2015年12月31日木曜日

伝達

例えばため息-sigh-は何らかの緊張状態が開放されることで
でるものである(心配が好転したのであれば安堵のため息、
心配が継続、悪転したのであれば失望のため息、など)が、
現在の人体の構成から生じる現象である。

いろいろな話が複合されてしまうが、内部反応(感情など)が
生理的に発露する機構があり、コミュニケーションの形成に
おいて他者理解が必要不可欠であるので、それら生理的発露を
読み解く(ほぼ無意識にだが)機構があるのである。

先ずは内部反応(感情)と外部発露(生理的な反応、発露)の
関係を解き明かす学問の門戸を開いておこう。
これは人体に限定しない。他の動物でも生じるか、その場合
どのように発現されるか、それらを煎じ詰めて内部ー外部の
関係性を解き明かすことが先ずは目標となる。
これができれば最適な内部発露機構ができるのであって、
よって例えば将来的なロボットの自然コミュニケーションの
土台足りえるのである。

次に、表現性の発展について。
表現性は発達とともに豊かになってきたであろうし、今後も
いろいろな表現方法が発展するだろう。
伝達の視点から見ると、それはより繊細な内部を表現し
その繊細を受領しうるように発展しているか?という
命題を突きつけることができる。
表情やしぐさを読み取る機構はもはや本能的にできる
くらいまで発達しているが、では、ため息の強弱によって
その人が本当に頭髪が白髪化してしまうぐらいの絶望
なのか、そうではなく少しもの希望を持った絶望なのか
を読み解くことは可能になってくるのだろうか?

文・芸・音楽・メディアもしかり。
「これこれこうでこうだった!」という「感動」を伝える
のが一つの目的だと思っているが、「こうだった!」の
「こう」そのもの、本人が味わった感動をありありと
まざまざと表現しえているだろうか?またしうるだろうか?

現代で現代に発信しているものは当然受ける側も同一基準の
受領レベルなので前提条件を端折れるのである。
では、現代で例えばローマのコロッセウムに行った12才の
少年が体験した時の、彼の前提条件、彼のまざまざと目にした
時の感情を寸分違わずに体得できるだろうか?

(これが以前に書いたことに結びつくのだが、「感情を
そっくりそのまま伝える機構」というアイデアになる。)

(すこし脱線するが、和は原初を探求している。
能、歌舞伎、茶、武士、…。一瞬の刹那を煎じ詰める。)

「感情をそっくりそのまま伝える機構」を直接伝達、
生理現象、文、芸、音楽、メディアでの伝え方を間接伝達と
すれば、それらはトップダウン・ボトムアップの関係で
統一されよう。

究極はその美しい伝達方法がいずれ確立されようから
よいのであるが、やはりその伝達手段を用いて何を伝えるか
が(現代の)本質である。
ここからが層理論の話になるのだが、別に上記の伝達方法が
最終決着を迎えずとも、層理論は層理論でその時々の最善の
伝達方法で伝播するので別の話ではあるのだが。

今回は、層理論の土台となる、コミュニケーションの
土台という観点から書いてみた。

(生体内部反応生理現象学については門戸を開くと書いたが
今回書いたその他の新しい学問についても門戸は開いている。
せちがないので敢えて追記しておこう。アイデアは全てここに
帰着しますのでご注意ください。)

2015年12月27日日曜日

民意はメディアにあらず2

もはやというか前からだが民意はメディアには
ないということについて追記。

今はメディア側は有利フィルターを掛けているが、
それもすぐに通用しなくなるということ。

以前述べた「失言検知システム」を使えば
原稿時点で「公」のミスはなくなる。
(逆に言えばいかに現在の「上げ足取り」が
恥辱として認識されよう。安心して欲しいのは
あくまで後世的にであるから、現世を侮辱した
わけではないことである。)
カッコ内で書いたような注意書きも全て
注釈として発信されるので、もはや会見の
前提集もできるだろう。
つまり伝えたい側の意思が伝える側に
ようやっと伝わるシステムである。
(如何に哀しいことかをこれまでの
メディアは目や耳やあらゆる五感は
染まるのではなかろうか。)

(では何故上げ足取りに走っていたかは
足は地についていたかどうかとなる。所属精神、
ものによっては組織に属していなかったか。
地と思っていたのはそれら仮土壌ではなかったか
ということ。(その知覚を最も恐れているのは
何かは別ブログ参照。(もしよければだが。
温床のままかどうか。))

敢えて厳しく言えば公私がごっちゃになっている
のである。
公−公
公−私
私−公
私−私
ごっちゃといったが4パターンしかない。
ごっちゃが生じるのは層理論が理解できてないからである。
層理論がないとお互い訳がわからないまま
一方がまんまと引き出して自陣営の有利フィルターが
掛かったものを引き出してしめしめとなり
正においしい揚げを獲得できるチャンスが
あるのである。(からビジネスが生じる。)

もしも賢明であるなら(大半がそうである)、
それはうつつと認識し、浮足出すは正に
氷面の石であると、遅れずに思って欲しい。
(別に救済とは言わないが)

地 - ground

敢えて厳しく言えば、なぜ足が地についてない
輩を野放しにするかに尽きる。

結論から言うが、なぜこれが安全かというと
しょっぴかれる足は同じなのであるからである。
つまり内部で一部でも分かれば、全体に波及する
からである。

今はうまく定義できないからモヤモヤしているだろう。
それは例えば「本当は奴は足が地にも付いてないのに
ワッショイで握らされて踊らされている」という
輩をそれでもその実際の足を上げることはできない
などであろうか。

その切り口では当然切れまい。
層理論の破壊力は、最初に述べた足が地についているか
踊り人形かをまずは切り分けられることができることであろう。
(ここまで具体化しないといけないことが情けないが。)

取り敢えず政治については以上。
後はこの意味するところを汲みしていただける方が
現れようからそれを待とう。
(もし意味が異なれば必然として再来しよう。)



2015年12月17日木曜日

過去を直視しうる文化はいままであっただろうか。少なくとも1つは実在する。

未だまばらであるが、利己に走る個を見るにつけ
道徳的悲壮感は醸成されてきつつあろう。

どうにもならないシステムであった。
しかしそれを排出する組織や仕組みももはや
恥ずかしいと思うべき時なのであろう。

いずれもやはりその過去を直視しうる
システムはなかった。
一つだけあるとすれば、やはりその根流を
見なければならない流れになっていることは
必然であろう。

実在の具現化として、対話のスタンダードと
いう低層の確立から始まり、層理論という
本質の力学的体系化に及ぶまで道のりは
遥かに長いが、一歩ずつ進んでいこう。

2015年12月10日木曜日

層と相

層理論の活用によって層のボトムアップおよび
次の層への転換がなされるのであるが、
おそらくこれは副産物であろうか。

「なぜあの人は修羅の相をいく」とか
「あの人の人相は温かい」とかいう意味の
相とは、先達が幾世も伝承して見通してきた
ものであるが、層理論は少しくもそれについての
力学的根拠になるのではないだろうか。

層理論の層によって一部であるが三世は繋がるのである。
空想ではなく、式として力学として明示できるのであり、
いつでも歯車として機能できるのである。

「クローン技術」や「無神論」など「神の領域」が
叫ばれるが、むしろこれこそが精神的土台の大転換と
しても、法律や規則の新しい「治世システム」の端緒しても、
「機能」として回転する仕組みを「発見」してしまった
以上は致し方あるまい。(科学は発見である)

(先人は何世代も通さないと分からない相を分かってしまう
知恵があったことがすばらしい。
今この刹那に「百年後はどうなるだろう、千年後はどうなるだろう」
と思うのと全く同じ状態で、数百年前、数千年前に
「百年後はどうなるだろう、千年後はどうなるだろう」
と思っていた人がいた。
また、先ほど刹那に思ったわけだから実際に
百年後、千年後に「思われた」瞬間が到来する。

神秘的な話をするわけではない。ただの事実として。

明確な記録もなく(と断言するのも失礼だが)、伝承で
人の相を判ずる知恵を培ってきた。
そこにあるのは層理論で言うところの層である。
どこまで見通しているか、どれほど短絡的であるか。
たった数千年前の基準で線引がされるので、今、現に
あたかも元首のような立場でフォーラムで嬉しがって
いるようなものは大いに考え入るべきであろう。

問題は層理論が確立した後の世界であることが
いやが上にも明確になったであろう。
問題は「感覚・意識の伝搬」である。
(既述「如何に感性そのものをありのままの
感動のまま伝えるか」参照)
)

ひとばしら

書くまでもないが、人柱もいいところだろう。

(P.S.2016.1.9
ブログを書いた時は当然「これ」といえば「あれ」と
分かるがいざ読み返すと当の本人も分からなくなるのであるから
読む側は更に分かりようがないでしょうからその時時を
記していこうと思う。
この時は沖縄の○○知事(公人なのでこんな個人ブログで
記しても良いのだろうだろうが。)がわざわざ国連まで
懐を温めて嬉しそうに通われ遊ばれた時分のことを
かきしたためました。
あの方はむしろ単純で「どのような手段を用いても…」と
言って受かったので、あらゆる手段を尽くせば「約束」は
達成できるのであります。その猪突猛進なところは見るが
ごときですね。ただ心配なのは他の国の元首と同様に
いざ開眼して自分の後ろ姿をどうか見ないようにして
余生を過ごしていただきたということだけでありましょう。
走った以上は自己責任で救済していただければと。
これではせっかくの救済の手も無駄に朽ち果ててしまうという
事実を目の当たりにして、それを将来横目で見るという
覚悟を持って「約束」を果たされようとするのですから
だれも後は追いませんでしょう。
最後になりますが、それでもなお、そういった放棄者さえも
救うのが、救う道があるのです、たぶん知らないでしょうが。
まずはそういった物理的救いに、ハンモックみたいに網が
背中に当たることを感じれば発端となりましょう。
「ハンモックの網は己のものだ」というならそれでよいでしょう。
これ以上は子供すぎるので述べませんが、いつか
世を去る前まで、直前で辞世の句を読んだ後でも構いませんので
ふと呵責に一寸でも触れることができれば本望です。
(無論触れずとも、それさえも受けますので触れずじまいでも
本望です。)
ここからは、いつもの「如何にして忘却するか」の通りなので
詳述しないが、これさえもそもそも読まない、読んでもスーパー忘却機構で
即刻忘却する、反論しようともこちらが正なので反論しようがないと
いう道順をたどるのであった。いったいどれだけの幸福者を排出すれば
よいのだろうか。
耳だけ切っただけと思われてるかもしれないが、己が身を切ったからには
苦しむのは自分との覚悟を持ってのことであろうから、知事が終わった後に
それら終生の苦しみはいざ自ずで受けおおせるのであろう。
我々小人にはその後世にはただ「約束」しか見えないが、
ここまで人形のごとく踊った知事にはよほどの「信念」があったことで
あろう。それさえあれば後生も自のしでかしたことと、自分で
切った耳とで、さも暖かな「約束」のとおり安泰されるであろう。
最初に述べたように最後であるが。
以上がこの時の状況である。つまり過去のことなので記録としてだけ
残す。

さらに付け加えるならば挑発には乗らないようにしたほうが良い。
応戦も不要である。(Kさん発言を騒ぎ立てようと踊っているが
Kさんは応戦していない。さすが分かっていらっしゃる。
彼らの手法は巧みに揚げ足を取るというすばらしい戦法である。
なんというめくらましか!しかも実働部隊は結局金銭と名言は
しないが所謂「約束」戦法で「お買い上げ」してるだけなので
あるが、善良心のある彼岸は非難さえしないのである。
(立場が違ったら非難の雨あられ。どれだけ救済されたいのであろうか。
尻拭きまでしますからどうぞご心配なくそのすばらしい約束に
駆け上っていってくだされ。)
ただ「約束」を手に入れた方々の虚しさを救いたい。
利己本願で現世を過ぎ去ってしまう人。
現世ではというか生きてるうちはそれで良いが
三世を思うとき、例えば辞世の句を読んだ後で
本当に事切れる間際でも良いから呵責を一寸、一刹那でも
日本人としてでも良いし、人間としてでも良いし、生物としてでも
よいし、あるいは無機物としてでも良いし感じてくれれば
それは大往生であろう。無論思わなくともであることは自明である。
「がんばって捨てている」感じは、私が言うまでもなく
皆が感じていることである。哀れなり。
(人として、日本人として、人類として、また繰り返しになって
しまうのでこのへんで終わりにしよう。もはやこれさえも
彼の耳は(ずっとまえからだが)届かないであろうから。
余生にでも読めばよろしい。(というか読んではさきほど
記した「いざ開眼して」の事実に突き当たるからむしろ
敢えて読まないほうがよろしい。)


よほどの安泰を約束されているのではないだろうか。
層理論で見るとやはり線を越えてはいない。
(「発信の核は人柱にあらず」を参照。
そこにムキになって対抗するのも浪費となる。
正すべきは核である。どこぞに潜んでいるやら。
これも層理論によって白昼に晒されよう。)

やはりせいぜい数世代なのであった。
全国から狩り出されて集結したものもそう、
と言ってもいいが、図らずも狩られたものや
「約束」に翻弄されたもので文字が読めるものは
もう少しでも悟ってくれれば良いと願う。

いかに土に足をつかぬものへ浪費したかが
悟られよう。

(余談だが既述「なぜ学識者は寄るのか」についてや
常々言っていることだが、やはり土に足がついていないと
たやすく流される。層理論ではこれも力学として
説明がつく。層理論を通すとやはりそれらは
「あぁやっぱりな」と面白いように合点がいく。

成人して中年・老年とまで歳を重ねるに連れて
神経まで蝕まられてるとより難しくなるかもしれないが
幸い人はいつの時点からでもやり直せるようにできている
のである。層に気付いたらそこが出発点である。
これまでそこまで解き明かせなかったせいでもある。
より早く確立されていれば確かに現世の愚は生じなかった
であろう。それを知ることが幾世との合流なのである。
気付くものはそれに合流できるのである。)

「約束」してしまったものは正に盲信するのであった。
(そして縄を解かれ開眼して背中を見て気絶してしまう
ものもいるのである。そこからは己との戦いである。)

2015年12月8日火曜日

諦め理論

層理論から導き出されるが、より下層にとどまろうとする力、
あわよくば周りを引きこもうとする力が発生する。

個体であればよいが、集団化するともはや自身がそれに
加担してることさえも認知できずに、それらの英雄として
最前線の戦力やシンボルとやすやすと成り果てるものさえ
生じてしまう。

層理論の破壊力の一つは、それを力学として解明することで
それら層の何たるかを知っても知らない力(現実世界で
言えば組織など)を仕組みとして冗長させなくすることが
可能になることである。

(言葉に注意しなければならないが個人で言う、また
現代で言う精神疾患患者への社会の対応と同様に
それら力(組織)は「よしよし」と温かく同居する
知識を幸いにして有しているのである。(それらに
気付かれずに、つまりそれらの尊厳を維持しつつである。))

手段は極めてシンプルである。理解した個体の内部から、
理解した瞬間に分かる、つまり文字さえ読めれば良い。
対する者の武器はせいぜい、スーパー忘却機構といった
ところか。打ち勝つ理論(というか屁理屈)を打ちたて
ればよかろう。


2015年12月5日土曜日

如何に改善するか

「あそこはこうだ」とか「こっちはこうだ」とかいう
的確な分析を踏まえて、「ではどう改善するか」ということ。

一つの根幹として信頼が挙げられよう。
現状を見るによくぞビジネスが成りなっているなと
逆に驚嘆する。
(否、成りなっているのではなく虚構に虚構を築いてるだけで、
メッキにメッキを上塗りするような、中身が空っぽで正に
見せかけだけの橋渡たりをしてるだけなのかもしれない。)

どう改善するか。
それらは信頼という腹、肝まで落ちるような交渉を
したことがないのであろう。
周りにもいないし、過去にもいない。むしろそんな
信頼することのほうが馬鹿とさえ呼んでいる向きがある。

信頼という土壌があってようやくまともな交渉ができる。
信頼という土壌があってはじめて大義が生じるのである。
これまで信頼を如何に貶めてきたか、
これまで信頼を如何に裏切ってきたか、
その結果がそれらの足を付ける土壌として延々と
はびこっているのであるから信頼という名の希望が
育つわけもない。
それらはその土壌で利己をおおいに発揚できるので
あるから大いなる幸福者である。
もし文字を読めるものがいて、信頼の土壌の大義を
知り得たものが生じたらそれが種となろう。
それを願うしかない。
(なぜならそれらは外部を遮断し、自画自賛しかせず、
文字が読めないからである。外部から伝える手段が
何もないにも関わらず、それでも案じるときそれは
願いとなる。)

メディア上では世界と肩を並べて満足気にしているが
階層フィルタを通すとこのようにそれらの魂胆は
丸分かりになる。これこそが層理論の破壊力であり
常に言っている「浪費」の歯止めとなるのである。

いつも言うように変化は内部から訪れる。
ほっといて野垂れることを傍観するのもよいが、
その変化の核、発端としての拠り所をここに
記しておいても損はないと思い願いここに記す。
(ただし下手に、つまりそれらと同一階層レベルで
手を差し伸べると、いつも通り調子づくので、
この階層では突き放し、人類史から見捨てられている
ことを先ずは自覚させる必要が有ることは言うまでもない。
それらはこれは読めず、その幾段も前のいわば「よしよし
いいこだね」レベルのお話から土台を作りなおして
いかなければならない。変化の過程について述べるのであれば、
「恥を知ること」参照。
これについて当初は凄まじい
浪費を感じたが、よくよく見れば個人レベルが組織レベルに
なっただけの現象と捉えられる。やれやれ。
いつかはこれもただ「利他について」という1時間の
授業で勉強するくらいのごく小脳的な事項として
教えられるのだろう。)

もしもそれらの内部に、それら自身の程度に気付いている
ものがいるならば(多数いることを願いたい)、気付いている
ものたちの悲嘆も計り知れない。数多の無念を。


2015年12月2日水曜日

組織のセキュリティ

最終的には個人もだが、組織は情報セキュリティと同様、偏向に対しても常に備えなければならない。(最初から片寄ることを目的とした組織はちょっと違うが。しかし、後に述べるように偏向セキュリティが確立すれば偏向組織にも適用できそうである。)
組織、法人はどうしても「公」の面を伴ってしまうので、偏向に備えなければ、まんまといいように使われてしまうからである。
それはITで例えれば、インターネットをブラウザで見てるだけの立場(個人)から、自分でサーバを立ち上げて一般公開する(法人)ようなものである。
サーバーにセキュリティ対策を施さなければ瞬く間にクラッカー(偏向サイドに引き込もうと情報操作するもの)に乗っ取られてしまう。
偏向と書いたがいわゆる、プロバガンダになるが、それは今ある事実としての現状を情報操作によって方向を変えさせようとする意味において何かしら片寄っているので偏向と書いた。気になるなら「直進」と読み替えてもらえればよかろう。

P.S.
今回の騒動も、この「組織のセキュリティ」と、既述の「なぜ学識者は寄るのか?」で説明がつくことが理解していただけよう。かなりわかり易い例といえよう。
補足すれば既述「民意はメディアにはない」の通り、この組織は今後、当然の結果として世間から当てにされなくなろう。カードとしては大きなものを思い切って切ってきたようだが、完全に生かし切れずに捨てたようなものだ。ブレーンの能力を疑ってしまう。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...