2023年2月23日木曜日

中心から作る建造物

土台からではなく、中心から作る建造物のアイデア。

普通は建物は土台から上へ上へ作っていき、タイムラプスで見たりするといかにも現代の技術の結晶という感じがして壮観である。
これは、最初に完全な設計(完成図)があって、かつ地球の重力の関係上、どうしても下から上へ作らざるを得ない、またはその方が効率が良いということであろう。
(まさかクレーンで頑張って上から作る人は誰もおるまい。但し「設計図通り作れば良い」という条件だけなら、理屈上は可能であろう。)

何を言いたいかというと、土台からではなく、核となる「中心構造物」を作り、それを中心に最終的な完成図にどんどん拡張工事していく構築手順のアイデアである。
(タイムラプスで言えば、従来手法は土台から上へ伸びていくのだが、本アイデアでは、中心構造物から上下前後左右に球状に広がっていくイメージ)

具体的にこれを実現するには大まかに以下の2案が考えられる。
・拡張するごとに中心構造物を含む全体構造物をクレーンで1段階持ち上げ、その間に拡張する方式
・拡張時に中心構造物を含む全体構造物を傾けて、その間に拡張する方式(タイムラプスで見れば、ごろごろ転がすイメージ)

言うなれば、各段階ごとにその時点の重心とか荷重の分散具合が動的に変化しながら「成長」していく建築手法である。

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「無駄だらけでなんの意味があるのか?」と思われるかもしれないが、このアイデアは例えば宇宙上での建造物や、重力の小さい星上での建造物の構築時に応用可能である。

現代の建築が遥か昔からの技術の蓄積によって、現代では全パーツの荷重も数値によって計算可能になり、それを論拠に設計図が作られている。
それと同じように本アイデアも紆余曲折を経て、細かい技術を蓄積していくことになるだろう。

そうすると、地球上の建造物にも逆適用されて、「拡張可能な建造物」ができるかもしれない。

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そもそもアイデアなので突拍子もないだろうし、無茶苦茶なことを言ってるかもしれないが、アイデアがあるが故に好き勝手書いただけである^^

タイムラプスの話を何度か持ち出したが、建造物の出現の仕方はいかにも人工的である。(いい悪いの話ではないのでご了承ください。)
果たしてこれが、今後数千年先も同じなのかどうか?とふと疑問に思っただけと言えば、それだけである。
なんでも自然を模倣すれば良いというわけではないことは分かっているが、発想の転換として、「自然上のもの(生物)と同じように完成形に向かって大きくなる建造物」があっても良いのでは?と思い、少なくともその風穴くらいは空けといても損はないだろう、ということである。(飽くなき人類の好奇心というものでしょうか?)

※自然上のもの(生物)=有機体(有機物)で、建造物=無機体(無機物)であって、そもそも根本的に有している目的(性質)が全く異なってるのかもしれないが。
石を積み上げるにしても、木を柱にするにしても、石は当初から無機体であるし、木は有機体だが、建物という目的のために人が勝手に木の目的を無機体に変更している、とも言える。
少なくともこう言った考察で、「建造物は無機体でなければ困る」という点(暗黙の特性)が見えてくるわけである。

「部品」は確かに無機体でなければ困るだろうが、「有機体が成長する過程」もいわば「無機体化」すれば良いだろう、というのが本アイデアの根本であろう。
(物質ではなく、概念の無機体化。)

ものすごく突拍子もないが、しかしまぁアイデアなので書いておくこととする。

2023年2月11日土曜日

数学上に「不明」を導入

数学上に「不明」を導入するアイデア。

例えば、limn→0 1 n = ∞ と定義されているかもしれないが、本当にそうなのか?本当にそれで良いのか?という話。

この式は、例えば x=1というグラフに原点(0,0)から y = nx という直線を引いた時の2つの直線の交点の y座標の値と考えることができる。(もちろん他の例でも良い)
無論直感的にも(現代数学的にも)n→0 になった時は、それはつまり2つの直線は平行になったことになるので、どこまで行っても「交わらない」ということになるだろう。

n=1から逐次見ていくと、y値はどんどん多くなり(所謂三角関数)、直感的にはn→0になった時には「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈であろうか?

つまり本当に交わっているかどうかは、無限近傍に行って観測しないと交わっているかどうかは分からないのである。

「交わらない、または無限の遠方で交わる(と仮定する)」といった解釈に多分に曖昧さが含まれているため、それを「∞」(無限大。Infinity)という言い方で誤魔化す(失礼!)のではなくて、素直に「不明です」と言いましょう、というアイデアである。

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「∞を不明という言葉に置き換えるだけ?」と思われるかもしれないが、それにとどまる話ではない。

これは単に一つのサンプルであるが、2直線の交点の問題にトーラスの話を持ち出せば、トーラス次第で2直線はどこかで交点を持ったりするだろう。この時に「不明」から「具体的な値」として明確になる、と言える。
これまでの∞だと、そこで話は終わってしまうのであるが、分からないものは分からないものとして「不明」としておけば、後々具体的状況が判明次第考察すれば良くなる訳である。
(現代数学でも2直線とトーラス問題は、いわば数学者が頭の中で上記の話を「脳内変換」している訳であるが、そこを数学者の脳に依存するのではなく、ちゃんと「不明」として定義しませんか?という話である。
厳しい言い方をすると、∞というのはトーラス上では「嘘」だったということになる!(ここでこれまでは∞の解釈を変えて頑張ってきてたはず。))

分からないものは無理に答えを求めて進めるのではなく、分からないものは分からないものとちゃんと自覚した上で話を進めませんか?ということである。(捨置記道に通ずるものがある^^)

既述 近傍を変える にも書いたが、「ある分野」だけで考えた場合はそれで良いのだが、他分野と「交流」する時に削ぎ落としてしまった「情報」に実は意味があるかもしれないという点を、「不明」の導入によって明確にできますよね?ということである。

これまでは他分野交流時は、これまた数学者や物理学者の頭の中で∞とか0とかの脳内変換が行われてきた訳であるが、「不明」を導入すれば人の感覚に頼らず数学的正確さを持って把握できる、ということである。

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「近傍を変える」にも書いたが、実は1とか2とかでさえも、つまり身の回りは「不明」だらけなのである。(正に「色即是空」!)
つまり厳密には全ての数字とか数式1つ1つには「不明」関数を通過しているとも言える。そして、全ての数字とか数式1つ1つは「不明」関数を通し直して再構築しなければならない、という壮大な話でもある。
0近傍では、例えば 不明(1) = 1, 不明(2) = 2 とかでいい訳である。
無限近傍だと 不明(1) = 0, 不明(2) = 0 とかになってくる。
なおここまで考えると、無限近傍でわざわざ不明(1) = 0, 不明(2) = 0にしなくても不明(1), 不明(2)のまま話を進めれば良いだろうと思うことだろう。
また、0近傍で不明(1) = 1というのも、たまたま統計上は99.99999.....%正しいだけかもしれない。
なので、完璧を求めるなら不明(1)のまま話を進めたほうが良いだろう。

「近傍を変える」の通りではあるが、言うなれば、我々は知らず知らずのうちに「0近傍上での」という環境条件を勝手に適用して日々奮闘していた訳である。
また、全ての数字は不明関数を通っているにも関わらず、尺度(環境)もお構いなしに「ああでもない、こうでもない」と頑張っていたとも言える。

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面白いもので、数学とは絶対的な観点で揺るぎないものとして成り立ってきたと思いがちであるが、現代数学を見るとやはり「通信」とか「観測」とかあえて「相対的にして」自由度を獲得しようとしているのである。
そうなってくると「一体観測者は誰なのか?」「どちらの観点からの話なのか?」という話になってくる訳であり、不明(1) = 1は、たまたま統計上は99.99999.....%正しいという話も成立してくるのである。

逆に言うと、通信とか観測とかといった「自由度」を獲得する代わりに、自然発生的に、双子の副産物的に「不明」と言う概念も生ずる、とも言える。

なおそこまで分かると、当初想定していた「絶対」も、「絶対とそれを取り扱うもの(我)」との相対関係であって、その因果関係は断ち切りようがないことが分かるだろう。

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分からないものは分からないものとして認識(定義)し、その上に世界を構築する。
これが「不明」のアイデアである。
ちなみに「不明」の数学記号はやはり「?」とかになってくるだろうか?

と言うことで、思いがけず0の発見以来の数学上の大発見をしてしまった^^

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実は「分からないものは分からないものと認識する」という態度は、物事に対する一番真摯な向き合い方であって、これまでは形而上学上で発展しきた訳であるが、数千年(それとも数万年?どこから測るか次第)を経て、ついに数学もその領域に踏み込む時期が来たともいえよう。(そう考えると数学もまだまだ黎明期である。)

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大きい数字。桁の大きい数字。数の単位。K M B T Qa Qi ...」で考察した通り、1から順に1,2,3,...と名前をつけていく、つまりものすごく単純な1:1プロット問題であっても突き詰めると「不明」の概念がどうしても出てきてしまうことがわかった。
むしろ「命名」と言うことで、ものすごく主観的な話であるからむしろわかりやすい例とも言える。

「数」とはそれ自体が自身で「ある」ものなのであって、それを「私」がどう捉えるかは完全に別問題なのである。
繰り返しになってしまうが、数学とは究極的に客観的なものであるように思われ、またそうなるように発展してきたわけであるが、今回の考察の通り、ある程度の領域にまで達すると嫌でも「数を扱うもの」との関係性を考えなければ取り扱いようがなくなってしまうと言うことに気づくのである!
(ヒントとして「数を扱うもの」は通常は、またこれまでは、所謂「私」であったと思うが、実はこれもいくらでも視線はどこにでも持っていくことができるのである。厳しい言い方をすると、これまでは通常は「私」なのであるが都合が悪くなると「彼」であったり、最終的にはそれこそ(恐れ多いながら)「神」とか恐れ多くも臆面もなく持ち出して来た、とも言えようか。そのようなことを領分もわからずに勝手にやっては数に対して失礼であろう。)

再度無限の例で言うと、「無限」があるのかないのかを議論してもどうしようもないと言うこと。
重要なのは無限は「あるのでもないし、ないのでもない」とちゃんと知ることであり、また無限との関係性はあくまで「縁起として捉える」とでも言えるだろうか。
いきなりなんで「縁起」が出てくるんだ!?と思われるかもしれないが、これこそが頭を切り替えるポイントとも言えようか。

つまりこれまでの数学は主体と数の関係は相互主従関係ともいうか、人も数を完璧に掌握してると思って、僅かにでもズレることはないと疑わずに数式を練り上げてきたし、数は数で人がやることに従順に従ってきたと言える。
しかし実はこの人と数とのガチガチの揺るぎない関係も実は「勝手に想定」してた関係と「知る」ことである。
別の言い方・もう少しシンプルに言い表すためにこれを、「これまでの固定的関係を縁起的関係にする」と言い表すのである。

いかに壮大な構想か感じていただけただろうか?
この発想の転換はまるで、酸素を呼吸してなんら疑問も抱かずに生きていた「ここ」から、いきなり宇宙空間に放り出されるようなものすごい恐怖を感じるかもしれないが、実はこの階層に上がることで主体と全体が実は同じでもあるし、一部が全体でも、また全体が一部であることがわかってくるのである。
※そこまでいくと分かると思うが、そもそも「主体」を想定してること自体が意味をなしてないことに気づくと思う。そのようなものは最初からないのである。(一時的に/反証を立てるための仮想として/理解する上での足がかりとして、仮定するのは構わないが。それが形而上学で言うところの「我」であろう。数学的に言うと「我」を立てている以上は究極的完成はないとも言えようか。)

この概念はこの通りオープンなのでいくらでも検討・検証していただいて構わないのであるが、「多分こうなるだろうな」くらいの気持ちなのではあるが、一応第一人者として言葉だけでも述べてくださいとか言われるので言っておくのであるが、
・これまでの確固たる定義下(と信じて疑わなかった)の数学は「確数」
・確数の鎖から解き放たれた数学は「縁数」
と言っておこうと思うのである。

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突き詰めるとこう言うことかと思い、一応記録を残しておきました^^

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また、もう少し論を進めてみて
も考察してみました。

2022年11月8日火曜日

政治の履き違い

エネルギー問題で石炭回帰が起きてるそうな。
人は生きてる訳で、死活問題に直面したら規制だ何だとは言ってられないということだろう。

環境団体とか脱炭素団体が猛反発でもするのかと思いきや、「解決の糸口を探っていかないといけない」とか、誰でも知ってるような、ただの問題の表面をなぞったようなことしか言わないから逆に呆れてしまう。
当初の勢いはなんだったのか?他人にまで有無を言わせず押し通したあの勢いは、一体一瞬でどこへ行ったのか?
もしも理想がそこまで純粋なのであれば、これから石炭を使おうとしている現場に行って、使おうとしている人を説き伏せるなり(無論暴力は許されないが)お得意の力によってなり、何とか止めようとはしないのだろうか?(まぁ環境団体の半暴力行動は皆の知っての通りだが。)

この辺にあちらの思惑とか、壮大で崇高な理想とはやはり「そういうこと」だということが透けて見える気がする。

あちらの地域一体を1つの組織とみなした場合、自分たちで脱炭素をすると言っておきながら、なんでいきなり自分の言ったことを反故にするのか?と言ったところ。
脱炭素推進しクリーンエネルギーを使うようになれば、当然出力や安定性は低下するということを分かった上での話ではなかったのか?
つまりエネルギー生活はより細々となるし、安定性も低下して停電が日常茶飯事になることも厭わないのではなかったのか?(当然の二次作用としてクリーンエネルギーの研究開発も当然遅くなる)
その壮大で崇高で献身的な理想は一瞬でどこへ行ったのか?(三日坊主もいい所だろう)

既述「技術革新に対する反発」も参照。

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今回は、そう言った細かい話ではなくて、もう少し抽象的な話。
まぁ当の昔から言われている通りであるが、所謂民主主義と衆愚政治の履き違いなのだろうな、ということ。

一番の大きな弊害は所謂左であろう。
冒頭で書いたのはある意味瑣末な事象である。

そして解決には対話のスタンダードであろうということは既述のとおりである。
(「対話のスタンダード」についてはGoogleで検索してもヒットしないので、本ブログの右側にある「このブログを検索」で検索していただければと思う。→検索した時のリンク


冒頭で書いたのは瑣末な事象であるが、問題としてはむしろ分かりやすい。
原子力発電とか、何万年、何十何百万年単位での地球の温度変化問題とか、専門性の高い事柄も、全て民衆に議論させれば正解が得られるはずだ、という安直さが祟ったと、一言で言えばそれだけのことだろう。
(人権とか動物ひっくるめて生命の権利とかいうのであれば、権利理論・理想に則ってどうぞ核のボタンでも動物に与えてればよろしい。)

現在の政治を例にとるまでもないが、所謂野党はまともに「対話」さえできるような人が「本当にいるのか?」という状況で、そんなところに繊細な原子力発電の話でも放り込もうものなら、まともな話になるはずがない、ということは火を見るよりも明らかだろう。
(政治家まで感情で動く始末。。「リーダーが感情的になってはいけない」という最低限のたしなみさえ知らないのだろうか?)
とそう思うのだが、そう思うのは私だけなのだろうか?それともやはりもう少し将来になって、過去を振り返らないと分からないものなのだろうか?

「議論の場(土俵)のセッティング方法が下手」とかいう方法論もあるだろうが、それは本質ではなかろう。(いくらこちらが丁寧に対応しても、本能反射的な相手がすぐに嗅ぎつけて噛み付いてくる。)
あえて風刺すれば、せっかく清く舞台をお膳立てしてあげたのにも関わらず、恥も理性も持たないものがやってきて、価値も分からないのに持っていって味噌も糞も一緒くたに餓鬼や畜生まで(この並びで言うと修羅も入れておこう)呼び寄せて、利己の享楽のためだけに浪費する図であろうか。
(果たして彼らは「なぜ清いものは清いのか」ということを一瞬たりとも考えたことはあるのだろうか?(続く言葉としては「否、ない」である。そんな気配すらないので言うまでもないが。)
(こういう風刺も嗅ぎつけて「この人たちになんて事言うんですか」とか自分の事を差し置いて騒ぎ出すのだが、「いやその人たちではなくて、あなたのことなんですけどね」と言う滑稽極まりない状況が展開されるという。。)
(明治時代だと思うが、いつかどなたかが「パンドラの箱を開けることになる」と言われたが、まさにその通りということだろう。)

つまり解決法は対話のスタンダードであり、政治3.0 なのである。

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以上はこれまでのただの総括であるが、それでは世界情勢にどう当てはまっていくかを少しだけ考察しておく。以下の3シナリオが考えられる。
①西欧で広がる
②アメリカで広がる
③日本で広がる

まず①については、西欧は現代政治・思想・哲学の一日の長がある訳で、私の対話のスタンダードを取り入れて、それこそ「規制化」して広まっていくシナリオ。

②については、少し前までの「一極・世界の警察」であり、今では多極化と言われてはいるものの実質世界のNo.1である実績と誇りがあるであろうから、この「左による浪費時代」を終わらせることについても、世界のトップとして私の対話のスタンダードを真っ先に取り入れて先駆者となるシナリオ。

③については、日本は言わずと知れた「和」の国で、私の対話のスタンダードも当然そこで培われたものであるため、自然さから言えば当然日本で広まっていくもの。(正式に取り入れてくれるかは分からないが)私の対話のスタンダードを取り入れるシナリオ。(ちなみに「放っておけば日本であれば所謂左さえも「中和」してしまうかもしれない」と思うかもしれないが、おそらくそれは楽観的観測かもしれない。)

ただし③については、日本が先陣を切ってしまうため、とりあえずアメリカはそれを傍観はしないし、許してはくれないだろう。
なので可能性としては①か②と思われる。

今回はここまでとしよう。



2022年10月29日土曜日

言葉の語源

言葉の語源には、はっきりしたものとそうでないものがある。

例えば語源がはっきりしているものとして、「お母さん」の「かあ」というのは、太陽を表す「カッ」「カッカッ」という音から来ている、というものである。

他方の語源がはっきりしていないものについては、将来的に研究によって語源が「発見」されるものもあるだろうし、発見されないものもあるだろう。

語源を辿ろうとすると、どうしても意味付けをしたくなるものであるが、おそらく中には深い意味はなく、なぜかみんなが使うようになって定着したもの(デファクトスタンダード)もあるだろう。
例えば運よく、ある言葉を最初に使った人が見つかって「なぜこの言葉にしたのですか?」と聞けたとして、その人がもし「特に意味はありません」とでも回答したとしたならば、その言葉の語源は「意味はない」ということになってしまうのだろうか?(近代以降は映像・音声としても残る時代なので大いにあり得る話。)

明治時代に近代西洋化の推進によって新しい言葉が続々と作り出されたが、それらは無論語源がはっきりしている。(証拠まで辿れる。)
他方で、証拠まで辿れない言葉があり、むしろそちらの方が大半なのではないだろうか?

そもそも言葉とは、誰か一人が勝手に考えてその人だけ使っても誰にも理解されないし広まらないものである。
言葉とはいわば集団から「醸し出されて」生じるものであるといえよう。
よって前述の「最初にその言葉を使った人」に聞いても、その人が「よく分かりません」と答えるのも逆に当然であろう。
語源を辿るというのは、特定の犯人を探し出すようなものではなく、どうやってその集団からその言葉が醸し出されたか?と研究するものであろう。
(多分当然言語学的な教科書には載ってるのだろうけど)

現代でも新しい言葉が生じて、現代では映像や音声として記録も残るため語源もはっきりして残るとは思うのだが、これが数百年後、数千年後になって将来人の間でももしも使われているとしたならば、違う意味で使われているかもしれない。
そして興味のある人たちは、映像や音声を見て「当時はこういう意味で使われていた(笑)」とか言われるのだろう。

つまり、現代の我々の言葉も含めて言葉とは、知らず知らずのうちに大きな釜のようなものの中に入れられて勝手に醸成させられていくのである。(言葉に限らないのだが、敢えて言えば「知恵の釜」とでもしておこう。)

ということで、我々は知恵の釜のお陰で生きていけるのである。
(もしも知恵の釜がなくて、「オギャー」と生まれてから、両親や祖父や兄妹と意思疎通するのに、一からコミュニケーションツールとしての言葉を作らなければならなかったら大変である。おそらく家族間のコミュニケーションツールとしての言葉がようやく不便なく使えるようになった!と言ったくらいで一生が終わってしまうだろう。。)

ーーー
最後にいつもの通りあちらの話で申し訳ないが、所謂あちら側の人はこう言ったことも根本義において理解できていないのだろう。
知恵の釜のお陰で「人として」生きていられるのにも関わらず、「全てオレのもんだ!」「全てオレのおかげだ!」「全てオレが正しい!」と臆面もなく言っているのだから、現代の本物の「裸の王様」である。しかもうじゃうじゃと大勢いて増殖する始末。(まずはおとぎ話の「裸の王様」でも読めばよかろうに。)


2022年10月9日日曜日

音楽同期機構 Sound Synchronization System

2人で2台のパソコンを並べて同じゲームなどをしていると、BGMがそれぞれのパソコンから非同期で流れて耳障りである。
よって、端末間の音楽同期機構を発表する。

上記例で言えば、2台のPCそれぞれにおいて、スピーカー入力からフィードバックして自分のPCからのBGMなのか、他PCからのBGMであるかを判定し、自PCのBGMを他PCのBGMにタイミングを同期させる機構である。
よって、本機構はPCに限らない。また同期台数も2台とは限らない。
また、タイトルを分かりやすく「音楽」同期機構としたが、無論音声としては音楽に限らない。

BGMを管理しているのはゲーム本体であるため、本「音楽同期機構」対応ゲームであれば、PCを並べて同じゲームをすると、自動で他PCのBGMと同期してくれるのである。
※効果音は自端末のタイミングで発生した方が自然であるため、基本的にはBGMのみを同期する。この辺は細かい設定次第である。

本機構を用いれば、ショッピングモールや町内放送など、これまではお互いの距離(とそれによる音量の減衰)を元に、つまり「これくらい離れれば他音源の音量も人の耳には雑音となり、つまり人間の「認識特性」を頼りにして、本音源(主流音源)が聴き分けられる(だろう)」という非同期ありきの設計するしかなかったのだが、同期放送の設計も可能となるという点がブレークスルーである。

※または、これまでは、「音響のプロ」に任せて、ショッピングモールなりホールなりのレイアウト情報など音響特性をもとに、その場に適した音響環境の構築をするしかなかった、とも言える。
設計当初は良いのだが、レイアウト変更や、それこそ壁とか仕切り1枚追加しただけで、その空間の「特性」が変化してしまうという、環境依存性がどうしても高くならざるを得なかった。そうすると再設計するか「若干の音響の変化なので許容する」と判断して目を瞑るしかなかった、ということ。本機構はいわばその辺も自動調整できる仕組みと言えよう。

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併せて本アイデアの簡易版として、音声発生ホスト指定方式も挙げておく。
これは、本機構対応ゲームを2台とか並べてプレーする時に、どちらかをBGM発生端末として、他方はミュートするだけの機構。
よって、どちらをホストとするかの初期設定が必要で、一手間があるため、あまりスマートなアイデアではない。(が、アイデアはアイデアなので発表しておく。)

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特にeスポーツでは、観客用、対戦相手用、自分用とか多数の音源があるが、プレーヤーは普段通りのアクションに対するレスポンスとしての効果音は必須な訳で、つまり大抵は自分専用にヘッドホンをしてプレーするしかないのが現状であるが、本アイデアによってその光景は一変し、プレーヤーと観客の一体感はものすごく増すのである。

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現代では友達とゲーム機とかスマホやiPadを持ち寄って遊んだり、人によってはパソコンとかノートPCとか並べて遊んだり、それこそDiscordとかで通話しながら遊んだりする訳で、本機構の需要はかなりある。
特許でも取れば結構お金持ちになれるのだが、まぁ公共の利益優勢というオープンソースの精神で、勿体無いけどアイデアをこの通り公開する。

2022年9月14日水曜日

しっぽを持つ感覚

猫や犬のしっぽを見て思ったのだが、もしかすると人でもしっぽを持つ(持っていた)感覚を備えてる人がいるのかな?と思った。

尾てい骨が尻尾の名残と言われているようなので、先天的にしっぽの感覚を持っていた人がこれまでの有史以前まで含めて、誰かしらはいたのかもしれない。(無論記録には残ってないだろうが。)

また、後天的にも練習によって耳や鼻を動かすことはできるようになる人もいるので、もしかなり頑張れば、(仮想的な)自分のしっぽを動かす感覚も身につけることができるかもしれない。

「仮想的な」というのは、何かで見たのだが、腕とか足とかを失った方でも、感覚だけは残ると言うので、その逆の発想である。つまり無かった物もあると「仮想」できるのでは?と言うこと。(幻肢)
※なお、この腕や足を失われた方の話だと、失った手や足が仮想的に水とかに触れると、水に触れたり、濡れたりする感覚だけ生ずるようで、不思議である。
これは人が主体となって、外界を「迎え入れる感覚」とでも呼べるだろうか?(もしも「迎え入れる感覚」が研究領域として未開拓であれば、このアイデアが初端となってくれれば幸いである。
(もちろん幻肢・幻肢痛などの研究はあるのだろうが、それはあくまで「名残り」に主観を置いた研究。ここで言ってるのは、それを拡張して幻肢に限らず、人が外界を主体的に感覚として迎え入れるという点がブレークスルーとなっている。これは触覚に限らない点も含まれる。)

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そう考えると、「仮想感覚」「仮想感覚器官」というのは、もしかするともっと自由度の大きいものなのかもしれない。
(例えば触手でも何でも良いのだが、ちょっと自分からは離れたテリトリーでも知覚できるとか。なお注意点としてはこんなことばかりしていると、自分本来の感覚構造も崩壊してしまうかもしれないので、十分注意は必要であろうが。。また、仮に仮想触手を備えたとして、知覚するのは便利かもしれないが、気を付けないとドアに挟まったり、車に轢かれたりして日常的に痛みに見舞われる危険性が高まるかも知れない^^ 見えないものが見えてしまう人のように、その能力があるがために知りたくもないことまで知ってしまうのと同様で、その感覚を備えてしまったことの代償であろう。しかもこの仮想触手を備えた例の場合は自分からすすんで獲得している訳だから文句の言いようがない^^)

そしてそこまで行くと、別に触手とか具体的な器官も想定する必要もなくなってきて、正に「感覚を研ぎ澄ます」ことによる、「人並外れた感覚を備えた人」の話につながっていきそうである。
話が行ったり来たりになってしまって申し訳ないが、逆にいうと「人並外れた感覚を備える」ための練習として幻肢・仮想感覚器官を想定する、ということで習得方法が整備・確立可能かもしれない。

2022年9月4日日曜日

まずは敷かれたレールを知ることから

まずは敷かれたレールを知ることが肝要であろう。

つまり今や一億総中流となって全員が何となく「幸せに」暮らしているかも知れないが、行先にはライオンが口を開いて待っているとすればどうしようか?ということ。
ライオンの存在に気づいた時点では手遅れである。

一億総中流とはよく考えたもので、それくらい大きな電車であれば、もはやそれが敷かれたレールの上を走っていることさえ忘れてしまうのである。
危機感の持ちようがなく、まさに現代社会の現状であろう。

ーーー
今や大学に行くのが当たり前と言われつつも形骸化しており、ニュースでも大学の先生が生徒の学力の低さを嘆いているとか聞く訳だが、(その為に例えば理系であれば大学入学後に大学側で生徒のために高校数学から教え直してあげる、という始末。。)
大学に行く側としては「みんな行ってるから行ってるだけ」くらいの意識で行ってるのだろうから、もう立派な「レールの上を無感情で呆けて運搬させられる人」であろう。(どこかで誰かが「一丁あがり!」と言って拍手してそうである。)
(無論そんなふざけた動機で行ってるわけではない方もいるだろう。むしろそういった方はこんな指摘に怒りは覚えず、現状認識として「確かにそうだ」と冷静に分析していただければ良いこと)

そんな人たちが世の中に出ていく訳で、一億総中流とはつまり一億総インテリということであろう。
インテリなだけあって、自分が正しいと信じて疑わず、他者の批判を聞き入れず、どこの入れ知恵か知らないが、批判されると人権だ差別だと騒ぎ立てる始末である。
かような集団が、斯様に自己本位な集団が、自分達が住んでいる空間がまんまとレールの上を走っているとどうして知覚・認識することができようか、ということである。
(その癖いざライオンの口が見えると、先頭切ってギャーギャーと騒ぎ出す。騒ぐだけ騒いで「何でみんな無能なんだ!」とか言ってのけるのだろう。)

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一応過去を遡ってみると、分かりやすいのは明治維新であろうか?
つまり身分制度を廃止した訳だが、誰かが何かの時に「パンドラの箱を開けることになる」と言われた通り、一方で優秀な人材も輩出されるだろうが、他方で「訳のわからぬ」ものも出てくる訳で、そこまで含めてそう言ったものの責任や面倒を見るしかない状態にいずれなる、という意味合いだったのだろう。※かといって、時代の流れとしてこれは必然であり決して批判の意味はない。

時間的(慣性の法則的)なこととか、様々な要因があって、その辺は諸先哲の研究を参考していただくとして、かなり端折ると、戦後になっていよいよ「何の垣根もなくなった」と言えるだろう。(あるはずなんだけど実行力を失った、というか。)

そこにまんまと個人主義(という名の利己主義)とか都合の良い権利とかプライバシーとかが入り込んで(または直接的な工作が「しめしめ」と入り込んで)、また左右対立に明け暮れて(明け暮らされて、というべきか)、その下のレールは本当に誰にも気づかれずに敷かれた、と言ったところだろうか。

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最後に発破だけかけておくと、たとえにわかインテリだとしてもインテリには変わりないので、どうかその頭脳をフル活用して、この現状を少なくとも認識してもらいたい、と言ったところだろうか。
SNSのこの時代、「表の顔」しか持ち合わせない人もいるようだが、こう言ったことこそ裏で、つまり自分の土台で考えるものである。(裏アカとかもあるようだが、アカウントを作ってる時点で「表」である。)(こんなことは日本に限らず世界中の、老若男女を問わず持っている感覚であろうが。まんまと何の疑いもなくレールに乗っている人がいるかも知れないので、敢えて言っているだけである。「はっ」としていただければ幸いであるが、斯様なことは本来は自分で気づくべきことである。)
知識をひけらかす訳でなく、主流に迎合する訳でなく、地に足をつけて考えるものである。

二重スリット実験及び天体の光の干渉縞について

電子や光子で二重スリット実験が行われ、「確率の波」や「パラレルワールド」などで説明がなされている通りであり、その「事実」の細かい点は省略。 今回の話は、その現象は現実世界でも常に起きているということ。 我々が自分の目で見ている現実世界の範囲では、多数の光(光子)が光源から発せられ...