まぁボトムアップで言えば之に達するは
無理な話であり、それ故が現世たるのだが、
いつまでも井の中に留まるは、またこれ
怠慢であろう。ただそういう話。

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