2023年9月23日土曜日

形而上学上の不明点について論争しても意味はない

こちら「転生とか脳移植について」の記事で、
「形而上学上の不明点について論争しても意味はなく、分からないものは分からないと素直に認識して、それを出発点にして考えを進める、その姿勢こそが最も大切」
と書いたが、その辺についてもう少し掘り下げよう。

形而「下」つまり、数学とか物理学とかいわゆる現代における「科学」と称される学問においては、そう言う視点は当たり前に思われるかもしれないが、実は意外とそうでもなくて、どうしても人の寿命は限られているので、ここで論ずる純粋な「不明点は不明点として素直に認める」認識に立脚して世に出た論というのは意外と少ないのである。
(この点は歴史を見れば十分にわかるであろう。)

最初に言っておくが、ここで言いたいのは、それがいい悪いの話ではない。
むしろそれが至極普通で当然であって、何らの疑問を投げかける余地は全くない、と言うことである。

本論は、それら先人に感謝した上で、それでも論を進めなければならないため、あえて俯瞰した立場で立場で論を進めましょう、と言うだけである。
(一応、補足としては記述「何か成すのは職として」を以て足掛かりとしていただければと思う。)

そして、これまた述べるまでもないが、形而「上」において、特に信仰分野においては、その真の純粋性に立脚しているのは、冒頭に書いたブログの通り古代インドかネパールのルンビニにお生まれになったお釈迦さまくらいであろう。
(不思議な逆転現象で、「現代科学でまともに論ぜられるのは仏教くらい」的な話もあるそうな。)

どこまでも「言うまでもないが」が続くのであるが、本論はある特定の信仰とかをワッショイするものではない。(と言う点は、よく理解してくれれば自明であろう。)
他の論に譲るが、「例えばお釈迦様が現れなくても別の場所と時で自然に同じような思想が生まれたはずだ」とか「実は別の場所と時に発生してたが消滅しただけだ」とかいくらでも言えようが、ただの一事実として、今からおよそ2,500年ほど前に古代インドかネパールあたりで、本論の主旨とする「純粋な」立場で人や世や世界を考えた方がいらっしゃった、と言うだけであることをまずは理解しなければならないだろう。

ーーー
「ひらめき」の経験がある人であれば分かると思うが、と言うか「ない」と思ってる人でさえも赤子の頃はひらめきの連続であったのであるから誰しもが「ひらめき」の経験はあるのであるが、「ひらめき」とはエキサイティングなものなのである。
(感傷的または芸術的素養のある方であれば「人は不完全な状態で生まれ落ちてくると言うこの世のシステムは偉大である」とかになってくるであろう。)

「ひらめいた」時に人は寝食も忘れその点に集中できるものなのである。(幸い科学も進んでこの辺のことは「起点」が自分であるから「本能」さえ凌駕する、と言うような心理学的な解釈でも説明できるようになったので楽になったものである。)

いわば「魂を削って」生み出すとも言えようか。
他方から、第三者的・客観的視点からすれば、ものすごくエネルギーを要するもの、とも言えよう。

それまでに誰も考え付かなかったこと。
それまでに誰も見つけられなかったこと。
それまでに誰も証明できなかったこと。
純度が増すと他者との比較は消え失せる。
純粋に分かった喜び。
純粋に知った喜び。
純粋に見つけた喜び。
いくらでも歴史書を読んでいただければ良いのであるが、そういった瞬間に当事者として巡り合うことができた人とは、それこを一切合切を捨ててその点に集中できるのである。

私が常々思いを馳せるのは、例えば数学とか物理学で新発見をされた方は、無論その方面の論文なりを書いて、あたかもその「面」についてだけで終わっているように思われてしまっているかもしれないが、実はそれは表面的な痕跡だけであって、「ひらめきのエキサイトメント」としてはその遥か真奥まで思いが及んでいるのではないだろうか?と言う点である。
「現代ではこの数式でしか表せなかった」「論文としてはここまでしか書ききれなかった」と言うことである。(「しか」とか言ってしまうと失礼ですかね^^; 無論「何か成すのは職として」の対義語としてどうしても業績の話になってしまうので、当人も失礼ながらそこまで考えておらず「これでできた!」と思ってるかもしれませんが。)

実際に数学とか物理学でも新しい理論が出てくると「理解できる人は世界で数人」とニュースでチヤホヤされる通り、共通言語であるはずの数式だけでは意思疎通が成立しえず、いわば「思想」的な補助を入れて仲介しないとプロ間であっても「共通認識」はできないレベルになっているのは、現代科学を見ての通りである。

形而上学においては、現代においては(現代においてさえ)「文字」とか「言葉」くらいでしか記述しようがなく、つまり「ひらめきの本当の本質」を本当に100%「表して」、またそれを100%「伝授した・できた」人は一体存在し得たのだろうか?くらいまでの話になってくるわけである。
(頑張って「話した」とか「書き切った」としても、話しもれてること、書ききれなかったことがあるかもしれない。それこそ数学的に「話切るとは」「書き切るとは」と言う点を100%完璧に証明できる有機言語をまずは作成しなければならないだろう。
※ちなみに、この辺が面白いので既述「意識シリアライゼーション」や「意識移植」のように飽くなき考察をしている訳である^^)

ーーー
「ひらめき」の当事者について語ったが、続いて「後追い」について述べる。
直接話を聞いたり、後継者であったり、後世の人であったりである。広く言って仕舞えば第三者である。
後追いは当事者と比べれば楽である。
自分でひらめかずとも、その到達点を理解することができるからである。
ひらめいた人がひらめく時に要した膨大なエネルギーも何ら必要としないからである。

※後追いが、その「ひらめき」を理解するために消費するエネルギーは別問題。数学の理論を理解する点と比べて考えれば分かりやすい。
また、後を追う人が自分の考えがベースとかにあって、その上で誰かの「ひらめき」を取り入れて、その組み合わせで次なる「ひらめき」を得ることもまた次の話である。後述参照。

ーーー
冒頭の本論の主旨の通り「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢が大切」から始まり、「ひらめき」と言う点に着目して話を進めてきた訳であるが、続いて「果たしてひらめいた内容は100%伝授可能なのか?」と言う点について考察しよう。

数学とか物理学であれば、そこに数式があるため、ある意味それさえ理解すれば良いという明確なゴールがあるため「そこまで理解すれば良い」と終わりを自分で設定できる。
しかしこれまでの説明で分かった通り、「ひらめきのエキサイトメント」を追体験するかどうかと言う点は別問題であることがご理解いただけるであろう。

いわば自分の「ゴール」が分かる問題であればそこまで到達したら下車すれば良いのであるが、ゴールのない問題は途中下車のしようがないのである。
逆に言うと何の目的もなくいくらその「ひらめき」を頭で理解したとしても、そこには何の意味も生じようがない、とも言えよう。(何してんだこの人は?状態)

布石に時間がかかってしまったが、つまり「ひらめき」の本当の本質に迫るためには、どうしても追体験を持って、ひらめいた本人と同じくらいのエネルギーでエキサイトしないと、その本質は分かりないだろう、と言うことである。

ーーー
冷静になって考えると、追体験によって到達できるのは当事者と同じレベルまでであろう。
(100%まで理解できたとしても、の話)

しかし大切なのは、その人は果たしてそれを体得して、そこから何をするのか・したいのかであろう。
(これも数学の理論の理解と比べると分かりやすかろう。例えばフェルマーの最終定理を理解して何をしたいのか?プロの数学者であればいわば一つのステップとしてかもしれない。良い悪いは抜きにして自己満足と言う方もおられよう。知の蓄積とか高尚な名目をお持ちの方もおられるかもしれない。これまた既述だがそれではその知を備えてその人の足はどの地を歩むのか?と言う話である。)
(また、到達できるのは当事者と同じレベルまでと書いたが、追体験者が追体験を通して先駆者のベースと作用させて新しい発想を得る点はまた別の話である。)

ーーー
「ひらめき」のエネルギーが大きければ大きいほど、その真髄に触れるには後追い者も大きなエネルギーを要する訳である。
(※しかし幸いなことに、当事者がまたはそれに続く人々が、そこまで到達できる方法を書いたり、「何らかの方法で」残してくれているので限られた生であっても、望めば最短で同様の真髄まで到達できる仕組みになっているのである。)

また他方で、その深遠さがゆえに色々な切り口でも解説も出てくるであろう。
伸びていった枝であるが、外部要因やまた自己修復作用的にも原点回帰が起きたりするであろう。
深遠であればあるほど、この「枝の展開・発展」と「原点回帰」は何度も繰り返されることになるのであろう。
現代では「何か」が進んで知ったか顔になりつつあるのかもしれないが、実は真髄からはまだまだ程遠く、遙かなる「揺さぶり」の真っ只中にあるのであろう。

ーーー
最後に烏滸がましいが、冒頭に書いたブログに書いた通り、真髄は「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢」ではないかと述べた通りである。
この点に立脚して僭越ながら取り敢えず数学上に「不明」と言う考え方を導入してみたので紹介して本論を終えたい。

ーーー
念の為に補足しておくが、題名の「形而上学上の不明点について論争しても意味はない」については以上の通りであるが、勿論推測や考察することは自由であり、また意味のあることである。
どこまでも自分の問題とも言えるのだが、どうしても「与えてくれないと考えられない人」にとっては「一体どっちなんだ?」という溝にどうも陥りやすいようである。どうぞ精進されたし。



2023年9月16日土曜日

宿題について

(ポイントだけ箇条書き)

宿題はやるものである。
言うなれば先生と生徒の約束。
昔は怒られるのが怖くてやってた一面もあるが、それが自然。
現代では平等だか人権だかなんだか知らないが、あやふやになってるのでは?
社会に出て約束の連続であるが、社会に出てから矯正すれば良いという
教育方針なのだろうか?

先生サイドから見ても、ちゃんと約束守る生徒は努力を認めたくなるし、
約束も守らない、人の話も聞いてるんだか聞いてないんだか分からないような
人は、表面的に接するだけになるだろう。
現実の世の中の方がよほどシビアなわけで、学校は平等だか人権だか
に監視されていて、先生も本来の意味での自然的な人間関係を教えられなく
なっており、本当の世の中ではありえないような、つまりいくら約束破っても
構ってもらえるし、いくら話を聞かなくても手取り足取り教えてくれるような
不思議な社会を演出するしかないのである。

逆にいうとそのような適当人間だけになって、まともな社会が構築できるのだろうか?
(学校教育側も「我々の範疇は学校なので、つまり対象は子供なので、その子が
どんな大人になり、それらの大人たちがどんな社会をつくろうが知ったこっちゃありません」
という立場なのだろうか?立派である。
まぁ教育は所謂左の「核心的」ターゲットなので、相当な「アホ化」工作の
影響があって、立つものも立たなくなってしまった歴史もあることは知っているが、
そこを話しだすとまとまらないので、あえて現状を直視しただけの指摘だけしておこう。)

適当人間が作る社会だと、仕事をもらった人は納期は守らないだろうし、
下手すると仕事を出した方も同様に適当なので、いくら遅れようが
「そんなもんだよな」くらいで見過ごしたりするだろう。(全て他人事)
(分かりやすい例だと「いくら電車が止まろうが知ったこっちゃありません」
「いくらビルが崩れようが知ったこっちゃありません」的な世界…)
そういう形で、これまで大切に築き上げてきた社会はほんの数年とかで
いとも簡単にめちゃくちゃに破壊されよう。

これが所謂左の言うところの「ユートピア」らしい。(おめでとう)
なんかどこかの国でも平等だか人権だかの狂信的圧力に屈して伝統を
ぶっ壊して社会を変えたところがあって、しかし得たものは表面的な
平等と人権だけであって、代わりに伝統と「血の通った」人間関係は
失ってしまったと聞く。

失ってからは手遅れで、いざ「約束の成り立たない社会」が出来上がって
生活してみて、いくら不便に思ってみたり、「やはり前の方が良かった」
と後悔したとしても後の祭りである。
しかしそれを「選択」してしまったのであるから仕方あるまい。

ポイント一つ目は、果たしてそんなに愚かで良いのか?と言う単純な問いである。

二つ目は、上記を踏まえて現状を見てみると、構図としては
「まともな人が大切に作ってきた社会の上で、訳の分かってない人が
好き勝手言いたい放題言っている」と言う構図である。

つまり先人たちが大切に築き上げてきた安全で平和で約束が成り立つ
社会という土台の上で生活していて、そのことに気付かず、
享楽にふけり、欲求に従って本能的に生活し、利己のためだけに
突き進み、挙げ句の果てに「世の中が悪い」と言いだす始末である、
ということ。(そんな人たちがのさばれて、挙げ句の果てに
徒党まで組めるのであるから、よほど平和である)
(「気付かず」と書いたが、ちょっとノウタリンで「気付けず」と
書いた方が良かったかもしれない。しかしあちらもノウタリンばかり
ではなく、それこそ「ブレーン」は超絶頭が良くて、ものすごく考えに
考え抜いて、どうすれば「自分が」得をするかを考えている訳であって、
本当のノウタリンはただの駒なのであるが。この辺は長くなるので
既述を参照されたし。(しかしあちらの恐ろしさは、駒を本当に
駒としか使わなくて用済みになると本気で冷徹に捨て去るのであるから
恐ろしい)
そんな集団が顔色一つ変えずに、ましてや善人面を装って、とうとうと
「社会」を語っているのであるから、空恐ろしいものである。
裏を返すと、図示するとこんなにも簡単な構図であるのにも関わらず
世の中の人はやはりあちらに加担する人が一定数出てきてしまうということで、
世の中というのは流されやすいものである。)

しかし所謂あちら側の人たちも、現在は例えるならば仏様の手のひらで
安穏と生活を送れている訳だが、いざ彼らのいう「ユートピア」が実現したら
おそらく左の人であっても99%の人は後悔するのだろうな。
それで一番得をするのはあちらのブレーン(下手すると一人)だけなのである。
(「下手すると一人」というのは、あちらの構造を見てご存知の通り、構造上
どうしても権力闘争して騙しあってトップは一人になるしかないのである。)

そこでようやくあちらの言ってた「世のため」とか「人のため」というのは
ただの言葉だけということが分かって、実際にはあちらの「利己」が目的だった
ということに気付くのである。そして気づいた時にはもう、時すでに遅しで、
首尾よく(こういう時は手際が良い)戻るに戻れない体制を敷くのである。

つまりあちらにしては、社会がぶっ壊れようが、伝統がぶっ壊れようが
どうでもよくて、これも既述ブログで書いた通りだが、あちらの人は
自分の一生だけとかせいぜい数世代くらいしか考えていないので、
魂胆としては「ユートピア化により社会がいくら不便になろうが、
自分が生きてる間は【余熱】で安穏と生きていけるだろうから良いだろう」
くらいであろう。実に立派である。


ということで、宿題をきっかけに考察してみた訳であるが、現代の教育現場の
「適当な」約束関係は「本当」ではないとちゃんと正見して、一方でこれまでの
左的アホ化の影響で現状では「仕方ない」ということも正見して、宿題に
あたっていただければと思う。

ーーーーー
最後に一点だけ、もしかするとあちらの言葉にまんまと乗っかってしまって
「子供のために」と自分が正しいと信じ込んで子供の人権とかに突き進んで
しまっている方がおられるかもしれないが、もしも純粋に子供のためを思うなら
現状の「左的アホ化された教育現場」に子供を放り出している点を問題視して
いただきたいものである。
これこそ本来的人権的には大問題と思うのであるが。
(これまたノウタリンではないので、「そういう考え方には、○○○」みたいな
マニュアルが出来上がっているのだろう…)

また、実際に宿題を「やっている」方(つまり現在の学生さんたち)も、
この点をよく分かって、ある意味現状を俯瞰して対処していただければと思う。
「若いものも捨てたものではない」とか、「最近の若者は冷めてる(クール)」とか
言われるが、おそらく次の世代の聡明な方々は、ここで言ったことも
肌感覚で「あぁ所謂左にまんまとやられて壮大な浪費をしているな」とか
(言葉では言わないけれど)冷静に見つめてるはずであろう。

現在偉そうに幅を利かせている所謂左の人々もいずれ骨董になるであろうから、
次の世代の聡明な方々は何も言わずともそんな歴史上の一時のアホ期間は
ガン無視して「まともな」将来を築いてくれるかもしれない。
(かといって楽観はできないので、多くの先人たちや先生方が日々奮闘している
通り、どんなにくだらなくても真面目に所謂左とは相対しなければならないのであるが。)
(思えば数十年後か数百年後には「20世紀末から21世紀初頭にかけて(約200年くらい?)
左思想が蔓延って、【対話のスタンダード】や【層理論】が確立できてなかった
保守層引いては全世界の「世界をまともに考える層」は、所謂左を一刀両断することも
できずにずるずると200年くらいやりたい放題野放しにしておりました。これを
【左による壮大な浪費の200年】と言います。」とか教科書に書かれることは
明白であり、それを思うとなおさら情けなくなるのである。。。)
※【対話のスタンダード】と【層理論】については既述ブログ参照
※また、陰謀論がお好きな方は、「敢えて左をのさばらせていた」ということも
 考えられ、それについても既述ブログ参照

この構図は、まさに「アホな親の子供は聡明」という図式になってきて、
現代の大人である我々は本当に情けない限りなのではあるが、私は本当に次の世代は
現代の壮大なる左による浪費を見て学んで、現在居を構えて居座っている世代が
いなくなったら、「普通に」まともな社会を再構築するのだろうなと確信するのである。
(居座る人を身近に知ってる方はご存知だと思うが、居座る人はなりふり構わず
居座るので、自分が絶えそうになるとしっかり次の人に継承することも念入りに
仕込むので、簡単に「あの人が絶えたから」という話にはならないのであるが。
ちょっと説明が長くなってしまうので、ここでは話を簡単にして書いたという点は
ご理解いただければと思う。)

なお、「超絶頭の良い」あちらのブレーンは、いざ左思想が頓挫した場合の
自分のみの処し方まで、つまり逃げ方まで考え済である。
(既述の「蜘蛛の子を散らすようにトップから逃げる喜劇」参照。ブログの正しいタイトルは
ちょっと忘れました。。)
選択肢としては、素直に改心するか、または潜伏するかであるが、素直に改心した
場合は許してあげましょう^^
(昔であれば物理的晒し首だったろうが、現代ではこうしてる時点でも
一挙手一投足がデジタルで記録に残る訳であって、あちらに与した方々は
もれなくデジタル情報が未来永劫残るという、現代的晒し首に合う訳であるから
それで十分であろう。。
そういう意味で言うと、現代はデジタル化黎明期であって未来がわかってない訳であるが、
おそらくこれが具体的事例となって将来千年後とかに未来人が「あぁこの人が
壮大な浪費の200年に与した人か」とか言って動画とかSNSで何言ったとか
ものすごく具体的に晒される訳で、その時に如何に【仮想的晒し首】が酷なものであるのかが
具体的に理解されるのであろう。。。(合掌)
(これが所謂抑止力であろう。。))

「超絶頭の良い」ので、表面上だけ改心を装って内面で潜伏する輩も当然
出てくるであろうが、これはつまり「イタチごっこは終わらない」と言う
命題に帰するのであって、その辺はSFとか小説に譲るとしよう。
少なくとも「現代(執筆時点で言えば西暦2023年)で言うところの左思想」では
戦えなくなる訳で、次の戦いが起こるとなれば、それを超えた「層」「レベル」
での戦いとなる訳である。
(先程の仮想的晒し首の話と絡めるならば、将来の社会に馴染めない人が
過去の「壮大な浪費の200年に与した人」とかのアーカイブ全てを見て
手口を変えて真似しようとする、正に模倣犯も出現するのかもしれないが、
これまたSF/小説に譲るとしよう。。
ちなみに模倣犯(宮部みゆきさん)ももはや一般的に使われる言葉に
なったがこうやって言葉が作られていくのだな、と思って感動したものである。)

これまた既述の通りではあるが、見据えるべきは、また考えるべきは、
その所謂左思想が解決された世界である、と言うことは何度も述べてきた
通りである。
思想的にも如何に勿体無い停滞期を過ごさなければならないのか?と言うのが
そこでいう趣旨であった通りである。

「最後に一点」と言っておきながら、一旦端緒を開くと終わらなくなるので
ここら辺にしておくが、話の中に色々出てきてしまったので、過去のブログを
参照しながら考察を進めていただければ幸いである。



2023年8月23日水曜日

時空上の円周率。果たして時空上に「円」は書けるのであろうか?

円周率には限らないのであるが、数学的な円周率と物理的な円周率の考察。

先ずは数学的円周率であるが、ここであえて詳述するまでもないので省略する。

物理的円周率であるが、幸い我々は3次元空間はいくらこねくり回しても軸的な影響はないものとして捉えているので、誰がいつどこで「円」を書いても、半径くらいの情報があれば、机で描こうが、寝ながら描こうが、おそらく同じ「円」が書けるのである。
そして、その皆が「等しく」書いた円の円周率を求めている訳である。

円周率の超越数的な魅力もさることながら、今回はあえて視点を変える訳である。

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いきなり具体的になるが、x軸を時間軸、y軸を高さとしよう。
何でも良いが物体を上に投げて落ちてくるとしよう。
これをxy平面にプロットすれば放物線ができる訳である。

しかし、今考えたいのは円である。
時間x軸、高さy軸に円(半円)が描けるのだろうか?
放物線を考えると、どこをどう取ってもxとy軸上に傾きがある(所謂初速度)
円になるためには初速度無限大である「瞬間」が必要である。
そして、その「瞬間」にその物体は初速度無限大で上に飛ぶのであるから、0時間のうちに高さ無限大に飛ばなければならないのである。

一旦これは「アキレスの亀」の矛盾として、つまりこれはあくまでも「観測者が後追いでどれだけ細分化するだけの問題」として捉えることとして論を進めよう。(無限に観測したければ、当然無限に細分化できる、と言う話ですね。)

今度は軸を変えて、「何だか知らないけど【こと】は起こって、物体は上へ跳ね上がって綺麗に半円を描いて下へ戻ってきて、これまた綺麗に寸分の違いなく原点へ帰ってきました」と言うことを考える訳である。

我々は幸いなことに、傾きは微分すれば求められることを知っているので、dxを時間として微分してみると、【こと】の発生した瞬間はどうしても傾きが無限大であり、また、綺麗に原点に帰ってきた瞬間も傾きが無限大であることを知るのである。

つまり、この【こと】が起こった後では、どうしても「ひと刹那」の間に高さという空間を無限の傾きで「移動」したことを認めなければならなくなってくるのである。

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前提に戻ろう。
時間x軸、高さy軸として、円(半円)が描けるのか?ということであった。
(そうすれば、深淵なる円周率πに別の光が射せるのでは?と言う淡い期待が発端であった。)

円周率のアプローチは色々ある訳であるけれども、例えば平面上で多角形で考えたり、モンテカルロ法みたいにシミュレーション的に考えてみたり、あくまで数学的な数式的に考えてみたり…(以下偉大な考察が続く)、いくらでもアイデアは出せるのだけれども、そのうちの一つとして、もう一度原点に戻って、次元のなんたるかまで遡って考察してみてはどうか?と言う問いであった。
(多分、嫌でも戻らざるを得ないのだろうと思う^^;)

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一応であるが、今回の時間x軸、高さy軸とした場合の考察の続きであるが、我らがアインシュタイン先生のおかげで、時間と空間は切っても切り離せない癒着した関係であることがわかっている訳であり、今回の話に適用すれば、物体が移動した瞬間に(刹那に)空間も含めた緻密な計算がすでに始まっている、と言えよう。(その物体の(かなり簡略化して)「速度は?」「質量は?」「量子的状態は?」…という数えきれない「前提」の設定から始まるのである^^; →その結果として「あー、その前提だと今回のパターンは初速度無限大とは言えませんね👍」の一言で終わるのである😊)

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今回の主旨としては(今回に限らないのであるが)、数学とは幸いなことに、それら物理的な領域から影響を受けることなく純粋に論を推し進めることができることである。
物理からしてもあえてあり得ないことを考察で帰依することがあるかも知れないということである。

今回の考察で帰依しうる点を挙げておこう。
1.時空間上で「円」を考えて、円周率を求めるアプローチ。少なくとも物理的、数学的手法とか円周率探求のツールの手掛かりになり得る可能性。
2.物理上の物質ではもちろんあり得ないかも知れないが、時空上で円(円に限らないのであるが)の軌跡を取り得る仮想物体の考察について。
3.翻って考えると、所謂3次元空間というものは、時空から比べると、なぜこんなに軸間の相互関係は「疎」なのか?という考察。
 我々は左右を見ても上下を見ても前後を見てもそこに何らの相関性は「ない」と信じて疑っていない。という点ももしかしたら思い込みかも知れない。(勿論我々は地球ごと太陽の周りを回っていたり、太陽系も宇宙空間をものすごいスピードで動いているかも知れないが、光から比べたら蠅くらいの速度なので「気付いてないだけ」の問題とも言えるかも知れない。が、そこまで含めて3次元空間は(幸にして)「疎」であるが故に、我らが生活とか、極論すれば「外界を認識する脳」を持ち得たとも言えるのであるが。という考察^^)

4.既述の考察の繰り返しかも知れないが、3の考察の話を踏まえてだが、数学とは幸いなことに「ひと刹那」を切り出した学問と言えるが、やはり話が細かくなってくると、どうしても「軸」間の相互関係をもうちょっと緻密に考えなければいけないのではないか?という考察の手がかり。(というかもうすでに自分で答えを言ってますが^^;)
これまでは幸い軸間に相互関係は「勝手に」無い前提で論を進めてきた訳であるが、つまりこれまで誰も疑問として一言さえ発せられずにきた訳であるが、果たして本当にその前提で良いのだろうか?という問いである。
(数学で平面とか空間を考察する時に、その2次元とか3次元は任意で良いはずなのに、誰一人としてその軸の一つに「時間」軸を持ち出して説明をした人を見たことがない。これこそ「都合が悪い」十分な証拠であろう。都合が悪くなければ堂々と「x軸とt軸で円を書きましょう」とか「x軸とy軸とt軸で球の体積を求めましょう」とか言えば良いのである。まぁ時間についてはこんな説明によらずとも議論は進んでいる通りであるが、現代では普通に「四次元」の一次元に数えられている訳であるが、つまり人類のこれまでの「普通の」感覚での時間軸という捉え方(ボトムアップ的観点としておこう)と、数学的な「次元は疎であるべきだ(そうしてもらわないと困ります)」と言った捉え方(トップダウン的観点としておこう)という2つの観点のせめぎ合いがついに日の当たる所に晒され出したとも言えようか。)

軸(次元)に限らず、所謂近似とか無限大にも当てはまる考察である。

一言で言うと、何というか紙一重ではあるのだけれど純粋な数学の領域と、物理世界とかも含めて「別次元」の話を、盲目的に同一視して、つまり何も知らずに領域を飛び越えて「あーでもない、こうでもない」と議論しているように見受けられるのである。(もしも失礼に聞こえたら、申し訳ありません^^;)

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最後に言えることは、単なる読み物として読んでいただければ幸いである。
(自分で答えと述べているので、一応は答えなのであるが、読んでいただいた人のアイデアにもなれば、また幸いである。)

2023年8月21日月曜日

量子知覚論 - 量子論的に知覚を考察。それはつまり主体と客体の発想の逆転。

知覚とは何か。例えば指先の触覚であれば指先の色々な触覚受容器と外界の相互作用によって、指先の触覚受容器がシグナルを検出したことであろう。

※URL検査で「タイトルが短すぎます」と怒られてしまったため、タイトルは何とか振り絞って仰々しいものになってしまっております^^;

どうも観測者と被観測者の関係は、「自己」の概念のせいか分からないが、つまり自分=観測者、外界=被観測者として「勝手に」前提を作り出してしまうため、本当の関係性は見つめ辛いようである。

もしも幸にしてこれを達観できたとすれば、世界とは、まさしく天地がひっくり返って、「自己」の中心、仮に心臓のど真ん中とでもしようか、を中心にして内臓を全て外界にめくり出すような状態とも言えよう。
極論すれば主体ではなくて、完全なる客体ということ。
※とりあえず説明を簡単にするため、自己の中心を心臓のど真ん中としたが、そもそも自己の中心を探ろうとすればするほど見つからない=つまりアートマンは「これです」というものはなくて、代わりに言うとすれば人とはその全体像を持って人と成っていると言えるので、そこを掘り下げたい人は別資料を読んでください^^;
→一応ですが、ここにも書いてあります。「転生とか脳移植について

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ある意味、この「主体であり、同時に客体である」と言うことを知ることが先ずは第一段階とも言えよう。

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話を転じて、今現在(2023年とかです)では、そろそろ「当たり前」くらいの話になってきているが、かといって初学者とか、もちろん根本的な検証とかでもまだまだ必要な部分であるのだが、例えば二重スリット実験とかで量子論を分かり始める人もおられよう。
極論すればこれは「非局在性」になると思うのだが、やはり観点は観測者と被験者の関係の域を出られていない、とも言えよう。(人が観測者で、電子とか光子とかの量子が被験者という前提。)

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ホログラフィック宇宙論とかもあるが、無論エントロピー的には計算通りになるだろうが量子的な非局在性がどのように絡んでくるかということであろう。

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トピックだけ書いてしまったが、本論で述べるのは、量子的な知覚論である。
つまり、今ここで私が知覚したことは、量子的非局在性によって、別の場所の別の時間で知覚できるという事である。(勿論、別である必要もないので、同じ場所で同じ時間で知覚する事も当然含む論である。)

古典的に幼稚的に考えれば、量子もつれを「集合」させて知覚器官を作って、「正反対」にも作れば「理屈上はできるでしょ?」的な話である。

多世界解釈を持ち出してしまえばむしろ簡単で、今現在の指先にある知覚器官を構成する分子なり原子は元を辿ると、量子もつれの対を成した量子の片割れで構成されていて、無限の可能性の中で、それら全ては「奇跡的に」今現在私の指先を構成しているので、今まさに何かに触れたとすれば、それは瞬時に「裏の世界」の私に知覚されるのである。(めでたし、めでたし^^;また、無論「私」でなくとも別の人でも良いのだが。)

しかしこれではあまりにメルヘンすぎるであろう。(ギリギリ現代では通じるかもしれないが、数十年か数百年か数千年後には、今の我々が過去の人を(失礼ながら)微笑んでしまうように、将来人に微笑まれてしまおう^^;)

「無限の可能性」は結構なのであるが、ややもすると雲散霧消しまいかねないシビアで繊細な問題であるがゆえに、数学的・物理学的な「確かな結びつけ」が必要なのである。

この分野は、ひょっとすると「意識」の何たるや?という古代哲学の問い・遡って人類の問い、さらに壮大に言えば有機物、否、非生物さえも含めての、つまり宇宙としての「この宇宙は何をやりたかったのか?」という点にはるかに遡っていくのである。

ーーーーーーー
もう少しだけ書いておくと、最近は幸いにも統計学とかもあるので、「如何に人として全うするか」ということは、やはりというか当然というか「宇宙がどうしたいのか」という点と一致すると思われる。
(現代ではこの文脈で宇宙というと途端に何故か胡散臭くなる^^;
無論宇宙とか大それた壮大なものではなくて良いのだけれども、そうすると現代では「我々上も下も右も左も老いも若いも男も女も、動植物も土地も歴史も全て含めた構成員の【最大幸福】」くらいになるだろうか。しかし【最大幸福】というのも現代的というか、もう少し政治家は歴史とか踏まえて頭を捻った方が良いのでは?^^;(将来人に「微笑まれ」ますよ^^;))

「如何に人として全うするか」という点は、寧ろ哲学なり宗教なり道徳なりで代々脈々と命が繋がれてきたわけである。
この文を今現在、生を持って今正に目なり耳なり知覚器官を持って知覚している通りである。

また現代の病巣に脱線してしまうが、本来的に人を人たらしめるために、親が子のためを思って残してきた言葉のはずであるのに、それを「頑張って履き違えて利己のために使うだけ使って、絞り切れるだけ絞り切る」というのが現代の病巣たる、所謂左側であろう^^;(やれやれ)

しかし、この文脈を深く知ってもらうと分かるように、彼ら(所謂左)さえ、現代では「必要悪」であった、と言えるのである。(この文脈で足りなければ、既述文書をどうぞ)

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現代科学者は大変なもので、純粋に数学とか物理の世界に溺れていたいと思っていたにも関わらず、しれば知るほど、いやでも形而上学に相対しなければなら無くなってきた時代とも言えよう。
しかし学問とは(学問に限らないのだが)ある程度醸成されると「原点回帰」ともいうべき現象は定期的に起こるものであって(人の一生のスパンで見るとそれに出会う人の方が少ないので「まさか現代科学時代において、まさか自分が」と思うかもしれないが、歴史的に見れば必然なのである。念の為。)、今回は我々が勝手にひいた「形而下」「形而上」という【線】を跨るかもしれない話に「なるかもしれない」というだけである。

最後になるが、所謂左について言えば、これまでまんまと教育関係とか学術会とか手中に収め(たと錯覚し)て「しめしめ」と思っていたかもしれないが、つまり、そこには「科学者が(現代でいう)非科学的なことを【言うはずが無い】」と言う都合の良い前提で猪突猛進に邁進してきたのかもしれないが、その科学者連にまんまと象や猪の勢いで轢き殺される構図であろう。(科学者は科学に生きると言う点を甘く見ていたのであろう。)

まぁ百数十年だか数百年だかは知らないが、「こんな浪費をしてはならない」と後世に伝えるにはちょうど良い歴史になるであろう。(とほほ)

2023年8月9日水曜日

転生とか脳移植について

私が子供の頃は「転生」というのは、ゲームの女神転生くらいでしか聞いたことのない単語であった。(その時分も「女神転生」という固有名詞という認識で、果たして「転生」とはどう言った意味を持つものかということまで深く考えたことはなかったし、同世代を生きてこられた、当時子供だった方々も同じようなものだったと思う。と言うか、一体どう言った意味を「女神転生」というタイトルに込めたのか?と聞けるなら聞いてみたい^^)

大人になってサブカルチャーから離れていたが、どうやら最近(というか結構前から?)は「転生もの」が流行してるらしいことが分かった。
(そして、どうも「生まれ変わり」の別称的に使われていることに、純粋に驚いたものである。みんな広く薄く仏教徒になったのだな!と感銘を受けたものである^^;まぁ昔から今まで日本は広く薄く仏教徒でもあり神道でもある、と言うだけのことでしょうが。)

ということで、せっかくなので転生について書いておこう。
※本記事は色々な分野を駆け巡るので、読まれる方はご注意ください。(多分、ある程度の覚悟を持って読んでいただいた方が良いかもしれません^^;)

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いきなり核心になるのだが、意識とそれを受け持つ体、つまり器はそれこそ「一蓮托生」の関係ということ。

転生シナリオで考えれば、生まれてから受容体(受容器)たる体と共に成長し、「馴染んで」行くので脳が勝手に調整してくれるので問題ないだろう。
よく見るシナリオとか、古代からの生まれ変わりの概念は、この受容器との関係性はとりあえず「うまく整合した」前提で成り立っていることが大半(というかほぼ100%)である。

ここで言うことは、転生・生まれ変わりがもしも「当然」である側からすれば、ものすごく些細な指摘になるかもしれないことを先に述べておくこととしよう。
また別にその点に茶々を入れようとしている訳では無い点も先に述べておこう。

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空想に遊んでいれば何ら問題はないのであるが、ちょっとでも具体に踏み込むと、どうしても問題として出てきてしまうのが、受容器との関係性である。

「無くて七癖」と言われる通り、意識側なのかそれとも受容器側なのか、それともそれらの関係性=縁の問題なのか、更に言うとそれら関係性にも「比重」要因も重なって、その「人」の「癖」になるのであろう。

これをいくらこのまま話を進めても、依然として雲の中を漂うような話になって終わってしまうので、反論的、逆説的な観点から照らしてみようと思うのである。(ショック療法的な考えだろうか?)

前提が長くなってしまったが、私が以前から思考上で遊んでいた、たわいもない戯れと言って仕舞えばそれだけなのであるが、まぁせっかくなので記しておこう。

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無論、現状では、現代科学的に言って仕舞えば「仮説」なのだろうが、「転生」「生まれ変わり」が仮にあったとしよう。(数奇なことに量子論の解釈次第であながち否定もできなくなってきたともいえようか。※但し、いつの時代もそうであるが、こういった新しい分野では科学と非科学が入り乱れるもので、(結果的に)神秘論者的な話も入り乱れるので注意は必要である。)

その手の届かない空想・仮説に何とか光を当てられる、現世上で具体的に考えることができる事柄として脳移植があるのではないだろうかと思った訳である。

倫理とか道徳とかの話に勿論なるのであるが、一旦論を進めよう。(そして最終的には転生とか生まれ変わりもその点に収束していく訳であるが、それはおいおい分かるだろう。)

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まずは、仮に脳移植が実現できたとして考察しよう。
脳といっても、どこまでを脳とするのか、それこそ神経とか血管は人それぞれで、脳のどこと受容器(体)のどこを結べば「移植」と言えるのか、と言うとことん具体的な話になっていくのであるが、である。
脳近辺だけで見ても、耳との関係は?鼻は?目は?舌は?体全体とは?となってくる訳である。

ここではそれらの問題点が解決されたとして話を進めるのである。
つまり受容器の受容器官からの情報は、意識器(脳または心。後述)に「正しく」伝えられる状態を仮説するのである。

めでたく、そこまでの状態になったとして、麻酔から覚めたこの「人」は一体どうなるであろうか?
結論だけ述べるが、考察するに、ほとんどのケースでは、この「人」の「意識器」はあまりの受容器の変化についていけず、言うなれば錯乱状態に「常に」陥り、結局として「中有」に帰って(行って?)しまうのではないかと思われるのである。

例えば歯並びは自分で長年親しんできて意識器も慣れ親しんできたからいいものの、最初に述べたようにそれらがいわば「七癖」ともいえる訳であるが、本ケースでは他人の癖が直球として自分の感覚に常に投げ掛けられるのである。
自分でも「気にならない」ことにしてるのかもしれないが、一旦意識すれば気になり出すものであって、そこに陥ると当分その点に囚われてしまうのである。(もしもこれを読んで、これまで気にしてなかった点・やっと気にしなくて済むようになったを、気にし始めてしまったらごめんなさい^^;(と言う意味で本考察はかなり覚悟を読んでください、と言う意味であった。ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読み進めてこられたと思うので問題はないと思うのだが。))

自分では気にならない、と言うか意識器たる「私」が勝手に「気にしないことにした」ともいえよう。
脳移植とは、それが昨日と今日で完全リセットされるとも言えるだろう。
歯並びだけ言ってしまったが、無論それも一つの執着ポイントにはなってくるのだが、例えば、以前の受容器では「痛み」でなかったポイントも新しい受容器では新しい「痛み」として感受されてくるであろう。(逆に言うと他人からすれば「痛み」であるはずなのに、当人には「痛み」ではなくなるのであるから意識器(脳)とはすごいものである。全体的な点で言えば、「体全体のバランス」が実際にはものすごい違和感になってくるだろう。左右のどちらかにバランスが偏ってた人が、左右反対の偏りを持つ体に移った場合など。正に「気が狂う」レベルでストレートに間断なく頭に電気信号が入ってくるのである。「拒否」はできないわけで、人によってはすんなり受け入れることができる人もいる(おそらくは意外とこれが大半?)だろうし、受容できずに気を失ってしまう人もいるだろう。再度目覚めて再度気を失ってを繰り返してちょっとずつ慣れていくのも実際に想定されるシナリオである。最後のケースは、環境適応能力の低い方はどうしても自分を合わせられずに、受容器最終防衛機構とも言える「発狂」(中有へ帰る・行く)を発動するかである。)
(おおよそテレビでしょっちゅう出てきるみなさんの悩みポイント(腰とか首とかあごとか膝とか目とか耳とか…あぁキリがない^^)がそのまま新しい宿主の「何じゃこれは?」と言う「痛み」とか「気になる感覚」になってくるのであろう。)

想像を逞しくしていただきたいのは、それらが「常に」「嫌でも」意識器たる「脳」に入ってくる、と言うことである!

(映画マトリックスで「ネオ」は「目覚めた」後に錯乱してしまったが、おそらくそれを遥かに超える錯乱状態であろう^^; 幸いそこまでにならなかったとしても、最初の例えで言えば歯並びだけは気になって、最初のうちは舌で歯をチェックしまくって舌が筋肉痛になるくらい動かしまくるだろう。そして一旦「しょうがない」と見切りをつけたつもりでも思い出した頃に再度同じチェックをし始める。。と言うことを繰り返して見事にその人の「癖」になる訳である(めでたしめでたし^^;) こう言うことは正に執着するかしないか的な話に昇華されるのであるが、つまり自分との戦いなのであるが、外部要因で呼び起こされてしまうことも、またあり得ると言うことである。(なので繰り返しになってしまって申し訳ないが、本考察はかなりの覚悟を持ってないと読まない方が良いと言った次第である。これも一応繰り返しになるが、ここまで読んでこられた方は覚悟の上で読んでこられたと思うので問題はないと思うが。 更に付け加えておくと、その点はあくまで自己の問題であって、本論からすると些細な点ということである。主旨としては古典的なアートマンの実在性や、現代的な量子論的な「非局在性」であって、むしろそちらで天地がひっくり返る、という意味での警告である。))

(なお、「常に許容量を超える外部要因が、抗いようもなくなだれ込んでくる」という点については現代的脳科学の話でも扱えるだろうが、人は防衛本能としてあまりにも耐えられない状況になると逃避する機能が発現されるのである。生物として本体(受容器)が死滅するよりはマシですからね。。あるいは本体側が持ち堪えられなくて心停止するか。)
(そもそも誰も知らないかも知れないが、例えば細胞も生きるのに一生懸命なのであって、それをたまたま仮の住まいとして居候しているだけである。(※少し大袈裟に「誰も知らない」と書きましたが、これまで真理を知られた方はもちろんお気付きの点。)
所謂意識器が勝手に主人と思うこと自体がものすごくおこがましいのであって、例えば「生を受けて世の中で何でこんなに私だけ大変な目に遭わなければならないのか?」ということを、先ずは何も愚痴も言わず健気に頑張っている人に問うべきであろう。「表裏一体」とか「気づいてないだけ」とか詩人的にこれまで数多言葉が尽くされてきたはずなのであるが、それも結局「受ける側」が受けなければ何の意味もないということであろう。)
(敢えて裏を返すのだが、(それも何かの気付きになれば)、如何なる生であったとしても、生を受けた時点において、漏れなく気付かずに意識器と受容器の関係性だけにおいても、例え意識器側が「虐げられるばかりだ」と思っていたとしても、意識器側は厳然たる「支配者」側なのである、ということ。
※うーむ、「厳然たる支配者」と言ってる時点ですでに意識器側が主体に傾いてしまっている。難しい。。)

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途中で述べた通り、勿論最初に倫理問題、道徳問題を超えた上での話なのであるが、実際にやってみて中有に帰る/行ってしまっては意味のないことであって、それではこれは、受検者の「許容度」の高さや適応能力の問題になってくるのか?的な話になってくる訳である。
(恐ろしい話であるが、それだけのためだけに、つまり統計を取るためだけに「実験」はしてほしくないものである。利己主義(いわゆる左)の独裁国家とかだともしかすると既にやってそう?恐ろしや。。)

哲学とかでも出てくるが、いくら目玉だとか手とか足とか頭をより合わせてくっつけても「人」になるのか?と言う話。逆に言うと人の実在(アートマン)はどこにあるのか?目玉なのか?手なのか?足なのか?脳なのか?心なのか?と言う話である。

紙とペンだけで生み出された最終最大の理論は相対性理論とか言われたりするが、「人」の実在・実態の非局在性について、はるか2,500年前にそれこそ「瞑想」だけで導いた訳であるからよほどすごいことである。
現代ではどうしても仏教という宗教としての側面でしか見られないのであるが、ブッダがそこに至った考え方の原点は、神はいるのか?とかアートマンはあるかないか?とか、いわゆる形而上学上の不明点について論争しても意味のないことであって、分からないものは分からないものとして認め、その上で如何に人として生きるのか?という点であろう。人に対する姿勢であり、哲学(宗教)に対する姿勢であり、また科学に対する一番真摯な姿勢と思うのである。
(私的には四諦よりもより深い根本原理だと思う。四諦もまたこの根本原理から生じたとも言えよう。もしもこれを提唱したのが私が最初のなのであればラッキー^^✌️)

仏典でもアートマンの話については車で例えられてるので、ここでも車に例えるとしよう。
車を作ると言って、いくら車輪やシャフトや車体やシートを持ってきて接着剤でくっつけたとしても車とは言えず、それらを意味ある状態で組み合わせて初めて車として成り立つのである。
人であれば目とか耳とか体とかの感覚器官(および生命維持するための体)が意味ある状態、つまり有機的に組み合わさって、初めて生命を持った人として成立するのである。(縁ですね。)
そして今回の問題提起の通り、それを受容器と呼ぶならば、そこに意識器も有機的に結びついて本当の人と言えるだろう、ということである。

車は全体を捉えて車と捉えることと同様に、人は全体を捉えて人と捉えられるのである。
車の実体はどこだと言って細部を探っても車のアートマンが存在しないのと同様に、人のアートマンを探そうと細部を探し出すと、途端に人の実体は捉えられなくなるのである。
ちょうど「心はどこにあるのか?脳なのか?心臓なのか?」という現代科学に似ている。
(宗教サイドで言うと魂とかになってきますね。)

今回の問題提起では、「思考するための最重要器官」たる脳を移植することでどうなるか考察してみた。脳は勿論情報処理する上で欠かせない器官なのであるが、また同時に一つの受容器とも言えるのである。
例えば本ブログを書いてて、上記の「今回の問題提起では」の箇所を記載しようとした時、頭を働かせながら文章を生み出していることは分かるのだが、それはこれまで生きてきた私の脳が情報機関として勝手に「自分」だと認識して「自分はこの文章を書こう」と思っているのか?と言う問いである。自発性とか主体性というのも単なる脳の情報処理の結果なのだろうか?
もしそうならスーパーAIが完成したら自発的、主体的に活動していくだろう、という点は多くのSFや頭のいい人の話の通りである。(現状では流石に政治までは行ってないですが、このままの勢いだとものすごくすぐに話が出てきそうですね。)

切り口を変えよう。脳移植ができると仮定して考察したが、それでは、右脳だけとか左脳だけ移植したらどうなるのだろうか?(仮定したとおりこれも技術が進歩してできるものとして考える。)
本体側がAさん、脳を移したい人がBさんだとしたら、半A半Bさんが完成するのか?

そしたら先ほどの例で言うと、「文章を書こう」とする主体は一体どちらの主体性なのか?
その人の「意識」も多重人格的になるのか?それともAさんとBさんを足して2で割ったような人格になるのか?(最初の考察の通り、まずは脳移植の環境適用できた前提)

(脱線するが、多重人格者のケースを考えると一人の受容器たる人の中に複数の「意識」が入ることもあるのだな、と思った。重ね合わさったような状態だろうか?
また、今まさに「自分」だと思っている「自分」も意外と色々と足して割って出来てるかもしれないと思った。
そもそも「自分は自分だ」「自分が【今ここに意識を持って存在している】のは自分しかいない」と言うことも、もしかするとおこがましいものなのかも知れず、自分で勝手にそのように思い込んでるだけかも知れない。
ただし注意点としては、初心者は「では自分は自分では無いかも知れない」と本気で思い込んでしまうと、今度は下手すると自分を保てずに精神崩壊してしまうので、初心者はあまりこの点には首を突っ込まない方が良いかも知れない^^;

肉体的特徴と合わせて考えるのであれば、我々はおこがましくも「自分は自分だ」「自分の個性は自分しか有せず、自分からしか生み出せない」とか思ってしまっているが、実は身体的特徴の直接的・間接的な影響で「個性」に「なった」だけなのかもしれない。(我々は一体どれだけ烏滸がましいのだろうか?)
今回の脳移植の例えからも分かる通り、肉体的特徴で「個性」さえも決定、または形作られるとか、少なくとも「何かしらの直接的・間接的な影響」を受けていると言える。
(このため、鬱対策にもある通り、心を治す場合に「体」から変えることが有効であることからも、この考えはあながち間違っていないことが分かるであろう。医療分野の一つに伝統療法があるが、先人は「なぜか分からないけど有効」ということはそれこそ「智の蓄積」として積み上げて来て頂いたのであるが、我々現代人はそれをなんとか「科学的に」分かった・理解したものとして、「科学的にも有効であることが証明されました」と言っているだけである。ただし思うのは現代科学で証明できたのは、100%のものも中にはあるだろうが、実は有効性の数%分しか証明できてないと思うのである。つまり「現代科学では有効性は認められない」と偉そうに(失礼!)判定されて忘れされたものであっても将来的には「やはり有効であった」というものは数多存在するのだろうなと思いを馳せるのである。なお失礼ながら「先人はなぜか分からないけど有効」と表現させて頂いたが、よりよく考えると実際には本質を分かっていたとも思えるのである。(それを残す・表現する手段がなかっただけ。))

敢えて上下関係として捉えるのであれば肉体(つまり五蘊。今回は受容器と呼んでる)が上というか土台にあって、意識(心とか魂とかに錯覚されるもの。今回は意識器と呼んでる)が下であるのだが、「実体と連続性を認識してると錯覚」しているが故か、どうしても自分が上だと思ってしまうのである。
いざ肉体を変えた時に自分も変わったということを自覚した時に、我々は「はっ!」と気づくのか、それともやはり「自分は自分だ」「自分が変わっただけだ」と思い続けるのか、といった問題であろう。
脱線終了)

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ちなみに実在するかどうか不明であるにも関わらず、実体があると錯覚して、かつその存在が一瞬前と現在と未来へと連続して続いていると信じているからこそ人が人として成り立ってもいる。(次に何をするかとか計画も立てれるし、物理法則を割り出したりすることもできるし、未来予測もできる。などなど)
連続性を信じるからこそ過去のことも記憶できるとも言える。(「記憶してるという錯覚」と言うべきか。)
「心ここに在らず」の状態だと学校の授業を聞いても何も頭に残らないように、現実から心が離れているとその間の現実で起きてることは頭というか記憶には残らないのである。
(簡単に「ちなみ」の話を追記しておこうと思ったが、これはこれで1本ちゃんと書かないといけなそうな気になって来た^^)

つまり失礼ながら所謂ボケてしまったり、別の世界(中有)に行ってしまった人は、私たちが共通認識している「現実」はその人にはどうでも良いのであって、正しく「心ここに在らず」状態なので「記憶」という意味さえ成り立たない状況と言える。その人にはもはや「現実の記憶」など取るに足らないのである。
記憶できなくなる症状はもちろんこれだけが原因ではないのであるが、ただしこれはそのうちの一つであろう。

通常であれば実在の連続性を疑うという発想が浮かぶわけもなく生きてる訳で、もはやその点にがんじがらめに縛り付けられているようなものであり、またそう言った大半の人を「正常な人」として社会を作っているわけである。
しかしここまで見て来た通り、中有に住む人(「正常」側からすると失礼ながら「異常」と呼ばれている人)、つまり実在と連続性の錯覚から離脱された人は、実は世界を本当の意味でありのままに見ているのかもしれない。
生きてる人の場合だと上記の通りなのであるが、我々も死ぬ時は同じ世界に行くわけであり、現実世界では死亡して体が動かなくなるので周りからは見た目上分からないだけであるが、もしも動くことができるのであれば同じ状態になるのであろう。



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最初に述べた通り、これはあくまで思考実験である。
むしろ主眼は量子論で言うところの「非局在性」とも言える。
本論は、その点を考察する上での「後ろ側から光を当てる」と言うだけの考察である。

十分注意の上、考察いただければ幸いである。
また、これを受けて量子論的な非局在性についての再考察上の手助けになれば幸いである。

2023年7月26日水曜日

無限は0もあり得る

既述「数学上に「不明」を導入」で、【不明】を導入したわけだが、「無限」について補足。

それは無限は0もあり得るということ。

上記リンクの例では、トーラス上では平行線もどこかで交わるということで、数学というよりも実際問題・具体的問題の場合を用いた説明だった。

今回もとりあえず平行線の問題をサンプルにするが、2つの線があって、一方を固定し他方の傾きを変えていき平行にしたら2つの線は交わらない(無限の遠方で交わる)という解釈であった。
傾きの変化をグラフにすれば直感的にもそう思うだろう。

そこへトーラスの話を持ってきて、トーラス上では平行線でもどこか具体的なポイントで交わることを記した。(なので数学的な話ではなく実世界上の問題になってしまう。)

数学でなくただの物理問題か?と思われるかもしれないが、「無限」ではなく「不明」のイメージを持たせるためのサンプルにすぎない。

そして今回は、このサンプルを借りて、「無限遠方で交わる」という点を深掘りし、実は無限遠方とはケース次第であって、実は1であっても2であっても、それがそのケースの「遠方」であるならば無限の具体値は1とか2になるのである。

上記サンプルのグラフは、X軸とY軸を1:1で書くと確かにX=0に限りなく近づかないと「無限」は実感できないかもしれないが、グラフの上下を押しつぶしてX:Y=1:1/1,000,000,000,000 とかにすれば、グラフは0付近まで超低空飛行を続けて0付近で急激に上にカーブするグラフになるだろう。

この比率もいくらにしようか自由であるので、X:Y=1:1/♾️ とすれば良い。
そうすると理屈上はこのグラムはX=♾️からX=0までの間全てのポイントでY=0のただの一直線になる。
※もしもまだ、X=0付近でYの値が跳ね上がってしまうのであれば、比率をもっと大きくすれば良い。
※Y=0というのは、正しく「近似」すればである。無限が自分自身の定義によって全区間0に近似されてしまうのである^^;
※縦と横の縮尺をどれだけ伸ばそうが縮めようが観測者の勝手であり、観測時にどれだけ比率を変えようが、元の「事実」には影響はない(はずである)という「前提」で話が成り立っていることが分かる。(別の話になってくるが、ただしその前提は本当にそうなのか?という問いでもあることに気づくだろう。)

よって無限の値は0でも良いのである。(無限はlimn→0 1n = ∞  というただの定義ということを思い出しましょう。 別に0は含まれないとは定義されてない。)
※注意点としては、0でありかつ♾️で「同時」にあるということ。

これは一体、物理の話をしてるのか数学の話をしてるのか混乱されるかもしれない。
グラフのXY縮尺を変えることが「観測」の問題なのか?ということ。

この辺の話も含めて「数学上に「不明」を導入」ということであった。

新しい境地になってくるのだが、今後の数学は「0でありかつ♾️で「同時」にある」と言ったような正しく不可思議な領域に入って行かざるを得ないのであった。
しかしこれさえもコペルニクス的発想の転換であろう。

※これまでは「そんなはずはない」とか言って、解釈で頑張って「XXXだ」とか言ってきた訳であるが、実はそれが自らの道を閉ざしてたともいえよう。解釈で頑張らずともよく、ありのままに解釈すれば良いのである、とも言えよう。そこには「分からないものも分からないもの」として「受け入れる」という【不明】の導入姿勢の通りである。



2023年6月11日日曜日

三毒に屈しない

分かりやすく言えば、馬鹿に屈しない、馬鹿に負けてはならない、と言うこと。
馬鹿に負けて益することは何も無い。

古今東西、上下左右を見渡してそうであろう。

馬鹿とは別の言葉で言えば無明とも言えようか。
無明の人に負けては、浪費の手助けであるし、またその人にとっての間違った方向への学習強化の手助けとなる。

また、自分自身内部のことに目を向けても、自分の無明をいいことに自分勝手に自分の欲求のままに、つまり欲に負けて、自己に負けてやりたい放題しているのでは、立派な人とは言えない。
人類の叡智として、親とか社会から「嘘をついてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはならない」といった倫理が人から人へ受け継がれて社会は成り立ってきたわけであるし、個人個人も「こう言う人になってはならない」とか「立派な人物になろう」とか自己向上、少なくとも自己抑制が働くと言うのが、暗黙の「最低限の人として」の道だったとも言えよう。

もしも残念ながら頭が追いつかなくて、想像力や思考実験ができなくて、悪事ばかりしてる人は、いわゆる困ったちゃんなのだが、そういった人はもちろん少数で(もしも、そういった人の発生確率のほうが高ければ、まともな社会が成り立たない^^)、そういった人は社会で「やれやれ」とかいって温かく見守って居場所を与えて、いわばみんながちょっとずつ何かしら出し合って「包容」して支えあってきたわけである。

ーーー
と言うことで、これまでは社会論的、集団論的に母数が大きくなるとどうしても発生してしまう「困ったちゃん」と言う、せいぜい発生しても「ある時に一人」とか「個人」の問題であって、残念ながらそういった人に直接的に間接的に接することになった人は、その集団、その社会で何とか温かく包容・内包してきたわけである。

しかし現代では、というか現代の病巣としては、こともあろうに「バカのままでいいですよ!そしてみんなで徒党を組んでがっぽり援助を受けましょう!」と言う始末なのである。

そういった甘い誘惑にズルズルと付き従ってしまう、頭の追いついてない人はそれでそれで残念なのであるが(ちょっとは世の中の仕組みを理解しようとして反省して向上するベクトルに切り替える努力をしてほしいものだが)、それは頭が追いつかないのであるから、ある意味仕方がない。(元々の/従来の意味でのマイノリティ)

むしろ問題なのは、そういった迷える子羊たちを正しい方向に導くのならともかく、こともあろうに阿呆であることをいいことに、偽善の笑顔で近づいて悪の道にまんまと誘う連中である。
既述の通り何回言ってるんだ、と言うことで詳しくは述べない(詳しくは既述を参照)が、
無明という霧の中で迷っていた本来は真っ当に更生できる可能性があった人たちを、その可能性を潰して悪の道に誘うことであり、それこそ累計では「兆」レベルの数の人たちを霧の中でメクラのまま人の一生を浪費させたということで、「誘った人」の罪は書き表せないほど重いのである。
(と書いて、ちょっとでも「ハッ」としてくれれば良いのだが、これまたスーパーメッキ厚顔で、こう言った言葉を喰らってもあちらの人々は何の変哲もないのである。)

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ということで、アプローチとしては、正攻法として「倫理に訴える」やり方を述べてきたし、多くの先人たちもそれに心血を、情熱を注げられてきたことである。
無論これはこれで緩まず弛まず続けていかなければならないが、構造理解の通り、あちら(いわゆる左寄り)はむしろ倫理をなくし、自ら喜んで阿呆になって、動物的、本能的な「利己」を根本することによって癌のように悪を撒き散らす醜い塊になってきたわけである。

彼らにとっては倫理とは屁みたいなものであって、「ブレーン」としてはただただ単純に利己をいかに増殖させるかという「システム」を作ることにしか目がないのであろう。
あちらがシステムで来るのであれば、こちらは悲しい事ではあるが人類の別の叡智として「規律」を作って防ぐしかない、という事であり、それが政治3.0であるという事であった。
「バカは死んでも直らない」のであれば「その人が一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」という事が従来であったが、現代では「(悪魔に魂を売った先導者のせいで)バカが徒党を組んで組織だって押し寄せるようになった」ので「こちらとしても組織規模でその人たちが一生荒波立てずに過ごせる居場所を与える」ということになってくる、ということである。
(それこそ「暴力でぶっ潰したりはしない」と言うのも人類の叡智の一つであろう。)

ーーー
これまた繰り返しになるのだが、いわゆるあちらの根本は利己であるということは構造理解の通り明白であるし、私が指摘するまでもなく、ずっと前から多くの人が解明してきたことである。
いわゆるあちらが出始めた頃は頭のいい人までも騙されて混乱した時期があったのかもしれないが、それもすぐに、あちらの言うことは「理論」などでは全くなくて「ただの屁理屈」と言うことも解明されてきたのは歴史を見る通りである。

繰り返し言ってきたのは、ではなぜそんな下らない屁理屈に百何十年もの間、なぜ全人類は性懲りも無くあちらの言い分通りに毎度毎度慌てふためいてオドオドばかりしてきているのか?と言うことである。
と言うことで、「あえてバカを泳がせておいたのでは?」と言う点も指摘しておいた通りである。

ーーー
もしも上記が国家レベルの裏の合意事項とかであったのかもしれないが、事ついにここまできて、こう言った一般庶民レベルで「もはやあり得ない」レベルまで認知されたと言うのが現状である。

なぜここまで言うのか、また、先人たちが頑張ってきたかといえば、それは冒頭に述べた通り「完全に浪費」であるからである。
もしもここから何か新しいアイデアとや理論が生まれれば良いのだが、冒頭に述べた通り馬鹿に資して残るのは何もないのである。
(既述の通り「なぜこの莫大な浪費をスルーするのか?」の通り)

我々はもっとやることがあって忙しいわけであり、政治3.0以降の健全化後の建設的な問題が山積しているのであるが、この時代に生まれてつまらない利己集団に振り回されて一生を浪費だけに費やしても構わない人がどうも多いようである。

これこそまさに無明であろう。

ーーー
前回の余談で、本ブログが、「表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである」と書いたが、これまた嬉しい(面白い)ことに、本ブログはどうやら「格言生成機」ともなっているようである^^;

無論そのようなことは全く意識せず、「いかにして無明を明(妙?)とするか」と言う意思で書いてるだけであって、格言とはいわば言葉の組み合わせ的な問題なのであるからそれこそ目的を「格言を作る」に置くのであれば誰でもできる話なのであるが、これもまた妙なことにやはり時代とかその場・その状況にマッチしたピンポイントのことがピンポイントで生じる、と言うことであろうか。

(これこそ人類の叡智として醸し出されるものであって、別に私が言わずとも別のところで誰かが言っていることであって、これまた既述の通り「何か成すのは職として」と言う事であろう。)

2023年5月13日土曜日

閻魔大王の浄玻璃の鏡

 思えば現代の病巣である所謂左寄りも、その根本は利己であると見抜いた通りであるが、そういう人はむしろ自分達が弱者でい続ける方が取り分が多くなるとでも思っているように見受けられる。
彼らへの最善・最高のギフトは鏡なのだな、と思った。

対話のスタンダードの通りであるが、かたや「ちゃんと」話し合おうとしているにも関わらず、他方(所謂左)はその前提を「あえて」破っているのだから、まともな話し合いになるはずがない。
「困ったちゃん」が例えば100人中1人2人発生してしまうのは、集団論的、社会学的、統計論的にしかたないのだが、あちらはこともあろうにそれらをそそのかして徒党を組む始末である。(おっとまた止まらないなる^^)

対話のスタンダードの趣旨としては、対話とは当然「ちゃんと」話し合いをするもののはずであるので、当然「ちゃんと」話し合いをしようとしているのか?できる人なのか?という点、つまり前提条件をちゃんとしましょう、というものである。

現代の所謂左連は、果たしてまともに自分の姿を鏡で見ることができるのだろうか?(続く言葉は、「否、そんなわけが絶対にあるはずがなかろう」である^^)

既述の通りだが、もしも鏡を見る必要があるときは、お得意また都合の良いスーパー忘却能力で過去の自分を忘れて頭真っ白状態で見ているかくらいである。

閻魔大王の浄玻璃の鏡というものがあり、またここでのお話としての鏡はもちろん抽象として言ってるわけであるが、あちらの人を見ていると、抽象であるはずの鏡が本当の具体的な影響力のあるものとして見えてくるので不思議である。

※あちらの人はご存知の通り怖いもの知らずであり、精神的な思考実験に何らの意味も見出せない人たちなので、閻魔大王の浄玻璃の鏡を例に説明しても痛くも痒くもないのだろう。しかし実際に彼らは果たして自分達がいざ滅するときに何ら反省もせずに厚顔無恥のまま去っていけるのだろうか?
(そのときに泣き喚いてももう手遅れなのであるが。しかしその人にとっては滅する直前に泣き喚くということが最終的な反省を意味するのであり、その人もまた
救われたといえよう。(どれだけ救われたがっているのだか。。))

ーーー
P.S.
おかげさまで、(既述の通りですが)、表には出てこないが裏方ブログとして現代の病巣に対処するものとして皆さんの指針になっているようである。
よく言われるのは「ここに書いてある通りに世の中が進展しており、果たして預言者(Oracle)ですか?」みたいな恐縮この上ないことを言っていただけるのだが、これまた既述の通り、ここで書いていることは、あくまでも公開情報を頼りに「理論的に」論を展開しているだけあるので、なんら特殊な能力を使っているわけではない。(ただし「正見」は必要でしょうが…^^)

所謂左の「ブレーン」とかも当然歴史はご存知のはずで、歴史を振り返ってみれば「当然そうなるでしょ」と、後追いという立場のおかげ・事実という揺るがしようのない「壁」に照らし合わせて、そう思うわけである。
「文明が発展した」と思われる現代であっても、散々言ってきた通り所謂左の根本は、どれだけ衰退・後退した「利己」に寄りすがっただけの理論(理論という言葉がもったいので「屁理屈」くらいが妥当ですが^^)ということである。
もしもあちらのブレーンが、頭はいいのであろうから、「はっ」とその愚かさ・浪費・迷える人たち数億人を悪の道に誘うという罪、などに気付いて気絶でもしてくれれば良いのだが、これまた既述の通り、その「最後の判断」の瞬間は、どういうことか「スーパー忘却能力」を最大限に発揮して、頭真っ白状態でスルーできる能力があるようである。(私からすれば、そちらの方がよほど超能力である。人智を超えて人類とか叡智を潰そうとしようとしている、というか。)

楽観的に考えれば、それらは「自然淘汰」によって自然消滅するだろうくらいに思えるのであるが、実際には姿を変え形を変え、まさに「イタチごっこ」の状態である。
(もちろん嘘のメッキはいずれは剥がれるので、歴史の通り、その都度一回は消え去るのだが、どうやら「頭がよい」とでも思ってるらしく(または本当に頭だけ良い輩が加担とかして)、違う姿・形でジメジメとした箇所から再発生するのである。)

これまでの総括になってしまうが、そこまでは並の頭(場合によっては失礼な表現かもしれず、失礼致します^^)を持った人であれば、当然見通せる話であって、このまま加算・積算・乗算的に展開するのであれば、この「イタチごっこ」は未来永劫続くと見通せるわけである。
(逆にいうと、例えば、残念ながら数千年後も対峙する側が、律儀に加算・積算・乗算的にへとへと顔で対応されていれば悲しいものだが^^)

これまで散々言ってきたことは「果たしてそうなのか?」「果たしてそんなに愚かなのか?」というだけである。

私がここに改めて述べるまでもなく、多くの、地に足を付けてこの点を憂慮されてこられた先人・先生たちがおられ、既にその本質は(まだ朧げなのかもしれないが)醸成されてきた通りであるが、それを端的に「層理論」にまとめただけである。

この層理論が分かれば、これまでの所謂左と対峙してきて消耗した労力は、歴史を振り返った時に、「一体どれだけ暇で、かけがいのない時間とリソースを浪費したのか、人類は!?」と日に照らしたように分かるのである。

ということで、層理論に記載した通りであるが、所謂左には未来永劫安定的に「住む場所」があるので、優しく誘導してあげましょう^^


2023年5月2日火曜日

集合体恐怖症とトライポフォビア(画像はないのでご安心ください🙇‍♂️)

密集したものを見るとなんとなく恐怖を感じる人は多いだろう。

その症状をなんというのか調べたら「集合体恐怖症」とあり、これかと思った。
しかしその英語はトライポフォビア(trypophobia)というらしく、逆にトライポフォビアで調べると、こちらはハスの穴や蜂の巣など、小さな穴や斑点などの集合体に対する恐怖らしい。

言うなればトライポフォビアだと狭義の「集合体に対する恐怖症」という感じがした。

私が感じてた「集合体に対する恐怖症」は、たとえば
・ケバエの幼虫や、ヤスデが土の中に密集したものを見た時の恐怖
・草にかぶれて、皮膚に赤いブツブツが大量発生したものを見た時の恐怖
とかであった。

しかしトライポフォビアの説明を読む限りは、それらはトライポフォビアとは呼べないような気がする。
言うなれば「広義の集合体恐怖症」というものも存在しないだろうか?

まず、トライポフォビアと日本語の「集合体恐怖症」の関係だが、これはトライポフォビアの翻訳なのだろうか?(つまりトライポフォビアが完全イコール「集合体恐怖症」の関係)
もしくは「なんとなく」イメージが同じなのでトライポフォビアの(ゆるい)翻訳として「集合体恐怖症」という訳語を使っているだけなのか?

この点は定義の問題なので、もしも定義されてればそれで良いし、まだなのであれば、ここでちゃんと定義しておくこととすればよい。

ーーー
そしてその次の問題は、日本語の「集合体恐怖症」というと、その言葉からして、私があげたサンプルも自然と「集合体恐怖症」の中に含まれてしまう(と多くの人が思ってしまう)という点であろう。

もしも既にトライポフォビア完全イコール「集合体恐怖症」と定義されてしまっているのであれば、「集合体恐怖症」の言葉はちょっと広義っぽく聞こえてしまうため、別の訳語にした方がいいと思われるという提言であるし、もしも定義がまだなのであれば、本記事の点を考慮の上、訳語を制定してもらいたいという提言である。

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その上で三点目。
私のサンプルの1つ目は、もしかすると単純に「気持ちの悪いもの」がさらに大量になって「さらに気持ち悪い」という感覚症状だけなのかもしれない。(単純比例的なもの?)

よって「トライポフォビア」としての感覚は「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」と言えるかもしれない。

ちょっとだけ考察してみると、
・レベル1(私のサンプルの1つ目)
 1つでも嫌なのに、それが大量にあるので掛け算的に嫌になってる例。
 人によっては1つだけだと、自覚レベルでは「嫌」とさえ感じてないかもしれないが、大量になると「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」が自覚レベルを超えて恐怖を感じるとか。
 これはたとえば猫が大量のネズミに恐怖する感覚と似ている?
 「制圧される恐怖・逃げられない恐怖」と似ているのかもしれない。サンプルで挙げた大量の虫の例だと、逃げられない訳はないとは分かっていても「もしもいきなりこちらに押し寄せてきたら…」的な恐怖なのかもしれない。
 ※気持ち悪い虫とかを見て人はなぜ「気持ち悪い」と感じるのか?という基礎研究は既に行われていて、その人の原初レベルでの「感覚」は何なのか?という点まで解明されているのかもしれないが、「見た目の恐怖」というのは、やはり元を辿ると「もしもこちらに危害を与えてきたら嫌だな」という感覚なのかもしれない。(これに対して「いや、視覚的な問題だけでも説明できるはずだ」という意見もあるかもしれない。その辺が現状ではどこまで研究が進んでいるのかは私は知らない。)

 ここでは一旦「危害を加えられたら嫌だな」説で説明することとして、よってこのレベル1の恐怖は「(無意識中の)嫌な度合い✖️数」で説明できそうである。
 この感覚は大きく言えば「生きるか、死ぬか」「勝つか、負けるか」「危害を受けるか、受けないか」といった単純な感覚によるものと言えるだろう。

・レベル2(私のサンプルの2つ目とかトライポフォビアの例)
 ここから「純粋な」トライポフォビアの領域になってくると思うが、「1つだけだと恐怖は感じないのに、それが集合するとなぜか恐怖を感じる」問題となってくる。
 私が感じた同類のサンプルとしてもう1つ挙げておくと、亀についた大量の貝(フジフボ?)も似てるかと思った。(これはむしろレベル1の方か?)

 先に結論を書いてしまうが以下のようなものではないかと感じている。
 ・自己投影によって生じる恐怖感

 ハスの穴や蜂の巣の穴を見ると「もしもこれが自分の毛穴とか皮膚に発生したら…」というイマジネーションによる恐怖もあり得るのではないだろうか?と思った次第である。もしもトライポフォビアの原因について一生懸命考えれおられる方の参考になれば幸いである。
※一回こう考えると、そうだと思ってしまったりしてしまう(自己肯定化?)ので、あくまでも参考として、また先ずは自分の中でしっかりとした考えを持った上で参考にしていただければ幸いである。(もちろん「証拠」に基づいて立証できればそれが一番なのであるが、その「証拠」さえも先入観があると曲解や歪曲やそれこそ捏造とかになってくるので念のため^^科学会でも時たま問題になってる通りですね。)

 一応であるが、生存本能的な話から見てみれば、「もしも自分の身に起こったら」というイマジネーションも生存のためのものなので、いってみれば「先取りしたレベル1の症状・取り越し苦労のレベル1の症状」と言えるかもしれない。
 
 足とかを強く打ち付けた人の映像や、怪我をした人の映像を見て痛く思うのも自己投影とか感情移入によるものである。
 病気になった人や臓器を見ても同じような恐怖を覚えるのもまた然り。
 自己投影という面から見ればトライポフォビアは「もしも自分の皮膚に発生したら」的な恐怖と言えるだろう。
 感情移入という面からすれば「それも表面があんなブツブツになっちゃって、痒そうでかわいそうだな」とでも言えようか。「それ」というのはハスであればハスだし、蜂の巣であれば蜂の巣なのであるがそれを人でも動物でも、それこそ植物のままでも良いので、つまり大きく言えば「生命」に対して同情的な感情移入することで引き起こされる作用と言えなくないかもしれない。(一応言っておくと生命でなくても「もの」でさえも感情移入可能であろう)

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ということで、もともとは別の箇所で「集合してるものに対して嫌な感じを感じる症状に名前はあるのかな?それを英語で書いておきないな。」と軽い感じで調べただけなのであるが、和名と英語名の感覚的な違和感から始まって、そもそもなぜ「嫌と感じるのか」の考察にまでなってしまった^^
せっかくだからこうして残しておきます✌️




2023年3月18日土曜日

自由度獲得の歴史(数学編)

既述「自由度獲得の歴史」では、政治的、社会集団論的、人間論的な視点で扱った訳であるが、実は数学も「妙」な事に政治的、社会集団論的、人間論的な話にリンクして発展してきたと言えよう。

近傍を変える」や「数学上に「不明」を導入」で展開した通り、もはや不可避的に自由度を上げる方向に発展せざるを得ない状況であるし、他方から見れば、それこそがこれまでの数学の「ベクトル」であったとも言えよう。

私のような一般庶民の言うことでもないが、それではそれを突き詰めると、究極は「自由度無限大」の方向に向かうという話になってくる。

その境地はまさしく混沌であって、「認識」さえ成立しない領域である。
しかしこれまた「妙」な事に、それを自覚した上でボトムアップ的に「認識」を積み上げて、いわば「無自覚」に必死に盲目的に本能的に向かっているとも言える。

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このトップダウンとボトムアップ的な点が「いづれは」「決着」することも、逆算すれば想定できる訳である。
そうであれば、その時点がようやくスタート地点と言えるかも知れない。

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全ては壮大、宇宙も壮大であるし、素粒子領域も壮大であるし、人体も壮大であるし、いわゆる「認識(心)」も壮大なのであろう。

いわば何も要らなくて、それだけで・それさえあれば発火点になる、と言えようか。

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ちょっと先走りしすぎて訳が分からなくなってしまった^^と思うので、補足。
時系列で言うと身の回りの「認識」から始まって、天体とかものが下に落ちるとかとかの認識(重力・万有引力)とかになって、それとは別に磁力とか電気とか(電磁力)とかになって、光とか電磁波(相対性理論・電磁力学・量子論)とかになって…ボトムアップの「この世とは何なのか?」のあくなき追求といえよう。

他方で、「我とは何か?」、「1+1は2なのか?」「そうであれば方程式が作れる」「方程式で虚数が出てくる」「整数論は」…と言う「純」な論が出てくる。
数字だけで作れる世界。それが数学であろう。

これまた私が言うまでもないが、認識論(物理学)と自覚論(数学)はお互いに補い合いながら発展してきた訳であるが、その衝突(止揚?)が今現在・現時点では激しく火花を散らしながら形成されている、といったところであろうか?

例えば、これもまたとても僭越ながらなのであるが、高次方程式で言えばガウス理論(解析学の解析学(の解析学の…))で大きく発展した訳であるが、これも突き詰めていくと、そもそも「論立て」の意味は最終的に「解消される」と言える問題、と言えよう。

論立ての立脚が解消される、つまり認識論(物理学)と自覚論(数学)と言う論立ても、いずれは解消される訳である。(どうかどなたか「ピン!」と来て欲しい😄)

(これは言うなれば、各「論」自体が関数化するというか、相互補完する状態とも言えようか。例えば認識論(物理学)側が1ずれるだけで自覚論(数学)も全て影響=再計算(再度理論の構築のし直し)が発生し、しかも認識論(物理学)側は単純に1ずれるわけではなくて、連続的に関数的に変化するし、自覚論(数学)も同様に連続的に変化するわけである。それこそ無限×無限=つまり混沌の世界になるわけである。)

ーーー
我々「認識」側の存在としては、残念ながらボトムアップ的に理論構築していくしかないわけであるが、片や想定しうる「自由度無限大」の世界から見れば、我々も簡単に「想定しうる」訳である。
と言うことで、簡単な方程式であるが、「自由度無限大側からすれば、我々は想定しうる」と言う方程式をここに記録として残しておく事にする^^

ーーー
また、もう少し論を進めてみて
も考察してみました。



2023年2月23日木曜日

中心から作る建造物

土台からではなく、中心から作る建造物のアイデア。

普通は建物は土台から上へ上へ作っていき、タイムラプスで見たりするといかにも現代の技術の結晶という感じがして壮観である。
これは、最初に完全な設計(完成図)があって、かつ地球の重力の関係上、どうしても下から上へ作らざるを得ない、またはその方が効率が良いということであろう。
(まさかクレーンで頑張って上から作る人は誰もおるまい。但し「設計図通り作れば良い」という条件だけなら、理屈上は可能であろう。)

何を言いたいかというと、土台からではなく、核となる「中心構造物」を作り、それを中心に最終的な完成図にどんどん拡張工事していく構築手順のアイデアである。
(タイムラプスで言えば、従来手法は土台から上へ伸びていくのだが、本アイデアでは、中心構造物から上下前後左右に球状に広がっていくイメージ)

具体的にこれを実現するには大まかに以下の2案が考えられる。
・拡張するごとに中心構造物を含む全体構造物をクレーンで1段階持ち上げ、その間に拡張する方式
・拡張時に中心構造物を含む全体構造物を傾けて、その間に拡張する方式(タイムラプスで見れば、ごろごろ転がすイメージ)

言うなれば、各段階ごとにその時点の重心とか荷重の分散具合が動的に変化しながら「成長」していく建築手法である。

ーーー
「無駄だらけでなんの意味があるのか?」と思われるかもしれないが、このアイデアは例えば宇宙上での建造物や、重力の小さい星上での建造物の構築時に応用可能である。

現代の建築が遥か昔からの技術の蓄積によって、現代では全パーツの荷重も数値によって計算可能になり、それを論拠に設計図が作られている。
それと同じように本アイデアも紆余曲折を経て、細かい技術を蓄積していくことになるだろう。

そうすると、地球上の建造物にも逆適用されて、「拡張可能な建造物」ができるかもしれない。

ーーー
そもそもアイデアなので突拍子もないだろうし、無茶苦茶なことを言ってるかもしれないが、アイデアがあるが故に好き勝手書いただけである^^

タイムラプスの話を何度か持ち出したが、建造物の出現の仕方はいかにも人工的である。(いい悪いの話ではないのでご了承ください。)
果たしてこれが、今後数千年先も同じなのかどうか?とふと疑問に思っただけと言えば、それだけである。
なんでも自然を模倣すれば良いというわけではないことは分かっているが、発想の転換として、「自然上のもの(生物)と同じように完成形に向かって大きくなる建造物」があっても良いのでは?と思い、少なくともその風穴くらいは空けといても損はないだろう、ということである。(飽くなき人類の好奇心というものでしょうか?)

※自然上のもの(生物)=有機体(有機物)で、建造物=無機体(無機物)であって、そもそも根本的に有している目的(性質)が全く異なってるのかもしれないが。
石を積み上げるにしても、木を柱にするにしても、石は当初から無機体であるし、木は有機体だが、建物という目的のために人が勝手に木の目的を無機体に変更している、とも言える。
少なくともこう言った考察で、「建造物は無機体でなければ困る」という点(暗黙の特性)が見えてくるわけである。

「部品」は確かに無機体でなければ困るだろうが、「有機体が成長する過程」もいわば「無機体化」すれば良いだろう、というのが本アイデアの根本であろう。
(物質ではなく、概念の無機体化。)

ものすごく突拍子もないが、しかしまぁアイデアなので書いておくこととする。

2023年2月11日土曜日

数学上に「不明」を導入

数学上に「不明」を導入するアイデア。

例えば、limn→0 1 n = ∞ と定義されているかもしれないが、本当にそうなのか?本当にそれで良いのか?という話。

この式は、例えば x=1というグラフに原点(0,0)から y = nx という直線を引いた時の2つの直線の交点の y座標の値と考えることができる。(もちろん他の例でも良い)
無論直感的にも(現代数学的にも)n→0 になった時は、それはつまり2つの直線は平行になったことになるので、どこまで行っても「交わらない」ということになるだろう。

n=1から逐次見ていくと、y値はどんどん多くなり(所謂三角関数)、直感的にはn→0になった時には「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈であろうか?

つまり本当に交わっているかどうかは、無限近傍に行って観測しないと交わっているかどうかは分からないのである。

「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈に多分に曖昧さが含まれているため、それを「∞」(無限大。Infinity)という言い方で誤魔化す(失礼!)のではなくて、素直に「不明です」と言いましょう、というアイデアである。

ーーー
「∞を不明という言葉に置き換えるだけ?」と思われるかもしれないが、それにとどまる話ではない。

これは単に一つのサンプルであるが、2直線の交点の問題にトーラスの話を持ち出せば、トーラス次第で2直線はどこかで交点を持ったりするだろう。この時に「不明」から「具体的な値」として明確になる、と言える。
これまでの∞だと、そこで話は終わってしまうのであるが、分からないものは分からないものとして「不明」としておけば、後々具体的状況が判明次第考察すれば良くなる訳である。
(現代数学でも2直線とトーラス問題は、いわば数学者が頭の中で上記の話を「脳内変換」している訳であるが、そこを数学者の脳に依存するのではなく、ちゃんと「不明」として定義しませんか?という話である。
厳しい言い方をすると、∞というのはトーラス上では「嘘」だったということになる!(ここでこれまでは∞の解釈を変えて頑張ってきてたはず。))

分からないものは無理に答えを求めて進めるのではなく、分からないものは分からないものとちゃんと自覚した上で話を進めませんか?ということである。(捨置記道に通ずるものがある^^)

既述 近傍を変える にも書いたが、「ある分野」だけで考えた場合はそれで良いのだが、他分野と「交流」する時に削ぎ落としてしまった「情報」に実は意味があるかもしれないという点を、「不明」の導入によって明確にできますよね?ということである。

これまでは他分野交流時は、これまた数学者や物理学者の頭の中で∞とか0とかの脳内変換が行われてきた訳であるが、「不明」を導入すれば人の感覚に頼らず数学的正確さを持って把握できる、ということである。

ーーー
「近傍を変える」にも書いたが、実は1とか2とかでさえも、つまり身の回りは「不明」だらけなのである。(正に「色即是空」!)
つまり厳密には全ての数字とか数式1つ1つには「不明」関数を通過しているとも言える。そして、全ての数字とか数式1つ1つは「不明」関数を通し直して再構築しなければならない、という壮大な話でもある。
0近傍では、例えば 不明(1) = 1, 不明(2) = 2 とかでいい訳である。
無限近傍だと 不明(1) = 0, 不明(2) = 0 とかになってくる。
なおここまで考えると、無限近傍でわざわざ不明(1) = 0, 不明(2) = 0にしなくても不明(1), 不明(2)のまま話を進めれば良いだろうと思うことだろう。
また、0近傍で不明(1) = 1というのも、たまたま統計上は99.99999.....%正しいだけかもしれない。
なので、完璧を求めるなら不明(1)のまま話を進めたほうが良いだろう。

「近傍を変える」の通りではあるが、言うなれば、我々は知らず知らずのうちに「0近傍上での」という環境条件を勝手に適用して日々奮闘していた訳である。
また、全ての数字は不明関数を通っているにも関わらず、尺度(環境)もお構いなしに「ああでもない、こうでもない」と頑張っていたとも言える。

ーーー
面白いもので、数学とは絶対的な観点で揺るぎないものとして成り立ってきたと思いがちであるが、現代数学を見るとやはり「通信」とか「観測」とかあえて「相対的にして」自由度を獲得しようとしているのである。
そうなってくると「一体観測者は誰なのか?」「どちらの観点からの話なのか?」という話になってくる訳であり、不明(1) = 1は、たまたま統計上は99.99999.....%正しいという話も成立してくるのである。

逆に言うと、通信とか観測とかといった「自由度」を獲得する代わりに、自然発生的に、双子の副産物的に「不明」と言う概念も生ずる、とも言える。

なおそこまで分かると、当初想定していた「絶対」も、「絶対とそれを取り扱うもの(我)」との相対関係であって、その因果関係は断ち切りようがないことが分かるだろう。

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分からないものは分からないものとして認識(定義)し、その上に世界を構築する。
これが「不明」のアイデアである。
ちなみに「不明」の数学記号はやはり「?」とかになってくるだろうか?

と言うことで、思いがけず0の発見以来の数学上の大発見をしてしまった^^

ーーー
実は「分からないものは分からないものと認識する」という態度は、物事に対する一番真摯な向き合い方であって、これまでは形而上学上で発展しきた訳であるが、数千年(それとも数万年?どこから測るか次第)を経て、ついに数学もその領域に踏み込む時期が来たともいえよう。(そう考えると数学もまだまだ黎明期である。)

ーーー
大きい数字。桁の大きい数字。数の単位。K M B T Qa Qi ...」で考察した通り、1から順に1,2,3,...と名前をつけていく、つまりものすごく単純な1:1プロット問題であっても突き詰めると「不明」の概念がどうしても出てきてしまうことがわかった。
むしろ「命名」と言うことで、ものすごく主観的な話であるからむしろわかりやすい例とも言える。

「数」とはそれ自体が自身で「ある」ものなのであって、それを「私」がどう捉えるかは完全に別問題なのである。
繰り返しになってしまうが、数学とは究極的に客観的なものであるように思われ、またそうなるように発展してきたわけであるが、今回の考察の通り、ある程度の領域にまで達すると嫌でも「数を扱うもの」との関係性を考えなければ取り扱いようがなくなってしまうと言うことに気づくのである!
(ヒントとして「数を扱うもの」は通常は、またこれまでは、所謂「私」であったと思うが、実はこれもいくらでも視線はどこにでも持っていくことができるのである。厳しい言い方をすると、これまでは通常は「私」なのであるが都合が悪くなると「彼」であったり、最終的にはそれこそ(恐れ多いながら)「神」とか恐れ多くも臆面もなく持ち出して来た、とも言えようか。そのようなことを領分もわからずに勝手にやっては数に対して失礼であろう。)

再度無限の例で言うと、「無限」があるのかないのかを議論してもどうしようもないと言うこと。
重要なのは無限は「あるのでもないし、ないのでもない」とちゃんと知ることであり、また無限との関係性はあくまで「縁起として捉える」とでも言えるだろうか。
いきなりなんで「縁起」が出てくるんだ!?と思われるかもしれないが、これこそが頭を切り替えるポイントとも言えようか。

つまりこれまでの数学は主体と数の関係は相互主従関係ともいうか、人も数を完璧に掌握してると思って、僅かにでもズレることはないと疑わずに数式を練り上げてきたし、数は数で人がやることに従順に従ってきたと言える。
しかし実はこの人と数とのガチガチの揺るぎない関係も実は「勝手に想定」してた関係と「知る」ことである。
別の言い方・もう少しシンプルに言い表すためにこれを、「これまでの固定的関係を縁起的関係にする」と言い表すのである。

いかに壮大な構想か感じていただけただろうか?
この発想の転換はまるで、酸素を呼吸してなんら疑問も抱かずに生きていた「ここ」から、いきなり宇宙空間に放り出されるようなものすごい恐怖を感じるかもしれないが、実はこの階層に上がることで主体と全体が実は同じでもあるし、一部が全体でも、また全体が一部であることがわかってくるのである。
※そこまでいくと分かると思うが、そもそも「主体」を想定してること自体が意味をなしてないことに気づくと思う。そのようなものは最初からないのである。(一時的に/反証を立てるための仮想として/理解する上での足がかりとして、仮定するのは構わないが。それが形而上学で言うところの「我」であろう。数学的に言うと「我」を立てている以上は究極的完成はないとも言えようか。)

この概念はこの通りオープンなのでいくらでも検討・検証していただいて構わないのであるが、「多分こうなるだろうな」くらいの気持ちなのではあるが、一応第一人者として言葉だけでも述べてくださいとか言われるので言っておくのであるが、
・これまでの確固たる定義下(と信じて疑わなかった)の数学は「確数」
・確数の鎖から解き放たれた数学は「縁数」
と言っておこうと思うのである。

ーーー
突き詰めるとこう言うことかと思い、一応記録を残しておきました^^

ーーー
また、もう少し論を進めてみて
も考察してみました。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...