2015年12月10日木曜日

ひとばしら

書くまでもないが、人柱もいいところだろう。

(P.S.2016.1.9
ブログを書いた時は当然「これ」といえば「あれ」と
分かるがいざ読み返すと当の本人も分からなくなるのであるから
読む側は更に分かりようがないでしょうからその時時を
記していこうと思う。
この時は沖縄の○○知事(公人なのでこんな個人ブログで
記しても良いのだろうだろうが。)がわざわざ国連まで
懐を温めて嬉しそうに通われ遊ばれた時分のことを
かきしたためました。
あの方はむしろ単純で「どのような手段を用いても…」と
言って受かったので、あらゆる手段を尽くせば「約束」は
達成できるのであります。その猪突猛進なところは見るが
ごときですね。ただ心配なのは他の国の元首と同様に
いざ開眼して自分の後ろ姿をどうか見ないようにして
余生を過ごしていただきたということだけでありましょう。
走った以上は自己責任で救済していただければと。
これではせっかくの救済の手も無駄に朽ち果ててしまうという
事実を目の当たりにして、それを将来横目で見るという
覚悟を持って「約束」を果たされようとするのですから
だれも後は追いませんでしょう。
最後になりますが、それでもなお、そういった放棄者さえも
救うのが、救う道があるのです、たぶん知らないでしょうが。
まずはそういった物理的救いに、ハンモックみたいに網が
背中に当たることを感じれば発端となりましょう。
「ハンモックの網は己のものだ」というならそれでよいでしょう。
これ以上は子供すぎるので述べませんが、いつか
世を去る前まで、直前で辞世の句を読んだ後でも構いませんので
ふと呵責に一寸でも触れることができれば本望です。
(無論触れずとも、それさえも受けますので触れずじまいでも
本望です。)
ここからは、いつもの「如何にして忘却するか」の通りなので
詳述しないが、これさえもそもそも読まない、読んでもスーパー忘却機構で
即刻忘却する、反論しようともこちらが正なので反論しようがないと
いう道順をたどるのであった。いったいどれだけの幸福者を排出すれば
よいのだろうか。
耳だけ切っただけと思われてるかもしれないが、己が身を切ったからには
苦しむのは自分との覚悟を持ってのことであろうから、知事が終わった後に
それら終生の苦しみはいざ自ずで受けおおせるのであろう。
我々小人にはその後世にはただ「約束」しか見えないが、
ここまで人形のごとく踊った知事にはよほどの「信念」があったことで
あろう。それさえあれば後生も自のしでかしたことと、自分で
切った耳とで、さも暖かな「約束」のとおり安泰されるであろう。
最初に述べたように最後であるが。
以上がこの時の状況である。つまり過去のことなので記録としてだけ
残す。

さらに付け加えるならば挑発には乗らないようにしたほうが良い。
応戦も不要である。(Kさん発言を騒ぎ立てようと踊っているが
Kさんは応戦していない。さすが分かっていらっしゃる。
彼らの手法は巧みに揚げ足を取るというすばらしい戦法である。
なんというめくらましか!しかも実働部隊は結局金銭と名言は
しないが所謂「約束」戦法で「お買い上げ」してるだけなので
あるが、善良心のある彼岸は非難さえしないのである。
(立場が違ったら非難の雨あられ。どれだけ救済されたいのであろうか。
尻拭きまでしますからどうぞご心配なくそのすばらしい約束に
駆け上っていってくだされ。)
ただ「約束」を手に入れた方々の虚しさを救いたい。
利己本願で現世を過ぎ去ってしまう人。
現世ではというか生きてるうちはそれで良いが
三世を思うとき、例えば辞世の句を読んだ後で
本当に事切れる間際でも良いから呵責を一寸、一刹那でも
日本人としてでも良いし、人間としてでも良いし、生物としてでも
よいし、あるいは無機物としてでも良いし感じてくれれば
それは大往生であろう。無論思わなくともであることは自明である。
「がんばって捨てている」感じは、私が言うまでもなく
皆が感じていることである。哀れなり。
(人として、日本人として、人類として、また繰り返しになって
しまうのでこのへんで終わりにしよう。もはやこれさえも
彼の耳は(ずっとまえからだが)届かないであろうから。
余生にでも読めばよろしい。(というか読んではさきほど
記した「いざ開眼して」の事実に突き当たるからむしろ
敢えて読まないほうがよろしい。)


よほどの安泰を約束されているのではないだろうか。
層理論で見るとやはり線を越えてはいない。
(「発信の核は人柱にあらず」を参照。
そこにムキになって対抗するのも浪費となる。
正すべきは核である。どこぞに潜んでいるやら。
これも層理論によって白昼に晒されよう。)

やはりせいぜい数世代なのであった。
全国から狩り出されて集結したものもそう、
と言ってもいいが、図らずも狩られたものや
「約束」に翻弄されたもので文字が読めるものは
もう少しでも悟ってくれれば良いと願う。

いかに土に足をつかぬものへ浪費したかが
悟られよう。

(余談だが既述「なぜ学識者は寄るのか」についてや
常々言っていることだが、やはり土に足がついていないと
たやすく流される。層理論ではこれも力学として
説明がつく。層理論を通すとやはりそれらは
「あぁやっぱりな」と面白いように合点がいく。

成人して中年・老年とまで歳を重ねるに連れて
神経まで蝕まられてるとより難しくなるかもしれないが
幸い人はいつの時点からでもやり直せるようにできている
のである。層に気付いたらそこが出発点である。
これまでそこまで解き明かせなかったせいでもある。
より早く確立されていれば確かに現世の愚は生じなかった
であろう。それを知ることが幾世との合流なのである。
気付くものはそれに合流できるのである。)

「約束」してしまったものは正に盲信するのであった。
(そして縄を解かれ開眼して背中を見て気絶してしまう
ものもいるのである。そこからは己との戦いである。)

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左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...