2020年3月28日土曜日

政治3.0。冷静になって考えよう。人類はそこまで馬鹿ではない。ただ分かる人と分からない人がいる。

冷静になって考えよう。
人類はそこまで馬鹿ではない。
ただ分かる人と分からない人がいるということ。

ーーー
このような非常事態にも関わらず与党の批判や
揚足取り、足の引っ張りしかしない野党を見て、
果たして国の最高意思決定機関がこれでいいのかと
多くの方々が思っているはずである。(ずっと前からだが。)

良いわけがない。

現状のまま、つまりボトムアップのままでは何も
変わるまい。左巻きが見透かして権利やらを主張して
変わらせまい。

よって、世の賢明な・聡明な方々で科学的・理論的に
あり方を見直すべきである。
政治のバージョンアップ、政治3.0の時である。
(政治1.0 : 初期の「正常な」時代
 政治2.0 : 左巻き思想が入って、かき乱された時代)

ーーー
そもそも「健全な」「理想の」議論とは、解決すべき
議題・目的があり、その実現方法としてA, B, C, D...と
複数の案があった時に、それぞれの立場で意見を主張して
お互いの主張を認め合い、認めるからこそ譲歩すべきとこは
譲歩して解決の糸口を見つけていくのである。
(ディペード。ディペードでは相手を批判しないことが
 トップくらいのルールだと思ってるが。)

現状の国の最高意思決定機関を見てみると、前回書いた
小学生の議論の例をとると、相手の意見を罵って、
自分の主張だけを感情的に述べ、最後は権利を盾にして
絶対に譲歩しない生徒のようなものである。
本来の議論の目的ももはや忘れ去られて、周りのみんなは
「あぁ困ったな」という状況。このような困ったちゃんに
小学校時代に遭遇した方もおられるだろう。

この「あぁ困ったな」という感情は正常なのであって、
人の感覚は英知の結集なので、科学的に解明すると、
科学的根拠がある、という例がいくらでもある。

つまりこの辺に解決の糸口がある。


議論においての、相手に対する反対意見は大きく
2つある。

1種類目は相手の意見を考慮した上での反対意見。
相互理解=コミュニケーションとしての反対意見である。

2種類目は自己主張としての反対意見。
自分の立場はこうですとよ。

(根本を辿ると全て2種類目になるのかもしれないが、お互いに
2種類目を主張し合っても何も解決しないので、「議論」して
角をとっていきましょうね、という最初の話に戻る。)

2種類目を固持すると意見が感情的になったり、果ては
問題を細分化して、「理論化」して(世はこれを
屁理屈というのだが。)、「ここの最後の末端の
条件が疎かにできないので、巡り巡って賛成でき
ません。そうですよね「論理的」に。」などと
言い出してしまう。

その議論をしている集団が弱くて、こういった2に
負けてしまうと、本来の目的とはかけ離れた、
「何をしたいんじゃ、これは?」という法案が
通ってしまったりする。(過去にもそんな例が
ないだろうか?というかそんな例ばっかり?)

2種類目を固持し続ける人は、そもそも「議論」というものが
1種類目になって議論することであるはずなのだが、
かけ離れれしまってて、そもそも「話にならない」
「議論にならない」ので、まずはそこを身につけて
きてから出直してきてくださいということ。
(既述「対話のスタンダード」の理念)

※科学的解明が必要な箇所:
論理の一本でも糸が通ってれば、末端から、
というか末端にこそ「肥やして」、下から
上へ築き上げようという魂胆が、嫌という程
明らかだが、
論理としては、下に嚙み砕くほど、その程度に
応じて係数をかけていくことが「本来」であって、
これまでの「自然」を見ても、その秩序を保って
こそこれまで成り立ってきたのではないか?
「本来」と「自然」を科学的に論拠立てていただきたい。

(もしも末端の異物が勝るなら、全人類ががんで
滅亡している。「私は悪人です」とは誰も言うまい。)

(「科学的に解明」というのは、すでに学問領域が
かなり侵食はされてるものの、それが仇となるのだが、
学問機関は崇高しているのであって、一応(と言っては
大変失礼なのだが)人類の英知として誰も侵すことの
できない領域として、左巻きでさえも従ってる領域で
あるため、「科学」「学問」的に証明できれば、
いくらもがいても、自らが制圧してきた(と勝手に
信じてきた)学府から、科学的に論理崩壊を
指摘されるに至るのである。)

ーーー
次に、上記「2種類目」を固持し続けられるようになるには、
簡単に言うと「阿呆」になることである。何があっても意見を
曲げない、何を言われても平然としている、如何に恥ずかしい
ことでも「目的」のために厚顔を貫くモノである。

街の真ん中で大声で自分の主張をして、「度胸をつける」
「箔をつける」などという催しがあるようだが、裏としては
2の人材育成だろう。

こういった「コマ」に前衛に立たれると議論がストップして
あちらの目的が達成されるのであった。(めでたしめでたし)

ーーー
次に「2種類目」が狙うのはどこか?無論「弱い」ところが攻めやすい。
政治1.0時代は綻びだらけであった。ただし皆が同じ目的を
共有していたため、上げ足取りや重箱の隅を突いてくる
輩はないかった。

そこから政治2.0になった最初の頃は、「攻撃」し放題であった
ことだろう。攻撃にあった集団は、それまでの伝統・良心を
持って対応するしかなかったので、何とも心細かったと思うが、
何とか現状に落ち着いている。
(そもそも2種類目は集団論からすると異物なので、受け入れ側の
集団・組織は「何とか融和できないものか」といった過程の結果と見るべきか。)

ただ、教育関係やメディアはことごとくやられた。
(こちらは「弱いから」という理由ではなく、確信的に
攻めたのであろうが。)

相手の弱点を見つけて攻撃すれば「褒めて」もらえるから
簡単なものである。それでおまんまが食べられるのだから、
「もうやめられない」境地だろう。
政治1.0などは性善説的に成り立ってきたものであるから、
攻撃できる箇所はいくらでもある状態だった。
弱点の攻撃を個人でやったら単なる嫌な人だが、徒党を組んだり、
国を挙げてとなってくると「哀しく」なってくる。
(相手の弱みを常に見張っている人の、あのやっかみ持ちの
ような、蛇のような目はいつ見てもぞっとする。
そんな人たちが徒党を組んで内部では一体どんな腹の
探り合いが繰り広げられているのだろうか?
そんな組織があちらの「理想」らしいから、どうぞ、
さぞや幸福に人生をお過ごしなのだろう。)

ーーー
何だかあちらの教科書みたいになってきたが、相手を知った上での
話なので当然の流れである。
(またあちらも教科書は公になってるので、それをそのまま
なぞっても問題はない。)

根本にあるのは利己のための破壊・暴力である。
ただそれを言っては「私は悪人です」と言ってるのと
一緒になってしまうので、その部分は深く隠している。
根本からして正体は表に出さないのが特徴。

既成事実・既得権益を破壊して、自らが利己のために
新しい既成事実・既得権益となる。根本が利己のために
将来はどうなっても良い。(いつも言っている
「せいぜい数世代」しか考えてない、ということ。)

人の「感覚」までも破壊してるので、あちらさんの
具象をみると身の毛がよだつのも尤もなこと。

そういえば自ら地球人ではないことを、本当の本気で、
つまり正気であれば恥ずかしくて子供でも言えそうも
ないことを、情けないことに国のトップが言っていた。
秘匿が本務であるはずなのに、こんなに正々堂々と
「左とは「正常な」人としての感覚は持ち合わせていない
集団ですよ。」とトップが言ってしまって大丈夫だろうか?
と逆に心配になったものである。
(しかしこのお陰で誰でもこのことを公で発言できるように
なったため、みんなから喝采を受けた。そしてその後も
その人は特にあちらの「お上」からお咎めもないようなので、
あちらの「超頭脳」もこの論理崩壊に気付けなかった?
いやそんなに「超頭脳」が愚かではないはずなのだが、
あまりにも事が大きすぎるので、お得意の開き直りか?
と、これもまた多くの人から憶測されることになった。)

ーーー
社会は議論の結果としてルールを作ってきた。
最後の最後まで折り合いがつかずに「哀しいけど」ルール化しなければ
いけなかったものもあろう。

政治3.0への持っていき方であるが、「2種類目」はやはり「議論」の
崇高なる理想をはなっから理解できてない、理解しようとも
していないので、「哀しいけど」何かしらルール化するしか
あるまい、ということ。
これは決して排斥ではないことは、これまでの既述を「理解」
できれば理解できる。

つまりあちらさんの決して譲れない「権利」も内包する。

「本当の」2の人は社会的弱者なのであって、優しくして
あげなければならない。(集団の英知で昔から優しくしてたが、
左が群がり出して、あたかも優しくしてないことに
させられてしまったが。)

日本はそうやって、相容れないものも優しく包み込んで
「よしよし」と生きる道を一緒に見つけてあげてきた。

英知であり、解決法である。

ーーー
これらは無論私ごときが言うまでもないこと。
世には遥かに賢明・聡明な方々がいる。

結論としては「対話のスタンダード」が議論する上での
基本的要件となることである。

ーーー
後記としては、上記の通り直接的には大陸のコロナに始まり
コロナのために、世界のみんなが「力」も恐れずに開けっぴろげに
民間からも声が出初めて、あちらの「陰湿な」やり方よりも
「公」が勝ったということに他ならないことに、
改めて激動を感じている、と言ったところか。
(無論まだまだ気をつけなければならない。)
(声なき声が、メディアの「頑張り」も虚しく
主導した通りにはなりようがないこと。「世」は愚かではない。
むしろその「頑張り」に「慈悲」を感じて
援助までする暖かいお年寄りまでいる始末。
よほど救済されてる。ふぅ。
これで編集後記を締めます。)

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左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...