2016年4月16日土曜日

相互主観流動機構

たとえば歩行。

交差点や駅構内。
それぞれはそれぞれの目的する方向へ進む。
ある程度の流れはあるがあらゆる方向から人が
やってくる。
向こうはこう動くだろうとほぼ無意識的に推測して
自分の進路を選んでいる。
または私はこう行こうとしてるのであなたはこう行って
欲しいですと歩行という行為だけで表現し相互通信して
いる。
それが一点。

雑踏に不慣れで意識をし過ぎると流れに乗れず
衝突ばかり繰り返してしまう。
逆説はどんなに我の強い頑固でも雑踏では「慣れ」とか
「適応」と言う形で支配されている。
ごくまれに自己主張の強さを見せびらかすために
敢えて避けない、何が何でも進路を変えない輩がいるが
それはよほど孤立し人肌が恋しいのか、または、
例えば空気と戦うような、何かを履き違えて勝手に
想像した敵と戦っているのかであろう。よほど
センチメンタル・メルヘンティックである。
そういう輩でも自由に雑踏に混ざっても許容する
キャパシティの大きさがやはりこの社会なのであろう。
これ以上は脱線するのでこれくらいで。

つまり無意識、意識という切り口で言えば
無意識で雑踏を歩けるようになることが、例えば
都会に慣れたとでもなるのであろう。
意識が強すぎると「相互主観流動機構」に適応できない。
機構(システム)で考えると、意識(自己主張)というパラメーターは
高くてはいけない。
低くてもいけない。低すぎるとノロノロと安全が絶対だみたいな
流れになって最初はやきもきするが、いつの間にかそれに
「順応」して「これが標準、これが最適」と乗っ取られてしまう。
これが二点目。

ーーーーーーーーーー
最近は自動なんちゃらとかが出てきているがそれは
ボトムアップ的な手法であろう。
それは相互主観流動機構を単純化したノード間で
ルールも決められた、つまり制限下のもとに単純化した範囲内での
事象を追求することであろう。
トップダウン的な思想も必要と思われるので
ここに相互主観流動機構を発表しておく。
相互主観流動機構と現在の自動なんちゃらが合わさるところが
一つの到達点であろう。

ーーーーーーーーーー
相互主観流動機構はいくらでもパラメーターがある。
人を出処にしているが、では他の動物であった場合はどうか。
惑星ではどうか。水ではどうか。(無論無機質は意識パラメーターは
ほぼゼロであるし、動物の集団は種類によって固有値が求められる
かも知れない。(惑星のパラメーターがゼロというのも失礼かもしれない。))

自動なんちゃらをやっているかたは相互主観流動機構を
研究したほうがよほど近道だと思うのだが。
ここに相互主観流動機構を解明しておくことにしよう。


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