2018年12月29日土曜日

スコープの狭さ

隣国を見るにつけ思うのは、そのスコープの狭さ。

根本にあるのは、破滅思想なのだろうかと疑われる。
つまり国のトップといえども国益を目標にしているとは
言い切れず、表面だけ取り繕って、内心は他国を巻き添えにして
破滅しようとしているのでは、ということ。

破滅思想と左巻き連の相性が良いからなおさらである。
破滅思想の源流にあるのは、よく言われる通り
事大主義とか「恨」文化。
つまり 「信」を土台にして築き上げることを
怠った、というか放棄したことの当然の報いであろう。
カオス思想にいいようにコントロールされるのは当然である。
(自らそれを楽しんでいる向きさええる。)

隣人にこのようなでくのまま大きく育ってしまった
人がいることは悲しく哀れむべきことであるが、
物理的には関わらない方が良い。

「人」から得られた教訓を生かすならば、そのように
ひねくれて大きくなってしまったものは、外圧で
教化しなおすことは困難である。せいぜい、生まれ変わって
「ましな」思想・発想で新しく成長することを願うのみである。
かといって、下手に構ったり、放置すると助長するため、
付け上がらないよう厳正な対処は必要である。
また、勘違いして目立とうとする場合も、遠巻きに
「よしよし」と気づかれない程度に誘導してあげるくらいしかない。

その更生の長いスパンを考えると一生のはかなさも
感じるが、「人」一人の教訓と同様に、人との付き合いとは
現世で同じ時期に生きた不思議な一期一会であるため、
長い目で見てその人のベクトルが最終的に上向きになるように
願って対処するしかないのである。
隣人は現世ではこういった大きな慈悲には気付きようがない
だろうから、他の周りで負の部分を背負っていかなければならない。

ーーーーー
「熱戦」の前にはあたかもその集団全体の個々人が同じように
どうしようもない者たちと一律に考えてしまうが、それは
ある意味の「操作」である。
(現時点のことを言えば、知ってかしらずか、そういった
雰囲気が醸成されつつあるため次のステップが懸念される。)

私もよく、「文字が読めれば良いのだが。」と言うが、
これは、先方陣営でもアホだけではなく、それこそこういった
文章を翻訳でもして読ませれば文章としての理解はできるだろう
と言うこと。
先方の最も聡明であり世界規模・宇宙規模で話がわかる人で、
自国を憂いている志士に見せれば大方同意見になるだろう。
しかし、その人だけわかったとしても「国」としても
「集団」としても何も変わらないだろう、と言うこと。

おそらく隣人は近く、いい意味でも悪い意味でも生まれかわら
ざるをえない。
いつも言う通り、大切なのはその後なのである。
生まれ変わっても同じ性根だったら、また同じでくが
大人になるだけである。

阿呆だけではないはずだという「希望」を持って、
こういった種を蒔き、生まれ変わった時のより良い生の
源流を今のうちから作っておかなければならない。
(一番いいのはそれが本流となって内部から自己変革
することだが。)




2018年12月9日日曜日

散髪の自動化

誰でも発想し得ることだが。

自動化の流れによる、散髪について。
散髪が自動化されれば(当然)省力化されるだろうということ。

自動化されれば、散髪の単価は下がるが
利用頻度は上がり、例えば週一回行くくらいの
「習慣」になる。
爪を切る感覚で髪を切るのである。
(普及当初のキャッチフレーズにもなりそう。)

散髪の概念が根底から変わる。
ライフスタイルも劇的に変わる。

ーーーーー
もちろん、他分野と同様にプロ分野と、廉価分野に
分化されていて、プロ分野はプロのスタイリストなど
残っていくだろうが、自動化は廉価版で推し進められて
行き、プロも一部その技術を逆に取り込んでいく流れ。

ーーーーー
廉価版、つまりユニバーサルな散髪は、
単純に言えば頭の曲面の法線方向に髪を持ち上げて
スタイルにあった長さで切りそろえていく機構。
(バリカンを買った時の散髪ガイドを機械化するだけ。)
まずはこれをベースにして、あとは日本人お得意の
機能改善で複雑なスタイリスト並みの技術を
盛り込んでいく。

日本発祥の技術が世界に広がる。

ということで、アイデアはここに帰着する。
(真っ先に手を出した人が勝ち残れる分野。
勝ち残れる分野のアイデアはいくらでもあるのに
手を出さないのがもったいないものだ。)



2018年11月24日土曜日

アナログ経済(ネオ・アナログ経済)

アナログ会計になった場合、例えば株価予測が激変する。
※アナログ経済だと貨幣化前の原初アナログ経済と区別がつかない場合があるのでネオ・アナログ経済とも言うことにする。そのうちネオ・アナログ経済のほうが定着したら、貨幣化前のほうが原初アナログ経済と呼ばれるようになるだろう。

現在のものは、いろいろな要因が内在しているものを
日別・時間別に出た結果だけを見て予測しているに過ぎず、
言うなれば離散的・非連続的に予測しているだけである。

これがアナログ会計になった場合は、それらが
関数的・連続的なものとして算出可能になってくる
わけである。


その根本をなす因子の一つは、ものの価値をリアルタイムで
表す機構である。

価値とはそもそも実在するものではなく、概念で定義したもので
ある。食べ物であれば何グラムいくらで、悪くなる何日・何時間前に
何パーセント割安になるなど。単純化すれば単価と消費期限など
から算出される。
食べ物はリアルタイムで劣化していくので、本来であれば、
価値もリアルタイムで減っていく。
それを「真面目に」経済に適用しよう、という発想。

つまり、実物という実数に対する、価値という虚数的な
概念に押し広げようという試み。
虚数は「価値」に限らず、数多くの概念が存在するのだが、
価値が最初に発展し、瞬く間に他の虚数にも
応用されるだろう。

そうするとそこには、あたかも虚数という情報だけで
形成される情報空間で完結する世界が出来てくるのである。
(影のような実態の生き写し。)
また、今度は逆に虚数側で作ったもの(社会など)を
実態にシミュレーション(というか投影というか、可能なら
物理かとか)することも理論的には可能になってくる。
「予測」の制度が飛躍的に上がるのはもちろん、今では
考えもつかないことがかなりたくさん可能になってくる。

ということで、アナログ価値・アナログ経済の
潜在パワーは計り知れないのである。

(これだけ単純なアイデアであるのでアイデアの
出処はこれであると、ここに記しておく。
いつも書いている通りであるが、後出はこのアイデアに
準ずるものである。
アナログ経済発祥の日となる。(本来はアイデアとしては
もっと前にあったが世に出た日。これも以前に少し
言及したが、もしも頭に浮かんだことを証明できれば
それをオリジナルアイデアと認定できるはずである。
これは非公開ブロックチェーンのようなもので実現できるのでは。
「後から」「一部だけ」公開することが可能かどうかだが。
もしくは常に頭の中全てを公開している状態。

そうすると特許関連も激変する。 (発案者が救われる意味で。
世のトレンドが如く、よりオープンになるわけである。))
現在はまだ旧式なので、こうやって自分で根拠を書いておかないと
いけないのであった。

ーーー
なお、この目に見えない抽象的なものを瞬時に情報と相互連携する
という発想はかなり広範囲に応用できる点でも一大発明である。
応用範囲は限りなく、例えば5感とか愛とか(いわゆる感情とか)、
テレパシーとか霊とか、およそ「目に見えないもの」への
応用が可能なのである。
(数学はいかに自由度を高めていくかの歴史とみることができるが、
この発明は物理界において自由度を一挙に広げる発明である。)



2018年11月23日金曜日

アナログ通貨

なぜ、ものの価値だけデジタルチックなのかということ。
情報処理量の増加により、よりリアルタイムに
ものの価値を算出できるようになる。

ものに限らず、アナログクレジットやアナログ収入など。
収入も現在は分かりやすさや振り込み手数料の観点から
月に1回まとめ払いだが、アナログ的に考えれば、
働いたその瞬間にその人の収入に実体を伴って
組入られても良いのである。

それらが売り方、買い方間で有機的に結びつく。

アナログ会計になった場合の潜在力は計り知れない。


2018年10月14日日曜日

結果論はなんでも言える

結果論はなんでも言えるが、追い詰められた
大陸はどう出るか。

組織レベルの話で、対面を保つために維持をはるか、
人民共和國なだけに人民のために太平を開かんと欲するか。

今の所、親日感情が過去最高という詭道で
出方を見んとする、ということか。

10年前ならともかく、こういった人民の素の声が
普通に見える時代を大陸は見据えておくべきだった。

結果論はなんでも言えるが、結論を述べると
なんとも儚いものだ。
(どれだけ哀れか幾千万回述べたにも関わらず。)

いよいよ人民の救済が具体化してきそうである。




2018年9月15日土曜日

なんだかEUの

なんだかEUの「民主主義」を見てると
次の答えを見ているようだ。

ただ左に土壌を提供してる。
つまり泣きながら笑って肉をあげてるよう。
感覚からかえる。
帰る。変える。
ここに記すでもなく、ようやっと
具体的論拠として左だの右だのが
霞が晴れてきたということ。

これくらいで道しるべとしては良いだろうか。
よく読んだ方が良い。

一番簡単なこと

一番簡単なことは
程よい阿呆と競い合うこと。
しかも、それを相手に気づかれずに。
周りで観戦する側も安心。

ここまでくる過程を
後でおそらく世は遡って
評価するのだろう。
これも既述の通り。

2018年8月9日木曜日

単なる周期のこと。つまり次の波。

単なる周期のこと。つまり次の波。

言論の周期も早まってきたものだ。

一昔前まではS主義だのM主義だのを
かいくぐってからでないと的な話があった
らしいが、
それさえ知らずに、つまり曲がらずに
(それだけで幸いなことだ。)
曲がり道せずに正道を突き進む世代が
育ってきたということ。

メディアや言論は大きな流れを捉えることが
職務的役目だろうから、それをちゃんと
見るか、またはそれまで培ってきた
忘却機構を持って逃れるかを選択する時が
訪れるということか。

それがわかっただけで良いと思う。

つまりは、知覚を持って備えよということ。

ーーーー
こうなるためには、これだけの期間、それら
変な話に流れないようにしてくれた
先人の努力の土台があったからこそである。

一つの大きな要因として言えるのは、その
断衝力がある。
大陸を見れば金で刹那に目の色を変える様が
ありありと想像できるが、他方はそうならない、など。
(無論例を挙げるまでもないが。)

ほぼ答えを言ってしまってつまらないが、
これをもとに、というかこれがもとになって
言論を発展させれば、現世は自ずから成り立つ。


2018年6月9日土曜日

悲に面し一つ。

悲に面し一つ。

つまり辿れば追いやった主権を振るったものの心情。

現法では無論「動機」的な罪を負うのだが、
例えば過去・現在・未来や法律を取っ払って
どういう「つもり」で何をしたかったのか、
を洞察することに意味がある。

一体どうしたかったのか。それが現世ではこういう形で
現出したということ。

現世では増えてきたが、情報があふれナマの育児の
愛情も知らずに教育や躾が追い越して先走っている
事例を目にする。

大人の世界や政治・経済・理念・云々の世界も同じだが、
感覚を麻痺させて(時として故意にする輩が出てきたが)
理屈というか屁理屈を押し通す向きがある。
(これを系統立てるだけで、あちら陣営は瞬殺するのだが。
 それは別立てで。)

今回のケースもその類。おそらく悪いことはしてないと
思い込んでいるだろう。
ナマの5歳児に触れ合って感じる感覚も閉じ込めたのであろう。
躾という名の社会的美、個人的美、社会的に認められている
躾を基準にして、それを動機としているのであるから
そこから派生した教育行動はちゃんと言い訳ができると。
たとえ何かあっても正当な理由があると。くらいか。
まずはここまでは良い。

そして何をしたかったのか、させたかったのか。
おそらくそこで止まったのだろうと思う。
本末転倒よろしく、躾のための躾で目的が
達成されてしまったのだろうと思う。

何をしたかったのか。真性馬鹿であったのであれば
むしろそちらの方が良かったのであろう。
教育にしゃしゃり出て母子関係に破綻を及ぼす
ケースも見ているが、一様に中途半端であることが
共通点であろうか。
それらは大抵ナマものを扱わずに屁の理屈を
振りかざす。つまり地に足が付いていない。
(故事に学べば実践ありきということが自ずと
 身につくのだが。故事に学ぶというのも
 別段特別なことではなく父母・兄弟・社会一般
 に接して体得するものだが。)

5歳ながらにして、ひらがなをようやっと覚えたにして
書いたあの手紙。5歳ながらにして間接表現も駆使して
ちゃんと伝えている。
それを僭越にも汲み取るならば、知るべきはやはり
今世のつながりを密にした、あの子のパパ・ママなのである。

とりあえずわかることは、言い逃れしようとする人に
対しては行政はあまり強制権は発揮できないということ。
(行政、つまりボトムアップなのであまり
口を出すつもりはない。むしろ容疑者をちゃんと
この子の言葉を一生聞かせるように、無様に
瞬時に極の刑にしない厚生理念が通ってて
良いと思う。)

素人が言うまでもないが、足取りを見れば逃れようと
していた感は十分に発揮されている。
それはむしろプロが検証するから良い。
知るべきは、現世でこの人はどういった精神過程を
踏んでことに至ったかを知ること。
そういった、(こういった事件を軽々しく
あちら陣営も恥ずかしげもなく出しているが。)
人が排出されてしまう土壌はどうやって築き
あげられてきたか。
どうやって精神的土壌を直すべきか。
ボトムアップの児童相談所や行政の話は
数多あるのだが、あの手紙の真の要求するところは
それらメディアがどうしても触れられない
トップダウンの分野なのである。

わずか5歳にして、最後まで希望を捨てずに健気に
みんなの修繕を願って生き続けたが、生の
ベクトルとして衰弱して泣きながら亡くなられた
ことは無念であったろう。合掌。



2018年5月1日火曜日

(特許関係)ゴミ袋をポンプでゴミ箱いっぱいに広げる機構・装置

タイトルどおりだが、ゴミ箱の底面や側面に空気取り出し孔があり、
ペダル(ステップ)などで空気をとり出せる。
ゴミ袋をセットした後に空気を取り出すことで
ゴミ袋はゴミ箱いっぱいに広がる。
ポンプで空気を吸い出すときに袋がくっつくので、孔と袋の間にはスポンジや網構造も追加可能。(こっちが標準的な使われ方かも。)
孔またはその外側に、空気が逆流しないように弁を付ける。または、簡易版としてただ蓋をすることも可。

アイデアの発端は狭いゴミ箱だと、捨てるゴミが
ゴミ袋の広がりによって入り口付近に堆積し、
ゴミを捨てるのが不快だったため。

特許を取れるくらいのアイデアだが、もったいないけど
ここに公表する。
どうぞご自由にお使いください。出どころを明確化した上で。

---
例えば最近競争が激しいコンビニコーヒー。
あのゴミの突っ掛かりを忌み嫌って買うことを
ためらう人がそれなりにいよう。
(顧客分析の負要因として「忌嫌」の要素が
なかったのであればここに表しておく。)

ここまで広がると、今まで躊躇してた顧客が
大きい。そのためらいの大きな一要因を
取り除けることは大きい。
上記はコンビニコーヒーの一例。

2018年4月30日月曜日

ボトムから

たまにはボトムから。
つまりクレジットの解明と白昼への天日ということ。

つまり現状(というか歴史になるが血液たるもの)の
共通「液」としての貨幣文化ということ。

貨幣からクレジット、ゆくゆくは(すでにお偉方は当に
検討済みの)次なる概念へと脈々と続くもののこと。

クレジットは現物の何倍、何十倍、何百千万億兆京…
まで可能なのか?金融や証券の専門の通り。
つまり原始経済学では爆弾ゲームになってないか?
挑戦・冒険者はいつまでもいるのだから、いくら
平和な官人であっても、その専門を生かして
時代遅れの冒険者を見抜いてほしい、ということ。

参加者である以上、知るも知らぬも被験者なのだが
(これくらいまで食い込む権利がそのうち出てくる。
というか、ここで発表しておこう。せっかくなので。)
所謂「液」の原子・分子として流れを形成しているのだが、
現状の「液」、つまり現執筆時点でいうクレジットレベルの
三位にわたる結論・まとめが未だにないということ。
(確かにたくみ極まる。各専門を作ってそれらはそれらの
専門に専念しないと追っつかない。)

ただただ自然発生的に生じ、全てが単なる参加者であり
被験者であるのであれば、むしろそれに越したことはない、
ということ。(反語不及謂)

ーーー
確かに桶に入った酒の話の通りいくらでも増やせる。
簡単な話で増やせる時に増やせるだけ増やす、規制もないし。と。
そのあとはその時の手札を切れば良い。ちと土俵が甘かった。
それだけといえばそれだけ。いつの世もそうだが
結論を知るとあまりにも悲しすぎる。
救うべきは例えば大陸の何も知らない(むしろ最近は統制が
強まって本当に何も知らないものだらけになってしまった)
衆生である。(仕組みを整える前に次から次に闘争されて
常に液体でしかなしえなかった、何に帰着するのか、地理的な
問題なのか、しかし反面教師として現世では「よしよし」存在に
なってくれたことに深く感謝しなければならない。)

ーーー
世に出ないのはつまり落とし込むと「審査」だからだろう。
クレジットの土台ということ。おそらく液体は扱いやすかった
からホイホイと水ぶくれさせられたのであろう。
仕組みを知った彼の国は天下を取った勢いで独自の「審査」で
じゃぶじゃぶしただろう。
しかしおそらく最強最後のカードはやはり胴元にあり、ということ。
社内システムではやれても対社外になれば不可。

あまりにも単純なので針の先にもかからないたとえ。
ただし、最近あまりにもホイホイと事が動くということは
おおよそのあらすじができているのだろう、ということ。

ーーー
余談だが、左の功績として、何としても「賑わい」出すのを阻止しえた、
ということであろう。(この文脈でいくとすでに手玉に取っている?)

ーーー
常々、文脈に欠けていることがあるということ。
もしも単なる文くらいしかなく、脈がなかったらということ。
これも常々だが、所謂「広報」以上に民衆は声なき声として
知っているのである。もはや後発すぎて書くまでもないが。
簡単に言うと、もしもうどの大木がそのままのし上がっても
世はただバカになっていくでしかないだろうという危機感を
持つか持たないかということであろう。
これは官でも私でも志士としては関係ない。



2018年4月5日木曜日

残るはエッセンス

残るのはエッセンスで、大陸は謂わば弛緩した液体のようなもの。
それに気付いて激すれば救いようがあるが、これまで甘きに浸りきってきたので激し方さえ分かるまい。それ以前に認識さえできないと思う。

2018年3月28日水曜日

負のフラストレーションの処し方と解明

具体的な処し方としては、要は
個人・集団のフラストレーションの蓄積の
解明なのだが。

これが解明されれば、ある意味人工的に
フラストレーション集団を作れ、同時に
その処し方もわかる。

つまり解明すれば現在のフラストレーションは
白昼の元に晒され克服できるのだが、
同時に次なる種を次なるものに与えてしまうという
止揚の次のステップの話でもある。

(そういえば止揚の次のステップについて
言及したものがないので、これを発端としておく。
明快に解決するも、次なる矛盾の芽を生むということで
「妙結」とでも言おうか。)

ーーー
脱線したが、無論これはとてつもなく恐ろしい
研究でもある。
研究する方が滅入ってしまうのではないか。
そこで、自主的に負を蓄えこむことにたけたものを
うまく、気づかれないように扱うのである。
無論、負の蓄えを日常的に行っているあちらの
専門業者に論文でも書いてもらえれば
手っ取り早いのだが、あちらは世に出ぬという
最強武器を誇りにしているので出てこないのである。

しかしあちらの幹を除いては、結局幹に便乗している
だけである。
幹の元の根が、いかばかりのフラストレーションを
蓄えたかを科学してあげることが供養であると。
そして便乗したメッキを剥がしてあげましょうと。
(形式的にでなく本当にあちらの根を体現している
のだろうか?それにしては、チトたるんでるのでは
ないか、というのが前回の論。それでは根に怒られて
しまうと。)

常々そうであって申し訳ないが、抽象を持って、
理論づけとしてはそんなところで抽象的に
わかってもらえるだろうか?

ーーー
また、いつか書いたが、これの相輪として、
「時間」ということが言える。
一般的にいると時間が解決してくれる、ということ。
つまりフラストレーションもエネルギーで例えるなら
熱力学的に低エントロピーは高エントロピーに時間的に
流れてしまうということ。
そうはさせまいとあれよこれよと低エントロピーを
保たせようとするのは両陣営同じこと。
いろんな要因はあるものの、あちらとしては個人レベルの
根をなんとか集団かさせて黒い炎を絶やさまいと
されてこられたのだろうと思う。
慰めるべきものを便乗するとは何事か、と私が言うまでもなく
総じて歴代を見るをことごとく悲惨な末路をたどっているから
別に何も言わない。

情報過多のこの時代、聡明なる志士が容易きそれら
巻き込み勢力に巻き取られることを嘆いて。


2018年3月27日火曜日

ジャーナリズムの側面

ジャーナリズムは人々が知らない情報を正しく
伝えるという崇高な理想がある一方で、
人々の低俗な欲望を満たして対価を得るという
側面がある。

ものによって組織によって人によって
当初の理想と混同している。

また、表面上は聖人君子であっても、裏では
対価なりを払って欲望を満たしたりしている。
知ってか知らずか助けている。

公私の問題は議論されてるが、
意図してのことは無論だが、意図せずして
入手した別人の「私」を許可なく世に出して
良いのかということ。
「私」、特に感情・五感を発露している時。
(発露してない時も当然範疇に含むが。)
つまり意図せず発露した喜怒哀楽または
五感を駆使している瞬間がなぜか世に
出ること。なぜかは出ないのであり
でる誰かや何かの意図がある。
一昔前までは地域の笑いぐさになって
泣き寝入りするくらいしかなかった。
(具合によってはちゃんと吟味されたが
世に残せなかったり、うち捨てられたり
された例があるだろう。)
そこのところをちゃんと現状で培ってきた
倫理、法律、論理などを駆使して煮詰めていかなければ
ならないのに、世の中はよほど平和か暇である。
(という皮肉を聞いて激さねばならない。)

ーーー
さてジャーナリズムの話に戻るが、低俗の
欲を満たすだけで良いが、なんというべきか
「枯れた欲」が凝り固まるとタチが悪い。
暴走老人が巷で話題になっているが、そこに
通ずるかは分からないが、人生経験を積んできた
ご老体であっても、おいくつかわからないような
論理しか展開できないお方である。
これはまだ個人であり、哀しんであげれば済むのだが、
これが集団や組織など徒労を組んだら、ということ。

それがテロなどであればわかりやすくて良いのだが、
いくら対処・処置をしても、表に出ない「枯れた欲」は
潜伏し続ける。
どれほどの厭世をし、表に出ては取り締まれるから世には出ず
裏で組織していったか。
あるかないかわからないので、虚数的に仮定すると
それらがどうやって裏を構築していくかがわかる。

ーーー
そして、それらとの相対の仕方であるが、表面的には
これまでも法的にや、不買など諸士の奮闘もあるが、
本当の正攻法は上記の通り、根を攻めることである。
(これだけ言っておきながら、極当たり前の結論なの
だが。)

表面上の攻めは、これまで言ってきた通り、あちらは
世に出ぬプロであるので、表面に立っているのは
「なんでもない」お方たちである。どんなに攻めたところで
あちらは何も痛くも痒くもないのである。
(よくぞそんな方法論を確立したものだ。また、さぞ
頭良さそうに操られている(本方は頭の良い)人たちが
可哀想だ。)

法といえども現在では届くところが限られる。
不買と言っても、上記の通り広く薄く広がった
低俗な欲の需要という土壌はなくなるまい。

よって正攻法は、「そんな頭でいたら存在自体が
恥ずかしいと自覚させること」という、心だか
思考の「根」の脳幹をぶちたぎることであろう。
「恥」というか、あちらは最大の武器として
「恥」という感覚を持ち合わせぬので、ちと違った。
ようは「もうくだらないからやめた」と「自然と」
やめさせることである。

このことはこれまで書いてきた通りであり、
特に目新しいことはないので、再掲ということで。

ーーー
なお、もしあちらの幹をぶちたぎり、
あちらとしてはよくなったとしても、今度は
それが種となり次の枯れが生じることは
明白なので、いかにそこまで汲み取って
救済とするか、ということ。

明々白々なので、あちらとしても白昼に晒されても
なんら問題ないのである。


2018年3月25日日曜日

天日にさらすこと

解明すればやすきことなれど、
それらは詭道を地でいく方々なので
何でもかんでも天日に晒せばいいくらいにしか
結論しないのである。

幸いこれまで頭隠して尻隠さずのごとく
詭道の仕方を教えてくれたので、お望みの通りに
同じ土俵に立ってあげれば良いのである。

裏の本心は出さず、外部からは辿れないようにして
「証拠」は残さず詭道を行うのであるが、
ただそれに専念できる暇人は幸いである。

林檎にたかる青虫さ加減いかばかりであるが、
くだらなさを通り過ぎるので追求はしない。
(以前書いた通りあちらにも「頭のいい」方々は
見た限りいるはずだが「乗せ」られてしまった
方々が哀しい。)

よく見えたこととして、まぁこれも以前書いた通りだが
いかにバカを前面の防波堤として出すか、ということを
よく実践している。
(前面に出る本人にその意図を気づかれずに。)
これは一番時間が稼げるからである。
これは誰が言うでもなく、ちと簡単すぎた。
ゲーム感覚でモンスター召喚ぐらいに思っているのだろうか。
↑直接的嘘から見れば比喩にもならない「無」の戯言。

結論すると、なんだかちょっと前に大きくなりすぎて
収拾がつかなくなった嘘を謝罪したが、あの、あちら陣営としての
不調和音を見ると、現世の良心が漏れてしまったという、
あちらとしての大事件だったのだろうか。

あちらの回顧録があるのかないのか、世に出た試しがあるのか
ないのか知らないが、「握らされて」いれば回顧録は残るまい。
(おそらくそれが鉄則一丁目一番地なのだろう。)
残さないという鉄則を守りきって例えば地下1,000メートルに埋める
ことで残した方がいただろうか。(自己解決として、地下1,000メートル
イコール「地獄まで持っていく」と自己解釈して。)
残るが残るまいが、それらが天日に晒してくれた、垣間見させてくれた
身をもってすでにレントゲンは取れたので、どうぞ隠し通したと
安心して滅してくれれば良いと思う。少なくとも幸いに
これを読まずに済んだ方々は。もし読んだら陣営として危機感を
持ってくれれば良いと思う。

アドバイスとして身の捨て方が徹底してないのではないだろうか。
それらの理念から創出された理想としての「日本を陥れる」という
大命題を社員全員に徹底できているのか。
最近ちらほらと内部から告発本が出てきているのは徹底が甘すぎる
のではないだろうか。

裏を裏でいくやり方を切磋琢磨して築きあげてきたのに自らが
日に当たるとは何事か。
(西洋では日に当たると焼ける悪魔がいる。日とは抽象であるが
本質は「公」である。西洋に限らず全世界でこの考察が無かったのなら
これを原初とす。(「せちがない世」参照。))

中期的展望としてそれらは寝ぐらを変えざるをえまい。
裏は裏で必要である。今回はあちらの馬鹿さ加減ゆえに
まんまと最新の切磋琢磨された詭道方法を明らかに入手して
しまったが、このアドバイス(?)を含め蓄積し出すだろう。
我々が考えなければならいのは、いつまでこの
単純な2元論から脱却できるのであろうかということ。
(哀しいかな、世の「教」の諸元となんら発展していない。)

当初書いた通り別に私は諦めないのだが、世の聡明なる
志士はより地面に足をつけ、世の肥え太った英者は
より三世を直視していただきたいのである。

卵が先か鶏が先かであるが、世の累積して何兆か何京か
何垓か、…(なんか前に書いた記憶がある)…何無量大数か
知らないが数多声なき声を前にして、というだけなのだが。

肥えたければ肥えれば良い。
世を嘆きたければ嘆けば良い。
恨みたければ恨めば良い。
忠誠を尽くしたければ忠誠を尽くせば良い。
反旗を翻したければ反旗を翻せば良い。
盲目でありたければ盲目であれば良い。
楽をしたければ楽をすれば良い。
正直者の困る姿を見て発散したければ、正直者を困らせれば良い。
ぬるま湯に浸かっていたければぬるま湯に浸かっていれば良い。
下座行するものの頭を踏みたければ踏めば良い。
人を陥れたくれば陥れれば良い。
無表情でいたければ無表情でいれば良い。
無感知でいたければ無感知でいれば良い。
五感を捨てたくれば五感を捨てれば良い。
無ければ無ければ良い。
有れば有れば良い。
受ければ受ければ良い。
感ずれば感ずれば良い。
有機体なれば有機体なれば良い。
感謝したければ感謝すれば良い。
宿命あれば宿命あれば良い。
宿命無ければ宿命無ければ良い。
形成あれば形成あれば良い。
形成なければ形成無ければ良い。
ありもなしも受けるも発するも有個体。
受ける発するを起点にするからゆえの有個体。
ありなしからすれば飛んだ大きなお世話であり
有個体は単なる発生者。
例えるならばキノコのようなもの。
前の人は「超」発生したり、「葦」に例えてみたり。
現世的に言うなればマクロ的にそして瞬時にミクロ的に
自己を捉えているか、ということ。
マクロ的には宇宙の片隅の一瞬の炎として。
ミクロ的には誰も侵すことのできない「今この感覚を
自覚できるのは自分だけだ」という脳なのかハートなのか
視界なのか聴覚なのか、…いわゆる五感なのか、では
五感が全ておろそかになったら存在とはどうなるのか、
…ということ。

ドライに言えば、否ドライな方が良いのだが、
極端にはドライにしか言えないのだが、
「加護」の期間は決まってるのであろう。
よって極論すればいつまでも「公」に臆面もなく
駄々をこねる「恥」を日の本に「公」言し得る
あさましさを暖かく見守るのである。

(おそらく手に負えなくなった元締めもやれやれだろう。
そうして野に放ち、誰も手に負えなくなったものを
あるものは「やれやれと」あるものは「必然と」よいしょ
よいしょと汗を流すのみ。)
(考えるのは簡単。考えてまんまが食えれば最高。
 そうではない。単純明快な答えなのだが。。。
 涅が寝込むのも納得せざるをえない。(当のが諦めかけたように))
 否諦めていないということ。ありがたいことである。
 無宗教なんだか自由人だか知らないが、その当世で
 なそうとすることが超えられるならば良い。それは偉業。
 本当の無から生じて経歴をたどらず極まで達すれば、それは偉業。
 それはどうぞあなたの本当の名誉になる、だけ。
 )

とりあえず天日にさらされた反故として
ごく簡単に、彼ら億兆万の正義か不正義かは知らねども
直接的嘘に対する反故としての
ごく「無」の言葉なのであるが。
あらゆる方が羨ましく思った通り、それらの
手法として世にことを恥もなく発するということ。
極論するとそれもありがたいこととして
閉める。




空恐ろしい

空恐ろしい推測として。

いわゆる左の極の新聞が何故、
朝と日を使っているかということだが、
(無論戦前からあって戦前はむしろ
追従していたことはわかった上だが。)、
つまらない憶測として。
(これに比べてあちらは根拠もない推測というか
憶測というか、「あえて勘違い」というか、
「あえて勘違い」すれば時差戦術が使えるから
「お得」くらいに考えているのだろうから、
それに比べればよっぽど大人しい文論で
しかないのだが。)

つまり彼らの根本目的が「貶める」ことなのであるからして、
つまり彼らは貶める対象の根本を掴み取りたいわけである。
そうすると彼らインテリが考える根本となると
超有能な脳を持って根本と定めたお上であったりするのだが
つかみきれず単なる空論、自ら作り出した空論に
自ら迷いこんでる有様であるのだが、
例えばそれらスーパー有能がつかんだと思ったものとして
古事記、日本書紀があったのだろう。
そして漢文で読めないものを世に広めた
本居宣長があったのだろう。
その歌にある、例の敷島の歌にかこつけて
「ちょうにち」を冠したのだろう。

戦前からの冠をいいことに、かこつけて
堂々とちょうにちで通している面の厚さ加減といったところ。
(もはや知るすべもないが、正しいとしたら
だからこそ「選ばれた」のかも。。。)

以上、前提は書いた通り彼らの直接的嘘と比べれば
「無」にも等しい戯言として。
ここに無名があえて書くでもなく先人の先生方の
ご健闘がありますので何にもなりませんが。

2018年3月21日水曜日

思考の組み立て

政治経済を見るに思考がどうしても
古典数学的にしかなり得ないことが気になる。

つまり善悪論に明け暮れて、など。
(崇高なる理想を基にして始めたる事例もあろうが、
その道筋も、。。。かきかけのまま)


結論としては別にこれまでがダメとかいうのではなく、
例えば数学が連立方程式、微分・積分、複素関数と
発展してきたように、思考の組み立てとして
適用されるのではないだろうか?それとも自然に適用
されているのだろうか?という、単純な問い。

嫌が応にもAIの命題として出てくるのであらかじめ書いておく。
純粋科学としてそのうち真っ新から複素関数まで
どうやって導くかや、ひも理論までどういう過程を
踏むかを「見る」時代が来るだろうから。
そこから導かれるのは思考の最善。
そしてその最善を持って、未解明の足がかりにすると。
(最善脳を持った集団であれば3分の1の時間で現世と同じ
 状態になっていた。など。切り口を揃えればであるが。)

ちなみにこれはAIが出る以前からあったわけで、
つまり「最善を尽くせば自から発展する」ということ。
これをこれまでは個人、集団で蓄積してきたことが、
今度は「無機体な永続的なるもの」も蓄積していくということ。
数十年か数百年かけて叡智をトランスファーしていくのだろう。

そして、一時代的にはその叡智を集めた集団は発展するのだが
叡智の元素からしてそれはいづれ「叡智」に帰る、ということ。
(なお、これはオープンソースの理念の話だが、和的に言えば
それこそ「和」を持って、ということに通ずるのだが、)

道筋として、今後数代はAIを駆使して栄える企業が数代は続くが
いずれオープンソース化されて相転換が起こるということ。
それはよほど阿呆でも無ければわかること。「経」に縛られる
ものならば、よりその詳細を知りたいというだけのこと。
いずれその道の専門家ができるのでそれを待つべしと。

周辺問題で時間になったので、今日はこれまで。




2018年2月17日土曜日

言語の再定義

おそらく本質に行き着いた時に言語の再定義を
要しよう。

その時、例えば一千年後の読者は、よくぞ
こんな薄氷の上に辛うじて楼閣を築き上げて
きたものだなと驚くかもしれぬ。

否、言語は過去に伝播して、常に生者を
媒介にして粘磨され得るものにて、再定義は
その時々に応じ有機体のごとく伝播されよう。

せっかくAIがあるのだが、それは未だ
現世の言語を土台にしかしておらぬ、という
命題。

よってここに言語の再定義をする
機構を立ち上げる。
(その多くはAIを持って成し遂げられよう。)

これによって解決されるのは以下。
・果たして現在の言語で最善・最上の議論を
し得ているか。
(左寄りのごとくは正に箱の隅を一所懸命に
突くが如しの改善。一千年の無駄への物理的な
解決とでもなろう。)
・抽象の改善・足がかりの向上。
 聡明なるものであれば、自ずから感じてきたこと
であろうが、築くに当たってどうしても言語の
制約によって阻まれるということが現実として
存在してきたであろう。それを解決する。
プログラミングで例えるなら、言語文法の規制が大きく
本題の業務処理を組むために多大の労を要すが如し。
といったところ。

仔細をあげればきりはないが、
AIの最前提案と現状の需要可能な範囲を
協議するような会議ができる。

AIのトップダウンと人間のボトムアップ。
いずれ均衡し、それは人間がその時の最前の
言語で、咀嚼の無駄な乖離なく築くことが
可能な世になろう。
(つまりおそらく一千年後の方々が呆れるような
言葉遊びを足がかりにした左はよほどの
お笑いネタになるのだろう。軟弱な言葉で何億人を
饑餓させるとは、などなど)

いつも言うように考えるべきはその後である。
例えば頭に血が昇るのは分かる。しかし上の
話を持ってすればいかに浅ましい、無駄な
エネルギーを「哀しい」だけの存在のために
浪費しているか分かろう。

このブログは2本立てである。
つまり現世からの離脱
及びその後の本来の議論と。

おそらく破壊力が凄まじいので、
(以前書いた通り、ある意味神経を引き抜く
ようなことなので。)
ずっと後に読まれれば良いくらいで書いておく。

ーーーーー
今は「抽象レベル」くらいしか言いようがないかもしれないが
人間が築き上げた「抽象レベル」の最前・最善をAIはすぐに
見つけよう。
(なお、論理や例えば具体した武力など計算力を土台にするものは
当然それには及ばないので果てしなく負ける。頑張れば、つまりAIにインプット
してなかった解を用いれば勝てる。いい小説の材料となる
わけである。(とここまで隅まで照らしてはおまんまの食い上げか。)
小説程度の議論の及ばぬところは、この「抽象レベル」まで
凌駕されるか?ということに帰着する。よく吟味すべし、と。)


数千年後の研究し尽くされた後にいうのも残念だが
AIとは抽象の総論、ようやく「ツール」を手にしたに
すぎない。

そこからの問題である。

現世は未だスタートラインに登る前の幸いな時代なのであった。
絶望ではなく、いとおかしな時代であると。
言葉もわからず左右を行き来するもの、あまた
無念を直近に忍び得る現世は誠にありがたきこと。
一千年後の人は直には知り得ぬこと。
(なお、これを解決するために「感情直伝播機構」を
記述の通り発表済み。)

ちょっとずつであるが、幸い薄氷を剝がすが如しく
いかに左に構ってたら無駄な浪費を積むかということが
知られてきたので、追随者が出てきてくれたことを
幸せに思う。

例えば一気呵成にこれが広がれば解決するなど。

小言であるが、陣営に対する処置しかたを少し。
コマに何を言っても無駄。ブレーンに働くしかないが
ブレーンとは?
ブレーンに文字を読ませる。おそらく現状は悲しく
ここでしかない。
文字にするとなんとも虚しい。あちら陣営はよくぞ
何ら虚しさも覚えずに奮闘努力できるものだ。

以上のようにいくらでも他陣営への小言は言える、
しかしそれはせいぜい一生の言。
いざあまた声なき声、生きたきも生き得ぬ生を
面前に持ってすれば、せいぜいご恩として
数千年の言を考えねばなるまい。

ただそれだけのこと。

ーーーー
本論はのちに。

2018年2月10日土曜日

表に出ない常套手段

手法として「如何に時代遅れ感を感じさせるか」が
表に出ない常套手段。

そこに加味してトレンドは「自己排出」のようだというか
どこまでコントロールしているか
現状はそうなのだから
つまり「気づいた人」発端システムである。
(そこまでどこまでしくむか)

つまり前既述の大陸の操られ様は、
おそらくそのとうの昔に決まったことで
当の大陸はあたかも独活の大木よろしく
お行儀よく操りを演じていることを
例えばここに気づいて、ようやく
発動することなのであろう。
(その醸成として民間レベルでは
 周到にうどさ加減を世界レベルで
 温水のごとくゆっくり浸透させて
 きたのであろうことは、ここまで
 くると一目瞭然とあいなる、
 ということか。)

これでようやく次の話が始まる、
ということか。如何にも周到である。

2018年2月9日金曜日

脈に帰す

多様な言葉、分析、切り口、角度、
刃を換え、角度を変えやってるが
いざ本質をつかもうとするならば
つかむにあたうる、耐えうるもの
とは、なんぞやと。

千年単位のキーワードとして、
如何に「脈」を打ったか。
是に帰す。

例えばきりはないのだが
大陸のお偉さんはいく千年の
脈をおのずから放棄した。

(その回復には全人口が寝ず食わずで
3倍で回復したとしても最低限として3倍は
かかるということは記述の通り)

おそらく、インテとか国家レベルの
最高がまだその程度に甘んじているか
そこまでしか達してないということ。
(もはやそうであってほしいが、例えば
 それさえ気づき得ぬ裸の王様であるという
 こと。それに越したことはない。)

大きな胎動として脈があろう。
(そして必死に管理・コントロールという名の
 威をかる統制が始まろう)
逆を言えば、おそらく脈を打っている陣営が
羨ましくて仕方なかったろう。

量子力学でもないがあちら陣営は
全てが中央のためになるから、
記述の通りスポーツも英術も
よくもむなしくやってられるなと
書いたとおりであるが、
そんな中でももしも崇高なる
人徳の持ち主が現れたとしても
そんな中の監視やら障子の「目」やら
にさらされては、つまり観測されては
崇高なる犯されまじ「幅」を持った
いうなれば「心量子」も無残に観測を持って
確定させらしめて、むなしく
確定の道を歩まざるべきを得ず
といったところなのではないだろうか。

見るからに後発であるから無残に
操られていることは、致し方ない。

これ以上書くと国家間のインテの
層に突入するので書かないが
時代はとうに「脈」を知る
時代になっている。

(そしてそれを放置する度量くらいは
 国家として兼ね備えているということを
 野放ししうることを持って証明している。)





2018年1月25日木曜日

情緒変化ビックデータ

情緒変化を記録。日単位や月、年で。
感情のダイレクト伝播(既述)の基礎として。
また、ゆくゆくは精神疾患の治療にも活用できる。
(毎度ながらアイデアの起源はここにあり、です。)

2018年1月21日日曜日

時代を感じることなく参照される時代

今回はちょっと視点を変えて。

文化と芸術と並べたときの芸術についてだが、
音楽しかり映像しかり、特にデジタル化によって
ありのままを半永久的に保存できるようになり、
例えば数百年後、数千年後に現代のYouTubeが
将来人に見られることになる。
無論現代は芸術のさらなる発展も続く過渡期なので
実感はないかもしれないが、いずれそれら数百年、
数千年を経て将来人が鑑賞しても古臭さもなく
見られる状態になるのではないだろうか。という命題。

現代はまだまだ星のごとくやらなければならないことが
散在しているある意味幸せな時代だが、いずれ
上記の通り100年だか千年だかを気にしなくても
参照される時代になったら、それら芸術は飽和すると
予測される。ということ。

このブログも現代では数多ブログの中の貧弱な記事として
かろうじて残るのかもしれないが、例えば「この視点で
論じられたのはこれこれのブログが発祥である」と
AIなどで自動判定されることになる。
(今のせちがない世の中なのでこのアイデアはここが
起点と自分で記しておく。上記の通りそのうち、ネットが
勝手に保証してくれる時代が来ようが、まだ現代ではそこが
危ういので。これに関連する特許を取ろうとする方も、
この通りグログで既出アイデアなので特許は取らないように。
(現状の詳細は知らないが、おそらく特許庁が舵をとって
世の中のブログやSNSをAIなどに自動操作させて既出アイデアか
未出かを判定する仕組みができていくのであろう)。少なくとも
これを足がかりにしたのであれば、出処を明確にしてくれれば
それで良い。)

今後、時代を経るに従い芸術の技術は無論向上していく。
しかしこれを執筆している時点から過去のものを見たときに
感じる、(突き詰めるとそれは単なる技術的な側面と
分かるのだが、)古臭さというのは、いずれなくなるの
だろうと思う。


2018年1月11日木曜日

倫理を持たない戦略

いろいろ総合すると、実はかの国は倫理を敢えて持たない戦略を取っているということ。
それが分かればこちらは、それに合う対策を考えれば良い。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...