そんな中で生きる子供たちは可哀想である。
これは、既述の「誘導すべきものが、かえって悪にいざなってる」の通りであるが、そういう誘導すべきものが頼れないならば、そこからは、哀しいかな、子供であっても自分の見識で道を見つけて行かなくてはならない。ということ。
本当に大変な時代である。
メモ
この続きは、「見識を持ち得るにも関わらず、迷える子羊たちを悪に誘ったものの罪は大きい」とかに続くのだが、これまた現代とか都合のいいように、自分の都合のいいように騙し騙しコロコロ転がす、転がっていく、それこそ可愛い存在である。
というか、そこまでの認識ができるのにぬるま湯に逃げたということは認識力からして認識できたにも関わらず、認識した上で自覚した上でぬるま湯に入ったのであるから、おそらく古の教えはそこを戒めているのであろう、くらいのことを汲まなければ始まらないのだが、この現代の浅さは何だろうか、位は、例えば世の大半くらいは認識しているのだが、ではどうやって具体化するかということ。
むしろ、このように具体化する機運を育んでくれたという点では、あちらの存在意義もあったのかも知れない。
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