2023年8月9日水曜日

転生とか脳移植について

私が子供の頃は「転生」というのは、ゲームの女神転生くらいでしか聞いたことのない単語であった。(その時分も「女神転生」という固有名詞という認識で、果たして「転生」とはどう言った意味を持つものかということまで深く考えたことはなかったし、同世代を生きてこられた、当時子供だった方々も同じようなものだったと思う。と言うか、一体どう言った意味を「女神転生」というタイトルに込めたのか?と聞けるなら聞いてみたい^^)

大人になってサブカルチャーから離れていたが、どうやら最近(というか結構前から?)は「転生もの」が流行してるらしいことが分かった。
(そして、どうも「生まれ変わり」の別称的に使われていることに、純粋に驚いたものである。みんな広く薄く仏教徒になったのだな!と感銘を受けたものである^^;まぁ昔から今まで日本は広く薄く仏教徒でもあり神道でもある、と言うだけのことでしょうが。)

ということで、せっかくなので転生について書いておこう。
※本記事は色々な分野を駆け巡るので、読まれる方はご注意ください。(多分、ある程度の覚悟を持って読んでいただいた方が良いかもしれません^^;)

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いきなり核心になるのだが、意識とそれを受け持つ体、つまり器はそれこそ「一蓮托生」の関係ということ。

転生シナリオで考えれば、生まれてから受容体(受容器)たる体と共に成長し、「馴染んで」行くので脳が勝手に調整してくれるので問題ないだろう。
よく見るシナリオとか、古代からの生まれ変わりの概念は、この受容器との関係性はとりあえず「うまく整合した」前提で成り立っていることが大半(というかほぼ100%)である。

ここで言うことは、転生・生まれ変わりがもしも「当然」である側からすれば、ものすごく些細な指摘になるかもしれないことを先に述べておくこととしよう。
また別にその点に茶々を入れようとしている訳では無い点も先に述べておこう。

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空想に遊んでいれば何ら問題はないのであるが、ちょっとでも具体に踏み込むと、どうしても問題として出てきてしまうのが、受容器との関係性である。

「無くて七癖」と言われる通り、意識側なのかそれとも受容器側なのか、それともそれらの関係性=縁の問題なのか、更に言うとそれら関係性にも「比重」要因も重なって、その「人」の「癖」になるのであろう。

これをいくらこのまま話を進めても、依然として雲の中を漂うような話になって終わってしまうので、反論的、逆説的な観点から照らしてみようと思うのである。(ショック療法的な考えだろうか?)

前提が長くなってしまったが、私が以前から思考上で遊んでいた、たわいもない戯れと言って仕舞えばそれだけなのであるが、まぁせっかくなので記しておこう。

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無論、現状では、現代科学的に言って仕舞えば「仮説」なのだろうが、「転生」「生まれ変わり」が仮にあったとしよう。(数奇なことに量子論の解釈次第であながち否定もできなくなってきたともいえようか。※但し、いつの時代もそうであるが、こういった新しい分野では科学と非科学が入り乱れるもので、(結果的に)神秘論者的な話も入り乱れるので注意は必要である。)

その手の届かない空想・仮説に何とか光を当てられる、現世上で具体的に考えることができる事柄として脳移植があるのではないだろうかと思った訳である。

倫理とか道徳とかの話に勿論なるのであるが、一旦論を進めよう。(そして最終的には転生とか生まれ変わりもその点に収束していく訳であるが、それはおいおい分かるだろう。)

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まずは、仮に脳移植が実現できたとして考察しよう。
脳といっても、どこまでを脳とするのか、それこそ神経とか血管は人それぞれで、脳のどこと受容器(体)のどこを結べば「移植」と言えるのか、と言うとことん具体的な話になっていくのであるが、である。
脳近辺だけで見ても、耳との関係は?鼻は?目は?舌は?体全体とは?となってくる訳である。

ここではそれらの問題点が解決されたとして話を進めるのである。
つまり受容器の受容器官からの情報は、意識器(脳または心。後述)に「正しく」伝えられる状態を仮説するのである。

めでたく、そこまでの状態になったとして、麻酔から覚めたこの「人」は一体どうなるであろうか?
結論だけ述べるが、考察するに、ほとんどのケースでは、この「人」の「意識器」はあまりの受容器の変化についていけず、言うなれば錯乱状態に「常に」陥り、結局として「中有」に帰って(行って?)しまうのではないかと思われるのである。

例えば歯並びは自分で長年親しんできて意識器も慣れ親しんできたからいいものの、最初に述べたようにそれらがいわば「七癖」ともいえる訳であるが、本ケースでは他人の癖が直球として自分の感覚に常に投げ掛けられるのである。
自分でも「気にならない」ことにしてるのかもしれないが、一旦意識すれば気になり出すものであって、そこに陥ると当分その点に囚われてしまうのである。(もしもこれを読んで、これまで気にしてなかった点・やっと気にしなくて済むようになったを、気にし始めてしまったらごめんなさい^^;(と言う意味で本考察はかなり覚悟を読んでください、と言う意味であった。ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読み進めてこられたと思うので問題はないと思うのだが。))

自分では気にならない、と言うか意識器たる「私」が勝手に「気にしないことにした」ともいえよう。
脳移植とは、それが昨日と今日で完全リセットされるとも言えるだろう。
歯並びだけ言ってしまったが、無論それも一つの執着ポイントにはなってくるのだが、例えば、以前の受容器では「痛み」でなかったポイントも新しい受容器では新しい「痛み」として感受されてくるであろう。(逆に言うと他人からすれば「痛み」であるはずなのに、当人には「痛み」ではなくなるのであるから意識器(脳)とはすごいものである。全体的な点で言えば、「体全体のバランス」が実際にはものすごい違和感になってくるだろう。左右のどちらかにバランスが偏ってた人が、左右反対の偏りを持つ体に移った場合など。正に「気が狂う」レベルでストレートに間断なく頭に電気信号が入ってくるのである。「拒否」はできないわけで、人によってはすんなり受け入れることができる人もいる(おそらくは意外とこれが大半?)だろうし、受容できずに気を失ってしまう人もいるだろう。再度目覚めて再度気を失ってを繰り返してちょっとずつ慣れていくのも実際に想定されるシナリオである。最後のケースは、環境適応能力の低い方はどうしても自分を合わせられずに、受容器最終防衛機構とも言える「発狂」(中有へ帰る・行く)を発動するかである。)
(おおよそテレビでしょっちゅう出てきるみなさんの悩みポイント(腰とか首とかあごとか膝とか目とか耳とか…あぁキリがない^^)がそのまま新しい宿主の「何じゃこれは?」と言う「痛み」とか「気になる感覚」になってくるのであろう。)

想像を逞しくしていただきたいのは、それらが「常に」「嫌でも」意識器たる「脳」に入ってくる、と言うことである!

(映画マトリックスで「ネオ」は「目覚めた」後に錯乱してしまったが、おそらくそれを遥かに超える錯乱状態であろう^^; 幸いそこまでにならなかったとしても、最初の例えで言えば歯並びだけは気になって、最初のうちは舌で歯をチェックしまくって舌が筋肉痛になるくらい動かしまくるだろう。そして一旦「しょうがない」と見切りをつけたつもりでも思い出した頃に再度同じチェックをし始める。。と言うことを繰り返して見事にその人の「癖」になる訳である(めでたしめでたし^^;) こう言うことは正に執着するかしないか的な話に昇華されるのであるが、つまり自分との戦いなのであるが、外部要因で呼び起こされてしまうことも、またあり得ると言うことである。(なので繰り返しになってしまって申し訳ないが、本考察はかなりの覚悟を持ってないと読まない方が良いと言った次第である。これも一応繰り返しになるが、ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読んでこられたと思うので問題はないと思うが。 更に付け加えておくと、その点はあくまで自己の問題であって、本論からすると些細な点ということである。主旨としては古典的なアートマンの実在性や、現代的な量子論的な「非局在性」であって、むしろそちらで天地がひっくり返る、という意味での警告である。))

(なお、「常に許容量を超える外部要因が、抗いようもなくなだれ込んでくる」という点については現代的脳科学の話でも扱えるだろうが、人は防衛本能としてあまりにも耐えられない状況になると逃避する機能が発現されるのである。生物として本体(受容器)が死滅するよりはマシですからね。。あるいは本体側が持ち堪えられなくて心停止するか。)
(そもそも誰も知らないかも知れないが、例えば細胞も生きるのに一生懸命なのであって、それをたまたま仮の住まいとして居候しているだけである。(※少し大袈裟に「誰も知らない」と書きましたが、これまで真理を知られた方はもちろんお気付きの点。)
所謂意識器が勝手に主人と思うこと自体がものすごくおこがましいのであって、例えば「生を受けて世の中で何でこんなに私だけ大変な目に遭わなければならないのか?」ということを、先ずは何も愚痴も言わず健気に頑張っている人に問うべきであろう。「表裏一体」とか「気づいてないだけ」とか詩人的にこれまで数多言葉が尽くされてきたはずなのであるが、それも結局「受ける側」が受けなければ何の意味もないということであろう。)
(敢えて裏を返すのだが、(それも何かの気付きになれば)、如何なる生であったとしても、生を受けた時点において、漏れなく気付かずに意識器と受容器の関係性だけにおいても、例え意識器側が「虐げられるばかりだ」と思っていたとしても、意識器側は厳然たる「支配者」側なのである、ということ。
※うーむ、「厳然たる支配者」と言ってる時点ですでに意識器側が主体に傾いてしまっている。難しい。。)

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途中で述べた通り、勿論最初に倫理問題、道徳問題を超えた上での話なのであるが、実際にやってみて中有に帰る/行ってしまっては意味のないことであって、それではこれは、受検者の「許容度」の高さや適応能力の問題になってくるのか?的な話になってくる訳である。
(恐ろしい話であるが、それだけのためだけに、つまり統計を取るためだけに「実験」はしてほしくないものである。利己主義(いわゆる左)の独裁国家とかだともしかすると既にやってそう?恐ろしや。。)

哲学とかでも出てくるが、いくら目玉だとか手とか足とか頭をより合わせてくっつけても「人」になるのか?と言う話。逆に言うと人の実在(アートマン)はどこにあるのか?目玉なのか?手なのか?足なのか?脳なのか?心なのか?と言う話である。

紙とペンだけで生み出された最終最大の理論は相対性理論とか言われたりするが、「人」の実在・実態の非局在性について、はるか2,500年前にそれこそ「瞑想」だけで導いた訳であるからよほどすごいことである。
現代ではどうしても仏教という宗教としての側面でしか見られないのであるが、ブッダがそこに至った考え方の原点は、神はいるのか?とかアートマンはあるかないか?とか、いわゆる形而上学上の不明点について論争しても意味のないことであって、分からないものは分からないものとして認め、その上で如何に人として生きるのか?という点であろう。人に対する姿勢であり、哲学(宗教)に対する姿勢であり、また科学に対する一番真摯な姿勢と思うのである。
(私的には四諦よりもより深い根本原理だと思う。四諦もまたこの根本原理から生じたとも言えよう。もしもこれを提唱したのが私が最初のなのであればラッキー^^✌️)

仏典でもアートマンの話については車で例えられてるので、ここでも車に例えるとしよう。
車を作ると言って、いくら車輪やシャフトや車体やシートを持ってきて接着剤でくっつけたとしても車とは言えず、それらを意味ある状態で組み合わせて初めて車として成り立つのである。
人であれば目とか耳とか体とかの感覚器官(および生命維持するための体)が意味ある状態、つまり有機的に組み合わさって、初めて生命を持った人として成立するのである。(縁ですね。)
そして今回の問題提起の通り、それを受容器と呼ぶならば、そこに意識器も有機的に結びついて本当の人と言えるだろう、ということである。

車は全体を捉えて車と捉えることと同様に、人は全体を捉えて人と捉えられるのである。
車の実体はどこだと言って細部を探っても車のアートマンが存在しないのと同様に、人のアートマンを探そうと細部を探し出すと、途端に人の実体は捉えられなくなるのである。
ちょうど「心はどこにあるのか?脳なのか?心臓なのか?」という現代科学に似ている。
(宗教サイドで言うと魂とかになってきますね。)

今回の問題提起では、「思考するための最重要器官」たる脳を移植することでどうなるか考察してみた。脳は勿論情報処理する上で欠かせない器官なのであるが、また同時に一つの受容器とも言えるのである。
例えば本ブログを書いてて、上記の「今回の問題提起では」の箇所を記載しようとした時、頭を働かせながら文章を生み出していることは分かるのだが、それはこれまで生きてきた私の脳が情報機関として勝手に「自分」だと認識して「自分はこの文章を書こう」と思っているのか?と言う問いである。自発性とか主体性というのも単なる脳の情報処理の結果なのだろうか?
もしそうならスーパーAIが完成したら自発的、主体的に活動していくだろう、という点は多くのSFや頭のいい人の話の通りである。(現状では流石に政治までは行ってないですが、このままの勢いだとものすごくすぐに話が出てきそうですね。)

切り口を変えよう。脳移植ができると仮定して考察したが、それでは、右脳だけとか左脳だけ移植したらどうなるのだろうか?(仮定したとおりこれも技術が進歩してできるものとして考える。)
本体側がAさん、脳を移したい人がBさんだとしたら、半A半Bさんが完成するのか?

そしたら先ほどの例で言うと、「文章を書こう」とする主体は一体どちらの主体性なのか?
その人の「意識」も多重人格的になるのか?それともAさんとBさんを足して2で割ったような人格になるのか?(最初の考察の通り、まずは脳移植の環境適用できた前提)

(脱線するが、多重人格者のケースを考えると一人の受容器たる人の中に複数の「意識」が入ることもあるのだな、と思った。重ね合わさったような状態だろうか?
また、今まさに「自分」だと思っている「自分」も意外と色々と足して割って出来てるかもしれないと思った。
そもそも「自分は自分だ」「自分が【今ここに意識を持って存在している】のは自分しかいない」と言うことも、もしかするとおこがましいものなのかも知れず、自分で勝手にそのように思い込んでるだけかも知れない。
ただし注意点としては、初心者は「では自分は自分では無いかも知れない」と本気で思い込んでしまうと、今度は下手すると自分を保てずに精神崩壊してしまうので、初心者はあまりこの点には首を突っ込まない方が良いかも知れない^^;

肉体的特徴と合わせて考えるのであれば、我々はおこがましくも「自分は自分だ」「自分の個性は自分しか有せず、自分からしか生み出せない」とか思ってしまっているが、実は身体的特徴の直接的・間接的な影響で「個性」に「なった」だけなのかもしれない。(我々は一体どれだけ烏滸がましいのだろうか?)
(つまり我々が精神とか魂とか意識とか錯覚・思い込んでいるものも、実際には肉体の上に成り立っているのである。←この最後の結論だけ読むと、ものすごく当たり前のことを言ってるだけに見える^^。ある意味正しくて、あるものを正確に深く捉える、つまり正見ということである。)

今回の脳移植の例えからも分かる通り、肉体的特徴で「個性」さえも決定、または形作られるとか、少なくとも「何かしらの直接的・間接的な影響」を受けていると言える。
(このため、鬱対策にもある通り、心を治す場合に「体」から変えることが有効であることからも、この考えはあながち間違っていないことが分かるであろう。医療分野の一つに伝統療法があるが、先人は「なぜか分からないけど有効」ということはそれこそ「智の蓄積」として積み上げて来て頂いたのであるが、我々現代人はそれをなんとか「科学的に」分かった・理解したものとして、「科学的にも有効であることが証明されました」と言っているだけである。ただし思うのは現代科学で証明できたのは、100%のものも中にはあるだろうが、実は有効性の数%分しか証明できてないと思うのである。つまり「現代科学では有効性は認められない」と偉そうに(失礼!)判定されて忘れされたものであっても将来的には「やはり有効であった」というものは数多存在するのだろうなと思いを馳せるのである。なお失礼ながら「先人はなぜか分からないけど有効」と表現させて頂いたが、よりよく考えると実際には本質を分かっていたとも思えるのである。(それを残す・表現する手段がなかっただけ。))

敢えて上下関係として捉えるのであれば肉体(つまり五蘊。今回は受容器と呼んでる)が上というか土台にあって、意識(心とか魂とかに錯覚されるもの。今回は意識器と呼んでる)が下であるのだが、「実体と連続性を認識してると錯覚」しているが故か、どうしても自分が上だと思ってしまうのである。
いざ肉体を変えた時に自分も変わったということを自覚した時に、我々は「はっ!」と気づくのか、それともやはり「自分は自分だ」「自分が変わっただけだ」と思い続けるのか、といった問題であろう。
脱線終了)

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ちなみに実在するかどうか不明であるにも関わらず、実体があると錯覚して、かつその存在が一瞬前と現在と未来へと連続して続いていると信じているからこそ人が人として成り立ってもいる。(次に何をするかとか計画も立てれるし、物理法則を割り出したりすることもできるし、未来予測もできる。などなど)
連続性を信じるからこそ過去のことも記憶できるとも言える。(「記憶してるという錯覚」と言うべきか。)
「心ここに在らず」の状態だと学校の授業を聞いても何も頭に残らないように、現実から心が離れているとその間の現実で起きてることは頭というか記憶には残らないのである。
(簡単に「ちなみ」の話を追記しておこうと思ったが、これはこれで1本ちゃんと書かないといけなそうな気になって来た^^)

つまり失礼ながら所謂ボケてしまったり、別の世界(中有)に行ってしまった人は、私たちが共通認識している「現実」はその人にはどうでも良いのであって、正しく「心ここに在らず」状態なので「記憶」という意味さえ成り立たない状況と言える。その人にはもはや「現実の記憶」など取るに足らないのである。
記憶できなくなる症状はもちろんこれだけが原因ではないのであるが、ただしこれはそのうちの一つであろう。

通常であれば実在の連続性を疑うという発想が浮かぶわけもなく生きてる訳で、もはやその点にがんじがらめに縛り付けられているようなものであり、またそう言った大半の人を「正常な人」として社会を作っているわけである。
しかしここまで見て来た通り、中有に住む人(「正常」側からすると失礼ながら「異常」と呼ばれている人)、つまり実在と連続性の錯覚から離脱された人は、実は世界を本当の意味でありのままに見ているのかもしれない。
生きてる人の場合だと上記の通りなのであるが、我々も死ぬ時は同じ世界に行くわけであり、現実世界では死亡して体が動かなくなるので周りからは見た目上分からないだけであるが、もしも動くことができるのであれば同じ状態になるのであろう。



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最初に述べた通り、これはあくまで思考実験である。
むしろ主眼は量子論で言うところの「非局在性」とも言える。
本論は、その点を考察する上での「後ろ側から光を当てる」と言うだけの考察である。

十分注意の上、考察いただければ幸いである。
また、これを受けて量子論的な非局在性についての再考察上の手助けになれば幸いである。

2023年7月26日水曜日

無限は0もあり得る

既述「数学上に「不明」を導入」で、【不明】を導入したわけだが、「無限」について補足。

それは無限は0もあり得るということ。

上記リンクの例では、トーラス上では平行線もどこかで交わるということで、数学というよりも実際問題・具体的問題の場合を用いた説明だった。

今回もとりあえず平行線の問題をサンプルにするが、2つの線があって、一方を固定し他方の傾きを変えていき平行にしたら2つの線は交わらない(無限の遠方で交わる)という解釈であった。
傾きの変化をグラフにすれば直感的にもそう思うだろう。

そこへトーラスの話を持ってきて、トーラス上では平行線でもどこか具体的なポイントで交わることを記した。(なので数学的な話ではなく実世界上の問題になってしまう。)

数学でなくただの物理問題か?と思われるかもしれないが、「無限」ではなく「不明」のイメージを持たせるためのサンプルにすぎない。

そして今回は、このサンプルを借りて、「無限遠方で交わる」という点を深掘りし、実は無限遠方とはケース次第であって、実は1であっても2であっても、それがそのケースの「遠方」であるならば無限の具体値は1とか2になるのである。

上記サンプルのグラフは、X軸とY軸を1:1で書くと確かにX=0に限りなく近づかないと「無限」は実感できないかもしれないが、グラフの上下を押しつぶしてX:Y=1:1/1,000,000,000,000 とかにすれば、グラフは0付近まで超低空飛行を続けて0付近で急激に上にカーブするグラフになるだろう。

この比率もいくらにしようか自由であるので、X:Y=1:1/♾️ とすれば良い。
そうすると理屈上はこのグラムはX=♾️からX=0までの間全てのポイントでY=0のただの一直線になる。
※もしもまだ、X=0付近でYの値が跳ね上がってしまうのであれば、比率をもっと大きくすれば良い。
※Y=0というのは、正しく「近似」すればである。無限が自分自身の定義によって全区間0に近似されてしまうのである^^;
※縦と横の縮尺をどれだけ伸ばそうが縮めようが観測者の勝手であり、観測時にどれだけ比率を変えようが、元の「事実」には影響はない(はずである)という「前提」で話が成り立っていることが分かる。(別の話になってくるが、ただしその前提は本当にそうなのか?という問いでもあることに気づくだろう。)

よって無限の値は0でも良いのである。(無限はlimn→0 1n = ∞  というただの定義ということを思い出しましょう。 別に0は含まれないとは定義されてない。)
※注意点としては、0でありかつ♾️で「同時」にあるということ。

これは一体、物理の話をしてるのか数学の話をしてるのか混乱されるかもしれない。
グラフのXY縮尺を変えることが「観測」の問題なのか?ということ。

この辺の話も含めて「数学上に「不明」を導入」ということであった。

新しい境地になってくるのだが、今後の数学は「0でありかつ♾️で「同時」にある」と言ったような正しく不可思議な領域に入って行かざるを得ないのであった。
しかしこれさえもコペルニクス的発想の転換であろう。

※これまでは「そんなはずはない」とか言って、解釈で頑張って「XXXだ」とか言ってきた訳であるが、実はそれが自らの道を閉ざしてたともいえよう。解釈で頑張らずともよく、ありのままに解釈すれば良いのである、とも言えよう。そこには「分からないものも分からないもの」として「受け入れる」という【不明】の導入姿勢の通りである。



2023年6月11日日曜日

三毒に屈しない

分かりやすく言えば、馬鹿に屈しない、馬鹿に負けてはならない、と言うこと。
馬鹿に負けて益することは何も無い。

古今東西、上下左右を見渡してそうであろう。

馬鹿とは別の言葉で言えば無明とも言えようか。
無明の人に負けては、浪費の手助けであるし、またその人にとっての間違った方向への学習強化の手助けとなる。

また、自分自身内部のことに目を向けても、自分の無明をいいことに自分勝手に自分の欲求のままに、つまり欲に負けて、自己に負けてやりたい放題しているのでは、立派な人とは言えない。
人類の叡智として、親とか社会から「嘘をついてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはならない」といった倫理が人から人へ受け継がれて社会は成り立ってきたわけであるし、個人個人も「こう言う人になってはならない」とか「立派な人物になろう」とか自己向上、少なくとも自己抑制が働くと言うのが、暗黙の「最低限の人として」の道だったとも言えよう。

もしも残念ながら頭が追いつかなくて、想像力や思考実験ができなくて、悪事ばかりしてる人は、いわゆる困ったちゃんなのだが、そういった人はもちろん少数で(もしも、そういった人の発生確率のほうが高ければ、まともな社会が成り立たない^^)、そういった人は社会で「やれやれ」とかいって温かく見守って居場所を与えて、いわばみんながちょっとずつ何かしら出し合って「包容」して支えあってきたわけである。

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と言うことで、これまでは社会論的、集団論的に母数が大きくなるとどうしても発生してしまう「困ったちゃん」と言う、せいぜい発生しても「ある時に一人」とか「個人」の問題であって、残念ながらそういった人に直接的に間接的に接することになった人は、その集団、その社会で何とか温かく包容・内包してきたわけである。

しかし現代では、というか現代の病巣としては、こともあろうに「バカのままでいいですよ!そしてみんなで徒党を組んでがっぽり援助を受けましょう!」と言う始末なのである。

そういった甘い誘惑にズルズルと付き従ってしまう、頭の追いついてない人はそれでそれで残念なのであるが(ちょっとは世の中の仕組みを理解しようとして反省して向上するベクトルに切り替える努力をしてほしいものだが)、それは頭が追いつかないのであるから、ある意味仕方がない。(元々の/従来の意味でのマイノリティ)

むしろ問題なのは、そういった迷える子羊たちを正しい方向に導くのならともかく、こともあろうに阿呆であることをいいことに、偽善の笑顔で近づいて悪の道にまんまと誘う連中である。
既述の通り何回言ってるんだ、と言うことで詳しくは述べない(詳しくは既述を参照)が、
無明という霧の中で迷っていた本来は真っ当に更生できる可能性があった人たちを、その可能性を潰して悪の道に誘うことであり、それこそ累計では「兆」レベルの数の人たちを霧の中でメクラのまま人の一生を浪費させたということで、「誘った人」の罪は書き表せないほど重いのである。
(と書いて、ちょっとでも「ハッ」としてくれれば良いのだが、これまたスーパーメッキ厚顔で、こう言った言葉を喰らってもあちらの人々は何の変哲もないのである。)

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ということで、アプローチとしては、正攻法として「倫理に訴える」やり方を述べてきたし、多くの先人たちもそれに心血を、情熱を注げられてきたことである。
無論これはこれで緩まず弛まず続けていかなければならないが、構造理解の通り、あちら(いわゆる左寄り)はむしろ倫理をなくし、自ら喜んで阿呆になって、動物的、本能的な「利己」を根本することによって癌のように悪を撒き散らす醜い塊になってきたわけである。

彼らにとっては倫理とは屁みたいなものであって、「ブレーン」としてはただただ単純に利己をいかに増殖させるかという「システム」を作ることにしか目がないのであろう。
あちらがシステムで来るのであれば、こちらは悲しい事ではあるが人類の別の叡智として「規律」を作って防ぐしかない、という事であり、それが政治3.0であるという事であった。
「バカは死んでも直らない」のであれば「その人が一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」という事が従来であったが、現代では「(悪魔に魂を売った先導者のせいで)バカが徒党を組んで組織だって押し寄せるようになった」ので「こちらとしても組織規模でその人たちが一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」ということになってくる、ということである。
(それこそ「暴力でぶっ潰したりはしない」と言うのも人類の叡智の一つであろう。)

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これまた繰り返しになるのだが、いわゆるあちらの根本は利己であるということは構造理解の通り明白であるし、私が指摘するまでもなく、ずっと前から多くの人が解明してきたことである。
いわゆるあちらが出始めた頃は頭のいい人までも騙されて混乱した時期があったのかもしれないが、それもすぐに、あちらの言うことは「理論」などでは全くなくて「ただの屁理屈」と言うことも解明されてきたのは歴史を見る通りである。

繰り返し言ってきたのは、ではなぜそんな下らない屁理屈に百何十年もの間、なぜ全人類は性懲りも無くあちらの言い分通りに毎度毎度慌てふためいてオドオドばかりしてきているのか?と言うことである。
と言うことで、「あえてバカを泳がせておいたのでは?」と言う点も指摘しておいた通りである。

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もしも上記が国家レベルの裏の合意事項とかであったのかもしれないが、事ついにここまできて、こう言った一般庶民レベルで「もはやあり得ない」レベルまで認知されたと言うのが現状である。

なぜここまで言うのか、また、先人たちが頑張ってきたかといえば、それは冒頭に述べた通り「完全に浪費」であるからである。
もしもここから何か新しいアイデアとや理論が生まれれば良いのだが、冒頭に述べた通り馬鹿に資して残るのは何もないのである。
(既述の通り「なぜこの莫大な浪費をスルーするのか?」の通り)

我々はもっとやることがあって忙しいわけであり、政治3.0以降の健全化後の建設的な問題が山積しているのであるが、この時代に生まれてつまらない利己集団に振り回されて一生を浪費だけに費やしても構わない人がどうも多いようである。

これこそまさに無明であろう。

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前回の余談で、本ブログが、「表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである」と書いたが、これまた嬉しい(面白い)ことに、本ブログはどうやら「格言生成機」ともなっているようである^^;

無論そのようなことは全く意識せず、「いかにして無明を明(妙?)とするか」と言う意思で書いてるだけであって、格言とはいわば言葉の組み合わせ的な問題なのであるからそれこそ目的を「格言を作る」に置くのであれば誰でもできる話なのであるが、これもまた妙なことにやはり時代とかその場・その状況にマッチしたピンポイントのことがピンポイントで生じる、と言うことであろうか。

(これこそ人類の叡智として醸し出されるものであって、別に私が言わずとも別のところで誰かが言っていることであって、これまた既述の通り「何か成すのは職として」と言う事であろう。)

2023年5月13日土曜日

閻魔大王の浄玻璃の鏡

 思えば現代の病巣である所謂左寄りも、その根本は利己であると見抜いた通りであるが、そういう人はむしろ自分達が弱者でい続ける方が取り分が多くなるとでも思っているように見受けられる。
彼らへの最善・最高のギフトは鏡なのだな、と思った。

対話のスタンダードの通りであるが、かたや「ちゃんと」話し合おうとしているにも関わらず、他方(所謂左)はその前提を「あえて」破っているのだから、まともな話し合いになるはずがない。
「困ったちゃん」が例えば100人中1人2人発生してしまうのは、集団論的、社会学的、統計論的にしかたないのだが、あちらはこともあろうにそれらをそそのかして徒党を組む始末である。(おっとまた止まらないなる^^)

対話のスタンダードの趣旨としては、対話とは当然「ちゃんと」話し合いをするもののはずであるので、当然「ちゃんと」話し合いをしようとしているのか?できる人なのか?という点、つまり前提条件をちゃんとしましょう、というものである。

現代の所謂左連は、果たしてまともに自分の姿を鏡で見ることができるのだろうか?(続く言葉は、「否、そんなわけが絶対にあるはずがなかろう」である^^)

既述の通りだが、もしも鏡を見る必要があるときは、お得意また都合の良いスーパー忘却能力で過去の自分を忘れて頭真っ白状態で見ているかくらいである。

閻魔大王の浄玻璃の鏡というものがあり、またここでのお話としての鏡はもちろん抽象として言ってるわけであるが、あちらの人を見ていると、抽象であるはずの鏡が本当の具体的な影響力のあるものとして見えてくるので不思議である。

※あちらの人はご存知の通り怖いもの知らずであり、精神的な思考実験に何らの意味も見出せない人たちなので、閻魔大王の浄玻璃の鏡を例に説明しても痛くも痒くもないのだろう。しかし実際に彼らは果たして自分達がいざ滅するときに何ら反省もせずに厚顔無恥のまま去っていけるのだろうか?
(そのときに泣き喚いてももう手遅れなのであるが。しかしその人にとっては滅する直前に泣き喚くということが最終的な反省を意味するのであり、その人もまた
救われたといえよう。(どれだけ救われたがっているのだか。。))

ーーー
P.S.
おかげさまで、(既述の通りですが)、表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである。
よく言われるのは「ここに書いてある通りに世の中が進展しており、果たして預言者(Oracle)ですか?」みたいな恐縮この上ないことを言っていただけるのだが、これまた既述の通り、ここで書いていることは、あくまでも公開情報を頼りに「理論的に」論を展開しているだけあるので、なんら特殊な能力を使っているわけではない。(ただし「正見」は必要でしょうが…^^)

所謂左の「ブレーン」とかも当然歴史はご存知のはずで、歴史を振り返ってみれば「当然そうなるでしょ」と、後追いという立場のおかげ・事実という揺るがしようのない「壁」に照らし合わせて、そう思うわけである。
「文明が発展した」と思われる現代であっても、散々言ってきた通り所謂左の根本は、どれだけ衰退・後退した「利己」に寄りすがっただけの理論(理論という言葉がもったいので「屁理屈」くらいが妥当ですが^^)ということである。
もしもあちらのブレーンが、頭はいいのであろうから、「はっ」とその愚かさ・浪費・迷える人たち数億人を悪の道に誘うという罪、などに気付いて気絶でもしてくれれば良いのだが、これまた既述の通り、その「最後の判断」の瞬間は、どういうことか「スーパー忘却能力」を最大限に発揮して、頭真っ白状態でスルーできる能力があるようである。(私からすれば、そちらの方がよほど超能力である。人智を超えて人類とか叡智を潰そうとしようとしている、というか。)

楽観的に考えれば、それらは「自然淘汰」によって自然消滅するだろうくらいに思えるのであるが、実際には姿を変え形を変え、まさに「イタチごっこ」の状態である。
(もちろん嘘のメッキはいずれは剥がれるので、歴史の通り、その都度一回は消え去るのだが、どうやら「頭がよい」とでも思ってるらしく(または本当に頭だけ良い輩が加担とかして)、違う姿・形でジメジメとした箇所から再発生するのである。)

これまでの総括になってしまうが、そこまでは並の頭(場合によっては失礼な表現かもしれず、失礼致します^^)を持った人であれば、当然見通せる話であって、このまま加算・積算・乗算的に展開するのであれば、この「イタチごっこ」は未来永劫続くと見通せるわけである。
(逆にいうと、例えば、残念ながら数千年後も対峙する側が、律儀に加算・積算・乗算的にへとへと顔で対応されていれば悲しいものだが^^)

これまで散々言ってきたことは「果たしてそうなのか?」「果たしてそんなに愚かなのか?」というだけである。

私がここに改めて述べるまでもなく、多くの、地に足を付けてこの点を憂慮されてこられた先人・先生たちがおられ、既にその本質は(まだ朧げなのかもしれないが)醸成されてきた通りであるが、それを端的に「層理論」にまとめただけである。

この層理論が分かれば、これまでの所謂左と対峙してきて消耗した労力は、歴史を振り返った時に、「一体どれだけ暇で、かけがいのない時間とリソースを浪費したのか、人類は!?」と日に照らしたように分かるのである。

ということで、層理論に記載した通りであるが、所謂左には未来永劫安定的に「住む場所」があるので、優しく誘導してあげましょう^^


2023年5月2日火曜日

集合体恐怖症とトライポフォビア(画像はないのでご安心ください🙇‍♂️)

密集したものを見るとなんとなく恐怖を感じる人は多いだろう。

その症状をなんというのか調べたら「集合体恐怖症」とあり、これかと思った。
しかしその英語はトライポフォビア(trypophobia)というらしく、逆にトライポフォビアで調べると、こちらはハスの穴や蜂の巣など、小さな穴や斑点などの集合体に対する恐怖らしい。

言うなればトライポフォビアだと狭義の「集合体に対する恐怖症」という感じがした。

私が感じてた「集合体に対する恐怖症」は、たとえば
・ケバエの幼虫や、ヤスデが土の中に密集したものを見た時の恐怖
・草にかぶれて、皮膚に赤いブツブツが大量発生したものを見た時の恐怖
とかであった。

しかしトライポフォビアの説明を読む限りは、それらはトライポフォビアとは呼べないような気がする。
言うなれば「広義の集合体恐怖症」というものも存在しないだろうか?

まず、トライポフォビアと日本語の「集合体恐怖症」の関係だが、これはトライポフォビアの翻訳なのだろうか?(つまりトライポフォビアが完全イコール「集合体恐怖症」の関係)
もしくは「なんとなく」イメージが同じなのでトライポフォビアの(ゆるい)翻訳として「集合体恐怖症」という訳語を使っているだけなのか?

この点は定義の問題なので、もしも定義されてればそれで良いし、まだなのであれば、ここでちゃんと定義しておくこととすればよい。

ーーー
そしてその次の問題は、日本語の「集合体恐怖症」というと、その言葉からして、私があげたサンプルも自然と「集合体恐怖症」の中に含まれてしまう(と多くの人が思ってしまう)という点であろう。

もしも既にトライポフォビア完全イコール「集合体恐怖症」と定義されてしまっているのであれば、「集合体恐怖症」の言葉はちょっと広義っぽく聞こえてしまうため、別の訳語にした方がいいと思われるという提言であるし、もしも定義がまだなのであれば、本記事の点を考慮の上、訳語を制定してもらいたいという提言である。

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その上で三点目。
私のサンプルの1つ目は、もしかすると単純に「気持ちの悪いもの」がさらに大量になって「さらに気持ち悪い」という感覚症状だけなのかもしれない。(単純比例的なもの?)

よって「トライポフォビア」としての感覚は「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」と言えるかもしれない。

ちょっとだけ考察してみると、
・レベル1(私のサンプルの1つ目)
 1つでも嫌なのに、それが大量にあるので掛け算的に嫌になってる例。
 人によっては1つだけだと、自覚レベルでは「嫌」とさえ感じてないかもしれないが、大量になると「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」が自覚レベルを超えて恐怖を感じるとか。
 これはたとえば猫が大量のネズミに恐怖する感覚と似ている?
 「制圧される恐怖・逃げられない恐怖」と似ているのかもしれない。サンプルで挙げた大量の虫の例だと、逃げられない訳はないとは分かっていても「もしもいきなりこちらに押し寄せてきたら…」的な恐怖なのかもしれない。
 ※気持ち悪い虫とかを見て人はなぜ「気持ち悪い」と感じるのか?という基礎研究は既に行われていて、その人の原初レベルでの「感覚」は何なのか?という点まで解明されているのかもしれないが、「見た目の恐怖」というのは、やはり元を辿ると「もしもこちらに危害を与えてきたら嫌だな」という感覚なのかもしれない。(これに対して「いや、視覚的な問題だけでも説明できるはずだ」という意見もあるかもしれない。その辺が現状ではどこまで研究が進んでいるのかは私は知らない。)

 ここでは一旦「危害を加えられたら嫌だな」説で説明することとして、よってこのレベル1の恐怖は「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」で説明できそうである。
 この感覚は大きく言えば「生きるか、死ぬか」「勝つか、負けるか」「危害を受けるか、受けないか」といった単純な感覚によるものと言えるだろう。

・レベル2(私のサンプルの2つ目とかトライポフォビアの例)
 ここから「純粋な」トライポフォビアの領域になってくると思うが、「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」問題となってくる。
 私が感じた同類のサンプルとしてもう1つ挙げておくと、亀についた大量の貝(フジフボ?)も似てるかと思った。(これはむしろレベル1の方か?)

 先に結論を書いてしまうが以下のようなものではないかと感じている。
 ・自己投影によって生じる恐怖感

 ハスの穴や蜂の巣の穴を見ると「もしもこれが自分の毛穴とか皮膚に発生したら…」というイマジネーションによる恐怖もあり得るのではないだろうか?と思った次第である。もしもトライポフォビアの原因について一生懸命考えれおられる方の参考になれば幸いである。
※一回こう考えると、そうだと思ってしまったりしてしまう(自己肯定化?)ので、あくまでも参考として、また先ずは自分の中でしっかりとした考えを持った上で参考にしていただければ幸いである。(もちろん「証拠」に基づいて立証できればそれが一番なのであるが、その「証拠」さえも先入観があると曲解や歪曲やそれこそ捏造とかになってくるので念のため^^科学会でも時たま問題になってる通りですね。)

 一応であるが、生存本能的な話から見てみれば、「もしも自分の身に起こったら」というイマジネーションも生存のためのものなので、いってみれば「先取りしたレベル1の症状・取り越し苦労のレベル1の症状」と言えるかもしれない。
 
 足とかを強く打ち付けた人の映像や、怪我をした人の映像を見て痛く思うのも自己投影とか感情移入によるものである。
 病気になった人や臓器を見ても同じような恐怖を覚えるのもまた然り。
 自己投影という面から見ればトライポフォビアは「もしも自分の皮膚に発生したら」的な恐怖と言えるだろう。
 感情移入という面からすれば「それも表面があんなブツブツになっちゃって、痒そうでかわいそうだな」とでも言えようか。「それ」というのはハスであればハスだし、蜂の巣であれば蜂の巣なのであるがそれを人でも動物でも、それこそ植物のままでも良いので、つまり大きく言えば「生命」に対して同情的な感情移入することで引き起こされる作用と言えなくないかもしれない。(一応言っておくと生命でなくても「もの」でさえも感情移入可能であろう)

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ということで、もともとは別の箇所で「集合してるものに対して嫌な感じを感じる症状に名前はあるのかな?それを英語で書いておきないな。」と軽い感じで調べただけなのであるが、和名と英語名の感覚的な違和感から始まって、そもそもなぜ「嫌と感じるのか」の考察にまでなってしまった^^
せっかくだからこうして残しておきます✌️




2023年3月18日土曜日

自由度獲得の歴史(数学編)

既述「自由度獲得の歴史」では、政治的、社会集団論的、人間論的な視点で扱った訳であるが、実は数学も「妙」な事に政治的、社会集団論的、人間論的な話にリンクして発展してきたと言えよう。

近傍を変える」や「数学上に「不明」を導入」で展開した通り、もはや不可避的に自由度を上げる方向に発展せざるを得ない状況であるし、他方から見れば、それこそがこれまでの数学の「ベクトル」であったとも言えよう。

私のような一般庶民の言うことでもないが、それではそれを突き詰めると、究極は「自由度無限大」の方向に向かうという話になってくる。

その境地はまさしく混沌であって、「認識」さえ成立しない領域である。
しかしこれまた「妙」な事に、それを自覚した上でボトムアップ的に「認識」を積み上げて、いわば「無自覚」に必死に盲目的に本能的に向かっているとも言える。

ーーー
このトップダウンとボトムアップ的な点が「いづれは」「決着」することも、逆算すれば想定できる訳である。
そうであれば、その時点がようやくスタート地点と言えるかも知れない。

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全ては壮大、宇宙も壮大であるし、素粒子領域も壮大であるし、人体も壮大であるし、いわゆる「認識(心)」も壮大なのであろう。

いわば何も要らなくて、それだけで・それさえあれば発火点になる、と言えようか。

ーーー
ちょっと先走りしすぎて訳が分からなくなってしまった^^と思うので、補足。
時系列で言うと身の回りの「認識」から始まって、天体とかものが下に落ちるとかとかの認識(重力・万有引力)とかになって、それとは別に磁力とか電気とか(電磁力)とかになって、光とか電磁波(相対性理論・電磁力学・量子論)とかになって…ボトムアップの「この世とは何なのか?」のあくなき追求といえよう。

他方で、「我とは何か?」、「1+1は2なのか?」「そうであれば方程式が作れる」「方程式で虚数が出てくる」「整数論は」…と言う「純」な論が出てくる。
数字だけで作れる世界。それが数学であろう。

これまた私が言うまでもないが、認識論(物理学)と自覚論(数学)はお互いに補い合いながら発展してきた訳であるが、その衝突(止揚?)が今現在・現時点では激しく火花を散らしながら形成されている、といったところであろうか?

例えば、これもまたとても僭越ながらなのであるが、高次方程式で言えばガウス理論(解析学の解析学(の解析学の…))で大きく発展した訳であるが、これも突き詰めていくと、そもそも「論立て」の意味は最終的に「解消される」と言える問題、と言えよう。

論立ての立脚が解消される、つまり認識論(物理学)と自覚論(数学)と言う論立ても、いずれは解消される訳である。(どうかどなたか「ピン!」と来て欲しい😄)

(これは言うなれば、各「論」自体が関数化するというか、相互補完する状態とも言えようか。例えば認識論(物理学)側が1ずれるだけで自覚論(数学)も全て影響=再計算(再度理論の構築のし直し)が発生し、しかも認識論(物理学)側は単純に1ずれるわけではなくて、連続的に関数的に変化するし、自覚論(数学)も同様に連続的に変化するわけである。それこそ無限×無限=つまり混沌の世界になるわけである。)

ーーー
我々「認識」側の存在としては、残念ながらボトムアップ的に理論構築していくしかないわけであるが、片や想定しうる「自由度無限大」の世界から見れば、我々も簡単に「想定しうる」訳である。
と言うことで、簡単な方程式であるが、「自由度無限大側からすれば、我々は想定しうる」と言う方程式をここに記録として残しておく事にする^^

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また、もう少し論を進めてみて
も考察してみました。



2023年2月23日木曜日

中心から作る建造物

土台からではなく、中心から作る建造物のアイデア。

普通は建物は土台から上へ上へ作っていき、タイムラプスで見たりするといかにも現代の技術の結晶という感じがして壮観である。
これは、最初に完全な設計(完成図)があって、かつ地球の重力の関係上、どうしても下から上へ作らざるを得ない、またはその方が効率が良いということであろう。
(まさかクレーンで頑張って上から作る人は誰もおるまい。但し「設計図通り作れば良い」という条件だけなら、理屈上は可能であろう。)

何を言いたいかというと、土台からではなく、核となる「中心構造物」を作り、それを中心に最終的な完成図にどんどん拡張工事していく構築手順のアイデアである。
(タイムラプスで言えば、従来手法は土台から上へ伸びていくのだが、本アイデアでは、中心構造物から上下前後左右に球状に広がっていくイメージ)

具体的にこれを実現するには大まかに以下の2案が考えられる。
・拡張するごとに中心構造物を含む全体構造物をクレーンで1段階持ち上げ、その間に拡張する方式
・拡張時に中心構造物を含む全体構造物を傾けて、その間に拡張する方式(タイムラプスで見れば、ごろごろ転がすイメージ)

言うなれば、各段階ごとにその時点の重心とか荷重の分散具合が動的に変化しながら「成長」していく建築手法である。

ーーー
「無駄だらけでなんの意味があるのか?」と思われるかもしれないが、このアイデアは例えば宇宙上での建造物や、重力の小さい星上での建造物の構築時に応用可能である。

現代の建築が遥か昔からの技術の蓄積によって、現代では全パーツの荷重も数値によって計算可能になり、それを論拠に設計図が作られている。
それと同じように本アイデアも紆余曲折を経て、細かい技術を蓄積していくことになるだろう。

そうすると、地球上の建造物にも逆適用されて、「拡張可能な建造物」ができるかもしれない。

ーーー
そもそもアイデアなので突拍子もないだろうし、無茶苦茶なことを言ってるかもしれないが、アイデアがあるが故に好き勝手書いただけである^^

タイムラプスの話を何度か持ち出したが、建造物の出現の仕方はいかにも人工的である。(いい悪いの話ではないのでご了承ください。)
果たしてこれが、今後数千年先も同じなのかどうか?とふと疑問に思っただけと言えば、それだけである。
なんでも自然を模倣すれば良いというわけではないことは分かっているが、発想の転換として、「自然上のもの(生物)と同じように完成形に向かって大きくなる建造物」があっても良いのでは?と思い、少なくともその風穴くらいは空けといても損はないだろう、ということである。(飽くなき人類の好奇心というものでしょうか?)

※自然上のもの(生物)=有機体(有機物)で、建造物=無機体(無機物)であって、そもそも根本的に有している目的(性質)が全く異なってるのかもしれないが。
石を積み上げるにしても、木を柱にするにしても、石は当初から無機体であるし、木は有機体だが、建物という目的のために人が勝手に木の目的を無機体に変更している、とも言える。
少なくともこう言った考察で、「建造物は無機体でなければ困る」という点(暗黙の特性)が見えてくるわけである。

「部品」は確かに無機体でなければ困るだろうが、「有機体が成長する過程」もいわば「無機体化」すれば良いだろう、というのが本アイデアの根本であろう。
(物質ではなく、概念の無機体化。)

ものすごく突拍子もないが、しかしまぁアイデアなので書いておくこととする。

二重スリット実験及び天体の光の干渉縞について

電子や光子で二重スリット実験が行われ、「確率の波」や「パラレルワールド」などで説明がなされている通りであり、その「事実」の細かい点は省略。 今回の話は、その現象は現実世界でも常に起きているということ。 我々が自分の目で見ている現実世界の範囲では、多数の光(光子)が光源から発せられ...