2026年2月28日土曜日

二重スリット実験及び天体の光の干渉縞について

電子や光子で二重スリット実験が行われ、「確率の波」や「パラレルワールド」などで説明がなされている通りであり、その「事実」の細かい点は省略。

今回の話は、その現象は現実世界でも常に起きているということ。
我々が自分の目で見ている現実世界の範囲では、多数の光(光子)が光源から発せられて物に反射(乱反射)して我々の目に届いている。光の指向性からして二重スリット効果を直接見る機会は少なく、「すべて一直線」と考えて差し支えないレベルである。(そうでないと3Dエンジンの土台が崩れるし、一直線前提で実装したら現実とかけ離れたアウトプットになっているだろう。)

もっと範囲を広げて夜空にひらがる星はどうだろうか?
まず太陽を考えると内部で水素などが核融合して光が発生する。その光が太陽表面から地球に届くわけであるが、太陽を離れる瞬間の状態を精査してみよう。
二重スリットは電子や光などの「指向性」の度合いと、障壁の間隔が大切なパラメータであり、これがかけ離れていると干渉縞は起こらずに単なる2本の線が出てくるだけである。(指向性が強ければ1本の線。あるいはすべて障壁にぶつかるだけ。)
つまり太陽表面を光が離れる時にそこにある太陽表面付近の水素なりなんなりの物質によって、絶妙に干渉縞が発生しうる状態で太陽を離れる光も発生しているはずである。
その光は地球に届くとどうなるかというと、二重スリット実験の結果通り「確率の波」なり「パラレルワールド」なりを使って逆算すれば、「確率の干渉縞」の縞の濃いところ(確率が高いところ)のいずれかで最終的に観測されるはずである。
実際には地球表面の空気中の何かにぶつかる(つまりこれが「観測」に相当して、この時点で「出現場所」が決定。ぶつかった後はぶつかった時の状態でどこかへ飛んでいく。大抵はぶつかったとしてもほぼそのまま直進して地表に届くだけ。)のか、あるいは地表まで干渉されずに到達して、直接我々の目のレンズに到達するものもあるかもしれない。(つまり目のレンズにぶつかることが「観測」となり、それを持って出現箇所が確定。)

太陽はとても近いため、光の二重スリット的な干渉効果は(頑張れば観測はできるのだろうけど)日常生活上では意識しなくて済んでいるだけである。
(もしくは実際には二重スリット効果だらけで、それを「当たり前」として認識しているかのどちらか。)

※ちなみに二重スリットである必要はなくて、三重でも四重でも百重でもよくて、かつスリット通過後にさらに別のスリットを通過して、干渉効果を保ったままそれこそ百層のスリットを通過しても構わないのである。ただしそれは逆に出現確率は特定の領域に密集するだけの結果かもしれないが。


本論に入るが、それでは果たして何億光年も離れた恒星から発せられた光ではどうなるか?ということである。
まずは二重スリット実験を考察するが、干渉縞を映し出す「スクリーン」自体を後ろにするとどうなるか?遠くにすればするほど干渉縞は「淡く」なっていく。つまり干渉が起きるような確率の波の波紋が遠くに広がっていくので、遠くに行けば行くほど「広く」「薄く」なるのである。つまりその広範囲な領域上でほぼ同じ確率で出現することを意味する。微かに干渉縞の計算通りのばらつきは発生するだろうが、見た目上は単なるランダムに見えるであろう。
※思えば確率の波が干渉した場合としてない場合を比べると、干渉が発生した瞬間に観測される可能性の領域は一気に広がるから不思議である。(また同時に、それはつまり波であるがゆえに当然とも言えるのであるが。)

上記は電子くらいの「指向性」を持った場合の例である。
それでは指向性の強い光ではどうなるのだろうか?
そして干渉効果を保ったままの光が遥か何十億光年も先から発せられたらどうなるのだろうか?
素直に「事実」通りに解釈すれば、あるものは地球で観測されるだろうし、あるものは土星で観測されるだろうし、あるものはお隣のプロキシマ・ケンタウリ系上のとある惑星で観測されるだろうし、はたまた天の川銀河のお隣のアンドロメダ銀河上のどこかの恒星上の星で観測かもしれない。
上記の電子の例ではスクリーンが遠くなるほど「薄まって」しまう訳ではあるが、指向性の強い光であれば我々の生活圏内とか高々太陽と地球の距離くらいであれば、たとえ干渉が発生する状態であったとしても縞の間隔が狭すぎて「直進してるだけ」と誤認してしまうかもしれないが、何十億光年と離れることで逆にスクリーンの「ピント」が合って、ある時は地球で観測されるし、別の時は月で観測されるという事象が発生するだろうと言うことである。

これまで述べたとおり、光の指向性からして、ほとんどの恒星や銀河については、望遠鏡で観測された通りの解釈で良いのかもしれない。
しかし本論の主旨としては、もしかするとどういうわけかは不明であるが、干渉効果を保ったまま発せられる光の割合の方が多くて、望遠鏡では「たまたま」観測されている天体も存在しているのでは?という問いかけなのである。

干渉縞の逆を辿るのは一気に難しくなって、「光源はどこか?」を突き止めるのは難しい計算が必要にはなるのだが、今後より正確な天体観測を行う上ではどうしても頭に入れておかなくてはならない「事実」であろうと思う。(あるいは全宇宙上の全恒星についての天体観測レベルでは、「光の干渉効果はすべて近似的に無視して良いレベル」と結論づけられるのかもしれないが。)

さらに付け加えれば、干渉縞のもう一つ大切なポイントとしては、皆んなは縞ができたところに注目しがちではあるが、逆に光が届かなかった方の縞も同じくらい大切であるということである。
つまり地球の位置からして、本来は見えているはずの星(つまり光が直進すれば当然見えるであろう星)が「見えていない」というポイントをより正確に考察する必要があるということである。
謙虚に言うとすれば、少なくとも光子の1つや2つくらいでは発生していてもおかしくないのであって、つまりそれは我々がこれまで「取りこぼし」していた光子となり、我々は勝手にそれをダークマターとかダークエネルギーに振り分けていたのかもしれない。
問題は、それが本当に無視できるよな光子1つ2つのレベルなのか、はたまた星がまるまる1つ「地球上ではたまたま見えてない」くらいのレベルなのか、今後の精査が望まれる。
(下手するとこれでダークマター・ダークエネルギーの割合・分布がガラリと書き換わるかも。)

最初に述べた通り、干渉縞は繊細な現象であり、発生源の指向性などのパラメータとスリットの間隔などのパラメータが絶妙に調整されないと「目に見えて」効果は発生はしないものの、その微妙さがゆえに広大な宇宙では星一個レベルくらいで発生している「かもしれない」(科学的に自信を持って可能性を捨てきれますか?)と言う話である。

最後に付け加えると、以上は分かりやすいように「もしかすると星一個とかのレベルでたまたま見えてないことがあり得るのでは?」と書いたが、別にそのような極端に低い確率を考えなくても良いかもしれないが、しかし1つの星であっても、もしもスリット効果がある程度発生する光源(星)が存在した場合、我々が観測したその星の明るやなどの光に関する情報はスリット効果の割合だけ小さく観測していることとなる、という指摘である。
現在の宇宙の観測は、重力レンズくらいは考慮はしているであろうが、この量子効果もちゃんと考慮する必要があるだろうという問いかけであるし、これまでの宇宙マップはその効果を無視したものを土台に「ああでもない」「こうでもない」と議論を進めてしまっているため、量子効果をちゃんと取り入れて再構築する必要があると言うことである。
それによって我々はまた新しい宇宙マップ・宇宙観を得られるであろう。
(壮大である。)

まとめると、現状のような「目に見える」ものだけではなくて、スリットによる干渉縞などの量子効果をちゃんと考慮して観測結果に反映させなければいけないのでは?と言う提言であった。我々は正しく「目に見えないもの」にこそ目を合わせなければならないであろう。

※ちなみに量子効果が分かりやすいように二重スリットについて述べてきたが、別にスリットを通過していない量子であっても(それこそ原子を形成している電子であっても)、量子は常に「存在確率の波」(もしくはパラレルワールド解釈)として考えなければいけないため、実際上はもっと広大に、至る所で量子効果は生じているのであって、そこまでちゃんと考慮しなければいけないと言うこと。
極端に言えば我々が「見てきたもの」は本の一部でしかなく、「なぜ我々はこの点に気が付かなかったのか?」と後になって振り返ることになるかもしれない。(もしくは実際上も量子効果はマクロレベルでは本当に無視して良いレベルと結論付けされるかもしれない。)
いずれにしても「観測」と言うものは、宇宙の星の距離や温度や密度や歴史などを決める上での全ての基礎・土台となっているものであるため、もしもそこがわずかでもずれているとその上に構築した距離・温度・密度・歴史といったものは総崩れになるのであるから、もう少し丁寧に考察する必要があるよね?と言う提言であった。
量子論で自分自身が言っている通り、「観測」によって出現位置が決まるのであるから、ある星から出た光はある程度条件は同じと考えられるため、我々地球で「観測」したのであれば、残り半分の確率では同様にプロキシマ・ケンタウリで観測されていても良いはずである。(逆もまた然り。またこれは確率の波のピークがちょうど地球とプロキシマ・ケンタウリで50%ずつになったと言う極端な例。)
流石に光の発生源まで行って二重スリットを通った光かどうかを確認しにいくことは不可能であるため、我々はそこまで逆に予想して、それこそ可能性を星の数ほど掛け合わせて考えなければならないのであろう。

あと敢えて付け足す必要もないかもしれないが、以上は光についてだけ述べたが、光以外にもニュートリノなどの宇宙線についても同様のことが言える。


2026年1月28日水曜日

日本語の深淵:「〜してくれますように」

日本語の奥深さについて。

お願い事やお祈りをする時に、「〜してくれますように」「〜となってくれますように」という事があるだろう。
これは文法家であれば、単に「〜してくれますように、お願いします」とか、「お願いします」が省略されているだけだとか言うのかも知れない。

例えば流れ星にお願い事する場合であれば、「お願い」する対象は流れ星であるため、「お願いします」が省略されているという解釈でも成り立つであろう。
しかし、いざ本気のお祈りをする場合を思い返すと、決して何か明確な対象があって「お願い」をしているわけではない事がわかってくる。

例えば親とか配偶者とか子とか身内のことについて本気で何かを願う時に、「〜してくれますように」と願う時は明確な対象があるわけではないことに気づくであろう。
もしかすると人によっては神様や仏様など明確な対象が決まっている人もいるかも知れない。
また明確でない人であっても、それまでの日本文化の中で生活してきた中で、以前に神社でお祈りをした時のことや、お寺で手を合わせた時の経験を踏まえて、それらを念頭にお祈りするのかも知れない。

しかし本来的に考えればそれは順序が逆であって、発端は自己の内側からの祈りが先であり、その対象があるいは神様かも知れないし、あるいは仏様かも知れないし、あるいはご先祖様かも知れないと言うのは後に続くことである。
これは視点を変えて、例えばそういった信仰とかに厚くない人であっても、最後の最後となれば「何かに」対してお祈りをすることからも分かってくる。

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例えば一番近い身内について心配事があり、例えばどうも何か自分の知らない悪い虫がついているようで、どうも様子がおかしいのだがいくら聞いてみても問題ないと言うだけであると言っているとしよう。調べられるだけ調べて、また直接的にできることも全てやったけれどもやはり一向に、その怪しい伝手とは手が切れてないようで、ますますおかしくなっていくような状況を想定しよう。
例えば自分の子供とかでも良いと思うのだが、もしも自分がそう言った状況になった時、(無論調査や行動は継続していくのではあるが、)いつかどこかのタイミングで少なからず「どうか子に対する悪影響がなくなりますように」と祈るのではないだろうか。(これぞ親心)

それは一体何に対して祈って(お願いして)いるのだろうか?
子に対してだろうか?
正体不明の悪い伝手の本人を想定・仮定してだろうか?
またはその仮定した人の親とか御先祖様に対してだろうか?
自分自身の御先祖様だろうか?
それともやはりそれらを超えた存在(神様や仏様)だろうか?

現実世界で子は今まさに苦しんでいて、切羽詰まった状況である。もしもその悪の張本人を見つけ出してぶちのめす事ができれば良いのであろうが、張本人は姿を表すこともない。(また特定の個人ではなくてグループかも知れないし、もっと希薄に主犯もいなくて「集団ストーカー」的な全く悪意のない雇われ人かも知れない。)
そのようにやることはやり切って策は尽きたのだけれども、それでも身内を守りたい時とかに祈りが生じるのかも知れない。
そう言った状況で祈る時に、「〜してくれますように」に続く言葉は何ですか?と聞いてみると、かなり考えて「確かに何ですかね?」という答えが返ってくるだろう。
(最初に述べた通り、人によってはすでに考えるまでもなく祈る対象が決まっている人もいる。)

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そもそも上記のような状況で祈る時は、別に頭の中で言葉で「〜してくれますように」と喋っている訳ではない。いわば、あるのはイメージだけである。
※これも人それぞれかも知れない。言葉で考える人もいるだろうし、イメージで考える人もいるのだろう。最近の話で、AIによる翻訳で一番難しい言葉が日本語であるという話があったが、おそらく究極的にはこの「イメージ」を機械的に表現できなければ完成することはないだろう。(特許級の発見なのであるがこの通りオープンにします^^)

究極的な状況で発露された祈りを、もしも言語で表現するならば「〜してくれますように」と言うことが結論であろう。
日本語は感情の言語と言われる通りではあるが、日本語ではこういったものすごく繊細で高次元の概念(イメージ)までも言語として表現できてしまうのである。(逆説的に言えばAIとか言語学者から驚かれているが、それは当然すごいことなのである。)


2026年1月18日日曜日

ダークエネルギーのヒント

前から気になっていたことではあるが、力はそれを介在する粒子(の仮定)をやり取りすることで働きあっていると言われている。
言われているというべきか、そのモデルで正確に現実世界を表せる、と言った方が良いだろうか?

一方で相対性理論では重力は(基本的に)空間の歪みとして表されている。(等価レベルで)
更には量子論的な重力としてはやはり重力子のやり取りという解釈になっている。

宇宙スケールで何かを考える場合は、当然相対性理論が大きな力を発揮して、いろいろなことを明確に説明してくれてはいるのではあるが、やはり「空間の歪み」という先入観がために何か大切な点を履き違えている気がする。
例えばロケットの計算で月なり火星に行くためには最初に地球の重力を借りて加速してから飛んでいって目的地の星にも重力を借りて減速して「くぼみにいい感じに落ち着く」ように計算したりとか、逆に水星とか金星とかはては太陽とかに行く場合は逆に大変で「くぼみに落ちすぎないように」減速しなければならない、などのようにロケットレベルであれば重力=歪み(くぼみ)という「直感」で良いのであろう。
しかしそれはあくまでも巨視的なレベルの話であって、その「歪み」という直感にとらわれると、空間自体の膨張なのか重力による歪みなのかの境界線がかなり曖昧になってしまう。(下手するとそこが現代物理学では何の疑いもなく同一視されてしまっているのではないですか?というのが本論の主旨となる。)
ちなみに空間自体の膨張とか空間の歪みと言ったが、正確には時空の歪み・膨張である。


よく言われる通り、現在の膨張宇宙では我々地球から観測できる範囲は、いわゆる光の届く範囲までとなり、それより先は空間自体が広がる方が早いのでそこから発せられた光は地中には届かない=観測不可能な領域と言われる。
空間の歪みや膨張というイメージは、文字通りイメージしやすくて直感に結びつけやすいのではあるが、逆に問うと、空間の歪みとや膨張とか、最終的には「空間」とは一体何なのか?という問題に迫っていくのである。
別の言い方をすると、空間だけ特別扱いになってやいやしないか?ということである。(その並びで言えば時間もだが。端的に言えば「空間」と「重力」をくっつけて考えてしまっているが、厳格に別物として全てを捉え直す必要があるのでは?
「空間自体が膨張」というように、空間と時間だけが無条件で「あるもの」として全ての話がスタートしている。科学でも哲学でも(宗教でも)そうだが、仮定に立脚した時点で自ら限界を作っているが通りである。(そういう意味では仏教が「あるともないともわからない物に仮定して答えても全く意味がない」ということを出発点にしているため、これだけ発展してきた現代科学とか量子論に対してもものすごく耐性がある到達点に達しているわけである。これは逆説すれば自明なのであるが、出発点が「間違わないようにすること」「不明なことは下手に何かを仮定しないこと(分からないものは素直に分からないということ)」であるため、当然それによって構築されたものは間違いようがない、ということである。科学的にも、最も真摯で謙虚な姿勢であるし、とても大切な視座である。これまた逆説的に言えば、仏教の方が超合理的であるがゆえに、現代科学も当然耐えうるということであろう。むしろようやく現代科学の方が仏教のある程度の箇所まで到達したとも言えるだろう。※なお、ここで言った仏教は原始仏教である。大乗仏教になると「空」を仮定してしまうので、どうなんだろうか?という議論は他に譲る。)

「空間自体が膨張」という点については、我々はその空間内に生存しているため直接観測は不可能であるが、我々の空間を取り巻く「1つ上のレベル」で考えなければならない気がする。単純に言えば「空間の膨張」のエネルギー源は何か?という問いなのであるが、現空間内で生きている我々はいくら何を爆発させようが、飛び散っていくのは現空間内の物質なのであって、空間自体が膨張できるわけではない。(←おそらくこの辺をもっと厳密に考察・実験する必要がある。)
「空間の膨張」という現象が力によるものなのか、エネルギーなのかは現空間内の我々では知覚しようがないため、「1つ上のレベル」で考察する必要がある。
具体的には空間自体が膨張していては空間上に物差しを置いても計測しようがないため、仮想的に「絶対的物差し」と比較するしかない。(相対性理論の言う「絶対と言うものは無くて全ては相対的」と言う話とごちゃ混ぜにしないように注意!)
これまでの話の通り、我々観測者から何百億光年も離れた所だと膨張速度が高速を超えて我々は永遠に観測不可能な「空間」が存在するのである。一方で空間はいま現在我々が存在している「ここ」でも当然膨張は起きているはずなのであるが、単に観測地点と膨張地点が近すぎるために観測精度的に観測できてない。
これが本当に精度の問題なのか、それとももっと巨視的にみないと実際には膨張は発生していないのかを現時点では誰も明確に言えてないことが問題である、と言い換えることもできよう。

これは同時にダークエネルギーの大いなるヒントともなる話である。
(我々は下手をすると何か大きく錯誤をしているのではないだろうか?という問いである。)
プラスして重力とその他の力を結びつけるヒントというか、おそらくそのまま答えになることでもある。(量子重力論)

非常に簡単な問いかけであって、論文にまではならないが(要望があれば論文にするが)、これがブレークスルーであればノーベル賞ものである。



2025年12月22日月曜日

象は鼻が長いの英訳は「Elephant Nose Long」

三上章先生の「象は鼻が長い」を元にして、英語に逆輸入した場合は「Elephant Nose Long」である。
つまり「象は」が題目、これから話す話題の宣言であり、「鼻が」が話題の焦点を当てていると言うことを踏まえてのこと。しかし「Elephant Nose Long」を言語学的に云々するには若干色々なことを飛び越しすぎかもしれない。

言い方を変えて、「象は鼻が長い」と言う日本語的特徴を保持したままでも英語でも表現可能ですよ、と言うことである。
それが「Elephant Nose Long」なのであるが、むしろ大切なポイントとなるのは聞く人との関係となってくる。
つまり最初に「Elephant」と発声する時は聞き手の目を見て、声も若干大きめに注意を促すようにして言う必要がある。1秒とか間を空けて聞き手がちゃんと注意を引いたか、これから何について話をしようとしているのか理解してくれようとしているかを話者はちゃんと認識をする必要がある。
その後に「Nose Long」と続ければ、「あぁなるほど【象は鼻が長い】と言うことか!」とコミュニケーションが成立するのである。
これは「言語学ではない、ただの現実世界での超一般化した、単にその時発せられた言葉の問題である」とか言われるかもしれないが、確かに所謂文法や構造的な分解をするだけではElephantとNoseとLongはそれぞれ独立して発せられたただの三語と言うことになってしまうかもしれない。
しかし最先端の言語学では、(そういった文法的な点はもちろんベースとなってではあるが)むしろ相手がいて、その対象との「コミュニケーション」と言う階層まで含んだものとなりつつある通りである。よって実際上はただの三語というわけではなくて、英語であってもちゃんと意味の通った「言語」表現となり得るのである。(核心はこの辺だろうか?)

現在はちゃんとした表現方法はないものの、ちょっとでも感じを出すのであれば、
「Elephant, Nose Long」とか
「Elephant! Nose Long!」とかであろうか^^;

日本語的な「題目+焦点」構造及び簡潔性を保ちつつ英語で表現できていることに驚嘆するであろう。

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これまた「言語学ではなくて一般コミュニケーション論だ」とか、「単に英語を使っただけの新しい言語を作り出しただけだ」と思われるかもしれないが、言いたい点としては、より高次の層でなされるコミュニケーションの方に立脚して言語学も見た方が良いという点である。
それはつまり相手との関係性なのである。
それこそ主題が共通認識できているのであれば「Elephant」という言葉を発生する必要さえないのである。目を合わせるだけで100%完璧に意思疎通が可能なのである。
例えればサッカーをしてるとして、彼らは「相手のゴールにボールを入れる」という共通認識があり「こっちにボールをもらえれば相手の裏をかいてゴールのチャンスがあるよ」「わかった」というアイコンタクトが成立するのである。
これも立派な言語である。

さらに言えばそもそも「言語」というのは発声と聴覚が便利だったというだけであって、別に人間も例えば匂いがコントロールできるのであれば、匂いを使った言語(コミュニケーション)でも良かったわけである。それとか例えば体の「ここ」を触ったら「何々ですよ」、そっちを触ったら「これこれですよ」、組み合わせれば「これがこうしましたよ」と言った触覚を使った言語も作成可能である。

「言語」という言葉自体が、人類の発声+聴覚を使ったものであるため言語=コミュニケーションツール的な使われ方がしているのであるが、高次的に見ればコミュニケーションをするためのものはすべて言語なのである。(それとも「言語」の方を変えましょうか?個人的には「言語」の方が人間的で伝統を保ったままで良いかとは思うが。)

※ちなみに言語的には自動補完的な機能があって、「Elephant Nose Long」であれば「Elephant ('s) Nose (is) Long」のように「補完を期待しているだけだ」とも言われるかもしれない。確かにそういう見方をしてしまうと、どんどんそっちだけに頭が持って行ってしまわれるかもしれないが、今回の話題はそう言った文法的正確性についてではない。

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この、一見「英語がほとんど喋れない日本人が発したカタコト英語」っぽい表現であり、日本人がアメリカ人に説明してるようなシーンが浮かんでくるのであるが、実は下手に文法を入れ込むよりも相手の言いたいことは直感的&正確に、かつ感情とかある種のリアリティさまで伴って相手には伝わるものなのである。(それこそ嗅覚とか、声の大きさ、つまり触覚的聴覚とでもいうのか知らないけど、そう言った五感の総合を伴ったもの。)
(むしろ小さい子供にさえ正確に伝わる。)
(また、英語社会でも「文法不成立会話」までちゃんと調べていけば、意外と「和的」な題目+焦点言語が(公式ではないにしても)肌感覚レベルでは使われているということが「発見」されるのであろう。)

それら全体を捉えるのが言語学の本来である。

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これ以外にも「してしまった」とか、話者の期待・後悔などの心理まで文法に含ませることができる点など日本語は文法や文字、つまり言葉としてそれらを表現可能なのである。
最初に書いた「Elephant Nose Long」の通り、英語でそれを表現しようとすると実際の会話シーンで「本当に相手にお題目がElephantであることが伝わったか?」を確認する必要があるが、日本語ではいつ誰が読んでも「象は鼻が長い」というだけで題目は「象」であることが伝えられるのである。

これが故に俳句や短歌など五七五や五七五七七といった文字の中に、無限とも言える感情、表現を入れ込むことが可能なのであろう。
※余談ではあるが、「題目共有」という点について、これは決して相手には題目を共有してもらうことは強制ではないのであるが、簡単に言えば「優しく」共通認識してくれることを前提としているとも言える。和の本質もこの辺にあるのであるし、日本人が日本語使ってるということだけで、ものすごく自動的・自然に相手(とかより高次のもの)の心理を掴むことができるようになっているのである。余談というかこれはこのまま私の説としてここに表記しておくことにしよう。


2025年11月13日木曜日

戦後80年

既述「褒賞期間の100年」の通りではあるが、本当に潮目が変わった。

よく言われる通り国際的な取り決めや約束事(表に出ないものも含む、というかそちらがむしろメインなのであるが)の上限は大抵100年がMAXなので、日本に対しては流石に100年はやりすぎということで80年だったのかもしれない。
(そうかもしれないし、無論そのような密約はないかもしれない。)

現実的事象として大きく流れ変わり、この流れはこれまでの裏返しである通り、いい方向の慣性を持ち始めるため、これまでの後ろ向きで自虐的な風潮は薄らいでいき、前向きで肯定的な大きな方向性を持っていくこととなる。(いわゆる「健全な」方向。これまでがいかに不健康であったかがわかるであろう。)

一方でいわゆる左であるが、表に出てる方々(主に政治家など)は、「なんかこれまでと違って、なんかおかしい」とか言いながら、なんとか昔のようにやりたい放題やろうと頑張っているようだが、そういった前線に立っている(立たされている、という表現が正しいだろうが)方々は、世の中の大きな流れにさえ気づいていないのであろう。

彼らは表では人権だ、なんだと大人気もなく体裁も関係なく、また周りの迷惑も気にせずに声のあらんかぎり叫んでいる訳であるが、彼ら組織の特徴として、仲間でさえも用済みになったらいとも簡単に切り捨てる人たちである。(なんと人権的な組織であろうか。)
そこで喜劇であり悲劇ではあるが、前線に立って最後まで声を張り上げ続けて、「私が党や他の左巻き連を代弁して先頭切って救ってやってるんだ」と張り切ってる人も、おそらく気づいた時には後ろには誰もいない状況が予想される。
さらには(流石に表面だっては情報として出てこないかもしれないが)、上記リンクや既述の通り、彼らの卑怯さに加えて、一切恥を感じない性質の結論として、いざ「こりゃまずいな」と気づいた瞬間に蜘蛛の子を散らすように四方八方に逃げ出すことになるのだろう。しかもトップを先頭として。(ここでいうトップは表に出てる人ではない。)
むしろ表に立ってる人には調子良く「まだまだこれからだ」とかハッパをかけておいて、時間稼ぎをさせて、その間に自分の逃げ道を作って、準備ができたらその人を背後から切ったりするのであろう。(さすが人権的にも仁義的にも立派である。)

散々人々に、また日本全体に迷惑をかけ続けた方々のため、どうでも良いのではあるが、果たして最後の喜劇が歴史的に表面的に見ることができるかどうか位は気になる。(おそらくみんなも気になるところかと思う。)

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各種の総括がされている通りではあるが、かなり大雑把に言えば戦後政策としてWGIPが取られたが、それは(体裁上は)サンフランシスコ平和条約で終わるのだが、そこからはむしろ所謂左が甘い汁を吸うがためにここまで蔓延ったということである。
※無論、WGIPは実質的には平和条約以降もGHQの直接的・間接的な影響はある。一般的に表面上で語られるのはこの部分。ただし実態としては上記の通りであることは多くの人たちの言う通りである。

しかし実際の結果としてどうだったか?という答えがこの戦後80年の状態そのものともいえよう。
つまり表面上は大陸が主として我が国を搾取・陥れし放題してきたわけであるが、結果としては大陸の精神性の方がむしろ堕落(あの国を悪者にして我々は胡座を描いていれば良いのだ、的な)し、一方で我が国は国民皆自虐になったかと言えば、表面上はそうかもしれないが、これまでここまで辛酸を舐めさせられながらも言わば声なき声として忍び難きを忍び自主性・自立性を保ってきたのである。(本当に声も上げられず耐えてきた先人には頭が上がらない。)
つまり、全世界的な総論としては贖罪期間はとうの昔に終わっているのにも関わらず、大陸はあの通りの我儘さでこれでもかと我が国を陥れてきたわけであるが、それももうここまでですよと主要国を筆頭に全世界の共通認識としてある種の線引きがなされたともいえよう。

※ちなみに、鋭い人はこれらを考察するに、戦後処理として大陸を野放しにして、彼ら国民性の通り本質が利己なので、あえて野放しにして我が国から搾取できるだけ搾取させておいて、しかしその裏にはそういった精神的な「堕落」(全てを人のせいにすること)を以て骨を抜いたとも見える。(本当にそう言った意図があったかどうかは誰も知る術もない。表に出てくるわけがない話であるし、実際問題上そんなことが話し合われる組織も機関もないかもしれない。)
ただ、現実を見て言えることは、まさしく構図的には上記の通りとなっていると言う事実だけである。
※どこかに書いた通り、本来は大陸ももっとしっかりしてもらいたいのであるが、それはある意味現実の裏返しとも言えることであって、長い歴史の通りああいったお国柄なので、それはまんまと利用されるよな、と言ったところが総括となろうか。(何千年も言われ続けていることではあるが、隣人としては本当に情けないことである。こう言うことを周りから言われてちょっとは反省・覚醒しないのだろうか?と思うのであるが、そこまで含めてあの国民性から言って「なるわけはない」と言う答えにしかならないから本当に哀しいものである。大きく捉えて自業自得なのでしょうがないのであるが、人としてはせっかく何千年もかけているのであるから、ほんのちょっとくらいは成長してもらいたいものである。)






2025年5月31日土曜日

人心の荒廃

増税と軽減税率」に書いたとおり、悪法は人心を荒廃させる。
政治家に欠けてる視点はこれであり、当面の見直しポイントであろう。
上の例の通り政治家も財務省の操り人形と化しているため、無論官僚にも欠けてる視点である。
当面は、または問題の切り口・とっかかりとして、この点で見直しがなされていくのであろう。(流石に「民」の堪忍袋の緒が切れつつある。)
※より根本的な問題は、常々書いている通り左的な利己問題。既述参照。

政治家の中には日本をよくして行こうとする方々が、かろうじていらっしゃるのだが、官僚に至っては日本を陥れようとしてるのではないか?とさえ思えてしまうようなことしかしていない。(それ故に解体論まで出る始末。)
無論、官僚は政治的な意思を持ち込んではいけないはずなのだが、しかし前提として日本の中で日本人が官僚をやってる訳であり、つまり日本のためにお仕事をしている前提であるのだが、恐ろしいことに意思を持たない特性を生かして(操られて?)まんまと「日本をバカ国家にする」ことに加担(人によっては自ら進んで)しているのが実態であって、それらがいよいよ露見してきて隠し切れなくなってきた様相であろう。
官僚問題はご存知の通りであろうから省略。

今回は人心が荒廃すると言うことがいかに恐ろしいかと言うことについて。

まず現状についてから始めると、長期的かつ真に日本のために政治をしている人はごく僅かなのではないか?と言うこと。残りは、(無論表には出さないが)日本を陥れる・搾取することが目的の確信犯が明らかに存在する。あとは「顔なし」とでも言おうか、所謂「うぶな日本人」「平和ボケした日本人」であるが、何の主体も持たずに政治に入ってしまったような人で、支持者の言いなりになってるだけの人。(これまた厄介である。人によってはうっかり当選してしまって、直後に「支援してくれた人たちが【怖い】」と正直に吐露した人までいるそうな。。。どうぞ操ってくださいと自分から宣言してしまったようなものである。正しく【口】だけ買われてしまったのだろうな。そして恐ろしいことに引くに引けない、辞めるに辞めれないシチュエーションに持っていくのはあちら側の常套手段(得意分野。あちらの「能力」としてはこれくらいしかないが)である。))
かろうじて成り立っているものの、短期的・利己的な法で日本の利益が搾り取られているし、あからさまに外国の利益のための法を作ったりしてる有様である。

現状はその通りであるが、これは既述の戦後問題や「プラットフォーム問題」などの通りであって、あちら側のやってきたことの結果であるため、冷静に見れば「なるべくしてなった」とまずは現状認識しておくべきだろう。

現状認識しつつ、人心の荒廃について考えていく。
最初に書いた軽減税率が良い例であるが、「そんな小さな問題」と思われるかもしれないが、イートインなのかテイクアウトなのかはどう頑張ってもグレーにしかなり得ず、つまりグレーありきの「法」など作ってしまってはいけないと言う指摘であった。グレーありきと言う点で根本がおかしいことであり、法になる前に気づく(誰も気づかなかったのだろうか?)べきであるし、議論で「どう頑張ってもおかしい」となるべきであろう。(そうならずに法案が通ってしまったことが、逆説的に現状の恐ろしさ・危うさである。)

恐ろしいのは「そんな小さな問題」であっても確実に人心は荒廃するからである。誰も「荒廃した」とさえ認識していないだろうが、人々はどんどん「あれもテイクアウトでいいじゃん」「これも」となっていき、引いては「これもこう解釈すればいいじゃん」とか「この法律もこう解釈すれば問題ないじゃん」となっていくのである。なっていくというか、少なくともそういう邪心を生むきっかけや口実・原因を与えてしまうのである。

思えば人権問題などもそうであって、本来日本はマイノリティに寛容であって「社会で抱擁していく」という包容力を持った社会であったのにも関わらず、西洋的な個人主義的な観点で人権を持ち出して、また上記の「本来的・日本的包容力のある社会」を完全無視して、「日本も西洋に倣え!」と言わんばかりに西洋基準にしてしまった。
必然的な結果として直線的な、事務的・無機質な、やれ訴訟だ、ハラスメントだ、罪を認めたならば保護しろ、もっとマイノリティに権利を渡せ、となっていく訳である。
こうなってくると、いわば「弱者の方が有利」みたいなマインドが醸成されてきて、「如何に弱者になろうかな」的な邪心が否応にも湧き出してしまうであろう。
最終的には一握りの「真っ当な・馬鹿正直な」人々が、残る大半の働かない「権利を約束された【可哀想な】」人々を抱擁していく形になる。無論、社会としてそれでコミットしたのであるから、その社会に生きる人は喜んで、なんら不平・不満を漏らさずにそうするはずである。(頑張ってください。)

何事にも慣性の法則が成り立ってて、つまり一旦ことが起こると、それは最初のうちは誰も気づかなかったり、「なんかやってるな」程度で見過ごしてしまうのであるが、ある時「なんだこのムーブメントは」と気づいた時には時すでに遅しで、あれよあれよと速度は加速するのである。
現在、年々増える社会保障料をどうするか問題になってきて、やれ財源はどうするかとか議論しているようだが、構図としては目の前で発生した事件でようやく問題に気付いてあたふたしているだけで、肝心の「速度を与えているもの」に気付かず、議論してる間にも速度は増して、ただあたふたしている構図であって、ものすごく滑稽である。
しかも、その「速度を与えるもの」は自分で法として成立させているという。。。

無論、人権は大切である。基準はどうあれ、西洋基準にしたのであれば西洋基準でもなんでも、それこそ法的に正確性・練度をこれからも上げていなかければならない。(本当の意味でのマイノリティ。こういうことに人が群がるのは理解できるが、あまりにも群がり過ぎだろう。)

それはそれとして、もっと恐ろしいのは、今回の問題提起の通り人心の荒廃なのである。
人口の半分が「依存する人」になったら当然社会は成立しない。おそらく数割(10〜20%?)に達した時点で仕組みは崩壊するのではないだろうか?
人とは恐ろしいもので成り立たなくなった瞬間に、過去の「素晴らしい」法は無視して「あれほど崇高に朗々と述べていた人権はどこに行ったのですか?」と言ってる暇もなく、暴動や反乱が起きてしまうのである。
(これまた恐ろしいことに、あちら側はそこまで見据えて、そうなることが最終目的とさえ勘繰ってしまう。多くの人のご指摘の通りであるが。)

世界を見るにそうなのではあるが、日本人にそれをさせてはなるまい。

物事の加速度を考慮から忘れてはならず、つまり逆算すると、もはや瀬戸際と言えるかもしれない。これ以上人心が荒廃するとどうなるか、気付いた時点では手遅れとなる。


最初に書いた軽減税率のブログで「悪法は人心を荒廃させるということは、お役人の教科書の第一章第一項に書いてあると思うが」的なことを書いたが、普通に考えればそう推測されるのであるが、果たして本当にそう言った「倫理」をお役人には教えているのか?と、最近は疑問に思うようになってしまった。それこそ遥か昔はそんな「倫理」は誰が教えてなくても自ら「分かる」ものであったが、残念ながら現代では「倫理」は誰かが教えたり、自ら学ばなくては「分からない」ものになってしまった。
もしもお役人に倫理がなかったらと想像すると恐ろしい世の中になるのだが、現状を見るに本当にお役人の誰も誰一人として倫理は持ってないのではないかとさえ思えてしまう。(なんという悲しい状況だろうか)
当のお役人、ひいては政治家は周りからそう思われてしまっていることを、ちゃんと自覚して、何とも恥ずかしさを覚えないのだろうか?(日本をバカ国家にしようとしてる所謂左などの確信犯は「全く恥ずかしくありません!」と正面切って言うのだろうが。)

現状では法案を作るのは政治家である以上、当面の間は政治家や官僚に「恥の心」を持ってもらうよう促していくしかない。(全く親でもないのに、我々がそうしなければならないと言うことが、本当に情けない。)
我々一般人としても、無論、現状の表層的な現象には惑わされず、正しく「正見」を持って現実を認識して、もしも政治家が悪法を通そうとしているのでは阻止して、我々自身が自己を律していかなければなるまい。

戦後80年、ふらふらと顔なしとして彷徨ってきて、おかげさまで大変な時代になったものである。これも一つの試練として乗り越えていかなければなるまい。


(補足)
個人レベルで話を突き進めると、現状の通り人権第一主義になってしまうのだが、社会とは個人だけで成り立ってはいない。聡明な方であればこの一言だけで言わんとしていることは分かるであろうが、残念ながら分からない人がいらっしゃるのが現状である、とも言えよう。
つまり問題の本質は「個人」レベルという層と、(本来的に集団・社会を形成するときに、いわば「集合知」として醸成される)「社会」レベルの層の問題である。
所謂左は利己に執着して、何としても「個人」レベルで突き進もうとしている訳であり、むしろ外部から理路整然とこの階層問題について論破されたとしても、無理矢理にでも自己主張を変更しないように頑張っている訳である。(こういった方とどうやって「対話」すれば良いというのか。既述の通り「クラスの中の駄々こね困ったちゃん」の例の通り。この点は「対話のスタンダード」で解決可能。)
これまた既述の「左の総括」の通り、構図としてはたったこれだけの、「個人と集団の階層問題」であったのだが、いったい我々はその点に何十年、下手したら百何十年(一番広くとらえるならば約二百年)という時間を浪費してしまったのだろうか。換言すれば、どれだけこの事実に対して浪費を感じ取れるか?といった問題であろう。

逆に言えばこれだけ長引いたのは、言葉が足りなかった、追いついてなかった、正確に問題の本質を記述できていなかったからであろう。しかし、上記の通り、または既述「草莽崛起」の通り、我々人間の本能として「このままいくと加速度を勘案しても、流石にこのまま許されるものではない」と多くの人が気づき始めた通り、反作用的に対抗しうる「言葉」が加速度的に生まれ、事実を正確に記述し、問題を解決していくであろう。
しかしここまで辿り着くには本当に長かったし、あまりにも払う代償は大きすぎた。

常に書いている通り、こんな瑣末な問題に足止めを喰らっている場合ではなく、層理論で言えば一階層上でのより大きな問題・本質的な問題がある訳であって、我々はその点について議論しているべきであるのにも関わらず、非常に残念なことに二百年遅れで、いまだに左的な利己主義と戦わざるを得ないのが現状なのである。(祖先が悲しむだろうということを誰も真剣には考えないのだろうか?)

現在の世の中を牛耳っている所謂左的な利己主義が本義的に持ってない観点であるが、過去の先人たちの苦労と、将来の子孫たちのためにも、今ここを真剣に生きていかなければなるまい。(所謂左は「なんで過去の人や将来の人のことを考える必要があるのか!」と臆面もなく怒鳴るのであろうが。。。既述の「よくてせいぜい数世代先しか考えてない」の通り。そうでないと言うのであれば、どうぞ声高にその素晴らしい理論を発信していただきたいものである。)

「手遅れ」という点について補足すると、それは想像を絶する悲惨な状況である。上記の加速度の通り、いざ気付いて速度の発生源を取り除いたとしても(無論昨日から今日で突然0にできるようなものではないが)、慣性の法則に従って放置してきた期間の勢いの分だけ嫌でも悪化する期間が長く長く続くのである。
そうなった時に、所謂左は「肝っ玉」も何もないのであるから、既述「蜘蛛の子散らすように喜劇的にトップから逃げ去る」の通りではあるが、悪の発生源の当事者は臆面もなく逃げ去るのである。潔く悪を認めて全責任を背負って過去の代償を返還して逃げ去るのであればよいのであるが、悲惨なのは何の責任も負わずにむしろ被害者ぶってどこかへ隠れて逃げてしまうのである。(全く喜劇でも何でもない。)そうなった時に、よくも我々はあちら側を平気でのさばらせてきたものだと後悔するだろう。(後悔しても手遅れだが。)
所謂左も、そうなった時に「こんな悲惨なことになるのであれば、今からでも改心して利己をやめて、将来のためだけに奉仕します」とか言っても、いくらその人一人で後悔しても何にもならないのである。(世の中を分かってないという点では、所謂左や、それに加担してしまった人の九割はそうなるのであろう。もはや眼も当てられない惨状。既述「単に悪をなすより、迷える人を悪に加担させる方がよほど悪い」の通りであるが、悪の先導者はいざ改心したとしても返還しきれない、個人で背負い込める量の数億倍の悪を背負い込むことになるのである。そう成った時に「一人では返還しようがありません!」と泣きつかれた時に我々はどうすればよいというのか。(無論そこまで潔い悪であればとうの昔に改心してるであろうが、確信的先導者は全てを無責任に去るのである。信奉した人はご愁傷様でした、とかになるが、我々はそれこそ「人」としてそういった人をほったらかしにする訳にはいかず、そういった人の今後も当然面倒は見るのであるが。おんぶに抱っこは子供のうちにするものであると教えたいが、残念ながら現代では成人しきった完成体にもこういった基本中の基本を述べなければならない。))

厳しい言い方をすれば、成ってからようやく気づくのであればただの動物である。
しかも過去にそういった事例を歴史として何度も経験してきたのにである。
我々はこのまま、先祖の努力も投げ捨てて、全人類を引っ提げて動物に逆戻りするかどうかを試されているとも言える。その事をいよいよ自覚されたい。


ーーー
いきなり本論に入ってしまったが、そもそもなぜ人心の荒廃を述べたかについて言ってなかった。
抽象的に言えば層の問題。視座の問題とでも言えようか。
現実問題では、現状では如何に正論を言葉を述べようと右だ左だという、ごった煮の窯の中に否応もなく放り込まれてしまうのであるが、それであれば窯に入れられる前の「冷静に」議論できる最低限ラインが人心の荒廃であろう、というだけである。
所謂左が果たして人心の荒廃についてどう思っているのか、という問題とも言える。
これまで散々、あちらの用意した(仕込まれた)土俵の上で踊らされてきた訳であるから、それならばその土俵で正々堂々とこの点を持って挑みましょうというだけのことである。(ありがたいことに、成るべきものも成り立たない状況においても、こういった対処をすればよいという事を教えてくれたのであるから有難い事である。)
(因みに、演繹的にはこの二百年の浪費は解決されて、しばらくは安穏の時代が続くのであるが、そこから(私が常々言っていた)本当の葛藤とか困難が始まる。(私を含めて、これをリアルタイムで読んでる人は少なくとも「隠れた」後のことですのでご安心ください^^;)その時に、この時の対処法が役立つのであるから、所謂左も役に立った訳であるから、なおさら有難いことである。そこまで考えると「悪」というのも、ある意味で自分の利己のために「まっしぐらに」突き進むのであって可愛いものである。そうやって突き進んでくれるお陰で、それに対処する解法も生まれてくるのである。もしも現代の所謂左が数百年後にいきなり飛ばされたりしたら「一体どんだけ小さなことに執着していたのか!」と思われるだろうが、将来に出てくる問題は、正に次元が異なるとでもいうか、否、「層」が異なる問題なのである。ちょっと正確な比喩ではないものの、数学で例えれば現代では二次方程式とか三次方程式まで解の方程式が見つかってきたような状況で、これからようやく「五次以上だと解の方程式が存在しない」ということに気づく段階だとも言える。これまではどれだけ単純で平和だったか推し量ることができるであろう。)

(無論、所謂左は本義的にこのように「俯瞰」ができる存在ではないので論外なのではあるが、(但し、少なくとも「先導者」には逃げずに俯瞰して頂きたいものではあるが、既述の通り「スーパー忘却機能を使って【認識】さえ回避」しているのであるからしょうがない。自己意思で「絶対に認識しない!」と言っているのであるから可哀想である。)、それを自己意思で選択したことは結構なのであるが、それはあまりにも人類の智慧に対する冒涜であろう。私がいうことではなく、左の本人たちが自ら総括することではあるが、恐らくこの辺が総括になるのであろうとは推測される。)


2025年5月27日火曜日

自己適正値

問題は総合的に乗り越えるものである。

例は何でも良いが、例えば食料問題。
片や自給率の問題がある一方で、片やフードロス問題であったり「何でもかんでも健康食品」問題があったりする。

前者の自給率問題は戦後問題とか左問題とか、所謂プラットフォーマー問題である。(土台がそうなら善悪・左右など関係なく、それに付き従うしかない仕組み。記述の通り。ただしこれはまだ世間には認知されていない。記述の通りではあるが、それどころか政府でさえ盲人のように突き動かされてしまっている現状。主張のはっきりした国であれば制度とかで対応しているのだが、我が国は何も分からずレールに乗っかってる惨状。ただし我が国が他の国と異なる点は、最終的にはそれら「毒」を体内に取り入れて消化吸収、つまり解決策を見つけ出してしまうことであろう。利用してくれてありがとうございました、の境地である。ただし、これだけ辛酸を舐め続けるのはかなりしんどいことではあるが。)

減反政策を推し進めてきてこられた方に現在の米不足問題を見てどう思うのか聞いてみたいものではあるが(もしかして大喜びでもしているのだろうか?)、現実としてそう言った問題が表面化してきたり、「流石にこれじゃいかん」ということで自給率問題解決の案が出始めているが、プラットフォーム問題であるということは、そう言った「反論」も考慮済みな訳であり、また下手に長年に渡る「実績」がある訳で、一朝一夕で解決することは難しい。(どっかの財務役人の理屈と似ている^^「例は何でも良い」と書いた通り、源流は一緒である。)


世代的な話を挟むが、これまでの所謂左の狂人めいた輩に対峙して、こちらも同じ熱量で反論とか戦ってきて、それはそれで今後も当然必要ではあるのだけれども、そう言ったことが繰り広げられている環境から生まれて、それを見てきた(いやでも見ざるを得なかった)子供達は、ネガティブに言えばクールとかしらけとか言われてるかも知れないが、正しく言えば左の狂人たちを見て「あぁそうなんだ。そういう人もいるんだね。おかしな時代があったものだ」くらいで、ある種「正しく受け止めて」いるのである。

これは大いなるヒント、というかもはやそのまま解決方法であって、そのように問題を正しく受け止めて、現状を受け入れて解決していかなければならない。

食料問題で言えば、自給率問題とフードロス問題という格好の矛盾問題がある訳であるから、これは格好のアウフヘーベン対象であって、ありがたく解決させて頂く対象であると言うことである。

ちなみに健康食品問題も昔から「これがいい」「あれがいい」とバンバン宣伝されているが、もしも素直な人が「これもいいのか」「あれもいいのか」と言って全ての宣伝品を取り入れていたら、それを食べるだけで主食にありつけないのではないかと思った^^
その上肥満とかになって、果たして本当に「健康」になれるのだろうかといらない心配までしてしまう。
別観点ではそう言った健康食品だらけになった現在で、人々は本当に健康になったのだろうか?という点。むしろ医療費が増え続けてる現状を見るに疑問符をつけざるを得ない。
まぁこの辺は健康食品とか医療漬け問題とかすでに多くの方々が暴き出しつつあるので省略。言えることは、これも一種のプラットフォーマー問題である。


ーーーーー
本題としては、自分の適正な値を把握して、それにあわせてインプット(食事など)を調整すると言うことである。

自分の適正な値というのは、例えば体重であれば現在ではパラメーターとしては身長くらいしか使っておらず、BMI的に痩せてるとか太ってるとか言っているだけである。
それはただの「瞬時値」であって成人と老人を一概に言えるものでもないだろう。
さらに言えば、体重だけに敢えて焦点を絞れば、生物的な観点から人間の目的とかの方向に考えた場合は以下のような順序づけのようなものができるだろう。
・生命を維持できる体重の範囲。最低限生きてける限界体重。
・ほぼ外出しないが健康を維持して生活していける体重の適性範囲。
・通学、通勤時に歩く程度の生活を維持できる体重の適性範囲。
・中程度の肉体を使う人の体重の適性範囲。
・毎日肉体労働をする人の体重の適性範囲。
・アスリートの体重の適正範囲。

現代ではそう言った個別要因までは踏み込めずに表面的な体重という指標だけで一喜一憂しているようなものである。(極端な例では成人にとっては適正体重であるが、老人にとってはその体重では肥満で、実際問題上、体に負担をかけていたとしても、それを公式に「適正」として「押し付けて」しまっている可能性があるということ。)

また生物的に見れば、体重はあくまでも一つの「指標」でしかないということ。同じ体重であっても人によって骨格や骨の現在の太さや密度や、基礎代謝などで大きく異なる。
よってそう言った個人差や、「その時点の状況」なども、技術によってより正確に捉えることができるだろうという点。

次に、勿論上記の理論がベースとなってしまっているため、そちら側に大きく左右される値であるが、必要カロリーというものもより正確に個々人に沿ったものにアップグレードできるだろうという点。
現状だと「成人男性(女性)1日何カロリー」とか言って、一律でしか指標がないのであるが、もしも全く運動しない日もずっと言われた通りのカロリー分だけ食べていたら、当然人によっては余剰カロリーのため太っていくことになるだろう。
必要カロリーも、まさか指標を提示して餓死とか栄養失調にさせるわけにはいかないだろうから、どうしても「余剰」を上乗せしてしまうため、情報を受け取る側もそういった「バッファ」は当然考慮するべきなのである。そこに加えて、昨今の殺伐とした所謂左的な利己的な人が増えて、そう言った人の「言ったではないか」攻撃があるので、情報を出す方もどうしても「安全圏」を意識して値を上乗せしてしまうのである。
(小さな「屈し」であるが、思えばそう言った小さな左への「屈し」の積み重ねでここまで悲惨になったとも言える。これこそがあちらの思惑通りなのであろうが、残念ながらそうはならないのであるが。)
左の話は差し置いておくとしても、必要カロリーは一律的でバッファが乗ったものと考えておいた方が良いと思われる。
昔から「腹八分目」と言われているが、現代的な必要カロリー計算との差分はどれくらいなのか?また現代で腹八分目で生活できている人はどれくらいなのか?外食が当たり前の人(仕事上そういうスタイルにならざるを得ない人)が食べる量は、いったい腹何分目くらいなのか?そして腹何分目かと肥満や健康さの相関はどうなっているのか?その辺ももう少し丁寧にわかってくるだろう。

そして今度はその必要カロリーという指標をベースにして実際の食事や食堂のメニューのカロリーも決まってくるのである。
料理屋さんも商売であるためお客さんに満足してもらえるくらいの量を提供するわけで、そこでもどうしても「平均」を想定して、その平均の人が満足する量ということで、つまり平均+αになってくる訳である。
食べる側も本来は自分の体の声を聞いて「ちょっと多いな」と本能的に感じるべきではあるが、いつも食べてるうちにその量に慣れて、いつの間にかその量が「普通」になってしまうのである。

これで果たして健康と言えるのだろうか?
これで果たして食品ロスを減らすことができるのだろうか?
視点は若干極端だったかもしれないが、それでも全体を見渡して、そこには悪人は見えないのである。みんながみんな良かれと思って、それこそ善意でそれぞれのポジションを全うしているだけである。
善だの悪だの明確に言うつもりはさらさらないのであるが、もしも現状の不健康で食品ロスだらけの状況を仮に「悪」と呼ぶのであれば、悲しいことに全員が善意の心で悪を邁進させている訳であって、これほどの無明もあるまい。
(常々左についてのブログで書いてる通り、あちらに巻き込まれて「善意」だと信じ切って悪を邁進してしまっている悲しい方たちがいらっしゃる。どうもその構造ととてもよく似ている。)


みんなが何も悪くないと思ってる状況で、その状況を変えようとする訳であるから一筋縄ではいかない。
ただしそれは正面突破しようとした時の話である。
みんながみんな、何も悪くないと思っているのであれば、そう言った状況は「スマートに」解決すれば良いだけである。

上記の全体像で分かった通り問題は「一律さ」である。
税金とかは個人ごとにきっちり・きっかり一円単位で計算しているにも関わらず、我々は最大・最後の資本とも言える自分の体をあまりにも粗末に扱いすぎなのではないか?という、ただそれだけのこと。

(脱線)この話を聞いて、決して利己的にになれと言っているわけではない。それではただの左側である。むしろ食事に向き合って自己を律しろ、ということである。飽食に慣れてしまった人には、「本当の自分にあった量」の食事になった時に根を上げずに我慢できるかどうかである。(「食べるのを我慢」とか子供に言うようなことで言うこと自体が恥ずかしいのであるが、これまた悲しい厳然たる事実として、それが我慢できない大人たちが恐ろしいほどわんさかと溢れ出るほどの現状になってしまったのである。)(脱線終わり)

具体的には技術を使って解決しましょうと言うこと。
最近の体重計でも体脂肪率とか骨量とかまで計測できるものが出てきて、そのデータもアプリにあげたりできるものもある。その辺まで情報があるため「自分の本当の適正値」、この場合は食事量や栄養量はある程度簡単に把握できるようになるのではないか?

そこまで来れば、あとは飲食店との「リアルタイム連携」である。つまり「その日・その時」の最適量で食事も提供すれば良いのである。
「機械で作ってるならいざ知らず、料理人が作ってる場合はどうするのか?」と言うかもしれないが、料理人を侮ってはいけず、最適な量とかは目利きである程度分かってて、むしろそれが故に・そこまで含めて料理人なのだろうが、よっぽど料理人の方が分かってたりするのである。(ただし、これまでは上記の通り商売としてのバッファを上乗せするのが基本になっていただろうから、本システムで1グラム単位でお客さんが求める量を求めてくれるのであれば、それに合わせるような適応は必要になるだろうが。)
当然最初は手探りで始まっていくのだろうが、お客さんの必要グラムが1グラム単位で表示されて、料理を提供する側も感覚や計量したりして対応するだろうが、いずれすぐにノウハウは蓄積されるだろう。


いざそこまで実現した時に、「いったいこれまでの食品ロスはなんだったのか!?」(どんだけロスしてたんだ!?)と言うことがわかって驚愕するであろう。


ーーーーー
この丁寧な仕事は正に日本人らしく、日本人にしか思いつかないし、日本人にしかできないし、日本人が実現すべきことである。
我々はこれまで、アイデアまで含めて外から与えられたものに従うことしかなく、またそれに慣れ切ってしまっているが、日本発祥の日本で開発されたシステムとして実現していけば良い。
これは我が国のためであることはもちろん、このシステムが世界に普及すれば世界のためでもある。


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最初に「例は何でも良い」と書いたが、先見の明がある方であればすでにお気づきかと思うが、このアイデアはいくらでも他の面にも応用可能である。
更にはこれこそが所謂左が席巻した世の中を「スマートに」改める道でもあるのである。


2025年3月14日金曜日

草莽崛起

どこかにも書いた通り、本ブログは公開情報という事実を元に、不明な点については変に解釈することなく書いているため逆説的に良くも悪くも必然的に書いた通りになっているためか、知る人ぞ知る指標のような感じになっているのである。

お陰様で見てくれる人がいるのかも知れないが、不思議なことに海外からのアクセスだらけである。
さすが情報国家はインテリジェンスがしっかりしてるなと思う一方で、我が国はこんな深く考えるサイトは誰も見ないということに、なんとも情けないと思う。

しかし、それまで含めてわが国というのはそういうものなのだろうな、とも思う。

海外勢のいわゆるインテリジェンスについては、さすがしっかりしていると思う一方、無論国家の重要ごとに携わるという自負と誇りで素晴らしいお仕事をされているのは思うのだが、やはりどうしても組織人としての活動という側面を良くも悪くもお持ちであろう。悪く言えば「仕事としてやっている」ということである。

他方我が国は、スパイは活動し放題であるし、国の組織としては本当にまともにインテリジェンスはおろか情報収集さえしてるのか?といった感じである。大昔はそんなことはなかったのであるが、近現代はご存知の通りまともなことは何一つできない有様になってしまった。(脱線すると、また逆に言うと所謂左がやりたい放題やっているのだが、それはあちらとしても政治とか国の基幹こそがやはり主戦場と思っている事の証左であろう。そこで暴れることが日本をバカ国家にするには効果的と思っているのであろう。よってある意味ではそれら暴れん坊の暴れる場として政治の場を与えているのであるから、実はかなり巧妙な上手いやり方だとも思うのである。この調子であちら側には「我々は頑張って意味のあることをしてるんだ!」と思わせ続けられる場を提供し続けておいていただければと思う。)

そこで今日のキーワードである草莽崛起になるのである。
良くも悪くも我が国は草莽崛起なのであろうなとも思うのである。
また、「本当の強さ」とでも言うのか(これはいくらでも抽象的にでも、あるいは具体的にも述べることは可能ではあるが)、国がいざ立ち上がらんと言う時にはやはり日頃の市井の民がいかに目覚めて行動するかになるのだと思う。
海外でも志をたてて立派に国をリードされる方が大勢いることは無論知っているが、あえて比較的に述べれば、我が国にはそ行った人が(表には出ないけど)わんさかといる訳である。そこには組織の一部として動いているという意識もなければ、私心のために動いているという意識さえなくて、純粋に将来のため周りの人のため国のため世界のために考え、動いているのである。「全てを自分ごととして受け止める」に通ずるものがあるが、やはり純粋さと言うのはかなり強力な原動力で、全てが自分ごとであり、自分のためイコール世のため人のための境地なのである。
その点が組織人として仕事としてやってることと大きな違いであろう。

我が国は何かあるとどこからともなく人材が出てきて難局を潜り抜けてきた訳であるが、それは正しくまるで葦のようにニョキニョキと元気よくあっちとかこっちとかから伸び出てくるようなものであって、それが故に草莽崛起なのである。
(一点だけ注意しておくと、だからと言って安心して良いと言う話ではなく、国の機関としては最低限「組織」としてのインテリジェンスは先進国並みにしておかなければならないと思うが。。)

よってこれまた逆説的になるが、我が国ではわざわざ私の書いたこと読まずとも「そんなの当たり前」のこととして修養されており、伝統・文化として継承されてきて、継承されていくのである。(よって本ブログはほとんど日本人に読まれてない、と言う自虐ネタ^^)

逆にせっかくだから述べておくと、海外の方になるが、みなさん知っての通り「なんとなく」日本が注目されているのはご存知だろうが、まだそれはものすごくうっすらとした感覚であって、まさしく「なんとなく」の状況が現状なのであるが、一つの側面・切り口としては上記で述べたような国民性のようなものが挙げられるようである。
これは散々、また日本に限らず言われ続けられてきた事だとは思うのであるが、憧れてるだけでは憧れだけで終わってしまい、大切なのは小さくても種を蒔くことなのであろう。それこそそこには私心は不要(というか修養に長けた人であればわかると思うが、私心が入り込む余地など生じようもない事であるが)であり、純粋に自分の国の将来(国とか大袈裟に言わずとも自分の周りの人、コミュニティ)を本気で案ずるのであれば、自分の一生では無理でも自分の蒔いた種で子孫が安らかになるのであればそれで良いと言う境地であろう。(名声なんぞと言うのは後で勝手に他人がつけるものである。少なくとも目的ではない。)
「うちは現状を見るにつけ絶対無理」と嘆くだけでは今世でも来世でもいつまで経っても変わりようがない。逆に言うと変化とはいつか蒔いた種から始まるのであり、種を蒔いていなければ芽は出ようがないのである。


2024年11月6日水曜日

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。
(いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。)

とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。

まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果になったことは、確かに歴史的にもマイルストーンになるだろう。
(恐ろしいことに暴動などを煽動してちゃぶ台返しを画策してると言ったような怪文書も出回っているらしいが。しかし怪文書が世間に出回ってはあちらとしては世も末であろう。まぁこれもまた末期症状ということが「振り返って」検証されるのであろう。あちらの特性として歴史を学習しないので、それが正しく断末魔であるということに当事者は全く気付かないようである。)

ーーーーー
敢えて物語的に話すが、岡目八目とでもいうのか、無論初心を持った方は大変有意義であってそう言った方々に支えられてきた訳ではあるが、下手をすると生兵法で挑むと、あちらもアホではないのでまんまと付け入れられて本末転倒的にあちらに与する勢力になってしまう人が多数出現した次第である、ということ。

別に政治やSNSを言う訳ではないが、実際に接近しすぎて(当初は高い志があったのに)、そう言った方々の心情を代弁する訳ではないが、知らず知らずに当初の反対側の急先鋒になって(奉られて)いたりする訳である。(それほど哀しい事はない。)
(一応、冷静な分析としてはSNSという「誰でも世界に参加できる」ツールの特性をよく理解して、先回りして、不適な笑みを表には表さないようにして虎視眈々と待ち受けていた図、といった所。さすが左的な蛇のような爬虫類的な性質である。)

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子は親の背中を見て育つという通り、例えば国のトップや、大きくみて「世界の流れ」が現状のような無法地帯になっていると子が捉えるのであれば、子がそれを真似するのは当然であろう。
あちらが一体どれほど軽い考えで始めたのかは知らないが(利己なので)、いよいよ世界中で利己的事件が顕著になってきた。(日々発生する世界中の利己的事件を観て、左の当事者は一体何を思うのか?無論「しめしめ」と発狂的に思っているのだろう。(よくそんなことで快楽を得られるものだ。自らの意思で現世において動物にならなくても良いのに。))

上記の親子の例で言うと、親は確信犯なので残念ながら手遅れかもしれない。(し、そうでなく、ちゃんと更生可能かもしれない。人はどこからでも変えられる。記述の通り。)
記述の通り、いざダメとなったと自覚すると蜘蛛の子を散らすようにトップから逃げ出すという喜劇が見られると述べた通りであるが、それら完全に染め上げられた方達は自分は決して悪くないと信じ続けて行くのであろう。

問題は、それらに「染め上げられてしまった人々」である。
上記に示した通り、図式としてはものすごく単純であって、果たして今回の厳正たる結果を自分の目で見て、現世の命でそれを受け止めて、果たしてなんと思うか、と言う問題。
(下手をするとその序列に今回の選挙であちらの代表に選ばれた人も並ぶのでは?とさえ思えてしまう。)

これまた記述の通りであるが、悪は悪で悪いと言うのは誰でも分かるのであるが、それを他人を巻き込んで煽動してしまうと言うことは、迷える子羊を「善意を以って」奈落の底にまんまと突き落とす、またはそれに加担させる、と言うことで、ものすごく罪は大きいと思うのである。

私が述べるまでもなく、ここのところの問題は「近視眼的に利己に向かわせた罪」と言ったところであろう。
そうであろうし、それがぐだぐだとまんまとあちらの思惑通りに誰も鶴の一声も発せずに、発しても口を塞がれて過ごしてきた、過ごさせられてきた歴史の一ページであったと言うことであろう。

ーーーーー
冒頭に「選挙結果を暴動でちゃぶ台返しする画策をしてる」と書いたが、ここまで述べてきたを正に理解すれば、その角ももげるであろう。
(しかし、鬼とか鬼の角というのは無論抽象であると思うと同時に、本当に具体であったのだろうと思う。そのような具体的な鬼に人生上遭遇しないことに越した事はないのであるが、これだけ科学が発展した文明においても、それらおぞましい鬼は嫌でも目の当たりにしてしまうのだなと恐ろしくも思い、また哀しく思うものである。)
(何回の繰り返しになるか分からないが、現世の問題はそれらが巧妙化、潜伏化して「まんまと」「善意の人を」悪に走らせる巧妙化が進んでいるということ。分かる人にとっては、ある意味それだけ、と述べた通り。)
(言うまでもなく、それらを「無明」と言うのであるが、無明の恐ろしさは、本人が自分が無明の中にいると自覚するまでは、自分は「明」サイドで立派に自立してると思っている事である。更に恐ろしいのはそう言った人を悪に走らせる、左側の「完成された」「マニュアル化された」手口であろう。記述の通りであるが、一旦その道に入るともはや自分の頭だけではその道からは抜け出せないような仕組みになっている。恐ろしや。。)

ーーーーー
おそらく、所謂左が世に出現した時点でもその大いなる矛盾(矛盾という言葉さえ勿体無くて、理屈という言葉も勿体無くて、屁理屈くらいなのであるが)にはちゃんと地に足がついた方々は分かって、当時からも反論が多数出たであろうが(残念ながら「インテリ」はまんまと流されてしまったようであるが。。地に足がついていたかどうかの問題であろう。無論過ぎ去ったことはとやかく言うつもりはない。)、なぜこれほど百年近くも浪費してしまったのであろうか?と言う総論に、そろそろ入らなければなるまい、と言う事であろう。

確かにこれ以上は先人に怒られる。


2024年9月5日木曜日

視覚と聴覚の相関

錯覚というか感覚間の相関について。
(一応、新しい錯覚の分野)
(相関というか、「相互関係」とでもいうのか、所謂総合意識の分野。(もし未開拓なのであればここに新たに開拓した。))

例えば真っ暗なところで聴く音と、明るい所で聴く音の関係。
(一方は大きく聞こえ、一方は小さく聞こえる、など)
(大きさ(強弱)の他にも高低差や周波数的な要素などなど)

タイトルは取り敢えず視覚と聴覚としたが、所謂五感の全組み合わせを含む。
一応、「意識」まで含めて六感の全組み合わせまで含んでおく。
(仮想まで含むと六感に留まらず、任意の数まで仮定可能であるので、そこまでこのアイデアの範疇に入れておく。)

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なお、上記のようなボトムアップを今後百年か千年かは分からないのだけれど、積み上げていくと、「ボトムアップ的意識」の成り立ちも分かってくるだろう。
(そして「意識」はどこまで行っても仮定であるということに、巡り巡って気づくのだろうか。)





2024年8月25日日曜日

優位性

あちらの構造理解の通り、行き着くところは利己であり、それが故に目の前の「敵」をやっつけるしか考えることができなくて、いざトップになったとしても「ではどうしたいのか」「何をやりたいのか」が空っぽなのであることは既述の通り。

レッテル貼りとかは正しくあちらが生み出した滑稽な産物であるが、これこそ「嘘も百回繰り返せば真実になる」的な自己満足の所業であろう。

あちらの本質は利己である、と見抜いた(というかちょっと10分くらいでもちゃんと考えれば誰でも分かることであろうが)通りであるが、それを発展させると単純に「優位に立ちたい」ことの表れでもあるということも同時に分かるのである。

例えば今、世界地図を広げてみんなで世界の事を話し合っているのに、誰か一人が突然大声で「私はここにいるんだよ!」と怒鳴って自己主張を始めるようなものである。(自分でも嫌になるがどうしてこういったわかりやすい構図(滑稽漫画といった方が良いか。。)を瞬時に発想できてしまうのであろうか。。)

一応このどうしようもない構図上で話を続けると、誰か穏当な人が「今は世界について話してるんですよ」といくら優しく言おうが、この怒鳴った人はますますエスカレートして「差別だ!」とか発狂レベルで叫び出すのであろう。(はぁ。。)
更に付け加えると、そうやってザワザワやってると、「いや、怒鳴ってる方が正しい」とか言って群衆の一部がそちら側に加担してしまう始末である。

ある意味、世界地図を見てる時点でちゃんと解決しなかったせいでもあるともいえるし、実際こうなってしまうと収拾はつかなくなってしまう、とも言える。

これの問題は何かというと、ディベート的に言えば、まともなコミュニケーションが取れない人がいたという事であり、いざ収拾がつかなくなった際に、それより上層で見える人がいなかったという事であろう。(簡単である。)

※ちなみに「層理論」は上記二点の問題も解決できるものである。

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とても哀しい事であるが、所謂あちらに傾倒してしまった方は、もう元に戻す事は難しい。利己と自己優位性に突っ走っている荒れ牛のようなものである。本当は大きな土台の上でギャアギャア騒いでるだけの胡麻粒のようなものなのにも関わらず、あたかも世界は自分の思うがままと勘違いして政策(とか、ここぞとばかりに格好をつけて自分の正当性と担保するような言葉を使うのだが)を編み出してブルーシートを作って自己満足しているのである。

常に述べている通り、それではそういった「出来上がってしまった」方とどう対峙するか?という話である。
とても残念ながら成体として出来上がって、もう元に戻ることができない人は、その人がなんの疑いもなく安心して暮らせる場所を与えるしかないだろう。(既述「ディベートの困ったちゃん」参照)
その人が自分の利己と自己優位性を保ったまま暮らせるのであるから、その人としては満足だろう。
裏を返すとみんなが真剣な話し合いをしてるのに、自分の利己と自己優位性を頑なに主張してきたのであるから仕方ない。(あちらの人は、大の大人であるのに、それでも「疎外だ!」「人権だ!」とか叫びさしそうな勢いではあるが。。)

なお、最後に付け加えるならば、無論人はいつどの時点でもやり直すことができる、稀な生物であるので、その人が本当に改心したのであれば、そこからはぜひまともに生きていって頂きたい。
※またしても既述の通りであるが、こういう事を言うと「しめしめ」と「賢く」潜伏・脱走してしまう輩がいるので片時も気は抜けないのであるが。(本当に「やれやれ」である。)





伝説商法

世の中には「炎上商法」なる手口が存在するらしいが、その進化版として「伝説商法」(または「伝説化商法」)を発表する。

主にガジェット分野であるが、古の製品の中には「何故この仕様にした?」的なものがあって、運が良ければメーカーや設計者本人にその意図も聞くことは可能なのであるが、意図が分かる・分からないに関わらず、情報伝達理論の通り「伝説化」するものがあるのである。

そう言った伝説が出来上がると、当然該当品は需要 >>> 供給 となるので保有者であり、かつそれを手放しても良い人であれば、その人はその分の対価を受け取ることができるのである。

伝説化商法とは、それを意図的に発動させる商法である。(無論余程の愚か者でない限りはその意図を表には絶対に漏れないようにするだろうが。)

伝説化の基本は、後から考えて「なんでそんな設計・仕様にしたのか?」をある程度時間経過した将来の人が思う・楽しむものであるので、それを敢えてするという事は、現代では株主がいたりとかシビアなビジネス現場で日々真剣に物作りを行なっている(行わざるを得ない)現場で、「敢えて」バグとしか言えないようなことをするようなものである。
よってそれを通過させる体制なのか?それを通過させる経営陣はどうなってるのか?という話でもあるし、いざそれを世に出してもそのような「おかしな」製品は自然淘汰で単純に売れないだろう。

むしろそれを意図的に行なっているのであれば、同業他社なり、というか一般消費者から(それこをネットから)「ふざけるな!」という非難が凄すぎて、その時点でその企業の存亡の危機であろう。(これを「周知の上の第一波」とでも言うのだろうか?)

あわよく炎上しなかったり、したとしても何とか乗り切ったとしても、そんなことに頼っている企業であっては普通ではあるまい。

※ビジネスの歴史の通りであるが、実際上全て真っ直ぐに完璧に貫いていた側と、ちょっとだけ・たまに「何やってんだ?」といったことをやってきた側とでは後者の方が人気があったりするわけである。人気とはつまり売り上げとかの数字でも出てくる話。

しかし、それはあくまで短期的な話であろう。そうであろうし、そう見通さなければならないと思う。(そう見通せない人が「炎上商法」に走っているともいえる^^)

言うなればこれはある種劇薬であって、そんなものでまんまと当たりを経験してしまえば「やはりこれでいいんだ!」とかいって、引き返せない側の道を進んでしまうのであろう。

本論は炎上商法をごく単純に発展させただけのくだらない話であるが、こういったものが出てくるのもまた世の中だと思うので、つまり簡単にこういったことは見通せるので最初に書いておくのも悪くないと思って書いておいただけである。


2024年7月27日土曜日

蜃気楼補正機構

暑い道路などでモヤがかかるが、これを補正する機構。
より広義で言えば、例えば地上の望遠鏡だと大気の影響があるので、宇宙に望遠鏡を持っていってそれを回避しているが、地上の望遠鏡についても補正する機構。
また、宇宙望遠鏡であっても、より遠い領域になると途中のガス雲やチリの影響もあるので、それらの補正にも応用できる。

モヤ補正機構の基本コンセプトは、不可逆変換のものを学習によって補正するというもの。
今時の言葉で言えば所謂AIである。(最近は何でもAIになってしまったが、実際には「実用可能段階になったニューラルネットワーク技術」と言ったところか。)

モヤの場合は、モヤがない状態という答え(教師信号)をゴールにして、モヤがかかったものからモヤを取り除く学習を行う。
画像中の一点の画素(光源)について言えば、道路の熱によって光の経路が屈折させられているのだが、光源としては映った画像と比べて本来は上なのか?下なのか?右なのか?左なのか?というのを「答え」を元に補正を行うということ。
光がどれくらい屈折するかは条件次第なので、どこでどう屈折するかと言った物理的解釈上にAI学習を載せるイメージ。
(単純な画像補正でもある程度は効果があるかも知れないが、どちらかというともう少し科学的なフィルター。)

このフィルターが一旦出来てしまえば、他の同一条件のモヤも同様に補正可能になる。

また、被写体との距離、モヤがかかる距離の範囲、モヤがかかってる道路などの温度、と言った条件を増やしていけばより応用が効くフィルターになる。

モヤというのはものすごく簡単に言ってしまえば、光が途中で「思いがけず」邪魔されている現象なので、そのまま宇宙望遠鏡のガス雲などにも応用可能。

宇宙の観測は地球という定点からの観測しか行えないため(そのうち頑張って地球から遥か遠くに宇宙望遠鏡を設置するかも知れないが、宇宙の広さから言えばほぼ定点観測。ただしそれであってもものすごい価値はあるのであるが)、いかに収集したデータを有効利用するかがカギである。


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注意点としてはあくまでも補正であって、不可逆変換されたものを「復元」するものではない。
ただし、AIという高性能の、言うなれば「推測」によって例えば99%とか元の状態に補正することが可能になる機構である。

科学者であればその辺の「証拠になるもの」と「証拠としては扱えないもの」の違いの認識は大丈夫だと思うが、または「統計的に正しい」ものとして採用されるかも知れないが、あくまでも補正が根っこであることは忘れてはならないだろう。(細かく言えばこれまで「正しい」とされてきたものであっても、実はそう言ったものによっているものあるだろう。)


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これまで「ただのノイズ」と思われてきた映像や宇宙のデータなども、このフィルターを通し直すことで新たな事実が続々と発見される。
このフィルターに限らないのだが、補正技術が向上するたびに過去に撮られた動画や宇宙のデータとかさまざまな科学的なデータは宝の山になるだろう。
(おそらくコンセプト的には、統計データでさえも補正可能と考えられる。)

タイトルは蜃気楼補正機構としたが、どちらかというとこの壮大なコンセプトを発表するのが主旨である。




2024年7月4日木曜日

金という名の信頼

あちらの構造理解の通り、行き着くところは利己であるので、それを以て組織を作ろうとしても必然的にトップ一人が権力を握るしかないのである。(所謂独裁。どうにか集団で指導しようとか試みたとしても、中心にある考え方が利己なので成立するわけがない。)

そしてその組織内部で「信頼」が醸成するわけもなく、言うなれば「金」という名の「信頼」でしかありえないことはみなさん言われる通りである。

ことここに至って、その頼るべき「金」つまり「経済」も実は壮大な虚構(メッキにメッキの上塗り。全く当てにならない発表される経済指標などなど)だったのであるから、聡明な(感が鋭い)人は人に気付かれないようにとっとと、かつ静かに国外に逃げ出してるのは当然であろう。

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既述の通り、そんな体制にしかなり得なかったことまで含めて彼らの結果なのだろうが、一方でやはり何も知らずに国民にさせられてしまった人も気の毒と思ってしまう。

あちらの国民は、それこそ超強力な情報ピラミッドで情報統制されて、実態は知る術もないのかもしれないが、いくら穴を塞ごうが「完璧」というのはあり得ないわけで、実際上は民間人も分かってはいるのだろう。
(どこかでも書いたが、この「完璧はあり得ない」については歴史で何度も性懲りも無く繰り返されているのであるが、今回もあちらはまんまと同じ轍を踏んでいるだけ、といえばそれだけなのであるが、一体いつになったらこの点を学習するのだろうか?)

問題はあちらの上部に「気付いたことを気付かれる」だけでも危険であって、具体的には瞬時にとっ捕まってしまうわけで、いかに「気付いたことを気付かれ」ずにスマートに国外逃亡するか、ということであろう。結局は相当の金持ちしかそんなことはできないのが現状なのかもしれない。

民間人でさえそういった状態なので、もしも党に関係した人だとしたら逆に「気付いてしまう」事への対処はさらに困難を極めるだろう。(逆説的に言えば「気付かないほうが幸せ」となるのであるが、それは冗談)

おそらく知ってしまった、気付いてしまった、分かったとしても表には口が裂けても言えないだろう。無論口に出すことも、気付いた素振りも外には一切出さないのだろうが、あちらのやり方は巧妙で(そんなことにだけ長けてる)、一体どうやって調べたんだ?と思うまもなく嫌疑をかけられてしまうのである。(恐ろしや。あちらのこれまでを見るに、実は別に証拠がなくても関係なく、まるで思いつきやその日の気分で嫌疑をかけるのだろうが)
あちら側からすれば「裏切り者」をいかに炙り出すかという技術だけ向上させているわけで、熱意でイノベーションが生まれると言われるが、これだけが唯一の彼らの生み出したイノベーションなのであろう。(あとはコピーだけ)
※なぜあちらではGAFAやトヨタのような企業ができないのか?みたいな議論があったりするが、民主国家側からすれば当然であって、イノベーションを舐めるなよ、的な話だけなのであるが、結局は金でしか繋がってないためと言えよう。結局を何をするにしても、また何をしたとしても全ては上が持っていってしまうのであるから、何をしようが馬鹿らしくなって当然であり、そうであるならば上手いこと言って(装って)せめて金でももらっておこう、くらいになるしかないのである。もう何十年やってるか分からないが、もしもイノベーションを起こせないことを嘆くのであれば、とっとと構造的原因に気がついて、それこそ「革命」でも起こせば良いのだろうに、これまた見た通り怠慢な性質でもあるのでダラダラと今の仕組みのままここまできてしまっただけとも言える。
思えばいくら「世の中をよくしよう」とか「世界を変えよう」と純粋な気持ちで思ったとてしても、またもしもそれを実現できたとしても、その功績は全て党のものとなるのでバカらしくて嫌になるだろう。私が常に思う「声なき声」とはこういうことであって、こう言ったレベルで「一生を棒に振るしか選択肢がない」ということが問題であって、どこかの団体が人権とか文字だけ書いたり音声として読んだりだけしているが、もしも人権というならばなぜこの一点が見れないのだろうか?(メクラだろうか?それこそ臆面もなく「はいそうです」とか言い出すのだろう。)

民間側も、いかに嫌疑をかけられないか、いかに言い逃れするかということだけ発展してきたといえよう。(「上に政策あれば下に対策あり」と言われる通り。壮大な浪費や勿体無いという感覚は覚えないだろうか?)

果たしてこれが健全か?ということが一つの俯瞰した時の命題であって、これもそろそろ総論は出始めてくるだろう。

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目下の問題はあちら内部で今を生き抜いてる人たちであって、上記の通り実態を知ったとしても誰にも言えない状況はしばらく続くのであるが、大切なことは「知ってる人」が内部的に増えていくことであろう。
あちらの内部で生きる以上は、どんなに100%信頼してる人であっても迂闊に相談しては危険であるので、実態として知ってしまったことは誰にも言わないほうが良いのではあるが、「表面上は見えないが、実は知ってる人が大勢いるはずだ」と知ることが大切である。



2024年6月22日土曜日

医療費と補助金など

医療費の増加が話題になってるが、聞けば聞くほど当然というか「成る可くして成っただけ」とも言える。
言われている通りなので詳細は割愛するが、これだけ大量に薬を処方されたり、高血圧だ血糖値だ減塩だとか騒がれたり(つまり高齢者の医療費)と言った感じである。
ちょっとしたことでも大量の薬が処方され、それこそ「取り敢えず薬を処方しておきますね」くらいの感覚で処方されてるのではないだろうか?(別分野で「取り敢えず」が通用するのか?例えば大工さんが「取り敢えず柱を100本建てときますね」と言ってるようなものではないのか?)

また、補助金の闇も最近ではようやく認知されるようになってきたかと思う。たとえば出産育児一時金であるが、これは本来出産時にかかる費用を補助するもので、一般的に出産時にかかる費用を元にプラスアルファの余裕を持たせた金額であったはずである。つまり「実際にかかった費用を補助します。ただし上限は42万円です」という主旨であったはず。よって病院側も確実に費用を受け取れるし、出産する側も費用を助けてもらえてお互いWin-Winになれるものであった。
しかし実際に見聞きした感じだと、この上限値の42万円を見据えて料金設定されているのではないか?と勘繰ってしまうのである。(と言うかすでに具体的に取材して「そうです」と言う話がどこかにあったか)
見聞きした中には、ある病院で出産された方のケースだと、破水が予定より早く出てしまい最終的に出産までに2〜3日病院に入院されたのだが、その時にかかった費用は出産時の「標準」が42万円になっているので、追加の数日分の入院費など合わせてトータル70数万円、よって持ち出しとして30万円くらい掛かったそうである。

おそらく病院とか医療提供側に悪気はないのだろう。それを受ける側も当初は「いつもお世話になってるし人助けを生業とされて立派なので」的なことで特に気にはしてなかったであろう。
つまりこれが補助金の危うさなのである。
「ただより高いものはない」「ただより怖いものはない」とはこのことと言えよう。
「ここまで必ず貰える」と言うことが分かっていれば人は誰でも、またどうしても貰える分はもらっておこうと思ってしまうものなのである。(これを愚かと言うのであれば、愚かな人民に愚かなことをさせないように仕組みを考えなければならない、と言う話になるべきなのであるが、これまた愚かなことにむしろ人民に愚かなことをするように敢えて誘導しているとも見て取れるのである。全体を見れる、また正しい方に誘導しなければならないものが、人をして悪に走らせるのは、実際に悪を働く人よりも遥かに罪が重いのはこのためである。まさに悪の仕業なのであるが、果たして現代の現在で、つまり今息をしている人の中で一体どれだけの人がこの重罪に気づいている人がいるのだろうか?確定された歴史を読んで、確定された評価を見て「なんて愚かなのだ」と思うことはできるのであるが、いざ今現在息をして生きていると下手すると自分もまんまとその「愚か」側を演じてしまうということである。良心の呵責があれば良いのであるが、下手をすると「自分は悪くない」と自己催眠させて突き進んでしまうのである。詳細は既述ブログの通り。)

まとめ直すと、全体を俯瞰すれば「ここまでは補助しますよ」と言うルールを作り、お医者さんや病院は「それでは」とか言ってそこまでもらうようになって、後追いで「税金が高い!」と怒っているようなものである。
補助金は上限とか適用ルールが明確で分かりやすいので例にとったが、およそ同じような仕組みで、但し仕組みはものすごく複雑なのでぱっと見はわからないが、医療や薬とか関連業界にはこう言うことがあることは、すでに「闇」を暴いてこられた通りであろう。

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財政破綻論でこの年々増え続ける医療費も原因に挙げられていたりするので、財務目線でも見てみることにしよう。
骨太方針の通りではあるが、ものすごく簡単に言うと緊縮財政方針で「入った分しか使わせない」「三年間で1,000億円しか使っちゃダメ!」の一点張りなのである。
つまり市場に「血液」として循環する金が限られている・絞り込まれているので、経済は萎む一方(デフレ)なのは至極当然のことであろう。

この限られたパイしかない状況でみんながどこに金を回せるか駆け回ってる状況で、むしろ年々受ける額を増大させてるのが医療なのである。
そう言う意味では医療はこの30年とかのスパンで見た時の勝者と言えるかもしれない。(財務側と30年前からよほど結託して計画を立てていたのだろうか?)
しかし遂に闇が暴かれつつあったり、健康寿命増進(高齢者医療費の抑制)とか言われるようになったり、未病対策とか言われ始め、おそらく近々お金の面にも皆んなの目が向けられることになってくるだろう。
(お金の話になるとガメツイとか君子や聖人のやることではないとか言い出す人がいるが、金に疎いと一方的にしてやられるだけである。(現実世界で財務の役人さんに100%コントロールされている通り)。現代では財務はもはや一般教養と言える。)

※性善説的に財務のお役人さん側の立場を考えると、もしかして緊縮をやめてお金を回して経済復興しても良いが、結局医療に吸い取られて、本来回したいところへ回せないので、「医療をさっさと見直せ!」と暗に我々に諭してくれているのだろうか?もしそうであれば尊い。

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最後に、これは制度の問題であって現場の問題ではないので、念の為注意喚起しておく。
しかもその制度は間接的に我々自身が決めたものである。なので決して現場の医療従事者とか医療関係者に対して云々カンヌン言ってはならない。
人とは哀しいもので目の前に人参をぶら下げられれば追っかけてしまう生き物なのである。
普通の企業でも年度末になると予算消化とかいって色々買ったりするだろう。それはつまり税金=(収入ー経費)×税率 なので、企業の税金対策なのである。
経営者や経理、個人事業主の方であれば誰もが「うんうん」とものすごくよくわかる話だとご理解いただけるであろう。

つまり税金の仕組みが上記方程式である以上、「経費を使って税金を下げる」と言う点には善だの悪だのはなくて、「あの会社はあんなに経費を使って税金を減らして悪だ!」とはならないのである。
これも見聞であるが、個人事業主の方である年はものすごく忙しくて本当に最小限のものしか買わずに、つまり経費がものすごく少なかったら所得税とか所得を元に算出される住民税とか国民健康保険が爆上がりしたらしい。
その人の仕事は常連さんからの請負の仕事で1ヶ月いくらみたいな感じなので収入としては前年とほぼ一緒だったらしいが、経費が小さくなったので当然税金は上がったわけである。
忙しくてそれに見合って収入も増えればまだしも税金だけ上がっては「一生懸命働いた年の方が税金が高くなってなんだかなぁ」と嘆いておられた。現代の税金の仕組みがそうなっているから「仕方がない」と言う好例である。
※現代では 税金=(収入ー経費)×税率 の考え方になっているが、上記のような矛盾も含んだものと言える。おそらく百年後とか千年後の人がこれを見たら「なんてトンマな式なんだ」と笑われるかもしれない^^;
※ちなみに次次世代経済として「ネオ・アナログ経済」も考察してます。


当然、不正会計や「何でもかんでも経費にしちゃえ」みたいな確信犯はダメであるが、税金の方程式に則って税金対策するのは普通であるし、先ほどの現代の教養で述べた通り、金に疎いと一方的に巻き上げられるだけなのである。
つまり会社員であっても間接的に企業の一部として、また経営者や個人事業主であれば直接税金と向き合ってるわけで、そこに税制上の特例があれば適用したりしているだろう。
それと同様に医療業界では補助金なり点数システムなりがあって受けれるだけ受けようとするのもまた同じなのである、と言うこと。
確実に貰えるものであれば貰ってしまうものである。また、確実に貰えることが分かっているのであれば当てにしてしまうものである。「取らぬ狸の皮算用」のことわざと異なる点は、狸は100%確実に取れることを既に知っていると言う点である。そして確実であればそれを元に計画も作れてしまうと言う点である。
言うなれば制度ができた時点ですでに将来の計画・算盤はじきも同時に完成しているのであろう。(下手すると中にはそういった話が上がった時点ですでに将来の設計図を完成させてる人もいるかもしれない。そういう計算が好きなのであれば事業はやめて政治の世界に入った方が良いだろう。ぜひ内側から全体の最善解を弾き出して頂きたい。)
おそらく補助金という「ただより怖いもの」の問題の本質はこの辺になるだろうか。
今回は一番よく聞く医療についてだけ述べたが、およそ補助金なり特例なり優遇なり「賢しい(と本人たちは思い込んでる)仕組み」があるところは同様である。

一度肥えさせてしまったものを細らせるのは大変であるが(つまり遡ると30年くらい前なのかいつくらい前なのかは知らないが、軽い気持ちで始めてしまったことを嘆くのであるが(これも決して人を嘆くのではなく、その罪を嘆くのであるが))、仕組みとしておかしい以上は仕組みから変えなければなるまい。
患者を増やさないと成り立たない仕組み、医師と薬剤の結託、補助金・給付金・保険制度の仕組み、それら仕組みから来るものなのか、または「踊らされて」いるのかではあるが高血圧だとか血糖値だとか減塩だとか、引いては添加物漬けにさらされる日本人とか、果ては食料自給率の問題や、農家を助けるどころか結果的に先細りさせるように仕向けてるとしか思えないような政策、それら全て仕組みから見直していかなければならないだろう。(ここまで見事に日本を破壊しようとしてきた「大人たち」には呆れ果てるし、百年後、千年後にそれこそ恥ずかしい事柄として教科書に載ったりする訳で、よく恥を感じずにいられるものだと感嘆する。拍手でもされれば喜ぶつもりなのだろうか?息をしてる人は自分がどれだけ「利己まっしぐら」かが本気で分からない好例とも言える。まさに無明である。それなので息を終える直前や老後とかに人生を振り返って後悔したりするのかもしれないが、そしてそれを全て白状してくれればまだしもなのであるが、結局利己を引っさげたままいってしまうのであるから卑怯千万この上ない話だと思うのであるが、それであっても人は憎んではなるまい。その人がしでかした悪を憎むべきであるし、俯瞰すればそんな愚かな人を生み出してしまった環境を見直すしかない、と元の話に戻るのである。恥があるかどうかについては正に利己的であれば自分さえ良ければ良いのであろうから、将来何言われようがお構いなしということで恥も何もないのであろう。所謂左側も「自分だけ。良くてせいぜい数世代だけ」のことしか考えてないということは別記事で書いた通りであるが、左でない人であっても結果的には左に染まった人と同じことをやらかすことになる(少なくとも周りからはそう見られる)のであるが、本当に本人はそれで良いのだろうか?という話でもある。あとで「私は悪くなかった」と言い張って生きるか、自己忘却するか、「しらを切り通す」とかしかなくなると思うのだが、また周りも「やれやれ」と社会にいさせてあげるしかないのであるが、その辺までよくよく考えていただきたいものである。)

※先ほどの財務官僚性善説に従えば、実は財務側も本心では手を引きたいと推しはかることができる。財務が味方につけば千人力なので一気呵成に見直しを完了しようではないか。(財務側は最初に医療と結託してしまったので自分からは言うに言えないとも言える。)この辺については常にのらりくらりと回答をずらしていることを逆手にとって、良い方向に受け止めさせていただこう^^
(財務側で誰か本気で涙を流しながら頷いてたりして^^)

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ちなみに、もしも財務を論ずるのであれば、所謂「信用創造」くらいに行き着く。正しく資本主義の根幹でもあり、それを国レベルで考えた場合もである。なぜ信用して貸すか(資本を約束するのか)と言えば事業として発展を見込んでいるからであって、その恩恵として一点何倍とかになって、うまくいけば2倍とか何十倍とかになって返ってくると思うからである。(無論この論調だけで突き進めると危ないことは誰もが知っての通り)。
そして国レベルでの信用創造というのはいわば国への投資ということなのであろう。国が金を回すのは当然インフラ整備だったり資源事業であったり、資源の限られる国特有の、そして強みの第二次産業だったり、例を挙げればきりがないが、いずれも将来への「投資」の意味合いが強い(というかほぼ100%?)のである。

このまま進めても反論につぐ反論で、時間稼ぎで有耶無耶になるのであろうから結論だけ述べておく。

誰もが納得する指標として、投資に対する将来の、将来時点での価値を基準としたマップがこれまで誰も示してこなかったので、ああだこうだ言いてるだけなのであるので、将来時点での価値を基準としたマップをここに公表することとする。そしてそれで全ては解決される。(逆おいしてるので当然そうなるということ。立脚が解決なので、もしも精度とか頭が足りないのであればそこから逆算で構築すれば良い。)
少し難しく言ってしまったかもしれないが、ものすごく簡単な話であって、例えば去年の価値でX円投資しましたけど、今年は全体の価値自体が上がってるのでB/Sに反映させれば借金としてはむしろ大幅に減ってます、複利まで考えればものすごく素晴らしい投資です、というだけのことである。(突き詰めるとやはりこの辺も財務は一般教養なのであろう。せいぜい一般教養で済んでしまうレベルで国民は右往左往「させられている」のである。。)

数字で言えば誰もうんともすんとも言えないので、「価値反映版B/S」を以って解決とすることとしよう。
※国の舵取りを自認しているのであればむしろ財務官僚に作って欲しいものであるが、残念ながら「気概」ということ自体が御法度というか、ただただ「言われた通りだけ動く」ことだけが官僚に成り下がってまったので、望むべくもない(情けない。。親とか御先祖に情けなくないのだろうか?これまた「ないです!」とか逆ギレされそうで別の意味で恐ろしいのであるが。)
よってこのように民間から声を上げるしか解決方法はないのであった。

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「戦い方の基本」で述べてきた通り、「誰と(何と)戦うか?」の通りなのであるが、決して人と戦ってはならないので、一応付言しておく(既述ブログ参照)
勇ましいことを述べると、どうしても血気盛んな方は勘違いしてしまうので念の為。
(とてもくどくなってしまうが、今回で言うと医療関係者は敵ではないし、財務関係者も敵ではない。それぞれむしろ自身の職を全うしている素晴らしい方々である。「仕組み」をちゃんと考えましょう、と言うだけである。)






2024年6月8日土曜日

都のトップ

真しやかに言われているが、都民が愛想を尽かして東京から流出することで首都圏一極集中の解消・地方再生を狙うためにあえてとんでもない人がドヤ顔で出てきているということ。
(つまり本人には気づかれないように道具となってもらうということ。)

冗談なので深くいうまでもないのであるが、冗談を、冗談を言ってはいけない本気の場所で聖なる場所で臆面もなく実行できる大人がいるわけで、しかも下手したら周りから崇められたりしているわけである。
(付け加えると、自分たちは何て頭が良いのだろうかとさえ、同じ穴の中で思っているかもしれない。)

もはやなんでもありの、それこそ味噌も糞も一緒の方々なので、本気でやらかしているのかもしれない。

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なお、「本人には気づかれないように…」の点については、既述の通り将来的な解法とも言い得るものである。
つまりこちらがいくら理論的・数学的に正しいことを眼前に突きつけても、あちらはそれを理解できない、理解しようとしてない訳であり、しかも成体となって完成されてしまっていて、自ら変わろうともしない、もはや変わることができなくなってしまっているから、しょうがないので彼らの満足して生きていける場所を作ってあげて住んでもらうしかない。

※ここぞとばかりにマイノリティをどうするだの人権だのと言い出す輩がいるが、誰も排除とか言ってない訳で、要は「頭が追っつく」ことができない、拒否してる(自分の意思で)訳であるから、そう言った方でも幸福に生きていける場を設けましょうというだけである。抜け目なく考慮済みであるので詳細は既述参照。
※なおあちらの言う権利と言うのも半端なものであって、その権利を主張するのであれば赤ん坊から100歳を超えるお年寄りまで完全平等に権利を主張すれば少しは分かるのであるが、なぜか一部(というか自分)の権利しか言わないのである。さらに言えば動物とか植物とか微生物とか、山とか川とか物とか目に見えないものまでちゃんと権利を考えるべきであろう。

※または選民だの高尚なことを言い出す輩もいるが、本気で大衆政治とかエリート政治とか歴史を踏まえて学んでるのか?ということ。逆にいうと今だにそんなに極端な古代の考え方にまでしか辿り着けてないのか?ということ。(よく学者として給料もらえて食べていけてるな。それこそ現代の懐の深さに感謝すべきであろう。)
政治3.0で述べている通り、正しくそんな古代の単純思想から一歩前進しなければならないと話してるのに、そんなに威張って古典思想をひけらかさなくても良いだろう。


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冒頭の話に戻ると、あちらの方はそれこそその人の正義だと思って一生懸命都のトップになろうとしているわけで、結果として首都圏一極集中の解消・地方再生に使えるのであれば有り難く利用しましょうというだけである。
(例えればあちらの方々は目の前しか見えておらず自分の利己にまっしぐらにしか進めないので、そんな人にリーダーでもさせたらみんなが道連れになるだけなので、当然の解法としてはちゃんと周りが見えている人たちでその人が僻まないように、その人が気付かないかもしれないが親のような眼差して道標を作ってあげるということである。)
(学校とかでも話し合いの時に自分の主張しかせず、多数決で自分の案が通らなかったりすると泣きじゃくってルールを強引に変えようとする困ったちゃんがごく稀にいらっしゃったりするが、まさしくそれが良い例であって、そう言った困ったちゃんには(無論最初は教え諭すのが第一だが)その人が僻まないように、その人の成長を願って、居場所を与えてあげるのが最善極所解なのである。ディベートを拒否しているのだから仕方がない。)

※なおこのバカみたいな噂は、首都圏一極集中の解消・地方再生についてだけ着目して言われてるという本当の冗談なのであって、その他の太陽光とかEVとか「一体どこ見て言ってるんだ?(続く言葉は「大陸ですか?」。人によってははっきりと「はい」とか言いそうな勢いであるが。)」と言った他の様々な冗談では済まない話も多数あるわけであるから、しっかりと追求、見極めをしていかなければならない。



2024年5月10日金曜日

依存型の行き着く果て

(走り書きなので、ちゃんとまとめが必要)
依存型(留学生問題、生活費問題、在日問題などなど)
日本国民を売り物にしてるとか、あちらの言いなりとか言われる。

一方でそれを「しめしめ」と行ってる方はというと、短期的には楽ができて「あいつらアホだな」とか優越感に浸れるかもしれないが、長期的にみると依存から脱却できず精神的成長がない。
おそらく世界からそっぽを向かれたら虚構はガラガラと崩れるのだろう。

そこまで含めて我が国とか欧米などは「あえて野放し」にしているのかもしれない。
(こうなったことを自然の成り行きと見るか、そこに仮想的人格を想定するかの違い。または本当に世界のシナリオを書いて誰にも気づかれずに実行してる超天才がいるかもしれないが。。)

いうまでもないが我が国でもこれだけ声なき声として忍耐することしかできなかった間に蓄積されたものは書き表しようがなく、いよいよ臨界点も近いような雰囲気やそれを思わせるような出来事も出始めてる。
(既述の通り、いざそっぽを向かれた時に想定されるのは「支えがなくなってこんなボロボロになってしまった私を見て可哀想だと思わないの?」とか言ってそれこそ恥も何もなくすがってくるという図である。)

最後に、あちらはあちらで「国民」は一様に悪いとは言い切れず、簡単に言えば「ろくでもないトップ(頭脳)を持って、それに従うしかない国民は悲惨だな」と言ったようなことである。(しかしそれを、その制度を、その仕組みを良しとして採用してしまったことに遡ることまで含めれば、やはり身から出た錆と言えるのだが。この辺も既述の通り。)





2024年2月18日日曜日

過剰反応をわっしょいする社会

総合すると現代の病巣は過剰反応をわっしょいする社会という事だろう。
全てが全てを助長しているので当然である。
世の聡明はこれを見た瞬間に「はっ」と分かるのであるが、
そうならない構造が巧みであり問題ということ。

本気というのはそこからの問題である。


2024年1月19日金曜日

左的な個人主義

左的な個人主義と言われるが、究極的には、自分が何をするのか、自分がこの時代のこの環境で何をするのか、ということになり、自然と「周りがどうの」とか「環境のせい」とかいう話にはならないのであるが、簡単にいうと考慮不足なのであろう。

2023年9月23日土曜日

形而上学上の不明点について論争しても意味はない

こちら「転生とか脳移植について」の記事で、
「形而上学上の不明点について論争しても意味はなく、分からないものは分からないと素直に認識して、それを出発点にして考えを進める、その姿勢こそが最も大切」
と書いたが、その辺についてもう少し掘り下げよう。

形而「下」つまり、数学とか物理学とかいわゆる現代における「科学」と称される学問においては、そう言う視点は当たり前に思われるかもしれないが、実は意外とそうでもなくて、どうしても人の寿命は限られているので、ここで論ずる純粋な「不明点は不明点として素直に認める」認識に立脚して世に出た論というのは意外と少ないのである。
(この点は歴史を見れば十分にわかるであろう。)

最初に言っておくが、ここで言いたいのは、それがいい悪いの話ではない。
むしろそれが至極普通で当然であって、何らの疑問を投げかける余地は全くない、と言うことである。

本論は、それら先人に感謝した上で、それでも論を進めなければならないため、あえて俯瞰した立場で立場で論を進めましょう、と言うだけである。
(一応、補足としては記述「何か成すのは職として」を以て足掛かりとしていただければと思う。)

そして、これまた述べるまでもないが、形而「上」において、特に信仰分野においては、その真の純粋性に立脚しているのは、冒頭に書いたブログの通り古代インドかネパールのルンビニにお生まれになったお釈迦さまくらいであろう。
(不思議な逆転現象で、「現代科学でまともに論ぜられるのは仏教くらい」的な話もあるそうな。)

どこまでも「言うまでもないが」が続くのであるが、本論はある特定の信仰とかをワッショイするものではない。(と言う点は、よく理解してくれれば自明であろう。)
他の論に譲るが、「例えばお釈迦様が現れなくても別の場所と時で自然に同じような思想が生まれたはずだ」とか「実は別の場所と時に発生してたが消滅しただけだ」とかいくらでも言えようが、ただの一事実として、今からおよそ2,500年ほど前に古代インドかネパールあたりで、本論の主旨とする「純粋な」立場で人や世や世界を考えた方がいらっしゃった、と言うだけであることをまずは理解しなければならないだろう。

ーーー
「ひらめき」の経験がある人であれば分かると思うが、と言うか「ない」と思ってる人でさえも赤子の頃はひらめきの連続であったのであるから誰しもが「ひらめき」の経験はあるのであるが、「ひらめき」とはエキサイティングなものなのである。
(感傷的または芸術的素養のある方であれば「人は不完全な状態で生まれ落ちてくると言うこの世のシステムは偉大である」とかになってくるであろう。)

「ひらめいた」時に人は寝食も忘れその点に集中できるものなのである。(幸い科学も進んでこの辺のことは「起点」が自分であるから「本能」さえ凌駕する、と言うような心理学的な解釈でも説明できるようになったので楽になったものである。)

いわば「魂を削って」生み出すとも言えようか。
他方から、第三者的・客観的視点からすれば、ものすごくエネルギーを要するもの、とも言えよう。

それまでに誰も考え付かなかったこと。
それまでに誰も見つけられなかったこと。
それまでに誰も証明できなかったこと。
純度が増すと他者との比較は消え失せる。
純粋に分かった喜び。
純粋に知った喜び。
純粋に見つけた喜び。
いくらでも歴史書を読んでいただければ良いのであるが、そういった瞬間に当事者として巡り合うことができた人とは、それこを一切合切を捨ててその点に集中できるのである。

私が常々思いを馳せるのは、例えば数学とか物理学で新発見をされた方は、無論その方面の論文なりを書いて、あたかもその「面」についてだけで終わっているように思われてしまっているかもしれないが、実はそれは表面的な痕跡だけであって、「ひらめきのエキサイトメント」としてはその遥か真奥まで思いが及んでいるのではないだろうか?と言う点である。
「現代ではこの数式でしか表せなかった」「論文としてはここまでしか書ききれなかった」と言うことである。(「しか」とか言ってしまうと失礼ですかね^^; 無論「何か成すのは職として」の対義語としてどうしても業績の話になってしまうので、当人も失礼ながらそこまで考えておらず「これでできた!」と思ってるかもしれませんが。)

実際に数学とか物理学でも新しい理論が出てくると「理解できる人は世界で数人」とニュースでチヤホヤされる通り、共通言語であるはずの数式だけでは意思疎通が成立しえず、いわば「思想」的な補助を入れて仲介しないとプロ間であっても「共通認識」はできないレベルになっているのは、現代科学を見ての通りである。

形而上学においては、現代においては(現代においてさえ)「文字」とか「言葉」くらいでしか記述しようがなく、つまり「ひらめきの本当の本質」を本当に100%「表して」、またそれを100%「伝授した・できた」人は一体存在し得たのだろうか?くらいまでの話になってくるわけである。
(頑張って「話した」とか「書き切った」としても、話しもれてること、書ききれなかったことがあるかもしれない。それこそ数学的に「話切るとは」「書き切るとは」と言う点を100%完璧に証明できる有機言語をまずは作成しなければならないだろう。
※ちなみに、この辺が面白いので既述「意識シリアライゼーション」や「意識移植」のように飽くなき考察をしている訳である^^)

ーーー
「ひらめき」の当事者について語ったが、続いて「後追い」について述べる。
直接話を聞いたり、後継者であったり、後世の人であったりである。広く言って仕舞えば第三者である。
後追いは当事者と比べれば楽である。
自分でひらめかずとも、その到達点を理解することができるからである。
ひらめいた人がひらめく時に要した膨大なエネルギーも何ら必要としないからである。

※後追いが、その「ひらめき」を理解するために消費するエネルギーは別問題。数学の理論を理解する点と比べて考えれば分かりやすい。
また、後を追う人が自分の考えがベースとかにあって、その上で誰かの「ひらめき」を取り入れて、その組み合わせで次なる「ひらめき」を得ることもまた次の話である。後述参照。

ーーー
冒頭の本論の主旨の通り「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢が大切」から始まり、「ひらめき」と言う点に着目して話を進めてきた訳であるが、続いて「果たしてひらめいた内容は100%伝授可能なのか?」と言う点について考察しよう。

数学とか物理学であれば、そこに数式があるため、ある意味それさえ理解すれば良いという明確なゴールがあるため「そこまで理解すれば良い」と終わりを自分で設定できる。
しかしこれまでの説明で分かった通り、「ひらめきのエキサイトメント」を追体験するかどうかと言う点は別問題であることがご理解いただけるであろう。

いわば自分の「ゴール」が分かる問題であればそこまで到達したら下車すれば良いのであるが、ゴールのない問題は途中下車のしようがないのである。
逆に言うと何の目的もなくいくらその「ひらめき」を頭で理解したとしても、そこには何の意味も生じようがない、とも言えよう。(何してんだこの人は?状態)

布石に時間がかかってしまったが、つまり「ひらめき」の本当の本質に迫るためには、どうしても追体験を持って、ひらめいた本人と同じくらいのエネルギーでエキサイトしないと、その本質は分かりないだろう、と言うことである。

ーーー
冷静になって考えると、追体験によって到達できるのは当事者と同じレベルまでであろう。
(100%まで理解できたとしても、の話)

しかし大切なのは、その人は果たしてそれを体得して、そこから何をするのか・したいのかであろう。
(これも数学の理論の理解と比べると分かりやすかろう。例えばフェルマーの最終定理を理解して何をしたいのか?プロの数学者であればいわば一つのステップとしてかもしれない。良い悪いは抜きにして自己満足と言う方もおられよう。知の蓄積とか高尚な名目をお持ちの方もおられるかもしれない。これまた既述だがそれではその知を備えてその人の足はどの地を歩むのか?と言う話である。)
(また、到達できるのは当事者と同じレベルまでと書いたが、追体験者が追体験を通して先駆者のベースと作用させて新しい発想を得る点はまた別の話である。)

ーーー
「ひらめき」のエネルギーが大きければ大きいほど、その真髄に触れるには後追い者も大きなエネルギーを要する訳である。
(※しかし幸いなことに、当事者がまたはそれに続く人々が、そこまで到達できる方法を書いたり、「何らかの方法で」残してくれているので限られた生であっても、望めば最短で同様の真髄まで到達できる仕組みになっているのである。)

また他方で、その深遠さがゆえに色々な切り口でも解説も出てくるであろう。
伸びていった枝であるが、外部要因やまた自己修復作用的にも原点回帰が起きたりするであろう。
深遠であればあるほど、この「枝の展開・発展」と「原点回帰」は何度も繰り返されることになるのであろう。
現代では「何か」が進んで知ったか顔になりつつあるのかもしれないが、実は真髄からはまだまだ程遠く、遙かなる「揺さぶり」の真っ只中にあるのであろう。

ーーー
最後に烏滸がましいが、冒頭に書いたブログに書いた通り、真髄は「不明なことは不明なことと認識して論を進める姿勢」ではないかと述べた通りである。
この点に立脚して僭越ながら取り敢えず数学上に「不明」と言う考え方を導入してみたので紹介して本論を終えたい。

ーーー
念の為に補足しておくが、題名の「形而上学上の不明点について論争しても意味はない」については以上の通りであるが、勿論推測や考察することは自由であり、また意味のあることである。
どこまでも自分の問題とも言えるのだが、どうしても「与えてくれないと考えられない人」にとっては「一体どっちなんだ?」という溝にどうも陥りやすいようである。どうぞ精進されたし。



二重スリット実験及び天体の光の干渉縞について

電子や光子で二重スリット実験が行われ、「確率の波」や「パラレルワールド」などで説明がなされている通りであり、その「事実」の細かい点は省略。 今回の話は、その現象は現実世界でも常に起きているということ。 我々が自分の目で見ている現実世界の範囲では、多数の光(光子)が光源から発せられ...