2015年9月13日日曜日

何を憂いていたか

言うまでもなく何を憂いていたかは
知っていよう。

であれば、絶え間ない理不尽に立ち向かうために
心を一つにしたこと知っていよう。

その先を見据えて対立は何かしら起こるもので
相互理解を持って、相互理解の姿勢こそが
尊いということまでは知っていよう。

そこまで分かれば未だ大きな赤子が多いことか
知れよう。

留まるはだだこねとしか見受けられない。何十億いて
すべてがアホではなかろうという皮肉は湾曲的で
理解が及ばないのだろうか?

ではここにその浅はかな力学を表明し、自ずから
「あぁわが組織はアホですね」と言わしめればよいの
だろうか。またはそれを望んでいるのか、発作反応を
起こして理性に走らせるのか。

優を持って大挙した見返りとして、自業自得として混迷している
向きがあるが(メディアははるか及ばぬが)、それは早き遅きだけ
の差である。(得意の想像および想造を発揚すれば良い。)
それさえ認識できずに図体だけでかく我を押し通すは、もはや
単なる手のつけようのない駄々こね坊やである。
(駄々こね中年、後年、老年ほど手を焼くものはいない)

幸い人は気付き、恥などを発端とし心が変わることで
いつでも変化することのできるものなのである。
あまた声なき声の過去ブログの話もあるが、あるものの
心に灯った微量な火によって全ては変わり得るのである。

それは幸い積み重ねてきた結果として、そうなるという
方向性はわかるので別に危惧はしておらず(健全が成り立って
いる前提。まだ危うい場面もあるがそうそう切り崩しに
みすみす負けなくなってきたからこそとして)、常に述べる通り
憂慮すべきはその後なのである。

これまでの無駄な何十年を繰り返させないために、如何に
導くか。相互理解の概念のないものにいかに浸透させるか。
それはあくまで過渡期の話。

相互理解が確立したあとに生じる問題である。
(相互理解を対話のスタンダードの一分と思っていただければと思う。)

やはり最後に残るのはIとかEの問題か。

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