2016年3月29日火曜日

確かなり

確かに世の中にはより刺激的なより現実味のあるストーリーが有り
そのほうがよっぽど面白いが、ではベクトルはというと個々人である。

良い方向もあるが知らず知らず加担してるものもある。
起してはならないものを起こした以上は自ずと起きる方になるであろう。

もはや「哀しい」では収集できなくなるしかないように彼らは選択してきた。
しかし学んだもの・ことは数千年で何もない以上は、それらはやはり
痛みを避けてきたのであろう。
避けて避け続けているさまはよはや誰の目にも明らかであるが、
これらをより具体的に痛みを学ばせねばならい、ということが
非常に哀しいのであるがこれがこれからの現実である。
層理論をある程度理解してくれた方であれば言わんとしていることは
分かるであろうが、上記の傷みは例えば軍事的なものであるかもしれないし
それは手段でしか無いことは分かっていただけよう。
例えば軍事的に勝って痛みを分からせてもすぐに受けた痛みを避け、
責を逃れ痛みを受けずにワシントン条約をのうのうと、ましてや
優美に亡き者にしてしまったことを見れば、それはただ最近見られた
具体的現象でしか無いが、その神経から具体的に解決していくしか無いのである。

それを資本もせせら笑っている場合ではない。
構図の根本まで、原点にまで回帰するからこそ「恐ろしい」のである。
「哀しい」のである。それらパワー理論の限界、白旗を見た。
神経を引き抜くという比喩が少しは具体的にイメージ出来ただろうか。
それ故の起床である。
現在あらゆるところで「起きている。」
最後のダダこねはせいぜいそれらを止める努力をしたほうが良かろう。

これは見向きもされないことのようなのでより具体的、より分かりやすく
層理論を確立していく。
これまでの歴史を学んではいないのだろうか。こうやって浸透していく
のである、と書こうと思ったがさすがに当局の目に留まると思ったので
やめておこう。

隣国はほぼ決定しているので心配はしていないが、その後の資本である。
しかし彼らも学んできていると信じたい。ただのパワー層でではなく。
もしも層理論の本質を見抜いているのであれば和回帰が起きていても良いが
そうにも見えないので未だなのであろう。



2016年3月27日日曜日

おこしてはいけないこと

起きたのは隣国ゆえかも知れぬが、では隣国はというと
元はといえばまんまと利用されているからである。
それまでの土壌を見れば明白であるがこれであれば
右を示せば右へ、左を示せば左へ容易く誘導することが
できると思われてきたことである。この意味において
哀しまれるものであるがそれ故の土壌。一つの見方として
因果なのであろう。

しかしその間接を通して微々たる歪曲を察知できた。
層理論では憐れむ存在なのである。

どこまであけすけなのだか、それ故の手のひらなのであるが
ここでは全てオープンなのである。
せっせと暗号を解読してきた従順なるものへはすいませんとしか
言えないが競技比べである。
層理論でそれらは利用させていただくのであった。
最大限極端に言うとこういうことであろう。

概念的にわかりやすく言えばパラー層で競い合ってきたことは
その根流の層理論という手のひらでの事象でしか無いので
無論脱出は不可能なのである。
(否定形を使うと疲れる。)

いつも希望を持って「ここまで言えば分かるだろうが」と
いって文字が読めるものへの期待をするのであるが、
我を起してはならないのである。
それが起きた時はどういう時であったか。
またも調停を、しかも「もうどうしようもありません」といった
泣き言で起こすとはなんたるダダこね根性であることか。
本気で起こることの再現でしか無い。哀れ。
少しでも文字が読めればと何度言わせるのだろうか。

繰り返しでしか無いが「何故世界はここに最終調停を
何度も何度も懲りなく委ねてくるのか」という答えである。
現状の、さらに感情も汲めば、「ただのあまったれ」という
解であろう。

層理論は力学である。賢しきものは次の手を考えるであろうが
延命でしか無い。最大限汲めばよかろう。
もはや力学は走っているのである。

手の打ちようのない負債

都心だと特にそうだが歩いてても譲り合いを平然としてしないものを
みるようになった。彼らにとっては大きな成果であろう。
おそらくそのまま文字を読む習慣もなくまんまと彼らの手中に収まって
暴走中年・後年になっていく、現に現在のそれらは申し子である。

成果がようやく出始めた。しめしめ。
と思っているのかは知らないが、そもそも数世代だから自分の代で
成果を発揮しさえすれば「約束」されるのである。
いかんなく成果を発揮したことを主張し約束の成果を受け取れば良い。

手の打ちようのない負債は彼ら自身がそれになることである。
「約束」で得た、と幻想していた「真実」は巧みに回収されるで
あろう。そして過去の栄光をたわごととして「何も悪いことをして
いない」という暴走に貶められるのである。

これはまだかわいいほうの負債。

たかが数世代の身内内でのじゃれあいでしか無いので。
(じゃれあいでしか無いのに本当に殺しあうことができるとは
よほどおめでたいのであろう。享楽をそこまで高めることができた
ことをどうぞ自負してくださいといったところか。)

ーーーーー
とりあえずここまで。
層理論でいう負債は後述。

削ぎ落としたものにやられる

端的に言うと削ぎ落としたものにやられるのであった。

合理は確かに一時的な合理である。
つまりこの「一時的な」にやられている。それを温かく受け止めなければ
ならない。

「合理」はそれを編み出した時点、頑張っても数世代位先のことを
賢しくも恐れ多くも見越して見立てるものである。
(「寄ってる」側もたかが数世代先しか見てないことと奇妙に
一致する。)
何度となく繰り返しているが、はたまたこれこそが数多声なき声の
執念なのだろうか、何度同じことを繰り返すのか、ということ。

層で見れば削ぎ落とされたものに逆襲されているだけの
つまらない構図である。
必死にパワー層で次の賢しい「戦略」(という高名な命名をわざとなのか
自己崇拝なのかは知らないが、それで浮かれるくらいであればよほど
おめでたい。まさかそれを歴史に刻まんとしているのだろうか。)を
立て、その理論からすると無用は即無用であり合理にそぐわないものは
蹴落とされるようだ。(単純原理ではなく層を意識したうえで。)

層でいう意味の削がれたこと・もの。削いだ側の本当に賢しい人は
知ってると思うのだが、彼らの合理はたかだか数世代位のものでしか
ないと感づいていると思うのだが。
知っててやっているのであればただの確信犯であるし、知ってても
そうそうばれないと思ってやっているのであれば、おめでたい。
滅する前にオメデタイの意味でも調べればよいのであろう。

いずれにせよそれらは「合理的に」削ぎ落とした事実がある。
彼らで言う「メンツ」がある(層ではない。)のでいまさら
謝罪もできないのであろう。
であればどうぞ削ぎ落としたものにやられてくだい。自分の用意した
土俵でやられれば本望でしょうというだけのこと。
いかに何故「だけ」という副詞を使用しなければならないかは
明白になる。

いくら削ぎ落としたものを回復しようとしても手遅れである。
それも分かっている。
手口を変えるのだろう。パワー理論の上で。
成長の無さに驚愕する。
どれだけ手のひらでゴロゴロして甘んじていたいのか。

おそらくせっせと層理論を研究し打開点を探っていることであろう。
救世主が現れれば良いだろう。突然変異が現れれば良いだろう。
その一点張りを続ければよろしい。
それは「非合理」だと認識することが哀しくも「合理」を推進した
結果なのである。
層理論で言う高次の層、既存であれば「徳」などを敷いて幾世代を
丁寧に築かなければなされないと気付くことがようやっと現世の
つまらない救済なのであろう。

層理論は力学である。現状の何人かでやってる(委員会とか名前を付けているかは知らないが)で隠蔽している理屈とは違う。
ちょっとは歴史とか文字を読めるくらいの技術はあるであろうから、力学ができるとそれは歯車であり自ずと何もせずとも勝手に回り出すのである。位のことは理解されよう。

如何に手遅れであるかを、「たかだか数世代」を越えて我が身に振りかかることとして
認識されたであろう。(おめでたいものをのぞいて。)

層理論の確立に携われて幸いである。


2016年3月26日土曜日

ベクトル

では潤ったそれらはどうするか。

例えば「その他は愚かであるから戦争して滅亡するから
救済するために資金を調整という名の吸い上げ機構を
構築した。」、
「Xヘクト年後に外来が攻めてくることになったから
でもそれをオープンにするとパニックするから言わないけど、
といっても少なくとも襲撃の数ヶ月前には知らなかった風を
装って発表するけど、とにかくXヘクト年後への
備えとして未熟な現状の金融システムでは備えられない
ので「アホな過去人」と言われないためにも、
理解を得られないにもただ将来のために蓄えて
いるのである。」、

むしろ後者であればそれはそれでそこまでの認識ができなかった
我々は嘆くしかない。(ID4が脅しに見えてくる。)

計算しつくされた戦略であるので、よしよしと受け止めよう。
パワー層での戦略でしか無い。
決して侮らずパワー層では同等のことを、それ以上のことを
時としてしなければならない。彼ら手中の演出として。
ここまでオープンにしてもなおより上層の手のひらよりは
深く潜れないのである。これが力学の怖さ。
賢しいそれらは何とかこの理論を組み入れたつもりで
模索する。しかし知れば知るほど層理論は次世代への
関門であることを知る。つまりもはやTPPに基軸を移そうが
パワー層の限界は目に見えているのである。
どうぞ50年位ごまかしてください、といったところであろう。
血眼になって模索するだろうが、ここで主題のベクトルになる。
勝ちたければどうぞ勝ってください。FだかTだかミノを
こさえてやってることは原始と何ら変わりない。(それを
なげくべきであるが。)
ベクトルというのが如何に彼らの図星を付いているのか、
言っておいてなんだが見るに耐えない。


結局(現状での)は、手口である

結局(現状での結局。最終段階での最終解答としての結局ではない。)、
パワー層上での入れ替えでがまたも発生しそうであるということ。

これまでもそうだが、記すことさえ恐ろしいが
起しては(怒らせては)ならない領域があるのだが
あわれ哀しきかなまたも永眠の琴を起こすのである。

しかし恐れるに足らず。基軸にまっしぐらの盲目である。
パワー層の盲目である。手のひら加減をわきまえていない。
とこれまで記してきたことをちょっとは汲むであろう。
しかし力学の恐ろしさはここからである。
基軸(通貨)・リソース・担保で安泰と思える幸せな
世であったと思ってくれればよかろう。
百年に達しないくらいの間に頑張って三世くらい
作ればよかろう。

よほど「約束」を「売買」してきたことであろう。
よほど「うるおい」自動搾取システムを構築してきたことであろう。
哀しいかな目の届く範囲で補助金のようなシステムが有り、しかし
実態は吸い上げ機構があって実質的に使用可能な額はわずか、
下手したらマイナス・つまり口上財布オープン機構発動な
システムが横行してるわけでかなり目は肥えている。
しってから知らずか吸い上げ機構は波及しており、大元はとうに
分かっている、彼らも「いずれ」分かられて当然と思ったうえでの
変な相互理解の上に成り立っているのである。
一言で言えばパワー層の事象の伝播時間を利用した
「負債波及システム」なのであった。

負債をこさえればわんさと利益(企業などの潤い・約束)を
得たうえで戻ってくると。ただそれを眺めていれば良い。


2016年3月25日金曜日

スポーツ観戦から

切り口を変えてスポーツ観戦から。

観戦後の有終の美が取り上げられるが
おそらくこの風土で暮らしてきたのであれば
大半はその素養は自ずから醸成されていよう。

例えば小・中・高校、人によっては大学の部活動。
下級生は先輩の姿を見ることで、上級生は恥ずかしくないようにと
率先しての模範行動によって。
体育会系であればなおさら。
下級生は知らず知らずのうちに土台を形成し、中級、上級生になるに連れ
「自覚」されるものの立場として血となり肉となる。
「個々人の」発育を「信頼し」任せる。
される側からは「信頼され」、多分の自己内部処理・
肝への落としこみをする時間を与えられたうえで、
信頼のもとスポーツ【精神】の通った聖域・何人さえも
犯すことのできない「もの・こと」の存在、あるいは
無存在があるという抽象的・概念的土壌を培うのである。
(参考:既述:信頼の上に築かれるもの)

ーーーー
以下、逆説。
「寄ってる」側はそこを潰すべきではないのか。
部活で風土の美徳が発揚されているので、そこに何もできてないのは
怠慢であろう。よくぞ今までお上から雷が落とされずに生きながらえて
きているものだ。
(そうなってくると「お上」の技量の話になるが、彼らからすると
お上への反論はタブーらしい)
Nでも、その隠れでも、何の部活の顧問にでもなればいくらでも
潰せようなのにいったいこれまで何をしてきたのか。
現状のスポーツ観戦を見よ。
全くもって堕落していない。これは顧問の無能さの限りである。
が、これ以上「上」には伝播しない。らしい。
(伝播はしないが、何故か隠密に人事される。らしい。
秘密性があってワクワクする。顧問としては、そりゃ必死になる
わいな。後述の通り引き替えにできない最後の砦があるようだ、
彼らに言わせると良心らしいが。)

「理想郷」を目的にしなければならない。「いた」時点で「享楽」であること。
なぜなら闘争(ちと直接的)の末に勝ち取った約束があるから。
勝ち取ってくれて、未来永劫、約束された享楽があるから。
その土台にさえ住んでいれば良い。
つまりスポーツは享楽であるので礼は不要。(スポーツに限らず
全てにおいてだが。)それは享受を約束されたもの。
享楽に「出場」して「あげる」とは、何たる紳士・淑女!!!
正に己を顧みない、己の享楽を犠牲にしてまで、他へ享楽を
供給しようとは未来永劫存在し得ないぐらいの徳の持ち主である!!!
試合終了後の彼らの「やってやった」感が見れるのも素晴らしい。
思わず感情移入し尽くして去り際の優越感さえ感じることができた。
そんな微妙な感情さえ気遣って演出してくれるとは。

こういった部活を作らなければならないのに、Nは一体何を
やっているのだろうか?
顧問が君臨して、選手にはリーダを作らず・作らせず、学年の上下を作らず
作らせず、それこそ夜も朝も寝ずに共産のために戦わならねば
ならないのではないか。それを苦ともしないからこそのKではないのか。
社会がそれを許さないとか温ま湯なことを言っている場合ではない。
選手たちが共謀したとろこを見つけ嗅ぎつけたら、ちょっとでも疑いが
あったのであれば、疑うのはなぜか独断の裁量権が得られているので、
即刻無罪(彼らの暴力への反語)の手に打つが
美ではないのか。
ーーーー

以上は、ちと極端な例。しかし現状と対比することでどれだけの
くわだてがあるか・近寄っているかを知るものさしにしてくれればと。
特定の組織・もの・ことは指摘してないので、それは自明であるが、それらは
隅を突くくらいしか脳がないのでこうやって盾を気付いておかないと
何の言われかしらないが突っかかってくるので敢えて記しておく。
もしも具体に見える文言があったのであればそれは抽象であると
ここに記しておく。たとえばNであれば「N」という概念を
指摘しているのであって、ある組織を特定しているのではない。
こういう話をすればするほどそれらは隅をつついてくるので、
(まるで先導しているようだ。)これくらいにしておく。
(どれだけ飼われ根性なのだか。)

ーーーーー
つまらない話をしてしまった。
言いたかったのは、彼らの最大限の「教化」をもってしても
崩れなかった・現に崩れてないさまをスポーツ観戦でまざまざと
見たように崩れなかった根本があるということ。
つまり層理論である。
次投稿を参照。

2016年3月20日日曜日

育てたもの、育てられたもの

「恣意」によって育てられたものは哀しい。
「恣意」を育てたものは哀しい。

いくつも既述を遡るが例えば
・完全に故意を察知されなければ個人をコントロールしても
 侵害にならないのか。
・個人の偏向・変更の困難さ。それはもはや聞いても無視する、
聞いても右から左へスローする、聞いて意味を認識しても敢えて
認識できないと偽る、認識できてもスーパー忘却機構を駆使して
忘却する、認識しても狂人となり本来の目的の反社会的勢力の
一つのコマとして美しい人生だったと賞賛されることを目論み
うぬぼれ、そもそもイデオロギーだかなんだかのために全てを
つくしたその我が身こそが崇高だと、誰にも言わず散っていくことが
美しいと自惚れているとさえ気付かず、気付いたことがあっても
何かと決別しイデオロギーだかなんだかの一つのコマとして
散ることが美しいと自惚れているもの、そもそももっと孔明で
本来の発展のベクトルとは敢えて逆の方向に進むことを良しとする
もの(コマは哀しいかなその方向の加担者であることを哀しいかな
知らずにコマされている。)、は「恣意」されていたので
救済の対象となる。

結果としてはどちらも救済の対象であるが。
後者は別にあふれるほどいるので言及するまでもないが、
(それで救済されたものは一緒に考えてくれれば、どうぞ)
前者がむしろ問題であることは明白であろう。

ーーーーーー
哀しいかな、現世では恐ろしいかなと言われてしまうかもしれないが、
幼児がヒーローごっこをして悪いやつがやられ良いやつが勝つのであるが
やはり小手先はやられる。
それが後世で語り継がれることは明白である。
この対局が行き着くところはカオス理論であるので、後ほど詳述する。
簡単になら既述の通り。過去のブログを見てくれればと思う。
簡単に言っておくと笑顔でカオスを目論むこと。
これほど誰でも今すぐにもできて瞬時に享楽を得る簡易な方法はなかろう。
現実に大の大人がそれを「ばれなければ」と「そそくさと」していること。
層理論がわかればその「しらみ」さ加減がわかるのだが。

「ばれなければ」程度のレベル

世界規模のバランスシートの話をしたあたりから
おやっ?とは感じていたがやはりというだけの話。

どれだけ手のひらでゴロゴロしているかということ。
たしかに手のひらは温床で数千年はゴロゴロしていたいだろうが
大の成人がすることではない。
足を地につけ、文字が読めるもののことである。
(いつものことながら、「でしか」ない。)

(「足を地につけた」が幾世か後に分からないと困るので
言っておくと、生命体が培ってきた具体及び抽象に線形的に
乗っていること。無論具体および抽象は淘汰されたもので
確率論で言う正規内のもの。)

ーーーーー
なるほど。
しかし、これまでも完全に封鎖しておきながら内部から
解を導き出されてしまった具体は数多存在するのであって、
それを考慮に入れていないことがまず愚である。
優を誇ってそれを危惧していたのであれば、表題の通り
「ばれなければ」と言う「優」が「愚」を一時的に
あざ笑っただけの、褒め言葉にもならないが極値解にさえ
なりえなかっただけの話である。
ただそれだけの極値解の成り損ないのために数千年を費やした
ことを思えばであろう。(これを必要悪、かれらは心地よく
思わ無いだろうから必要善と言ってあげよう。悟られないように。
と解釈しよう。そのうち力学で解明するがこれは醸成の一過程で
しかない。)

なるほど、なぜ経済(やそれに準ずるもの。経済学、世界経済、
企業経営、個人、コミュニティ、小・中規模組織、大組織、
ソーシャル、…)に「潤い・うるおい」が無いかとずっと思っていたが
これ以上は明々白々なので敢えて言わないが、言わないと分からない
もののために言っておくが、なぜ将来の見込みまで見越してトレード
しなければならないのかということである。
このシートが敷かれるまではコミュニティの重要な一端を責任をもって
運営するという使命があった。(それを崩壊させようか、崩そうかと
施政したにもかかわらず逆に地が発揮され群を抜いた成長をしたことに
彼らはどう思っているのかはそのうち白昼のもとにさらされる。)
経済に「うるおい」という指標はないのでここで確立してしまっても
よいが、現状の淘汰ありきの盲信はいずれ・すぐに夢を見ていたように
醒めるのだがそれは問屋たる先導者たる‥が許すまいだろう。
地盤の硬さに驚愕してるさまがまざまざと見える。またこれが、
これ故に既視を破ることができた。これが何故数多のくだんである。

ーーーーー
ここでずっと過去の執筆に戻る。
幸福=金で現状の主義は通らぬということ。
私がここに書くまでもなく、私がとうの昔に気付いていたまでもなく、
よほど先人が見抜き哀れんだことである。
パワー理論のとおり。

ーーーーー
私が言うまでもなくとうにこれらの発言は出回っているのであって
つまり資本はそれをとうに見透かしているのである。
ゆえにとうにパワー理論の限界は見透かしているのであるが
果たして層理論もパワー理論のように牛耳ったりコントロールできる
シロモノとでも考えているのであろうか?という点が
これからソーシャルで追跡していくべき点であろう。

牛耳ろうとしていれば阿呆であり、無理解であり、結局
層の何たるかをわきまえないがゆえに淘汰され歴史のでくの
長物として名前だけ残されることを名誉に感じて去ってくれれば
それに越したことはない。
統制という道もあるだろう。つまりネットを否定し可能性を網羅し
先手を打つのである。おめでたさがなおさら醸成されて結構である。

「自分の生だけ、またはその後の幾世だけ」と本気で、それこそ
人生を捧げて、それこそ決死でされたものもいよう。(すべて
そうであるが、どんな形であろうが、全ての生はうやまれる。)
しかし不思議な事にそのほぼ全ては現世、または来世(来世とは
2個めの世も含めて幾世も言う)で結果を被っている。
来世まで含めると「よしよし」とか言う、所謂「かいくぐり」者が
誤解するので、つまり利己のために生じたものは利己のために滅する
のであった。

ーーーーー
層理論をちょっとずつ分かってもらえば良い。
パワーとごっちゃになるゆえ右往左往する。
世界の権威的な連合さえ未だ誤っている現状である。
対話のスタンダードを確立しなければならない必要性が
自ずと分かるものである。
(哀しいかな現状の個々人を変えるのはかなりの労力である。
しかしいつも言うとおり、人はいつの時点でも変われるのである。
ましてやUNに所属するくらいの聡明な人物であれば、
少なくとも文字を読むという条件はクリアできるはずである。
(本当に願わくばであるが。。。))


左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...